ティルナノーグ




「───終わったね」
未だきな臭い臭いがする潮風の中、夕陽を見つめながらアスは大きく伸びをした。
何か物言いたげで、それでも言葉にならない静寂が甲板を満たしていた。
操舵に必要な人員を除いて、仲間全員が甲板に集まっている。少し気圧されたように遠巻きにしている彼らの視線は、総てアスに向いていた。それを見渡してにこり、と笑った彼は、穏やかな声を風に乗せた。
「余り褒められた戦いじゃなかったかもしれない。もっと上手く立ち回りようがあったかもしれないし、やりようによってはもっといい結果が出せたかもしれない。でも、俺がこの戦いを苦いものとして振り返らなくていいのは、皆のお陰だ。俺の星はひとつも欠けなかった。長いこれからの道のりを、ハッピーエンドで始められることを本当に嬉しく思う。───ありがとう」
アス様、と嗚咽を漏らす少女達。それは男達にも伝染し、湿っぽい空気を止めようもない。
祭りは終わったのだ。ずっとみていたい夢だったかもしれない。
後の世で、恐らく英雄譚となる物語の中に自分達はいた。
生きて笑って、怒って騒いでまた笑い、泣いて泣いて、また笑って。
太陽の中にいた時間だった。そして太陽は沈もうとしている。
「さよなら、俺は君達を探さない。またどこかで偶然会えたら嬉しいけど、その時は昔話はよそう。ただ、君達が幸せかどうか教えてくれ。何をしていて、どんなことが嬉しくてどんなことが楽しいか。この戦いを、人生の最高だった時になんてしないでくれ。今が一番幸せだ、そう言って笑ってくれ」
声音はどこまでも涼やかで、今を惜しむ気持ちも未来への恐れもない。
しかし逆に啜り泣きが強くなり、困ったようにアスは笑う。
その笑顔の向こうに、早くも最初の寄港地、イルヤが輪郭を整え始めていた。
別れの涙代わり、泣いたって雨が流してくれる。
イルヤを故郷とする仲間達は、各々簡単に済ませた荷造りを、今更ながらに心配そうに横目で確認しながら、近くにいる仲間と最後の別れを惜しんでいた。そして、本来はそこでは降りないだろう彼も、同じようにサックを背負って下船の準備を済ませていた。
 アルド。初めて出会った時以来、何となくその柔らかい雰囲気が気に入って、アスはずっと傍においていた。立ち入った話を仕向けてくることもなく、自分のことも余り語らず、それでもよそよそしさを感じさせない優しい距離感が好きだった。
話を終えたアスは、少し立ち止まっては仲間に挨拶を繰り返しながらも、まっすぐに彼へと近づいていた。まるでそうなることを予期していたような笑顔で迎えたアルドに、同じ笑顔を返す。
「───行くのかい?」
「はい」
「それで命を落とすことになっても?」
「はい」
その眸には、意思を定めた者の覚悟というよりは、穏やかな肯定と帰結があった。
きっと、彼には覚悟なんていらないんだろう。
独りぼっちにさせるのが胸が痛くて、笑顔でいて欲しくて、ただ好きで、だから一緒にいたい、それだけなのだから。
そんな答えはとうに知っていた。
ただ、聞いてみたかっただけだ。
「……じゃあ、届け物を頼んでいいかな?」
ええ、と頷くアルドに、アスは懐から取り出した包みを差し出した。防水布に包み、麻紐で縛っただけの簡素なものだ。受け取ったアルドは、蹲って自分の荷物の中ほどの位置を選んで丁寧に納め、そのままで目線を上げた。
「あの、扱いに気をつけなきゃいけないことはないですか?」
どうも心配で、と気遣わしげに言うアルドに、アスは笑って頭を振った。
「ぶつけようが揺さぶろうが大丈夫だよ。強いて言うなら、心配なのは地図を持たせたところで迷うだろう君の方向感覚かな」
「う……それは……どうしようもないですι」
硬直して情けなさそうに笑う彼の肩を、元よりそれは期待していないのだとばかり、ぽんぽんと叩いてやる。
「イルヤから、エルイールはそう遠くない。天気が悪くても、陸の端くらいは肉眼で見えるだろう。素人が漕いでも、まあ一日あれば辿り着ける。それから街道沿いに、北へ進む。村には必ず商人がいる、そこで真珠を売った少年の話を聞いて、後を追うといい」
噛んで含めるような言葉に、アルドは不思議そうに瞬いた。
「真珠って……」
「ああ、退職金代わりに一袋持たせたんだ。足跡を辿りやすいだろう?」
「僕が……追うと思って?」
「───昔読んだ童話に、星月夜、森の中で光る小石を追って、家まで帰り着いた兄妹の話があってね。物語のポイントと教訓はそこじゃなかったんだけど、妙に印象に残ってた」
首を傾げるアルドの頭を、優しく日に焼けた手が撫でた。
「君が帰るべき場所への目印だよ」
衒いのない笑顔に、アルドはぐっと歯を食いしばった。
 貴方は。貴方の帰る場所は?
それは、遂に声に出せなかった。
いつもいつも掴めない笑顔で笑っていた彼は、本当にいつもいつも人のことばかりで。
「───さよなら、アスさん。本当にお世話になりました」
また会えますか。言外に込めて差し出した手を、アスは取ろうとしなかった。
「『さよなら、俺は君達を探さない。またどこかで偶然会えたら嬉しいけど、その時は昔話はよそう。ただ、君達が幸せかどうか教えてくれ。何をしていて、どんなことが嬉しくてどんなことが楽しいか。この戦いを、人生の最高だった時になんてしないでくれ。今が一番幸せだ、そう言って笑ってくれ』」
繰り返して笑う彼。いたたまれないほどに、彼はただ清冽にそこに在って。
「はい、必ず」
海のようだ、と。やっとそれだけを考えた。






 しとしととそぼ降る雨は、もう北の風を孕んで冷たい。
雨宿りと頼んだ木の枝から間断なく落ちてくる雫を睨み上げ、テッドは小さく舌打ちした。これでは焚き火をすることもできない。射落とした野ガンも、ただの荷物だ。せめて捌いて燻製にでもしておいた方がいいのかもしれないが、どうもそのやり方を思い出せない。出された食事を摂る生活が続いていたせいで、何をするにも何十年も前の記憶を辿らなくてはならなかった。
「とりあえず……メシにするか」
思わず呟いた自分に苦笑する。既に独り言が多くなった自覚はあった。サックから、近くの村で仕入れた干し葡萄とチーズ、パン、瓶詰めの果汁を取り出して口に運ぶ。真珠はどうも買い叩かれた節があったが、それでも一粒で一月は食べるに困らないだけの貨幣に化けてくれた。厚手の毛織物のマントとナイフも仕入れたし、霧の船に拾われる前を思えば、贅沢すぎるほどの旅支度だ。
だが、何かぽっかりと穴が空いたような寒々しさがつきまとっていた。
その正体に薄々気づきながらも、意地で名をつけていない。
つけてしまったら最後、自分の中の何かが折れてしまうような気がして。
ああ、こんな時は揺れる炎でも見ていれば気が紛れるのに。
「───テッド君?」
不意に聞こえた声に飛び上がった。
振り返る間もなく、大きな人影が覆いかぶさってきて声を奪う。
「テッド君!よかったぁ、追いつけないかと思ったよ!!僕方向音痴だし、さっきの村の人が教えてくれた道ってすごく判りにくかったし、雨はやまないしお腹は空いてくるし!!もうどうしようって思ってたんだよ、ホントに会えてよかった!!」
「───……おいっ」
「街道筋には盗賊が出るなんて脅されるし、もっと運が悪かったら熊と鉢合わせするなんて言われるし、出くわしたらそんな弓なんかじゃ太刀打ちできないって言われるし!!じゃあどうすればって聞いてもさあ、なんだもの、だったら最初から言わないでおいてくれたらいいのにって思わない!?」
「……いいからどけ……重い……!」
「え?───あ、ごめん!!」
文字通り飛びのいたアルドに、少し遅れてテッドは起き上がった。下は柔らかい下草と落ち葉だったが、それでも張り出した木の根で打ってしまった背中が痛い。おまけにぐっしょりと濡れた服からの貰い水で、折角生乾きまでもっていけていた服がまた冷たく湿ってしまった。
「ご、ごめんね、大丈夫?」
「何なんだお前は……どうしてこんなところにいる?」
おろおろとうろたえている顔を、直球で思い切りきつく睨んでやる。しかしそれはこれまでの例に漏れず、嬉しそうな笑顔で返された。
「うん、テッド君を追ってきたんだ。よかった、もう3週間になるし、途中で道間違えたかって心配になり始めてたよ」
「何の用だ」
「何って、君に逢いたくて」
「だからそうじゃなくて、何で俺を追ってきたんだって聞いてるんだ!お前、俺の話を何も聞いてなかったのか!?この紋章は人の命を喰うんだ、それも近くにいる人間ほど食われる公算が高い!自殺したいなら他をあたれ、俺を得物に使うな!!」
「違うよ……僕はただ」
「俺が心配だってのか!?余計な世話だ!!」
「───一緒にいたいんだ、君と」
静かな声に、テッドは声を失った。
金の眸は、暗い空が投げかけてくる僅かな光を捉えてプラチナの輝きを弾いている。
「迷惑だね、判ってる。何度も考えたよ、どんなに長生きしたって、僕は必ず君より先に死ぬし、もしかしたらもっと早くにって……考えた。でも、僕は君と一緒にいたいと思った。君から離れて穏やかに生きる人生より、大変でも、迷惑かけても君の傍で生きている方が幸せだって思った。エゴイストだね、でも、僕は多分、君がどんなに迷惑がっても君を探す。悪いなぁって、やっぱり駄目だって思って離れても、暫く経ったらきっとまた君を探してしまう」
ごめんね、と声を落として、アルドは悲しそうに微笑んだ。
「好きなんだ」
 ……何で、お前は。
悲鳴が迸りそうな喉を、辛うじてテッドは押さえ込んできつく目を閉じた。
駄目だ。失いたくない。もう二度と……大切な人間の断末魔なんて聞きたくない。
「断る」
やっとそれだけ搾り出して、テッドは俯いた。
「お前がこの紋章を持っていたら、他人と平気で一緒にいられるか?独りになろうとしないか?出来るだけ街や村を避けないか?……俺に構うな。群島に戻って、穏やかな人生を送れ」
「でも!」
強い声に、反射的に顔を上げる。
「一緒にいたら……寂しくないよ。二人分、あったかいよ。これから北に向かうんだろ、僕のことは毛布か何かだと思ってくれれば」
「毛布は死なない」
「テッド君……」
「もう行け、今からなら夜になる前に村に戻れる」
「………」
暫く何かに耐えるように黙り込んでいたアルドは、ややあって淋しそうに微笑んだ。
「判った。でも、アスさんから預かってきた物があるんだ」
ちょっと待って、と背中に背負っていたサックから、厚手の本くらいの布包みを取り出してテッドに渡す。胡散臭そうに包みを見つめていたテッドは、ややあって固く結ばれている麻紐を解きにかかった。
「あいつ、何て?」
「何も聞いてないよ。君への届け物だって、それだけ」
がさがさと包みを開けて出てきたのは、折りたたまれた紙と、油紙に包まれた拳大の包みが5、6個だった。くん、と匂いを嗅いで、包みのひとつを開けてみる。
「ミックスハーブ……」
「すごいね、こんなに沢山!」
アルドも目を丸くしている。
群島でも貴重な薬草だ。普段は金庫に入れて保管され、あることは知っているが使ったことはない、そんな品だった。最後の決戦に持って行って使ったのが最初で最後だった。売ればとんでもない高値がつく。それを惜しげもなく……というより、これは戦いの最中に軍が保有していたものを丸々寄越したとしか思えない。
全くあいつは、とため息をついて、テッドは同封されていた紙を摘み上げた。
どうせ怪我には気をつけて、とか無理はするな、とか、そんな言葉が並べてあるんだろう。
そんなものにも涙腺が反応してしまいそうで嫌だったが、見ない訳にもいかない。
なるべく無関心を装って開いた彼は、次の瞬間一切の動きを止めた。


『僕を好きにしてください』


大振りの紙に大きく、それはそれは思い切りのいい筆跡で。
見間違いかと脳が現実逃避をしかけたが、生憎逆さにしてみてもそれ以外の文字に読めそうもない。あぶり出しか、暗号かそれとも……と、ある意味現実逃避を続けるテッドの混乱を終わらせたのは、アルドの嬉しそうな声だった。
「あー、これ!懐かしいね、ええと確か……『ホワイトデー』だったよね?」
「は?」
「ほら、女の子達からバレンタインに沢山チョコを貰ったけど、僕、お金がないからお返しができなくて。困ってたら、アスさんがこれを書いてくれて」
「……あー……」
───バレンタインにチョコをくれた皆さん、すみません。僕はお金が無くてお返しを買うことが出来なかったので、代わりに今日一日僕を好きにしてくださ……。
───ばかやろっ!何やってるんだっ!
思い出してつい笑ったテッドは、不意に真顔になったかと思うと、ぽろりと涙を零した。
 アス。
 お前。
どこかでくすくすと笑っている声が聞こえる。
悪戯が成功した子供のような笑顔で、持って行きなよ、と軽く顎をしゃくる彼。
「……テッド君?」
右手を押さえて嗚咽するテッドを、アルドは心配そうに覗き込んでは、おろおろと視線を左右させる。
「だ、大丈夫?どこか痛いの?何か……あの、水でも飲む?」
薬もどこかにあった筈、と慌しくサックを探り始めた彼を、アルド、とテッドは呼び止めた。
涙を拭った下には、静かな微笑があった。
「いいから、メシにしよう。食ったらすぐ寝るぞ、明日は早いから」
「え……」
「明日一日で国境まで出る。ついて来られないなら、置いてくぞ」
「あ……うん!大丈夫だよ、ちゃんとついていく!!」
満面の笑顔で大きく頷く彼に、大きく切り分けたパンとチーズ、干し葡萄の包みを渡してやる。上気して嬉しそうに頬張る彼を見つめ、テッドは涙の残った顔で微笑んだ。
どっちを選んでも苦しい。どんな道を選んでも、痛みは常につきまとう。
それでも。
呪われた紋章を持っていても幸せに生きていいのだと、そう、彼は教えてくれた。
やっぱり、素直に礼は言えそうにないけれど。
鈍色の空を仰いで風に託す。
お節介な彼の許に届けと、心からの感謝を憎まれ口つきで。







 ふと吹き抜けた風に、アスは残照に燃える水平線を見やった。
艦はイルヤから直接オベルに向かい、終戦宣言を経て、今はラズリルへ向かっていた。
瞬きの紋章に頼らない旅は長い。
世界は広い……こんなにも。
 アルドは、無事辿り着けただろうか。
 テッドは、彼を受け容れるだろうか。
願わくは、あの二つの星の光が今生で再び交わらんことを。
君達の為に祈るのは、これで最後だ。
 さよなら、俺は君達を探さない。またどこかで偶然会えたら嬉しいけど、その時は昔話はよそう。ただ、君達が幸せかどうか教えてくれ。何をしていて、どんなことが嬉しくてどんなことが楽しいか。この戦いを、人生の最高だった時になんてしないでくれ。今が一番幸せだ、そう言って笑ってくれ。
くすりと笑って大きく伸びをする。
さあ、ハッピーエンドからもう一度始めよう。



───Mischief Managed!(いたずら完了)









                                                     2005.7.31『ティルナノーグ』

                                                     SING BY YUDU AKISHIMA





4祭のお題デー「小説のイラスト化、イラストの小説化」で、私が投稿したイラスト2枚+小説(嵐の夜に)を元に、お話を書いて頂いちゃいましたー!
頂いたのは1年前(…)なんですが、アップしそびれてました…
秋嶋さんアスのあまりの格好よさに、我が家のテッドが不満タラタラでした。あいつを見習えよって(笑)
我が子を書いて頂くって面映いですね(照)ありがとうございました!