Transparent glass
コンコン 安普請のドアを軽くノックすると。 「……開いてるよ」 扉の向こうから、いつもより掠れた声が返って来た。 「よお、風邪引いたんだって」 戸を開け一歩足を踏み入れた室内は、火もないのに妙に暖かい。 「かなり熱があるみたいだな。物は食べられるか?」 つかつかと窓際のベッドに歩み寄り、真っ白いシーツに埋もれた顔を覗き込む。 赤い顔、潤んだ目元、汗で額に張り付いた髪、乾いてかさついた唇。測らなくとも、熱の高さは容易に見て取れた。 そしてこの部屋の温度。これはシオンの体から発せられた熱だ。 「……食べたくない」 「食べなきゃ薬も飲めないだろうが。リンゴ持ってきたから、これをすり下ろしてやる」 「フリックが?」 意外な申し出に、シオンがきょとんと目を丸くした。 「何だよ、俺がリンゴを剥いたら変か?」 シオンの枕もとに椅子を運んで腰を下ろし、持ってきたバケットからナイフとリンゴを取り出す。 「変というか…剥けるの?」 「当たり前だ。俺達は傭兵なんだぜ。ナイフの扱いは慣れてる」 普通の料理はできないけどな、と笑ってフリックはリンゴの皮を剥き始めた。小さなナイフが、するするとリンゴの表面を滑っていく。 「ほら、上手いもんだろ」 「……本当だ」 普段は戦場で剣を振るっている戦士の手が、器用にナイフを操る様を感慨深げに眺める。リンゴの皮は途中で切れることなく、螺旋を描きながらフリックの膝上に積み重なっていった。 「もう少し待ってろよ」 皮が全部剥けると、今度はすり下ろし器と皿が現れた。どうやらシオンの食欲が無い事を知っている誰かが、フリックにこの見舞いセットを持たせたらしい。 人選といい、用意周到な見舞いセットといい、誰の差し金か気がついてシオンは僅かに眉を顰めた。大きなお世話だと言いたかったが、実際この上ない見舞いの品であることは否めない。 この短い期間で自分の性格を良くぞここまで見抜いたと、改めて彼の洞察力を評価する。 その間にフリックは、リンゴを食べやすい大きさに切り、芯を取ってすり下ろしていた。 「凄いな、青雷のフリックにリンゴをすりおろしてもらってるなんて」 彼のファンの女性たちが見たらなんて言うだろう。想像するとおかしかった。 「何だそりゃ。……よし、終わり。おい、食う時は起きろよ」 「フリックが起こしてよ」 スプーンを沿えた皿を手にしているフリックに向かって、両手を伸ばす。 「何ぃ?甘えるな。自分で起きろ」 「体がだるい。起きられない」 「嘘付け。……ったく」 文句を言いながらも、フリックは皿をサイドテーブルに置き、両手をシオンの脇に差し込んで起こしてやった。 病気の時は誰でも気弱なるものだ。こんな時くらいは甘やかしてやってもいいかと保護者気分を強くして。 (まあ、こいつはもっと皆に甘えてもいいんだけどな…) 普段なら、こんな風に他人に頼るなんて事は絶対しないシオンだ。彼は解放軍に入る前からの部下にしか心を開いていなかった。 再会した時は驚いた。レナンカンプの町で見た少年と、目の前の彼は本当に同じ人物なのかと。およそ15歳の子供とは思えない大人びた態度。あれは寄せられる期待と重圧から、身を守る為の彼の鎧だった。 あの時はそれに気付けなかった。 昔からの仲間が自然にシオンに頭を垂れている姿を見て、頭に血が上っていた自分には。 ――オデッサ以外のリーダーなんて認めないっ…… オデッサが死んだのは、こいつの所為じゃない。 そう、肝心なときに彼女の傍で彼女を守れなかった自分の…… 「フリック?」 「あ、ああ。何でもない」 何度となく繰り返している後悔の念を振り払い、抱えていた体をベッドの背もたれに寄りかからせた。テーブルの上の皿を取り、再び椅子に腰を下ろす。 「ほら。口開けろ」 「……もしかして、食べさせてくれようとしてる訳…?」 「ああ」 「〜〜〜〜〜っ……」 シオンは片手で頭を押さえてうなだれてしまった。小さい子供じゃあるまいし、人に食べさせてもらうのがいかに恥ずかしいか、判っててわざと言ったのだ。 (ざまあミロ。今のお前は『リーダー』なんかじゃなくてただのガキだ。素直に甘やかされとけ) こんな風にシオンが他人を近づかせる機会は滅多に無いのだ。とことん利用せねば。 「シオン?」 何時までも顔を上げないシオンに、何か変なことを言ったか?と不思議そうな顔をしてみせる。 人間無防備な姿を晒されると、気が緩むものだ。こういった演技は慣れている。 「……いい、何でもない。食べる」 「そうか」 内心にやりとほくそ笑み、小さく開いた口にスプーンで掬ったリンゴを入れてやった。 「冷たくて美味しい……」 「そりゃ良かった。どんどん食べろ」 「うん」 一度やったら吹っ切れたのか、後は素直に口を開けた。スプーンを運びながら、かつてオデッサが過労で倒れた時も、「子供みたいで恥ずかしいわ」と照れる彼女にこうやって食べさせてやったっけと思い出す。 リーダーという人種は、こんな時でもなければ甘やかされてはくれないらしい。 「よし、全部食べれて良かったな。後はこの薬を飲んで、ゆっくり寝ろ」 空になった皿を片付け、水差しの水をコップにあけて手渡す。 「……錠剤?薬は嫌いなんだ。粉薬ならなんとか飲めるけど」 「全くお坊ちゃんが。生憎錠剤しかないんでな。我慢して飲め」 「………喉につかえちゃうんだよ」 手にしたコップを揺らしぽそりと呟くその姿は、リーダーなんかじゃない素のシオンで。 「………手のかかるリーダーだ」 フリックは薬を己の口に放り込み、シオンの手からコップを奪って水を口に含んだ。 「…………っ………」 ごくり、と。 喉が上下したのを確認してから、ゆっくりと唇を離した。 去り際に、ひび割れた唇をぺろりと嘗めながら。 「ちゃんと飲めたか?喉につっかえてないか」 「…飲めた」 顔が赤いのは熱の所為と言う事にしておこう。触れた唇も熱かったし。 「そうか。じゃもう寝ろ。直に薬が効いてくるからな」 「………うん」 素直にベッドに潜り込むシオンを可愛いと思ってしまい、慌てる。あれはキスじゃない。薬を飲ませただけだ。決して感情的なものではない。 ――だったら、最後のあれは? 自問自答しても答えは出てこない。 「ねぇ、手貸してよ」 布団から目だけ出た様子が可愛くて、またどきりとする。 「手?」 「そう、フリックの手って冷たそうだから」 「どういう意味だ」 苦笑しながら、手を火照った頬に当ててやる。 「…やっぱり気持ちいいー……」 摺り寄せられた頬は熱くて柔らかかった。 立ち去る事は諦めて、そのまま好きなようにさせてやる。 静かな寝息が部屋を満たしても、フリックの手が離れることはなかった。 「何で坊ちゃんの看病に、フリックを行かせるんすか!こういう時は家族が行くもんでしょうっ」 「まあ、パーンが行っても看病にはならないだろうが…。何故私ではなくフリックだっのかは、お聞かせ願いたいですね。マッシュ殿?」 広間では、パーンとクレオが納得いかないといった形相でマッシュに詰め寄っていた。今シオンの部屋には、誰も近づかないよう戒厳令がている。それは家族であるクレオたちも同様だ。 唯一マッシュが許可を出した人物を例外として。 「彼が一番適任だと思ったからだ。今シオン殿に必要なのは休息だ。シオン殿は我々や君たちの前では、心配かけまいと無理をしてしまうだろう。その点フリックならば申し分ない」 「……それはどういう意味ですか」 「シオン殿は、フリックには我侭を言えるようだからな。ビクトールも同意見だった」 「……」 「つまり俺たちには我侭が言えないと!?そんな事はないですっ。坊ちゃんは俺にだって我侭をたくさん言ってくれますよっ」 更に血を上らせたパーンとは対照的に、クレオの頭は冷静になった。 マッシュの言っている事は正しい。確かにシオンは自分たちには遠慮してしまう所があるが、フリックにはズバズバ言いたい事を言っている。 家族だからこそ、近寄れない距離はある。 (グレミオがいたなら、そんなことも無かっただろうがな…) クレオやパーンでは、グレミオ程シオンの中に踏み込むことは出来ない。 それを赤の他人であるあの男が出来ると言う事に、少々…かなりの不満は残るが。 「判りました。ご配慮ありがとうございます」 「クレオっ。いいのか!お前はそれでっ」 「いいも悪いも、軍師殿が決められたことだ。私はそれに従う」 「……くそっ…」 悔しそうに舌打ちするパーンを残し、クレオは踵を返した。 (フリックか…確かに相手に遠慮を与えない奴ではあるが……) リーダーになって以来、シオンが家族以外で気を許した相手は初めてだ。 (……まさかね) ちらりとある想像がクレオの頭を過ぎったが、慌ててそれを打ち消す。 有りえない。 戦闘が終わった後、仲間の安否を確認するシオンの視線が、フリックに注がれる時間だけ微妙に長いことに気付いているとしても。 フリックのパーティ参加頻度が、下手をすれば水の紋章を付けているクレオより多いとしても。 認めるわけにはいかない。 (坊ちゃんがフリックの事を好きだなんて、そんな馬鹿な話は) だがどうしても、自分の女の勘を否定しきれないクレオだった。 フリ坊は痛いシリアスにするつもりでしたが、やっぱり甘くなっちゃいました(苦笑)いえ、痛いネタもやりますけどね。 フリ坊のテーマは「すれ違い」です。手を伸ばせばすぐ届くところにいるのに、その一歩が届かない。 攻めが大人の男だと、色々楽しいですねぇV(他の攻めはみんな10代だから(笑) 我が家のフリックさんは、お節介で真面目で融通が利かないタイプ。経理面とかもきっちりしてて、ビクトールの頼りになる相棒です。(うちのフリックって、あんまり運悪くなかったんだよな…風船で飛んで行った事ないし) このシオンは多感な15歳で紋章を受け取ったバージョンです。 14歳のように自分の思ったとおりに突っ走れるわけでもなく、16歳のように諦めることも出来ない、一番不安定な子です。 テッドに対しては一緒にいた期間が短い為、恋を自覚することなく彼を失ってしまいました。よって親友以上の感情はありません。 |