本拠地



「ぐ……うぇぇ……」
「苦しい……助けてぇ……」
「う、うう………頼むから、早く……っ」
「もう嫌だぁっ、おうちに帰りたいよぉ…」
室内を多い尽くす、老若男女の苦しげな呻き声。
医務室はとっくに満杯で、入りきれなかった人々が通路に溢れかえっている。
だがその患者数に対して、動ける者の数が圧倒的に少ない。
「脱水症状を起こさないように…水分をしっかり補給させてあげてくださ……うぷっ」
この船唯一の医師であるユウも例外ではなかった。診察ベッドに横になりつつ、医師の使命感で何とか指示を出しているが、顔色は誰よりも真っ青だ。
「判りましたっ!皆さん頑張って下さいねっ。トリスタンさん、上に行って動ける方たちを呼んできてくださいっ」
動けないユウの代わりに、キャリーが阿鼻叫喚地獄絵図な室内を必死に駆けずり回っている。部屋の隅で相変わらずごほごほと空咳を吐いていたトリスタンが、「僕は病人なんですが…」と呟きながらも、言いつけられた仕事をこなしに医務室を出て行った。
「朝になればきっと楽になりますからっ。あと数時間の辛抱ですっ」
呻き声を一閃するかのような、キャリーの力強い声が響く。
大波に乗り上げた船がぐわんと弾む度に、苦しげな短い悲鳴がそこここで上がった。


船は今、ネイ島まであと数時間という辺りに碇泊している。
エレノアやニコ、ハルトなど海のプロたちから、このまま行けば嵐の直撃に合うと言われたのが今日の昼過ぎ。その時点で船はオベル王国とネイ島の中間地点を、ナ・ナル島に向かって航行していた。
台風は船の進行方向に対して、横から接近していた。今から船の速度を上げれば、何とか台風に追いつかれる前にネイ島にたどり着けるだろうという予想は大きく裏切られた。
台風の移動速度が、こちらの予想以上に速かったのだ。
嵐の影響を受けやすい外洋での碇泊は、乗員にとって恐怖の一夜の始まりだった。
普段の安定した航行でも酔いやすい人を皮切りに(特にラインバッハは哀れだった)、船旅に慣れない人々がばたばたと倒れた。船乗りたちや海賊たちは、船が波に攫われないよう命綱を付けて必死に夜の荒波と戦っている。
船酔いしていない力自慢の男たちは甲板へ手伝いに、女たちは介護に駈けずり回っており、船内は深夜とは思えない騒がしさに包まれていた。




「……うー…気持ち悪い……」
例に洩れず、テッドも自室のベッドから起き上がれないでいた。
幽霊船にいたお陰で船旅経験は長いテッドだが、魔法で作られた船長の船は自然界の天候の影響を一切受けない。
台風の中に突っ込もうが、高波に飲まれようが船が揺れることはなかったのだ。
実は普通の船旅は殆ど今回が初めてというテッド、幸い今までは船酔いとは縁が無かったのだが、流石にこれは……くる。
ぶわんっ
「うぇぇぇ……っ」
波に乗り上げる感覚と、絶えず瓶の中で振られているような揺れが呼び起こす嘔吐感に、吐くまでは行かないまでも気持ち悪くて堪らない。
「……死ぬ……」
船酔いから逃れる為、必死に目を閉じて眠ろうとする。
願いが通じたのか、やがて少しだけ睡魔がやってきて、うとうとと浅い眠りに落ちて行った。



(あー……なんか冷たくて気持ちいいかも)
額に心地よい冷たさを感じて、うっすら目を開ける。すっかり見慣れた低い天井と、背中に感じる横揺れ。苦難はまだ去ってはいないらしい。
もう一回寝てしまえと目を閉じようとして、ふと疑問が浮かぶ。
この冷たさは何だろう。
「…………?」
寝ぼけ眼で、上目遣いに額の上に乗っているものを見る。
(……手?)
「気分はどう?テッドくん」
掛けられた声に、一気に意識が覚醒した。
「なっ……!」
飛び起きた所為で、胃の中の物が逆流しそうになり慌てて口を押さえる。
テッドの額に置かれていたのは、冷たい人の手だった。そしてその持ち主は。
「……アルド…なんでお前がここにいるんだよ………」
「甲板にテッドくんの姿を見かけなかったから心配になって…勝手に部屋に入ってごめんね。気分は大丈夫?」
「いい訳あるか……」
本当は眠る前に比べれば大分良くなって居たのだれど、そんな内情を聞かせてやるつもりはない。
体調の不良は精神力の低下に繋がる。こんなときに他人が傍にいるのは非常にまずいのだ。
部屋に鍵をかけていなかったことを悔やみつつ、さっさと出て行けと言おうとして、アルドの黒髪がじっとりと濡れているのに気づく。
そういえば先ほどの手もひどく冷たかった。常夏のこの群島諸国で、あんな風に手が冷えるなんて一体何をしていたのか。
「……お前…何で濡れてるんだ?」
疑問を口にすると、アルドは小さく笑って言った。
「さっきまで、動ける男たちで甲板の水の掻い出し作業をしてたんだ。今は大分風が収まって来たから、もう掻い出さなくても大丈夫だよ」
よく見れば、服も水を吸って色が濃くなっている。恐らくさっと拭いただけで、作業の後真っ直ぐここに来たのだろう。
部屋で船酔いに苦しんでいるであろうテッドの様子を見る為に。
「…………馬鹿っ。風邪引く前にさっさと着替えて来いっ」
ベッド近くの引き出しから乾いたタオルを取り出して押し付けると、テッドはそのままぐいぐいとアルドを部屋の外まで押し出した。
何か言おうとするアルドを言葉を遮って、ぴしりと言い放つ。
「人の世話を焼く前に、自分の身を振り返れ。それに船酔いしてるのは俺だけじゃない。俺は大丈夫だから、動けるんならもっと症状の重い他の奴らの面倒を見てやれ。いいなっ」
「うん、判ったよ…」
寂しげな微笑を浮かべるアルドに少しだけ良心が痛んだが、甘い顔を見せるつもりはない。
とにかく下手に関わりが深くなるのは危険なのだ。アルド自身にとっても、テッドにとっても。
「じゃあな」
アルドの鼻先でばたんとドアを閉めて、今度はしっかり鍵をかける。
未だ横揺れする船を壁伝いにベッドまで歩いて横になると、大きく溜息をついた。
(困るんだよ、こういうのは)
甦ってくる、額に添えられた手の心地よさ。
アルドの存在は危険だ。
アルドはテッドの心を揺るがせる。 病気の時に誰かが傍についていてくれる暖かさを、テッドが紋章の運命を受け入れた時に、捨てようと決めたものを思い出させる。
目の前に聳え立つ岩山を、登らなくていいよと甘く囁く。
ここにいればいい。苦しむことはない。僕が守ってあげるから、と。
「…………違う」
声に出して否定することで、必死に自分の心を奮い立たせる。
前に進むのは自分が選んだことだ。船長から紋章を取り返し、永遠の時間の籠から出ると決意した時に、二度と逃げないと心に誓った。
だから自分は決してアルドを振り返らない。
「……気持ち悪い…」
未だムカつく胃を抱えて、目を閉じる。
朝はまだ遠い。











前半と後半でかなり雰囲気が違う(苦笑)
ビッキーのテレポートを使えばいいんじゃ?と言ってはいけません。きっと彼女も船酔いに苦しんでるのでしょう。
……すみません。単に船酔いするテッドを書きたかっただけです。船酔い辛いですよねー…。逃げたくても逃げられないしさ。私はあんまり乗り物酔いする方じゃないですが、流石に嵐の直撃に見舞われたら動けなくなるに違いない…

100のお題をクリアする為に、かなり無茶なお題の当てはめ方をしています。
正しくは「本拠地にて」ですな。しかも本拠「地」じゃないし……。本拠船?
ごめんっ、許してっ!でないといつまで経っても100題なんて埋まらないんだものーっ。


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