懐かしい場所
久しぶりにグレッグミンスターに戻って来たティルは、自分の家のあった場所には行かずに、テッドとよく行った丘の上に足を向けた。 ティルの家は今は他の家族が住んでいる。戻る場所は必要ないと思い、前回戻ってきた時に家を売りに出す手続きをした。 二度と戻るつもりはなかったのに結局また、この町に帰ってきてしまったと苦笑する。 草原の上にゆったりと横になると、草がクッションになって気持ち良い。 草の匂いも、変わっていない。 心地よい風が、前髪をゆらす。 太陽が眩しくて、目を細める。 「…テッド…」 無意識に、テッドの名が口に出た。 口にしてから、この名を呼んだのは久しぶりだと実感する。 心の中ではいつも呼びかけていた。 寂しさにめげそうな時、心の中で何度も繰り返し、その名を呼んだ。 でも、声に出したのは何年ぶりだろう。 今度は呟きではなく、呼びかけてみる。 「テッド…」 声にすると、今にもテッドが顔を覗かせそうな気がした。 そんな事あるわけもないのに、視線をさまよわせてみる。 「…」 ふと目にとまったのは、小さな白い花。どこにでも咲いてる雑草が花をつけたものだ。 けれどこの場所では、何もかもがテッドとの思い出に繋がる。 「なぁ、風呂に入ってもいい?」 突然背後から声を掛けられて、ティルは振り返った。 「…テッド」 テッドは、一週間ほど前に父親のテオが家に連れて来た戦災孤児だ。突然一緒に住むことになり、ティルは素直にそれを受け入れた。 同い年くらいだから、一人で生きていくのに無理がある年齢でもない。父親の中に、同情だけではない何かがあったんだろうとティルは考えている。 今の時代、戦災孤児に同情して家に引き取っているとキリがない。小さな子供ならともかく、テッドの年齢なら戦争で独りになっても自力でやっていくだろう。 ティルは申し訳なさそうに自分を見ているテッドをじっと見つめた。 「…」 「昨日、入りそびれたからさ」 「あ、うん。大丈夫だと思うよ」 自分に同じ年頃の友人がいないのを父親が気にしてるのかとも思うが、だからと言って家に住まわせるなら誰でも良いという訳でもないだろう。 テッドはきっと、父親に選ばれた友人候補だ。 「悪いな」 「ううん。風呂くらい、好きに入れば良いよ」 恐縮するテッドに気にしないように言いながら、ティルはテッドの後ろ姿を見送った。 少なくともテッドは、父親に信用されている。そう思うだけで好感が持てた。 そんなテッドと仲良く出来なければ、父親をガッカリさせてしまうのだろうか? 考えて、肩を竦める。 だから仲良くなりたいという訳ではないけれど、年の近い相手にはそれだけで興味がわく。出来れば仲良くしたいとは思う。 それでもティルには密かな不満がある。 「まだ、名前呼んでくれないんだよな…」 新しい同居人を受け入れないつもりはないけれど、ずっと一緒に暮らしていた家族の間に突然乱入されたという気持ちは拭えない。たとえそれが、父親の意志であっても。 テッドの不幸な身の上は理解出来るし、一緒に暮らす事に不満はない。 ただどこか、ほんの少し納得していない自分がいる。 「名前、呼んでくれないし…」 ティルは同じ言葉を呟いて、自分の部屋に向かった。 風呂から出たらテッドは部屋に顔を覗かせるだろう。今では家の中でも一緒に居る事が多い。他にする事がないと言ってしまえばそれまでだが、テッドはティルの話相手になる事で自分の役割を果たしていると思っているようだ。 それでも何故か、テッドはティルの名前を呼ばない。 『お前』が普通の呼びかけで、後は『おい』とか『なぁ』と呼びかけられる。 気にしてみると、わざとそうしている訳ではないらしいからティルは気がついた後も何も言わなかった。 きっと、もっと親しくなれば自然と名前を呼んでくれるだろう。 テッドは家に来た時から、右手に包帯をしている。風呂上がりでも包帯はしっかりとテッドの右手に巻かれていた。 白い包帯が痛々しくて、ティルはあまり見ないようにしていた。 「ケガ…まだ、治らないの…?」 視線を逸らしたまま尋ねるティルに、テッドは自分の右手を見ながら肯いた。 「完治するには時間がかかりそうなんだ。…気になる?」 「そりゃあね。気になるっていうか、心配だよ。酷いようなら、もう一度医者に診てもらった方が良いんじゃないかな…」 いつか治るだろうと放っておいて、傷口から壊死していたなんて話もある。それだけが気がかりだった。 「…医者か…」 「まさか、診てもらってない?」 「まさか」 テッドは笑う。 「傷口に毒は…?」 「いや、火傷。…すげーよ?見る?」 「…見たくない…」 笑いながら尋ねてくるテッドにティルは顔を顰めてみせた。 怖いもの見たさという言葉もある。恐怖のあまり手で目を隠しながらも、指の隙間から覗くような行為の事だが、ティルにはそれはない。怖いものは怖いから見たくはない。怖くないなら、目を手で覆うような事はしない。 テッド自身がスゴイと言ってるような火傷の痕を、あえて見たいとは思わなかった。 「とにかく、傷が痛んだら、すぐに言えよ」 「ああ。サンキュ」 嬉しそうなテッドの顔に、ティルの口元も綻んだ。 こんなふうに気軽に話し合える友達が欲しかった。まだ友達とは言えないだろうが、少しずつ仲良くなれている気がした。 「…まだまだ、これから…」 「ん?」 「何でもない」 「…お前って、時々独り言を言うよな。クセか?」 「うん。自覚はしてるんだけど」 指摘されてティルは苦笑を返した。一人遊びが多かったせいか、時々独り言を言うクセがある。 「グレミオにも、よく注意されるんだ」 拗ねたようにそう言ったティルを見て、テッドはプッと吹き出した。 「何?」 「何でもない。…グレミオさんって、いい人だな」 「え、うん」 突然グレミオの事を褒められて、ティルは自分の事を言われたかのように嬉しそうにはにかんだ。 「…気に入った?」 『グレミオが』という意味じゃなくて『この家が』という意味で聞いたつもりだった。テッドはティルの聞いてる事が解ったらしい。 「ああ。皆、親切だな」 と笑った。 テッドは、頭の回転も早い。ティルが『グレミオを気に入った?』などと聞くはずがないと すぐに気づいて、確かな返事を返す。 とても、話しやすいとティルは笑みを深めた。 「あのさ、近くにすごく景色の綺麗な場所があるんだけど…行ってみない?」 「綺麗な場所?」 森を少し深く入った所に、ティルのお気に入りの場所があった。 グレミオには森の奥に入ると危ないと注意されるから、今までは一人でしか行った事がない場所だ。 秘密の場所という訳でもなかったが、自分のお気に入りの場所に誰かを誘うのは照れ臭い。 「森の奥に、泉があって。そこに虹色の魚が泳いでるんだ」 「…泉に、虹色の魚ね…」 呟いてテッドはクスリと笑った。信じていないらしい。 「嘘じゃないから」 「へぇ」 テッドの笑顔に少し呆れたような色が見え、少し寂しい気持ちになった。 「嘘じゃなくて、…ただの冗談だよ」 「…」 「驚いてくれると思ったんだけど…」 テッドの中には虹色の魚なんていないという現実が絶対で、ティルの言葉を信じようとする気持ちは全く見えない。 『もしかしたら』なんて、考えもしないんだろう。 「そんなの、いないって解ってるのに…驚くわけないだろ…」 「そうだね。僕も見たことない…けど、いるかもしれない。テッドは…。…頭が固いんだね…」 僕を全く信用してないんだね。と言いかけて、ティルは違う事を言った。 出会って一週間くらいで信用なんてして貰えるわけはなかったが、テッドは時折そんな部分が見え隠れする。 戦災孤児という境遇なら他人を信じられなくても仕方がないのかもしれないが、テッドの場合は少し違っている気がした。 見下されているとは感じないが、離れた場所から楽しげに観察されているような気分になる。よく、含み笑いをするから。 常識を身につけた大人が、自分の世界に浸って遊んでいる小さな子供を訳知り顔で見守っているのに似ている。 テッドがやけに大人びて見えるのは、そのせいかもしれない。 「頭…固いかもな…うん。でも俺は、自分の見たものしか信用出来ない…」 「そっか。…つまらないね、少し」 ティルの言葉にテッドは苦笑し、からかうように言った。 「それ以前に、イタズラばっかりしてるガキの言う事なんか信用出来ないしな」 「…最近は、してないよ…」 「ああ、俺のおかげだってグレミオさんに感謝されたぜ。同じ年頃の友達が出来て、坊ちゃんが子供っぽい事をしなくなったってさ」 ニヤニヤ笑われてティルは顔を背けた。 イタズラは、相手に甘えているだけだという事は解っている。解りながらずっと繰り返していたんだから、指摘されると恥ずかしい。大人に注意されるのとは違う。 「話、逸れてるよ。テッド、森には行く?」 「あ。ああ、また今度な」 あっさりとテッドは断ってくる。 それなら仕方ないと諦めかけ、ティルは思いついたように口を開いた。 「…向こうの丘にさ、黄金色の蝶の大群が生息してるんだけど…そっちはどうする?」 「…」 尋ねながらティルは笑っている。 「そっちは、面白そうだな」 一瞬間を置いた後、テッドは感心したように笑った。 「お前って、めげない奴だな」 「しつこいとか、思ってる?」 丘に向かい、二人は並んで歩いていた。近くと言ってもそれなりに距離はある。 「いや、別に。…ま、黄金色の蝶を見るのも悪くないさ」 「…」 もちろん黄金色の蝶なんてティルは見たこともないし、蝶が生まれる季節には早い。 丘に着いても蝶なんかいないだろうが、それはテッドにも解ってるはずだ。テッドは何と言うんだろう。それを考えると楽しみだった。 少し山道を歩いて行くと、目の前に草原が広がった。 テッドはティルを見て、視線で尋ねる。 「うん、ココ。寝転がったら気持ち良いよ。こっから向こうは、ずっと草原なんだ。で、あっちは少し見えにくいけど段差がある。向こうは、森だよ」 「へー。で、黄金色の蝶は?」 「もう少し暖かくなったら、あの辺にたくさん花が白い咲くんだ。蝶の群れが見られるよ」 「ふーん…もう少し、暖かくなったらか…。それまで…」 テッドは何か言いかけたが、顔を顰めて見せた。 「それ、黄金色の蝶?」 「それは自分で確かめてよ」 「…。…そうだな」 また冗談だったのかと、怒ったフリでもするかと思ったのにティルの予想を裏切ってテッドは少し笑って歩き始めた。 「見られると良いな…」 「…」 この町はテッドの故郷ではない。 気に入らなければ、他の町に移ることだって考えているだろう。一緒に住んでいても遠くに感じてしまうのは、そのせいかもしれない。 ボソリと呟いたテッドの背中を、ティルはじっと見つめていた。 「坊ちゃん、退屈そうですね」 テーブルで頬杖をついているティルに、夕食の準備に通りかかったグレミオが声を掛けた。 「まーね…」 テッドが家を出て行ったせいで、ティルは時間を持て余していた。午後の勉強が終わるとする事がなくなり、部屋に一人で居るのもつまらなくて一階に下りてきている。 テッドがここで暮らす前はこの退屈な時間をどうしていたのか、思い出すことが出来ないほどだ。 「結局、3週間くらいしか居なかったな…テッド…」 数日前、一人で暮らすことにしたとテッドに伝えられた。 理由は聞かなかったが、推測するのは簡単だった。 「テッドのヤツ、結構遠慮がちだったからな…」 一人で暮らす方が気楽なのだろう。この家が気に入らなかったとは思いたくないし、思えない。毎日それなりに楽しそうだった。 「遊びに行かないんですか?」 「昨日行ったけど、居なかったからさ。…後でまた行くけど…」 仲良くなったと思ったら、いきなり一人で暮らすと言われて不安に思う部分もあった。話が合うと思ってたのは、テッドが合わせていてくれていただけなのかもしれない。 「結局、名前呼んでくれた事ないしな…」 「誰がですか?」 「テッド。僕の名前、一度も呼んでくれてない…」 すっかり忘れていたが、一度でも呼んでくれていたらきっとその時気がついただろう。 「そうですか?」 「そうだよ…」 3週間も一緒に暮らしていて、名前を呼んでくれないと言うのはやはり気になる。 「それだけいつも近くに居たって事じゃないですか?」 「そうかな…」 確かに側に居ればあえて名前を呼ぶ必要はない。 それでも何か納得がいかない。自分は近くに居ても、テッドの名を何度も呼んでいるとティルがぶつぶつ言ってると、テッドの声が聞こえてきた。 玄関口から『こんにちわーっ』と明るい声がする。テッドがティルの家を出てから、初めての事だ。 ティルは弾かれたようにイスから立ち上がり、玄関へと向かった。 「テッド!」 「よぉ、俺が居ないと退屈だっただろ?」 笑いながら冗談のようにそう言って、ティルを手招きした。 「遊びに行こうぜ」 「いいよ、どこに行く?」 「そうだな…いつもの丘にでも行ってダラダラするか…」 一度2人で行ってから、既に数回遊びに行っている。ダラダラするのが遊ぶと言うかどうか解らないが、この間行った時には花の蕾がいくつかあった。今日なら咲いてる花もあるかもしれない。 ティルはすぐに同意して、テッドと一緒にいつもの丘に向かった。 「ほら、花が咲いてる。見てみろよ、ティル」 「え?」 いきなり名前を呼ばれ、ティルは呆然とテッドを見た。 「この間、もうすぐ咲きそうだって…どうしたんだよ、変な顔して…」 「あ…何でもないけど…、本当…咲いてる…」 いくつか蕾があり、その中で1つだけ花びらが開いている。次に来たときは咲いてるだろうと楽しみにしてはいたが、今はテッドの方が気になって仕方がない。 「なぁ、ティル。あっちの方も白くなってる…」 「…」 もしかしたら自分が気づかなかっただけで、今までもテッドは名前を呼んでくれていたのだろうか。 そう思ってみたが、やはり記憶にはない。 「テッド…お前、僕の名前…」 名前を呼んだのは初めてだと言おうとしたが、ティルが言いかけた瞬間テッドはバツの悪そうな顔をした。 「やっぱり…気になってた?」 テッドがわざとそうしていたのかと思うと、ティルの胸に緊張が走る。 「そりゃ…」 「一回呼びそこねると、ナカナカなぁ…」 「…」 言って、照れ臭そうに笑う。 3週間も名前を呼ばない方が不自然だと思うが、テッドにとってはそうでないらしい。もしかしたら本当は別の理由があるのかもしれないが、それでも構わなかった。 「やっと、すっきりした」 ティルが笑うとテッドも笑って、白い花に視線を移した。 「これが全部咲く頃には、黄金色の蝶も見られるな」 「もう、すぐだよ」 「楽しみだ」 満足げに笑った瞬間、テッドの背後から太陽の光が目に入りティルは眩しくて目を細める。まるでテッドの笑顔が光を発したような気がして、ティルも笑った。 ティルの家を出て、新しい自分だけの家に落ち着いたテッドは、グレッグミンスターを新たな故郷にする事に決めたような気がした。 もしかしたら、最初からそのつもりで家を出たのかもしれない。 これから、もっともっと、仲良くなれる予感がした。 まぶたを開くと、痛いほど眩しい太陽の光が目に入った。 あの時のようだと、ティルは微笑み、目を細める。 眩しい太陽と記憶の中のテッドの笑顔が重なり、ティルは大きく右手を開き、太陽に向けてゆっくりと腕を伸ばした。 ギュッと手を握り、太陽を掴み取る。 「!」 ドキンと手の甲が、熱く脈打った。 「テッド…」 ティルはそのまま腕を引き、そっと手の甲に口付ける。 閉じたまぶたには、太陽の残像がちらちらと動きまわる。 唇には手袋の乾いた感触がする。 「…テッド」 ティルは右手を胸の上にやり、左手で包み込むように彼の魂を抱き締めた。 おわり
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