ア ル テ ナ





「……全帆風を抜け!船を止めろ!!」

突如響き渡った艦長の声に、航海士の慌てた声が応えた。速やかに実行された命は、それでも船の巨きさ故に反映されるのに時間がかかった。ゆっくりと進む船の進行方向とは逆、甲板の後方へと移動するティエンの目は、波間に漂う船の残骸を捕らえていた。
10人乗りほどの、小さな漁師船だ。板が剥がれ、反り返った甲板の名残には赤黒い血潮が飛び散り、遠目にも腐乱していると判る死骸が引っかかっている。ラズリルの海戦ではない。潮の流れと死体の状態からいって、数週間前に海賊島近海で行われた戦いに巻き込まれたのだろう。ゆらゆらと波間を揺れているそれを食い入るように見つめているティエンの背に、静かな声がかけられた。
「───不意の戦だった。お前の責任ではない」
キカだった。諦め、見据えることを知っているその声は、決して取り乱すということがない。だが、彼女にとって、海賊島海域に生きる人々は家族のようなものなのだ。無表情の下で、彼女は自分などよりも遥かに彼らを悼んでいる。それくらいのことは判る時間を共にしている。
「貴女のせいでもないよ、キカさん」
やっと船から目を離して、ティエンは音もなく佇んでいるキカを振り返る。
「……ただ、よくないねこんなのは。あの人達は運が悪かった、そう割り切るのは卑怯な気がする。でも、背負ったところで名前も知らない、抱いていた想いのカケラも知らない死者。あの理不尽に攫われた命達の無念に、どうすれば応えてやれるのかな?」
応えはなかった。ただ、皆答えを知らず、同じように答えを求めていると思えた。
自分も、彼女も、先頃仲間になったばかりの、物陰でひっそりと佇んでいる少年も。



「何だか心配なんです、いつも一人でいて。誰だって一人は寂しいでしょう?なのにテッド君は誰も彼もを避けているんです。一人でいたら人間って物事を悪い方に悪い方に考えてしまうのに、絶対よくないですよ」
目の前にあるのは、懸命に訴えてくる青年の純真無垢な眸。
彼が部屋に訪ねて来てから、もう30分になろうとしている。その間、特に相槌も打っていないというのに延々と話し続けている彼を、ティエンは珍しい鳥でも見るような目で眺めていた。
漆黒の髪を高く結い上げた、涼やかな金の眸のアーチャー。名をアルドという。あんな小島で何年も生きていたという割に、恵まれた体格と小奇麗な出で立ちが不審で、最初はクールークの密偵かと勘ぐりもしたのだが、その疑いはすぐに解けた。
何と言うか……密偵にはものすごく不向きな性格をしているのだ、彼は。
恵まれた体格は、狩った獲物を三度三度きちんと料理して食べ、充分な睡眠をとっていたからだという。肉や魚、貝類の他、副食として島に自生のセロリや山芋、シダの芽、山葡萄やアケビ(干して年中摂れるようにしていたというから驚きだ)、海鳥の卵に野生のヤギの乳を搾って作ったチーズ……そんな豊かな食生活を送る漂流者なんてありえない。というか、あんな近くに住んでいるエレノアさんに助けを求めない漂流者もありえない。普通漂着したら、必死に島から逃げ出そうとするんじゃないか?我が身に置き換えてみるまでもなく、誰だってそうだろう。能天気なのか順応性が高いのか開拓者精神に富んでいるのか……何故船を造ろうという発想に至らなかったのか、その答えは謎というより自分の中では既に七不思議だ。
不自然に小奇麗な格好も、ただ丁寧な洗濯とマメな入浴の賜物だという。流れ着いた帆布を切り、ほどいた糸で服を縫い、獲物の皮をなめして防寒着まで作ったとか。やっぱり一日一度は身体を洗って着替えないと、と笑う彼の顔を見た瞬間、ティエンは頭の中の密偵説に大きく×印をつけた。───ありえない。
「で、この前だって独りぼっちで食事をしてるんです。皆と一緒じゃなくて、食事のトレイを持って、部屋に帰って食べようとするんです。一人で食べたって美味しくないです。僕は……この船に乗せてもらうまで、あの島で美味しく食べよう、楽しく生きようってとても努力をしていました。でも、駄目だった。どうしても人間、独りぼっちじゃ幸せに生きるなんてできないんです。ここは……沢山人がいて、耳を澄ませば誰かが笑ってたり怒ってたり、冗談を言ってたり……それが聞こえるだけでも、自分以外に人がいるだけでも、僕はとてもとても、そりゃあもう泣きたいくらい幸せになれました。だから、辛いんです。暖かい手を避けるテッド君が。寂しそうにしてるのに、きっととても辛いだろうに、一人になろうとするテッド君が放っとけないんです」
「───ふぅん、金か」
「は?」
出し抜けに喋ったティエンと、その内容に頭がついて行かずにアルドは硬直した。それを予期していた顔で、にこにことティエンは人差し指で指し示してみせる。
「君の眸。珍しいね、確かに南方海域じゃ見ない色だ」
「そうですか?地図もなしにうろうろしてたものだから、この辺りがどこなのかも知らなくて。あ、でもテッド君の目って綺麗な琥珀色してますよね……じゃなくて!僕が言いたいのはテッド君の生活態度のことなんですよ!」
「テッドは多分北方の出身だよね。エレノアさんと君の眸もよく似た色だし、案外君、北の大陸の生まれじゃないのかな」
「そうなんですか?寒い所にいた覚えは余り……じゃなくて!だからテッド君のですね!!」
大真面目に話しているというのに、気ままに話をあちらこちらした挙句、突然くっくっと背を丸めて笑い始めたティエンの反応にアルドは憤然とした。
「ティエンさん!!」
「…………っと。はいはい、テッドの生活態度の話な」
「そうです!僕から言っても全然聞いてくれないんです。だからティエンさんから言ってください!せめて三度三度ちゃんとご飯を食べて、すれ違う人には挨拶して、もっと楽しくすごす努力をするようにって!!」
身を乗り出さんばかりの勢いに瞬いて、ティエンは右手でしていた頬杖を左手に替えた。
「何か君、やけに熱心だねぇ?」
「え?」
「いや、部屋に閉じこもって出てこない人間とか、やたら他人に風当たりがキツい人間なら他にも心当たりあるんだけど、君、テッドのことしか言わないからさ。何か特別な思い入れでもある?」
「べ……別にそんな!ぼ、僕はただテッド君がすごく辛そうにしてるから……傍に来るな、話しかけるなって言うのに、すごく寂しそうな顔をするから胸が痛くて……そんな顔を見たくなくて……それだけです!他意はありません!!」
真っ赤に頬を染めて慌てふためいているアルドに、薄く開かれた翡翠の眸が注がれる。
 ───判りやすい……ものすごく判りやすいタイプの人間だ。
でも、悪くないな。馬鹿は嫌いだけど、自分の主張を押し付けてくる善人も嫌いだけど、これは理屈よりも感性で物事を考えてる人間だ。ただ、自分が愛している人間に幸せになって欲しいだけ。自分が求めている、最も判りやすい『幸せ』の形を願っているだけ。
ふ、と、品定めをしていた眸の剣呑さが和らいだ。
「なら、君が言い続けるんだね。俺は言わない。言えない。テッドの孤独も寂しさも絶望も、等しく俺のものだから。彼の笑顔を願うなら、君が包め」
言い切る言葉の強さに、アルドは一瞬言葉を失い、そして気遣わしげな色を浮かべ、きつく唇を噛み締めた。それでも目は逸らさない。悪くないな、とまたティエンは思う。
「───判っている……つもりです、貴方の恐怖は。貴方の紋章は、貴方自身の命を喰らう。あとどれくらい生きられるか……今日はどれくらい命を削ったのか、始終つきまとう、振り払っても振り払っても消えない悪夢に追いかけられてる……。なのに誰も、貴方が投げ出すことを認めない。勝ち続けること、生き残ること生き残らせること、貴方は期待と祈りで雁字搦めにされてる……辛いですか?やっぱり……重いですか?」
澄み切った真っ直ぐな金の眸が見つめてくる。
そうだ、とでも言おうものなら、この純粋一直線な生き物はその護りの手を自分の方にまで伸ばしてくるだろう。後を追われていちいち心配顔で忠告される生活を想像し、ティエンは思わず両手を挙げて苦笑した。
「俺は結構。そんな繊細にできてない」
「貴方も……テッド君も、心配なんです。壊れる寸前の弓のようで」
すう、とティエンの表情が消えた。馴染みの仲間なら、この状態の彼には決して近づかない顔だ。
「どういうこと?」
「ええと……弓って、壊れる瞬間まで見た目には判らないんです。ただ、段々つがえた矢が狙ったところとは違う場所に飛んでいくようになる。定期的にきちんと弦を張り直せればいいんですが、大抵あれって思った時にはもう手遅れで……上手く言えないんですが、そんな危うさを感じているんです」
「───『あれ』って思ってる?」
「はい」
「もう、手遅れかな?」
「いえ、貴方方は強いと思う。崩れないでしょう。どんなことがあっても、ギリギリのところで踏み堪えるでしょう。だから心配している。それで何をどうできる訳でもないけど、僕はただ、貴方方が心配なんです」
怯まない金の眸。氷の冷たさと鋭さを込めた声にも、怖じる様子はない。
ぼんやりと何かのイメージが形を結びそうになる。
何だろう……白……暖かい柔らかな白。
月───月、か。
何度目かの悪くない、が頭を掠め、ティエンの眸の色を引き戻した。
「……そろそろ夕食の時間だね。テッドを誘いに行ってみるといい」
「そうですね……長々とお邪魔してすみませんでした」
では、と部屋を出て行こうとした背中を、ふと思いついた顔でティエンは呼び止めた。
「目の前に死体が転がっている。自分のせいで死んだのかもしれない人間だ。名前も知らない、抱いていた想いのカケラも知らない死者。理不尽に攫われた命達の無念に、君ならどう応える?」
冗談めかした口調に最初は戸惑った顔をしたものの、アルドはすぐに静かな目に微かな理解を浮かべた。暫しの沈黙を置いて、顔を上げる。
「祈ります」
「祈る?」
「はい、僕のせいで死んだのかもしれないなら、一生懸命謝ります。そして祈ります。その人の魂が安らかに眠れるように」
「───届くと思うか?」
「はい。死者は生者を責めない。死者はその身体を以って生者を生かす糧となるか、その記憶を以って迷う生者の後押しをする。それだけです」
真っ直ぐな眸に、ティエンは微かに微笑んだ。
「狩猟民族……否、墓を持つ民族の言葉だな。でも、参考にしておこう」
失礼します、と閉められた扉を見送って、ティエンはやれやれ、とベッドの上に転がった。小卓の上に乗せた紅茶は、すっかり冷めてしまっている。手をつける気にはなれなかった。
「祈り……ね」
それはそれでいい。それはそれで清々しくはある。
多分自分は決して選ばない道だ。だって、何も知らない死者のために何を祈れる?
だが……多分命の在り方の観念が違うのだろう。アルドにとって死者はただ死者で、生きていた魂の先の姿ではないのだ。生と死の間には厳格な境界線が引かれている。
この海域の考え方では、命はいつか海に還り、その魂は個として命を見守り、記憶を洗い流してまたこの世界に戻ってくる。ひとつの魂は、どこまでいってもどう変わっても永遠に同じものなのだ。とはいえ、ずっと続いていく魂でも別れは別れ。海の民でも死者のために泣くことは知っている。ただ、背負う墓がないだけの話だ。
自分がどこか楽天的なのは、根底にその思考を持って生きてきたからだと思う。
道はずっとどこまでも続いていく。先に何があっても、誰もの前にずっと続いている。巡り会い、別れ、そして再会。だから踏み出す足はそんなに億劫ではないし、怖じる臆するだのの感情が入用な機会は多くない。
自分達には、次がある。いつかがある。でも、それがない君達は。
一度きり、北の風に攫われてしまったらそれきりの命と想いなら。
「───壊れる前に、君は救ってくれるかな?」
護り通してくれるかな、あの弓を。


「テッド君、夕食の時間だよ。食事に行こう、今日は君の好きなマグロだってさ」
ノックしても返事がないのはいつものこと。慣れたもので、アルドはそんなことくらいでは動じない。いるのかいないのか、どっちにしても返事のないテッドの在室を知るのは簡単だ。いたら鍵がかかっていて、いなければ鍵はかかっていない。普通と逆なのだ。彼の場合、行動、言動全般に言えることだけど。
「開けるよ?」
回そうとしたノブが、固い手ごたえを返す。いるのだ、中に。
「気分が悪いとかじゃない?……もしそうなら薬……水とかお粥とか……桃とか」
「………」
「テッド君……大丈夫?」
ああもう、とベッドに潜った身体を丸め、テッドはきつく目を閉じた。
 いい加減にしてくれ、頼むから俺に近づくな。
洩れそうになる悲鳴を押し殺す。
最初は無視した。大抵はそれで離れていく。一番利口で楽なやり方だ。
なのに、扉の前のあいつは諦めなくて。言ってやらなきゃ判らないなら、と、次にはこれでもかとばかりに罵倒してやった。なのに、それでも。
あいつが笑うから。優しい言葉をかけ続けるから。
もう、矢が尽きかけている。
寄るな触るな、不愉快だと憎まれ口を叩けている内はいい、怖いのは何も言葉が出なくなることだ。
容認すること。矢が尽き、俺という弓が壊れてしまうこと。
突き放す言葉を放てなくなれば俺は終わりだ、そんなことは判っていたのに。
───3日目のクロス。7日目の上着。10日目の掛け布団。
まるで他者から護ろうとでもするかのように、いつもこの部屋の前で眠る彼に、自分が与えてきてしまった譲歩と容認。
 お前は判ってない、俺に巣食う闇。俺が壊れたら、あいつが動く。
俺が鎧を纏う意味を判ってない。他人から自分を護るためじゃない、他人をあの魔女から護るためだと判ってない。
「どう言えば───判ってくれるんだよ」
どうか笑って欲しいと言う彼に、もっと話をしようと言う彼に、一人より二人の方がいいに決まっていると言う彼に。弓の弦を切って降参すれば、俺が幸せになれると信じている彼に、それは違うのだとどうすれば判らせてやれる?
もう、俺は壊れかけている。お前の優しさが、俺を殺しかけている。
「テッド君……じゃあ、夕食を貰ってきて、扉の前に置いておくから。ノックして離れるから、受け取って食べてよ。マグロ、獲れたばかりのを買ったって聞いたから、きっと美味しいよ」
きっと今、困ったような曖昧な笑みを浮かべているだろう声。
頭に描ける。少し首を傾げ、右手の人差し指の爪先で頭を掻く仕草まで。
覚えてしまっている。そんな顔をさせるのが苦しいと思ってしまっている。
 もう、俺は。
離れていこうとする足音が、テッドをベッドから跳ね起きさせた。扉に駆け寄り、鍵を開けて飛び出してから、テッドは一瞬我に返ったが、もう頭が働かなかった。
「テッド君?」
驚いて振り返ったアルドを視界に捕らえ、反射的に足を止める。
「ど、どうかした?何かあったの!?」
飛び出してきた部屋の扉とテッドの顔を交互に見て、今度はアルドが駆け寄ってきた。
心配そうに見下ろしてくる金の眸を、身に纏った鎧が潰したがる。
 やめろ、これ以上踏み込ませるな。
恐怖と理性と執念と誇り。ないまぜになったそれを、ただ弱さが打ち崩す。
ふらり、と倒れ込むようにしてテッドは相手の胸に顔を埋めた。
「───テッド君?」
「貰ってくるなら……二人分にしろ」
やっとのことでそれだけ喉から搾り出し、テッドは振り切るようにして踵を返した。
立ち尽くしている彼の視線を痛いほど背に感じながら、テッドは歯を食いしばって振り返らなかった。のしかかる絶望と安堵。倒れそうな足元を何とか堪える。
小柄な身体が扉の向こうに消えたのを見送ってから、アルドはやっと瞬いた。
声も……出なかった。あんまり驚いて。あんまり嬉しくて。
「はは……」
よかった、君はまだ壊れてない。もう大丈夫、僕が護ってあげるから。
何も心配しなくていいんだよ、僕がずっと傍にいるから。
跳ねるような足音を扉の向こうに聞きながら、テッドは背にした扉にずるずると退り落ちた。
 もう……駄目だ。壊れてしまった。否、自分で壊してしまった。
 馬鹿だ俺は。馬鹿だ……。
冷え切った頬を、冷たい涙が流れ落ちた。
 判っているのに。何がどう転んでも、いつかあいつは俺の死霊になる。
天寿を全うしたとしても、道半ばでその魂を狩られたとしても、俺の消えない傷になる。
魂の喘鳴が聞こえる。否、俺ももう死んでいるのかもしれない。

『……ただ、よくないねこんなのは。あの人達は運が悪かった、そう割り切るのは卑怯な気がする。でも、背負ったところで名も知らない、抱いていた想いのカケラも知らない死者。あの理不尽に攫われた命達の無念に、どうすれば応えてやれるのかな?』

 ───ティエン、応える術なんかない。そんな都合よく自分を赦せる答えはない。
 喪えば背負うだけ。それだけ。その重荷に耐えかねて崩れる日まで、ただ背負って生きていくだけ……。
 この破星を招いたのは俺かお前か───それとも。
 もう、祈ることさえできない。

 魔女は目覚め、全てを呑み込んで回天が始まる。









秋嶋優津さんから頂きましたーっ。
ああん、ティエン君格好いいーっ!アルドが清らかで可愛すぎる…っ!テッド抱きしめたい…っ!
このお話は4テッド祭に投稿された作品なんですが、ひょんなことから私が個人的にリクエストさせて頂いた物で、ティエン君とアルドの会話に心臓鷲掴みにされ自宅掲載許可を願い出ました。
格好いいんです。格好いいんです。ティエン君…!!
「そうだ」と答えたバージョンのティエン君の態度もまた萌えで…(こっそり教えてもらいましたv)
前々からいいなと思っていた4主とアルドの組み合わせを、一気にヒートアップさせて下さったお話です。
掲載許可ありがとうございましたーっ!!