風紡ぐ



ばたばたと階段を駆け下りるけたたましい足音と、それに続く子供たちの笑い声。
「今日は町の南の方に行こうぜ。今が丁度桜の見頃なんだ」
「川沿いのあの桜並木だろっ。知ってる知ってる。花が咲いたら凄えだろうなーって思ってたんだっ」
玄関のすぐ傍の部屋で、テオが客人を迎えているとも知らず、二人は大声で楽しげな会話を続けている。
「ああ、凄いよ!風がぱぁっと吹くと、視界が全部ピンクで埋まるんだ。グレミオーっ。お弁当まだかー?」
「………今の声はサヤか?」
軽く目を見開き、確認するような声音にテオが苦笑した。
「ああ、サヤだ」
「驚いたな……サヤのあんな大きな声は初めて聞いたぞ。一緒にいるのは誰だ?子供のようだが」
「テッド君と言ってな、遠征先の村で身寄りも無く一人でいた所を、連れてきて引き取った。彼が来てからサヤは変わったんだ」
「そうか……」
客人が柔らかく微笑む。
帝国軍の将軍であるテオと対等の口をきくこの男は、テオのかつての同僚であり、古い友人だ。今はきままな旅暮らしだが、帝都にいた頃はちょくちょくマクドール家にも遊びに来ていたので、当然幼い頃のサヤを知っている。
「それは良かったな。あの子の人見知りの激しさは心配していたんだ。赤ん坊の頃からしょっちゅう顔を出していた俺にすら、あの子は慣れなかった。七つになっても、付き人の後ろに隠れている姿を見た時には、将来を心配したものだが…もう安心だな」
「慣れなかった訳ではない。恥ずかしかったのだ。その証拠にお前が帰った後は、いつも寂しそうにしていたぞ。テッド君が来てからは、遠征先に届くグレミオからの手紙は、吉報ばかりでな。人見知りの方もまだ完全には治ってはいないが、少なくとも彼が傍に居れば、初対面の相手の前でも人の陰に隠れることはなくなったらしい。私も帰ってきて驚いた。あの口数の少ないサヤが、留守の間の事を実に楽しそうに語ってくれたのだ。お前も聞いただろう?テッド君と一緒の時のあれは、今までが嘘のようによく喋る」
「ようやく本来の姿を取り戻したという訳だな」
客人は父親であるテオに負けない位自愛に満ちた眼差しで、向こう側にサヤがいるであろう扉を見やった。
彼には妻も子もいない。出産の際妻に先立たれ、男手一つで赤ん坊を育てる友人に何かと手を貸していた彼にとっても、サヤは息子のような存在なのだ。
「サヤを呼ぶか?サヤが出かけて帰ってくる頃には、お前はもう出発しているのだろう。それとも一日位泊まって、旅の話を肴に酒でも交わすか」
「酒は遠慮しておく。旅の生活に慣れてしまうと、どうも都は居心地が悪い。一刻も早く自由気ままな旅生活に戻りたくなる。昔は俺もここに居たのだがな。今日は旧友の顔を拝みに来ただけだ。お互いいつ今生の別れになるか判らんからな」
「二太刀いらずのゲオルグ・プライムが弱気な事を言う。それとも私の事を言っているのか?」
「どちらもさ。何があるか判らないのが人生というものだろう?戦で死ぬのだけが全てではない。事故しかり、病しかり。己が死から遠い存在であるとは思わんよ」
かつて帝国六将軍として共に名を轟かせたゲオルグは、あの頃と同じ顔で笑って言った。
切り込み隊長である彼の背を追うのは心強かった。人の群れの中で、舞うように煌く刃。公私どちらの面でも、頼もしい友だった。
「だが成長したサヤには会いたい。サヤを変えたテッドという少年にもな」
「判った」
立ち上がり、テオは廊下へと通じる扉を開けた。丁度グレミオが出来上がった弁当を渡しているところで、物音に振り返った二人と目が合った。
「あ、父さん」
「こんにちはー、テオ様っ」
「出かけるところを悪いが、二人に紹介したい人物がいるのだ。少しいいだろうか?」
「全然平気ですよー。まだ時間は早いですからっ。紹介したいって俺もですか?」
「ああ、サヤとテッド君、二人ともだ。ではこちらへ」
サヤの顔に緊張が走ったのを、テオは見逃さなかった。
だがテッドがサヤの手を取ると、強張っていた表情がふっと緩む。その後はもうサヤの態度は元に戻っていた。
その瞬間を目の当たりにし、テオは胸が熱くなった。
テッドへの信頼が、サヤから脅えを取り除いたのだ。テッドが傍にいれば大丈夫。絶対的な信頼。
テッドが息子を変えてくれた。息子に心からの笑顔を与えてくれた。
「紹介しよう。友人のゲオルグ・プライムだ。お前が小さい頃よく面倒を見てくれたのだが、覚えているか?サヤ」
「大きくなったな、サヤ」
「ゲオルグさんっ!?」
サヤとテッドが出かけた後、この瞬間の事をテオとゲオルグは興奮した面持ちで何度も語り合った。
ゲオルグの記憶の中そのままの、黒い髪、深い緑の瞳。だがおどおどとした態度はどこにも無く、やや吊り目の大きな瞳を輝かせ、頬を紅潮させてゲオルグを見つめて来た。
「わあっ、本当にゲオルグさんだ!父さん、どうして早く教えてくれなかったんだよっ。お久しぶりです、ゲオルグさん。テッド、この人はね、俺が父さんの次に尊敬する人なんだっ。凄く強くて、剣を振るう様は本当に格好いいんだよ!」
「知ってるさっ。二太刀いらずのゲオルグと言えば有名だかんなっ。初めまして、俺はテッドです!テオ様の所で厄介になってますっ」
今にも飛びつきそうな勢いで、二人はゲオルグの元に駆け寄った。予想外の反応に、ゲオルグもテオも目を丸くしている。
「ずっと旅をしているんでしょう?今までどこに居たんですか?いつまで居られるんです?」
「いや、その………」
「俺は噂の剣裁きが見たいですっ。すっげぇなあ。テオ様もだけど、こんな凄い人と知り合いなんて、この家に来て本当良かったなー」
二人の期待に満ちた眼差しに、ゲオルグも「すぐに発つ」とは言えなくなった。しどろもどろに、今日は世話になると言うと、二人から歓声が上がった。
「やったあっ!じゃあ今夜は旅の話聞かせて下さいねっ。剣舞も見せてもらえますか?」
「あ、ああ…」
「サヤ、サヤ。俺今日お屋敷に泊めてもらうなっ。いいだろ」
「勿論だよテッドっ。あ、今お話中だったんですよね。お邪魔しました。俺たちこれから花見に行くんです。枝が落ちていたら、土産に持って帰って来ますねっ」
「土産はいいから、気をつけて行ってくるんだぞ」
「はーいっ」
勢いよく一礼し、扉の向こうで待っていたグレミオから弁当を受け取り、二人は先ほど以上の歓声を上げて、外に飛び出して行った。
残された二人は呆然としている。小さな台風が過ぎた後のようだ。
「…あれがあの、おとなしかったサヤなのか?」
「…その筈、なんだが…」
「父親だろう。なんだ、その自信がなさそうな声は」
「私だってずっと遠征続きで、先日帰ってきたばかりなんだ。ましてや二人が親しくなってから一緒の所は初めて見たのだし…」
廊下で、紹介したい人物がいると伝えた時のサヤの表情は、昔から見慣れたものだった。
だが実際に対面した時のあの顔はどうだ。人見知りの影など欠片もない。むしろ人懐っこいと言える態度。
グレミオからの手紙で、サヤの変化はある程度理解していたつもりだったが、まさかここまでとは思わなかった。嬉しすぎる誤算だ。
「…お前のことを尊敬していたらしいぞ。ゲオルグ」
「だってな。初めて聞いたぞ。…そうか、嫌われているのかと思っていたが、好いててくれたんだな…」
「だからそう言ったではないか」
「ようやく実感できた」
ゲオルグを見た瞬間の、嬉しそうな顔。あの顔がサヤの心の全てを語ってくれている。
「さて、出発が延びたな。夜は寝物語をするのだろう。子供たちが帰ってくるまで旧交を深めるか?」
「こうなったらとことん付き合おう。だが真昼間から酒というのも外聞が悪い。ここはチーズケーキとお茶と行こうではないか」
「……私はチーズケーキは遠慮する」
温かい日差しが差し込む春の日。
久しぶりに再会した友人同士は、息子と言える存在の成長を喜ぶと共に、彼に素晴らしい友人を遣わしてくれた神に感謝したのだった。


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