POISON




 指先がコツリと卓を打つ音が、張り詰めた静寂の中に落ちる。
 内心の複雑を溜息に乗せ、エレノアはついと視線を上げると、目の前に佇む少年を見遣った。ランプの灯りを映じた瞳は涼やかに澄みながら、どこか計り知れない影のようなものをその奥に滲ませる。ともすれば飲まれそうな錯覚に、エレノアは小さくかぶりを振った。
「………申し開きがあるなら聞こうか」
「その必要はありません。全ては僕の責任です」
 微かな逡巡すら見せず、少年は淡々と答えた。硬質な声音に表情らしきものは伺えない。
 エレノアはこの少年が苦手だった。嫌いではないが―――苦手だった。与えられた任務を、彼はまるで精巧な機械のように、顔色ひとつ変えずに完璧にこなす。僅かな隙も狂いもなく。それはいつも、期待以上の成果をエレノアとこの軍とに齎したが、年端もいかぬ少年が、ただ策の遂行の為―――勝利の為だけに、己の心などどこかに置き忘れてしまったかのような顔で黙々と剣を振るい続ける姿に、エレノアは軍師という立場を忘れて、空恐ろしさを感じずにはいられなかった。
 その彼が、初めて果たし損ねた任務。
 殺せなかったのだ、と。それだけを端的に告げられた。
「あんたらしくもない失敗だったね」
「無論、罰は受けます。あなたの裁量で如何ようにも、処断して下さって構いません」
「よしとくれよ。軍師が軍主を処断するなんて、あべこべもいいところだ」
「しかし、それでは軍内に対して示しがつきません」
「逆だよ。ここであんたに何かあれば、全軍の士気に関わる。それに此度の策は一部のものしか知らないはずだろう。処分だなんだで事を荒立てるより、そしらぬ顔を決め込んだほうがいいのさ」
 エレノアは寧ろほっとしていた。少年の所業に嫌悪を感じながらも、その冷徹さに付け込んで次々と非情な策を授けていた自分の矛盾にも、ほとほと嫌気のさしていたところだったから。軍師としてはあるまじきことだが、仕損じた、という報告を一番喜んでいたのは他ならぬ自分かもしれない。
 傍らのグラスを呷ろうとして、中身が既に空になっていることに気付き、エレノアは小さく舌打ちした。指先が卓を打つ音が、またコツリと部屋に響く。
 感情がどうであれ、策が為らなかったのは事実である。エレノアはエイルの前では、軍師の顔をやめるつもりはなかった。
「―――二度はないよ。あれが刺客だったってことは、奴さんも疾うに気付いてるだろうさ。今後は不用意にこちらに足取りを辿らせるような隙は見せないだろう。何度も変化球の通じる相手じゃない」
「わかっています。策を弄さずとも、彼とは必ず決着をつけます。暗殺者としてではなく、剣士として。戦場で―――僕のこの手で」
「それが理由かい?」
 探るような視線に、エイルは訝しげに片眉を上げた。
「理由?」
「あんたがトロイを殺せなかった理由さ。軍主としてではなく、ひとりの武人として、奴と剣を交えてみたくなった。騙まし討ちなんて卑怯な真似をせず、戦場で堂々と名乗りを上げて。あんたに任務を放棄させるくらいだからね。余程器の大きな男だったんだろう?海神の申し子様は」
 エイルの顔に、初めて苦笑じみたものが浮かんだ。だがそれは一瞬のことで、揺らぐ炎はすぐさま闇の中へと沈む。
「あなたが苦労して整えてくれた膳立てを、僕は個人的な感情を以ってふいにした。本当なら土下座しても足りないところですが……あなたは謝罪されることを望まないでしょう?」
「当然だよ。あんたがどう思うかは勝手だが、失策の責任は全て軍師が負うもんだよ。それなのに、詫びなんぞ入れられた日にゃ、あたしの立つ瀬がなくなるからね」
 エイルの真意はエレノアには読めなかった。彼の刃を押し留まらせたものが果たして何だったのか。武人としての誇りかとの自分の推測を、エレノアは信用していない。
 彼は自身を使い捨ての駒として割り切っているふしがある。誰よりも鋭利な炎をその瞳に宿しながら、その気配も、生き様も、誰よりも恐ろしく空虚だった。軍師として、長年の間戦場で生きてきたエレノアでさえも、こんな目をした少年を見るのは初めてだった。その無機質な振る舞いには、人というよりは、まるで意思を持った人形と相対しているかのような感触さえ覚える。或いは、闇を凝らせて人のかたちを作ったとすれば、この少年のようになるのだろうか。
 ―――その彼が初めて見せた、人間らしい選択。
 海神の申し子が、エイルの暗黒を照らす光となるのなら、人としては寧ろ、それに感謝するべきなのかもしれない。
 この先にあるものが、救いなのか絶望なのか、今はまだわからなくても。
「勝つ為には手段を選ばないのがあたしの信条だけど、今回のはちと性急だったね。それに、トロイひとりを消したところで、既に燃え広がった炎が鎮まるはずもなかった。取るべき手段を誤ったのは、他でもないあたしさ。あんたにも嫌な思いをさせただろう―――悪かったね」
「…………いいえ」
 小さくそれだけ呟いて、エイルは僅かに瞳を伏せた。夜空を閉じ込めたかの如きインディゴブルーの煌きが、長い睫毛の影に隠れる。
 少年を包む悠久の夜に、終わりはくるのだろうか。海神の申し子―――かの青年こそが、明けの兆しとなるのであろうか。
 刹那、祈りにも似た思いが胸に湧き上がったが、エレノアはすぐに、溜息と共に苦い感傷を追い払った。
「今日はもう遅い。あんたもさっさと休みな。第一艦隊との全面対決が避けられないとなれば、一刻も早くオベルを奪回して、戦力の増強を図る必要がある。あんたにやって貰わなきゃならないことは、まだまだ山のようにあるからね」
 軽く手を振って退出を促すと、では、と一礼してエイルは踵を返した。パタリと扉が閉じられるのを見届けてから、エレノアは徐に立ち上がり、棚からワインを一瓶取り出すと、中身を空のグラスに勢いよく注いだ。
「強い毒も、使い方によっては素晴らしい薬となる……過ぎた力が、人を破滅に導くのと同じように」
 グラスを掲げ、揺れる緋色の向こうの景色に目を眇めながら、エレノアは薄い唇に皮肉げな微笑を浮かべた。
「あの子にとって、毒となるか薬となるか―――さて、海神の申し子様は、果たしてジギタリスを越える花となってくれるだろうかね…」
 答えは誰の胸にもなかった。









100題「全ての始まり」の裏話を、結美さんに書いて頂いちゃいましたー!
あまりにも我が子を掴んで下さっている事に、驚愕&感激でした。反応とかまんまエイルだよ…!
そしてとにかくエレノアが格好よくて萌えでした!自分では彼女を格好よく書けないので、嬉しいです。
こんな素敵なお話を頂いてしまったんですから、ジキタリスを超える花になるお話も書いてあげなくてはなりませんね♪
本当にありがとうございました!我が子書いて貰うのって嬉しい!