約束




潤んだ瞳が静かに見詰めてくる。身体の大きさに怯えるより、まずその優しそうな気配に惹かれた。
 艶やかな毛並みの白馬は、その背に据え置かれた豪奢な鞍を抜きにしても、美しいと思うに充分な風情と品格を備えていた。皇宮の厩に置いても遜色のない見事な一頭は、先ほどからこの館の客人となっている花将軍の愛馬である。厩舎へ、という下男の言葉を、すぐに暇するからと遮ったのを受けて、鞍も頭絡もそのままに庭の馬繋柱に繋がれている。尤も、将軍の予告は結局のところ予告どおりとは行かなかったとみえて、歓迎の茶会はそろそろ三刻にはなろうかという頃合いである。家人にとっては想定内の出来事だったらしく、嫌な顔一つ見せはしなかったが。
 庭にて主の帰りを静かに待っている生き物は、悪戯盛りの少年の好奇心を強く刺激した。普段、自家の厩に近づくことは固く禁止されている為(興奮した馬が坊ちゃんに危害を加えでもしたらどうするんですか!?とは過保護な下男の言い分である)、手を伸ばせば届きそうな位置で馬を見たのは初めての経験である。忠実なる下男は今は客人の接待に忙しく、周囲には咎めるものは誰もいなかった。後で彼に知れたら卒倒されること間違いなしの状況である。こちらに関しては正しく彼の想定範囲外の出来事だったであろう。
 ゼファは興味深げな面持ちで逞しい駿馬を見上げた。まだ触れるほど傍には辿り着いていないが、体温や呼吸さえ感じ取れそうな距離である。ふさふさした尻尾が、時折別の生き物のように大きく跳ねるのに目を瞠った。
 利発そうな瞳を見れば、馬のほうにも怯えた気配はないと悟る。だが…何故かどうしても、それ以上傍には寄ることが出来なかった。怖いわけではない。ただ、触れてはならぬと胸の内で何かが警鐘を発していた。喩えるなら、降り積もった新雪の上を無雑作な足跡で穢す罪悪感とでも言えば良いだろうか。
 触ってみたい。でも…いけない。
 逡巡を繰り返していると、唐突に、柔らかい声が降りてきた。
「馬が、好きなの?」
 振り返れば、通りに面した門柱に背を預けた青年の姿が見えた。無彩色の外套を羽織った出で立ちは、一目で旅をするものと知れる。栗色の前髪の下から透ける瞳は、蒼穹のそれより少しばかり深みを含んだ碧だった。
 自分が今、家人の言いつけに逆らっているという自覚の充分にあるゼファである。叱られるのではないかとの思いがちらりと過ぎって首を竦めたが、旅人は穏やかに微笑うのみで、門より中に入って来ようとはしなかった。
「お兄さんも馬が好きなの?」
「動物はみんな好きだよ。……その馬は君の?」
「ううん。ミルイヒ将軍の馬。綺麗だなって思って見てたんだけど…」
「そうだね。綺麗な馬だね」
 やんわりと眇められた瞳に何となく親しみを覚えた。傅かれることに慣れた身に、その気軽な物言いは些か違和を感じさせたが、悪い心地はしなかった。
 もっともっと、その碧を間近で見たい気がして、ゼファは言った。
「好きなら、そんなところで見ていないで、中に入って来ればいいのに」
「……余所の家の庭に勝手に入るのは、犯罪だからね」
「勝手じゃないよ。僕がいるもの」
 下男が聞けば、見ず知らずの人を家に入れるなんて、何て危険なことをするんですか坊ちゃん!…と、きつく咎められるところだろう。この可愛い坊やは自分の立場というものをあまり自覚してらっしゃらないようで。旅人は呆れたように溜息を洩らしたが、門柱から身を起こし、躊躇いのない足取りで馬へと近づいた。いきなりは触れず、まずは馬の前方に立ち、様子を伺うようにその優しげな面を見詰める。
 固唾を呑んで見守るゼファの前で、やがて旅人は宥めるような声を掛けながら、馬の首筋や鼻面を優しく撫でた。馬のほうも嫌がる素振りは見せず、大人しくされるがままになっている。甘えるようにその手に頬を摺り寄せる仕草さえ認められ、ゼファは思わず溜息を吐いた。
 ひとしきり馬と戯れた後、旅人はゼファを振り返った。
「君も触ってみる?」
 暫く躊躇った後、ゼファは力なく、首を横に振った。
「……怖いの?」
「そうじゃない……けど。でも…」
 何となく。僕なんかが触ったらいけないような気がして。
 続く言葉は、音になることなく、ゼファの唇の内でのみ呟かれた。
 馬は戦の象徴である。剣と共に―――何よりもその遣い手となるに相応しい優れた武人と共に、戦場を駆ける姿が最も美しいとされていた。北征に赴く父を見送ったときのことを思い出す。花将軍のそれほど華美ではないが、頑健な鞍を置かれた青毛に跨った父は、正に戦神とも喩えられるべき威厳に満ち溢れていた。それは守られることしか出来ない自分にとっては、あまりに神聖な、不可侵の領域。
 旅人は馬から離れ、ゼファの前に屈みこんだ。碧い眼差しを真っ直ぐに合わせる。
「好きなんでしょう?」
「………」
「馬はね、優しい生き物なんだよ」
 内心を見透かされたような声に、ゼファは揺らいだ視線を再び馬へと向けた。恐ろしいとはやはり感じない。立ち上がった旅人に手を引かれるままに、ゼファは白馬の傍まで歩み寄った。静かに見下ろしてくる瞳に吸い寄せられるように手を伸ばせば、馬は首を下げて優しげな顔を寄せてきた。
 鼻息の掛かりそうな近くで、伸ばした指先にざらりと温かな感触。微かに湿ったそれに、何故だか泣きたいような気持ちになって口許が歪む。案ずるような表情で、馬は尚もゼファの手に、顔に、頬を摺り寄せた。
 もう、遠いとは感じなかった。
「馬のほうも、きっと待っていたんだよ。君が来てくれるのをね」
 優しい生き物だから、と細められた碧を、ゼファはそっと見遣った。陽光を弾いて微笑うそれは、神秘的なまでに、脳裏に深い軌跡を描く。
 知るものが見れば、きっとこう口にしたことだろう。海のようだ、と。
「随分と気に入られたみたいだね。この分なら、乗りこなせるようになるのも、きっとすぐだよ」
 背を押すような言葉に嬉しくなって、ゼファは弾んだ声を上げる。
「乗れるようになるかな?グレミオには、まだ早いって、いつも言われるんだけど」
「大丈夫だよ。馬のほうもこうして、君を受け入れてくれてるもの。誠意を持って触れてやれば、馬もちゃんと応えてくれるよ」
 それじゃ僕はそろそろ行くね、と旅人は踵を返した。ふわり、と長い外套が風を孕んで優雅に翻る。遠ざかる後ろ姿に、そのときゼファは戦場を垣間見た。駿馬の背に揺られて、颯爽と荒野を駆け抜けてゆく雄姿が、まるで目にしたことでもあるかのような確かさで、胸中に鮮やかな像を結ぶ。
 見知らぬ背中に、見知った父のそれが重なる。
「お兄さんが馬に乗るとこ、見てみたかったな」
 何気ない呟きを違いなく聞き分けて、しかし旅人は足を止めると、少し困ったような表情でゼファのほうへ向き直った。
「乗れないんだよ、僕は」
「――――え?」
「昔、落馬してね。それ以来、駄目なんだ」
「………」
 意外だ、と思うより前に、瞳に浮かぶ寂しさに気がついた。きっと彼はどんな時も独りで荒野を駆けたのだろう。愛おしく思いながら、その身を委ねられない罪悪感。優しいんだよ、という言葉は恐らく彼自身にも言い聞かせていたものに違いない。
 再び踵を返しかける背に、ゼファは精一杯の声を張り上げた。
「じゃあ、僕が乗せてあげるから―――!」
 息を呑む気配が背中越しにもはっきりと伝わって。
「必ず乗れるようになってみせるから――だから、また会いに来て―――」
 嘘ではないのだと必死に言い募る姿が微笑ましく、旅人は再びゼファの傍へと歩み寄ると、さらりとした黒髪をそっと撫でた。
「―――それは楽しみだね。それじゃ、そのときには、また君に会いに来るよ」
「ホント!?絶対だからね、約束だよ!!」
 無邪気な笑顔で差し出された小指に、皮手袋に覆われた指を絡めて、旅人は瞬いた瞳に、僅かに懐古の念を浮かべた。
 触れた手の温かさの向こうに、旅人が失われた面影を仰ぎ見たことを、ゼファはまだ、知る由もなかった。






結美さんから頂いちゃいました〜v
ゼファ君…!馬!そう、ここでは絶対4主君を呼び止めるよね!向けられた背中が切なくて、ゼファ君にシンクロして読みました。ああ、早く二人が再会する日が来ますように。ありがとうございました〜っ!