凍てついた花




「‥‥‥‥なに」
無言の視線に耐え切れなくなり、イールは羽ペンを持つ手を止めて、口を開いた。
イールが向かう課題のすぐ横に、やる気なく机に突っ伏すテッドの顔がある。インク瓶の向こうからの視線は、真っ直ぐな上に近すぎて落ち着かない。
(‥‥超見られてる‥‥!)
予想はしていたが、やはりテッドから返事は返らず、イールは諦めて再び課題に向かった。
(ゴツゴツしてる。ガキのくせに)
テッドの視線は、羽ペンを握る手に注がれている。
(それとも、もうガキじゃないんだろうか)
「イール、て」
「は?」
「手出して」
「‥‥なんで?」
「いいから。そしたらもう見ない」
「‥‥」
唐突な要求に訝りながら、イールが右手を掲げた。頬は机に預けたまま、その掌に左手を重ね合わせる。
ああ、これは。
(成長する手、だ)
「‥‥‥もう、いい?」
手の大きさ比べから一向に動こうとしないテッドに、イールは遠慮がちに手を引いた。
「ああ。うん。悪い」
返って来た短い返事が、何だかいつもより元気がないような気がして。
イールは音を立てて椅子から立ち上がると、コートを片手にテッドの腕を掴んだ。
「え、何」
「遊びに行こう」
「は?」
呆けるテッドを有無を言わさず引っ張っていく。
「いや、だってお前、課題、は」



(遊びに行こうって言ったってなぁ…)
擦れ違う人を避けながら、隣を歩くイールをちらりと見やる。
「課題、夕方提出だろ」
「‥うん」
「昼までには戻らないとな」
「もう少し、ゆっくりでも大丈夫だよ」
「まだ半分も終わってないだろ。昼からやったって、間に合うかどうか怪しいくせに」
言い当てられ、イールがバツの悪そうな顔をする。
半ば引きずられるように屋敷を出て来たが、イールの課題の事を考えれば、作れる空き時間は一、二時間程度だ。
「それに俺も午後から仕事だから」
「え、そうだったの?」
「ああ。だからあんまり時間ないのに、お前が構ってくれなくてつまんないなって思ってたんだ」
テッドの明るい笑顔に、イールにも笑みが戻った。
「早く言ってくれれば、良かったのに」
「真面目な顔して課題に取り組むお前の顔見てるのも、面白かったからさ」
普段イールをマジマジ見る事なんてなかったから、気がつかなかった。
骨ばった手、すっきりとした顎のライン、突き出た喉仏、広い肩幅。
少年の幼さの中に、大人の体が少しずつ姿を見せ始めていた。
身長もいつの間にか追い抜かれ、僅かに見上げて視線を合わせる度に、この町で過ごした時間の長さを思い知らされる。
出会った時は少年だったイールが、大人になって行く。
テッドが永遠に抜け出すことのできない子供という枠くくりを、イールは越えて行く。
不意に、昔川で遊んでいてお気に入りのボールを落としてしまった時の光景が頭に浮かんだ。
必死に追いかけたが川の流れは速く、ボールは見る間にテッドの手の届かない所に運ばれてしまった。
波間に姿を消していくボールを見送り、幼いテッドは泣いた。うっかり手を離した自分に後悔するでも、攫って行った川の流れを責めるでもなく、宝物がもう二度と戻ってこない事を知って、泣いた。
紋章を宿す前だったのか、宿した後だったのか、詳しい状況は思い出せない。ただ胸を突く強烈な喪失感だけが強く心に残っている。
絶対的な力を前にして人にできるのは、ただ現実を受け入れる事だけだ。
川に流されたボールは、旅を続ける間に、いつしか持ち主のことなど忘れてしまうだろう。毎日一緒に遊んだ子供のことなど、思い出にしてしまうだろう。
大河に放り出されたボールには、昔を振り返る暇などないほどの、広い世界が待っているのだから。
「こっちはじっと見られてて、凄く居心地が悪かったのに。あんな状態で、勉強なんて進みっこないよ」
「それも狙いのうち。お前が遊びに行こうって言い出すの、待ってたんだ。俺が誘って課題が間に合わなくて、俺の所為にされたら困るし」
「ひどい、テッド‥」
恨めしげな視線を、それらしい言い訳で笑って流し、話題を変える。
「ところで時間あんまりないけど、何する?どっか行くか」
「遠くまでは行けないし‥そうだ。いつもテッドと行く釣り場、あそこの近所に、銀杏が生ってる所があるんだ。銀杏拾いはどう?」
「いいな。じゃそれで」
当てもなくぶらぶらと進んでいた二組の足が、目的を持って歩き出した。



釣り場へと向かう森の小道から少し外れた所に、銀杏の木はあった。
真黄色に染まった葉の絨毯の上に、ぽつぽつと小さな実が大量に落ちている。
「凄いな。拾い放題じゃないか!」
「ここは、あんまり知られてなくて穴場なんだ」
興奮したテッドの様子に、嬉しそうに顔を綻ばせたイールは、途中市場に寄って貰って来たビニール袋を手袋のように両手に嵌めた。
「はい、テッドも。最初からここに来るつもりだったら、要らない軍手とか持って来たんだけど」
「これで充分だよ」
手袋用と持ち帰り用の二種類のビニールを手渡され、テッドもイールに倣う。
生の銀杏の実には強烈な臭いがあり、素手で触ると中々匂いが落ちなくなる。秘密の場所と言うからにはそれ位の知識はあって当然なのだが、お坊ちゃんのイールがこんな所帯じみた事を知っているなんて意外だった。
「小さい頃、グレミオたちと拾いに来たんだ」
「俺も昔はよく拾ったよ。市場に持って行くと、結構いい金になるんだよな。元手はタダだし。種にしてから売る方が金になるんだけど、旅の途中だと腐るのを待ってられなくてさ。種の場合は、実ごとの倍の値段が付くんだぜ」
「へえ。それは凄いね」 
銀杏の実は拾ってすぐは食用に適さない。周りの果実部分を地中に埋めて腐らせた後、残った種を天日で乾かし、その中身を加熱して食べるのだ。
「なのにその時一緒にいた奴が交渉下手でさ。市場の半額で取引しちまったりして、大損した事もあったな」
言いながら、今は遠い記憶となった懐かしい人物を思い描く。
一時一緒に旅をした、共に戦いを生きぬいた仲間の弓使い。お人よしで優しくて、人を疑う事を知らない――いや、相手が自分を騙そうとしている事を知っていて、それでも信じようとする人間。
お前馬鹿かっ!?と呆れ返るテッドに対して、困ったように彼は微笑んで、ただ一言、ごめんねと謝った。
そういう事は一度や二度ではなかった。その度にテッドに怒鳴られながらも、彼は変わらなかった。同じように騙され、同じようにテッドに謝った。
「‥ずっと一人旅じゃなかったんだ?」
「その時はたまたまだよ」
イールの表情に気づいて、テッドはこれ以上この話題が続かないよう打ち切った。
本人は必死に顔に出さないようにしているが、傍目にはバレバレだ。
こういう所はまだガキだよなと思いながらも、執着して貰えるのはやはり嬉しい。
「何だ、お前それだけか?俺はもうこんなに拾ったぜ」
八割方埋まった袋を掲げて見せると、イールはムッとして銀杏拾いに集中した。テッドも再び黄色の実に手を伸ばす。
銀杏をキーワードに甦った思い出は、無言で単調な作業も手伝い、次々とテッドの脳裏に浮かんでくる。
暖かい暖炉の前で銀杏の種を転がしながら、僕これが大好きなんだと子供のように笑った彼。
イールと違って彼の手は最初からテッドよりもずっと大きくて、弓を引くゴツゴツとした長い指が、器用に銀杏の殻を剥いていく様をじっと眺めていた。
別れはあれからすぐだった。雪が見たいと言った彼は、生涯雪の冷たさを知らないまま逝った。
(もうすぐ冬だ…)
日々気温が下がって行くにつれ、肌で実感する季節の移り変わり。
この町で冬を迎えるのは二度目だ。グレッグミンスターはあまり雪が降らず、その分肌を刺す風の冷たさは厳しい。世界と自分の境界線がなくなってしまうような夏の生ぬるい空気と違い、冬の冷気は自分が熱を持って生きている事を実感させてくれる。
まだ生きている。
命の理から外れてしまっても、自分の体は血の巡る生き物として生きている。
もうすぐ、愛しいあの寒さが来る。そしてその次には春が来る。希望と光に満ち溢れた、命の芽吹く春が。
自分に、最も相応しくない季節が。
「そろそろ戻ろうか」
夢中になって銀杏の実を拾い集めたお陰で、二人の袋は満杯になった。臭いが洩れないよう袋の口をきゅっと締め、更にビニールに入れる。手袋代わりのビニールは裏返して一緒に入れ、口を縛った。
「グレミオさんにお土産ができたな」
パンパンに膨れた袋をそれぞれ提げながら、屋敷までの道を並んで歩く。
「今日は屋敷に泊まってく?」
「うーん、仕事次第だなぁ。遅くなるかもしれないし」
「だったら余計においでよ。グレミオに、夕食テッドの分もって伝えておくから」
「お世話になります」
テッドを即陥落させた伝家の宝刀に、イールが笑った。



「それじゃ僕もお風呂行って来るね」
「ああ」
着替えを持ったイールが、テッドと入れ違いに部屋を出て行った。
濡れた髪をタオルでゴシゴシと拭き、ベッドに腰を下ろす。
テッドがマクドール家に泊まる時は、大抵イールの部屋に折りたたみベッドを持ち込んで使っている。だが今日は時間が遅くなったので、一緒にイールのベッドで眠る事にした。
イールが戻ってくるまでの時間つぶしにと辺りを見渡して、机の上にあった本を手に取る。
それはイールが課題の資料にしていた歴史書だった。パラリと表紙を捲ったところには、持ち主のサイン。
イーヴァル・マクドール。
イールというのは実は本名ではない。異国出身のテッドは、ヴァの音がどうしても発音できない。屋敷に来た当初、何度も修正を入れられたテッドが、
『お前の名前なんて短いので充分だ!』
とぶち切れて、イールという呼び名が生まれたのだ。
人は十歳までに耳にした音しか、発音することはできないのだという。この先どんなに練習しても、テッドはイールの本名を正しく呼べない。
グレミオを始め、周りの人々は勿論本名のイーヴァルで呼ぶ。イールと呼ぶのはテッドだけだ。
イールはそれを喜んでいる節があった。テッド以外の人間が口にするとあからさまに不機嫌そうな顔をするので、イールの名はテッドだけが使える特別な名前となった。
だが特別は裏を返せば排除だ。イールを取り巻く人々の中にテッドは入れない。テッドだけが「イーヴァル」に近づけない。
「‥イーバル‥イーブアル‥‥イー、バァル‥‥」
静かな部屋の中、テッドの押し殺した声が響く。
頭では判っていても、舌は言う事を聞かない。正しい音が耳に聞こえて来ない。
「‥‥くそっ」
苛立ちを声に出して、テッドは本を元の位置に戻した。その際、部屋の隅に立てかけて置いた己の武器が目に留まる。今日は仕事先からマクドール家に直行したため、弓を持って来ていた。
「‥‥」 
手に冷たい重い鉄の弓を掴み、テッドは再びベッドへと戻った。



暫くしてイールが部屋に戻ってくると、ベッドに横になっていたテッドがぴくりと動いた。
「寝てた?起こしてごめん」
「あ、ああ‥大丈夫‥」
寝ぼけ声でテッドが起き上がる。その手にはベッドに持ち込むには不適切な、黒光りする弓が握られていた。
「弓?武器を持って寝なくても、屋敷なら安全だよ」
「いや‥癖なんだ。弓を抱いて寝ると落ち着くから」
「そう‥」
イールの心がすっと冷える。つまりテッドは今、自分の身を守ってくれる弓を抱えていないと落ち着かない状態だという事だ。
イールと二人きりの、この状況が。
「‥テッドの弓って、テッドが使うには大きすぎるよね。表面は傷だらけで、かなり古そうだし‥新しい物にしないの?」
「これは‥形見なんだ」
「‥お祖父さんの?」
「いや。知り合いのだよ」
「‥へぇ」
テッドは過去を殆ど語らない。その彼が唯一話してくれたのは、幼い頃亡くなったという祖父のことだ。祖父に関してだけは、頑ななテッドの口も滑らかだった。
だがそれ以外は、はぐらかされて何も話しては貰えなかった。形見だというこの弓の前の持ち主の事を訊ねても、きっとイールが求める答えは返って来ないだろう。
「大切な、人だったんだね」
死んだ後も、テッドに縋って貰える位。
――自分はテッドの心にそれだけの物を残せるのだろうか。
「まあな‥」
テッドの瞳が遠くを見つめる。今、テッドの心はここにない。あの弓が本来の持ち主の手にあった頃に飛んでいる。
込み上げる感情を必死に抑え、イールは務めて平静を装って言った。
「そろそろ寝よう。悪いけど、弓は危ないからベッドから出してくれる?」
「ああ」
躊躇う素振りを見せるかと思ったが、予想に反してテッドはあっさりと弓をベッド脇に置いた。明かりを消してイールもその隣に潜り込む。
「お休み、テッド」
「お休み」
寝返りを打って、テッドがイールの方を向く。イールもテッドと向かい合うよう横向きになった。
間近にテッドの呼吸を感じながら、イールは静かに目を閉じる。
心に積もる澱は日に日に厚く、重くなっていく。
テッドにはまだ話していないが、来年の春にはイールは近衛隊に入隊する事が決まっている。帝国の為に働くのは、幼い頃からの夢だった。
ずっと、早く大人になりたいと思っていた。こんな子供のちっぽけな手ではなく、武器を握る大きな手が欲しいと思っていた。
だが今は‥大人になりたくないとも思う。
テッドがいずれ自分の前から姿を消すであろう事は、薄々気がついていた。
イールが二人の未来を語る時、テッドの答えはどこか他人事だった。いつかというあやふやな物ではなく、一、二年後の話ですら、「そうなるといいな」という希望論だった事を考えれば、テッドは恐らく来年にはイールの前から去るつもりなのだろう。
だとすれば、イールの入隊は間違いなくテッドの旅立ちのきっかけとなる。
成長を望む気持ちと、テッドを失う位なら子供のままでいいという気持ち、相反する感情の板ばさみとなり、イールの心はもうずっと苦悶に苛まれ続けている。
残された時間はごく僅かだ。冬が来て、春が来たら。イールの願いに関わらず、決別の日は訪れてしまう。
望みがあるとすれば、その日までにテッドがここに留まる理由をイールが作れるかどうかだった。
あの頑ななテッドが己の信条を曲げてまで、イールと共に在る事を選ぶだけの理由があれば。
――それがどれだけ難しいか、判っているけども。










ゲスト様に導入漫画を描いて頂き、私が続きを書くという一人アンソロ本「Connecting Link」より、漫画部分も小説に焼きなおして再録。
「課題、は」までがサナギさんの漫画でした。
キャラクターはゲスト様宅の子で書いています。私がどれだけキャラをつかめているか、愛が試された本でしたが、何とか皆様から及第点を頂けました(^^)

サナギさん宅は同人誌とチャットで設定を聞いたりで資料が揃っていて、とりあえず聞いた設定は全部盛り込みました。まだ本家で出ていないネタもたくさん入っています(笑)
サナギさんの設定は、「テッドだけが呼ぶ名前」とか「弓を抱いて寝ると落ち着く」など超萌えます。イールさんとうちのシオンは行動は違うんですが、思考はよく似ています。大人になりたいけどなりたくない理由なんて、まんま一緒。
サナギさんは唯一の「アルテド前提、でも終着点は坊テ」仲間なので、二人で坊テとアルテドを語り出すと止まりません(笑)テッドオンリーで合同スペを取った記念に再録です。



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