風が唸る。
冬の凍てつくような冷気を含んだものではなく、だが春というには冷たすぎる風が、凍えて赤くなった頬に吹きつける。 吐く息は白く煙ることなく、冷えた空気に融けていく。 前を歩く背中は、まるで寒さなど感じていないかのようだ。 いつも首に巻いている布が、風を孕んでふわりと巻き上がる。 風を切って進む肩は、時折見せる荒んだ目が不釣合いなほど幼い。 頭上には、一面絵の具をぶちまけたような濃い青一色のキャンパスが広がっている。 水平線に沈む太陽の最後の足掻きを残し、空はその姿を青から藍色へと変えようとしていた。 おかしなものだ。青は確かにそこに存在しているのに、太陽という光を失った目には、ただの暗闇としか映らなくなる。 同じように、目の前にあるのに見えないもの。 ほんの少しの明かりがあれば、きっとその姿は見えるのに。 例えばほら、この手にランプを掲げたならば。 彼が影から出て、月明りに姿を晒してくれたならば。 闇に紛れた彼の素顔を見る事が出来るのに。 「影踏みしようぜ〜。お前が鬼な」 僅かに振り返った顔が、影の中でにやっと笑う。 ひょいひょいと僅かな影を渡り歩いていく、今は自分よりも小さくなった背中。この先は開けた丘だ。もうすぐ影を作れる物が無くなる。全てが月明りに晒される。 どうするんだ? 隠れる場所がなくなったら、身を隠す場所がなくなったら。 逃げようとしているのか。それとも自分から逃げ道を塞いで、向かい合おうとしているのか。 「僕」過去と。 前を行くテッドが丘のてっぺんで立ち止まった。冷たく輝く半月に真上から照らされた影は、尾を引かずに足元に蹲っている。 「そこからどうするんだ?もう影はないぞ」 「さあ、どうするかなー」 彼は背中の方が素直だと思う。 今の言葉も、正面から笑顔と共に言われたらきっと誤魔化される。 嘘つきの癖に嘘をつくのが下手な彼は、誤魔化すのだけは上手いから厄介だ。 でも今自分に見えるのはテッドの後姿だけ。 寂しい。 気づいて欲しい。 近づかないで。 気がつかないで。 背中が訴える、相反する二つの感情はどちらも本当。 そんな彼の望みを叶えることは絶対にできないし、してやるつもりもない。 「お前の負けだっ」 まだ彼より小さかった頃のように、背中めがけて突進する。抱きしめるのではなく、触れないのではなく、ただここに自分が居ることだけを伝える。 「だあああっ!何しやがるっ。危ないだろうがっ!」 「影ふみだって自分が言ったんだろう。僕は鬼だから捕まえただけだっ」 「だからって突っ込んでくんなっ。あー、もう影ふみはやめだっ」 目にかかる長めのくせっ毛をくしゃりと掻きあげ、テッドがとんっと一歩踏み出した。光源が後ろに回った所為で、影が少しだけ長くなる。 「帰ろうぜ。腹減った。今日の晩飯何かな〜」 大きく伸びをしたテッドの後を早足で追い、横に並んで逃げられないよう手を握る。 捕まえていないと、すぐに彼は何処かに行こうとしてしまうから。 「そうだな。寒くなってきたし帰るぞ!こんな寒い日は温かいシチューがいい」 「えー?肉がいいって肉にくっ!」 力を入れていないのに、繋いだ手が二人の間でぶんぶんと揺れる。 「お前はいつも肉って言うな…」 振り払われない手が嬉しかった。 もう 日は暮れたよ おうちへ お帰り…… 家路へと続く道に伸びる、二つの影法師。
*赤い狸さんへ捧ぐ* 風が強くて寒い日は空が澄んでいてとても綺麗。 |