風紡ぐ2



草原と風の国、グラスランド。
ここには町に住む人々が忘れてしまったものが、今も残っている。
自然と共に生き、自然の一部として生きる人々。


「ほう、赤月帝国から参られたのか。いい時期だったな。あと二年も早ければ、デュナン地方は戦争真っ只中で、国を抜けるのは一苦労だっただろう。我らもあの戦争には参加していたのでな、当時であればこのようにもてなす事もできなかった。異国からの旅人は久しぶりだ。歓迎しよう」
「ありがとう、ルシア族長」 
年上の方の旅人が、深々と頭を下げ礼を言った。 
族長であり母である女の膝の上では、まだ二つにも満たない子供が、戦闘民族カラヤの子供らしく木彫りのカラヤ馬の玩具で遊んでいる。微笑ましい光景だ。
「ここはグラスランド一の戦士のクランだ。滞在中の身の安全は保障する。まずは茶でも飲んで、楽にするといい」
背筋をぴんっと伸ばし、緊張した面持ちで座っている青年に、ルシアが柔らかく微笑む。
胡坐をかいて、とっくに寛いでいる隣の少年とは対照的だ。
「では失礼して」 
青年が足を崩した時の、あからさまなほっとした顔に、ルシアの好感度が上がる。
黒い髪に、新緑を思わせる澄んだ緑の瞳。真っ直ぐで意思の強そうな青年の瞳は、草原の民とよく似ている。
赤月帝国といえば、鍛えられた軍と大都市を抱える大国だ。ルシア自身は行ったことがないが、ハイランドと似たような習慣の国だと聞いている。皇帝に忠誠と誇りを捧げる騎士たち。
物腰からして、青年が上流階級の出であることは見て取れた。
だが青年はルシアの知る貴族とは、似ても似つかぬ雰囲気を持っていた。統一戦争時代、ハイランドで見た貴族たちは、皆死んだような目をしていた。あの覇気に溢れたルカでさえ、目は「生きて」いなかった。
続く戦乱で疲れていただけかもしれない。だがルシアは町を散策したりしているうちに、ハイランドという国全体に違和感を覚えた。
――おそらく、戦がなくてもこの国の人間の目は死んでいるに違いない。
グラスランドであれば、幼い子供から年寄りまで当たり前のように持っている、生命力に満ち溢れた瞳。戦に直接関係ない、平民の子供にすらそれが見られないのは、この国が「死んで」いるからだとルシアは思った。
だが目の前のこの青年の目は、グラスランドの民に負けない位輝いている。
そして隣の少年。彼はまるで草原そのもののように思えた。
精霊の加護篤いグラスランドの者でも、こんな透明感のある空気を纏う者はいない。ルシアは益々この二人に興味を持った。
「そういえばまだ名前を聞いていなかったな」
「ああ、失礼。俺はサヤ・マクドールと言います」
「テッドです」
「兄弟ではないな。不躾だが、どういう関係なのだ?」
二十歳そこそこの貴族と、十三、四の平民の子供。主従というには、二人の間の空気が近い。
「親友です」
訊かれ慣れた質問なのだろう。笑ってサヤが答えた。
親友という響きに、ルシアは再び己が知る貴族を思い出す。
親友と敵味方に分かれ、戦っていた若き皇王。彼の親友も平民出だと言っていた。階級というものに馴染みの薄いルシアだが、貴族社会では身分の違うもの同士が友となるのは、まれである事は知っていた。
「随分年の離れた親友だな。互いに二十五も過ぎれば、ある程度の年の差など関係なくなるが、その年でとは」
ルシアの尤もな疑問に、二人がおかしそうに笑った。
「?…まあいい。さあ、冷めないうちに飲んでくれ。異国の者の口に合うかどうかは判らないが」
「はい、いただきます」
先ほど少女が運んできてくれたお茶は、まだ微かに湯気を立てている。 
族長との対面に失礼と、武器とマントは家の入り口に置いてあるが、その他の装備はそのままだった。サヤはつけっぱなしだった手袋を外し、お茶を一口ごくりと飲んだ。
「……っ……」
「辛かったか?」
どうやらテッドは、カラヤのお茶がどういうものか知っているらしい。吐き出すことも出来ず、目を白黒させているサヤの背中を笑いながらぽんぽん叩き、それから自分も左手の手袋を外した。
「テッドっ」
咳き込むのも忘れ叫んだサヤに、大丈夫と微笑んで、テッドは続けて右手の手袋も外した。グラスランドは気温が高いので、手袋の下に包帯はしていなかった。
子供らしい滑らかな肌には不似合いな、不気味な形をした紋章を宿した手で器を取り、ゆっくりと口に含む。
「ほう…見慣れぬ紋章だな」
「真の紋章だよ」
「真の紋章は世界に27しかないと言うが、結構お目にかかれるものなのだな。真の紋章を見たのはこれで四度目だ。いや、輝く盾と黒き刃は真とは言わないのか…」
「大きな戦争に参加すりゃ大抵拝めるぜ。グラスランドにも真の火があったんだろ?」
「35年程前のハルモニアとの戦いで、持ち主の炎の英雄と共に行方知れずだ。その頃は、残念ながら私はまだ生まれていないかった。その紋章の名は?」
「生と死を司る紋章。通り名はソウルイーターだ」
世間話のように淡々と進む会話に呆けているサヤに向かって、テッドが微笑んだ。
「サヤ。ここの人たちは真の紋章だからって気にしねえよ。そんなものに縛られているのは、自然を忘れ、精霊を忘れた奴らだけだ」 
「そうなのか…?」
そうは言われても、ここに来るまでの旅の途中、ずっと紋章の事をひた隠しにして来たサヤは、どうも落ち着かない。
「安心するがいい。テッドが真の紋章を持っているからとて、奪おうなどという輩はカラヤにはいない。必要以上に恐れる者も、白い目で見る者もいない。むしろ真の紋章を持つ者は英雄扱いされる。そうか、それで得心がいった。テッド、お前は紋章を宿して長いな?保護者はサヤではなくお前の方だったという訳か」
「おうっ、長いも長い。三百歳だぜ〜」
「保護者って、ルシア族長っ!俺はあなたと大差ないんだぞっ」
子供がいるとは言え、ルシアはせいぜいまだ二十台前半だ。
いくつも変わらない女に子ども扱いされては、サヤのプライドはかたなしだ。
「三百歳か。それは見事な狸爺だな。その外見では酒も中々手に入れにくかろう。こちらはいける口か?」
くいっと杯を傾ける真似をする。サヤの言葉はすっかり無視だ。
「カラヤの酒はきついって有名だからな〜。是非相伴に預かりたいね」
「……テッド…」
がっくりと肩を落とすサヤの足に、いつ間にかルシアの子供がまとわり付いていた。金の髪の毛先に黒が混じった不思議な色の髪を持つ、ルシアに良く似た男の子だ。
「……あー……あ?」
「こらヒューゴ、いつの間に。目を離すとすぐどこかに行ってしまう。全く腕白坊主だよ」
「ヒューゴって言うのか。よろしくな」
サヤが膝の上に抱え上げると、嬉しそうにきゃっきゃっと笑う。
「ほう、子供の扱いに慣れているな。いい父親になれるぞ、サヤ」
「去年俺に弟が生まれて、暫くグレッグミンスターに帰って面倒みたりしてたから。子供は一杯欲しいなあ。子供たちがばたばた走り回るような、大家族が夢なんだ」
話しながらも、ヒューゴの小さな手を取って手をぱちんと合わせたり擽ったりと、サヤの手は止まらない。
「こいつ弟にメロメロだったんだよ。兄バカ」
「何だよっ、テッドだって凄い可愛がってただろーっ。一度抱っこすると中々返してくれなくてさっ」
「サヤのまんまチビバージョンで可愛くってな〜」
「何ならヒューゴの父親になるか?これの父親は先の戦で命を落としていてな。お前なら私もやぶさかでは無い」
「えっ……」
真っ赤になって固まってしまったサヤに、ルシアが堪えきれずに大笑いする。
「あはははっ。冗談だよ。私は年下趣味はないからね。さあ夕食の支度が出来るまで休むといい。アンヌ、客人を案内してくれるかい?」
「はい、族長」
ルシアが軽く手を叩くと、先ほどお茶を持ってきた女の子が室内に入ってきた。




宿となる家へ案内しようとしたアンヌに、サヤは「草原が見たいから、見晴らしのいい場所に連れて行って欲しい」と頼んだ。
高台の上は流石に風が強く、風を孕んでマントがばさばさとはためく。ここではマントは邪魔ですよ、とアンヌは二人のマントを預かって、一足先に村に戻って行った。
その小さな背を見送り、サヤは草原を一望できる丘に腰を下ろした。
「テッドと知り合ってもう八年か…早いな」
「最初はお前もちっこくて可愛かったのにな〜。ニョキニョキ伸びて、今はこーんなだもんな。益々テオ様に似てきたな」
テッドは風に揺れるバンダナを引っ張って外し、普段見上げるばかりの頭を久しぶりに見下ろすと、渦に合わせてくるくると巻いた。
普通よりやや後ろにあるサヤのつむじ。まだテッドの方が背が高かった頃は、よくこのつむじを突付いて遊んだものだ。
「この前測ったら、180cmあった。父さんを越えるのもあと少しだ」
「もう俺と頭一つ分以上差があるもんな。本当にでっかくなったよなあ…」
呟いて、テッドもサヤの隣に腰を下ろした。
太陽をたっぷりと浴びた濃い草の匂いを含んだ風が、二人の心を懐かしい過去へと誘っていく。


サヤが初めてバルバロッサに謁見した日。
城から帰ったサヤを出迎え、質問攻めにしたテッドは、ふと真顔になって言った。
「なあ、サヤは約束を守れるよな?」
「約束?」
夕食を呼ぶ声にそこで話題は一旦中断したものの、その時のテッドの表情がひどく気になった。
何かを言いたいような、だが口に出すのを恐れているような。  
「さっきの続き、約束を守れるかってどういう事?」
食後にサヤの部屋で二人きりになると、今度はサヤの方から話を切り出した。
「いや…、ははは…何て言うのかな…」
視線を空へとやり。
暫くして、決意したようにサヤへと向き直った。
そしてもう一度、同じ問いを投げかける。
「サヤ…お前は秘密を守れるよな」
テッドは何か大切な事を打ち明けようとしている――。
サヤは姿勢を正すと、まっすぐテッドを見返した。
「うん、テッドが秘密にしてほしいっていうんなら絶対言わない。……秘密って?」
テッドが微笑む。サヤの言葉で心は固まったようだった。
「…サヤ……お前だけに話すよ」
室内でも滅多に外そうとしなかった手袋を外し、テッドは続いてその下の包帯をも解き始めた。包帯姿は今までも見たことがあったが、素手を見るのは初めてだ。
やがて右手を覆っていたものがすっかり取り払われると、テッドは手の甲を上に向けてサヤに差し出した。
火傷と聞いていた掌は、綺麗だった。代わりにそこにあったのは。
「…紋章?でもこんな紋章見たことない。この紋章は一体…」
まるで鎌を持った死神のようなその形。
テッドが自分に嘘を吐いていたと言うだけでも驚きなのに、更に隠していた理由が見知らぬ紋章とあって、サヤの心が不安に揺れる。サヤの目から隠すように、テッドは左手で紋章を覆った。
「これは27の真の紋章の一つ…「ソウルイーター」…呪いの紋章だ。俺はこの紋章を狙う奴らに追われつつ、300年生きてきた。俺の体は成長しない。だから周りに不審に思われないよう一つの場所に留まる時間が限られてる。サヤ…お前だけには俺のことを話しておきたくて」
「それを今俺に言ったって事は、近いうちに出て行くつもりなのか…?」
責めるでもなく、感情を高ぶらせるでもない。静かな口調だった。
「……ああ。サヤたちに迷惑をかけられない…。決めてたんだ。お前の身長が俺を超えるまでって…。大きくなったな、サヤ…」
見つめてくる視線は、サヤよりやや低い。
「……俺、ずっとテッドの背を越えたいって思ってた…」
なのにその背を越えた時が、別れの時だなんて。
頭の中に、テッドと過ごした日々が次々と浮かんで来る。
『去年の今頃より6cmも伸びたんだっ。やっとテッドに並んだぜ。追い抜くのも時間の問題だなっ』
『ははっ、まだまだ抜かせねえよ』
成長することのないテッドは、あの時の自分の言葉をどんな気持ちで聞いたのだろう。
『早く大人になりたいよ。ガキのままじゃ何もできないんだもんな』
『焦んなくっても大人になるのなんざ、あっという間だって』
知らない事で、自分はどれだけテッドを傷つけてきたのだろう。
こんなことなら、背なんか伸びなければ良かった。
いつまでも子供のままでいれば良かった。そうすればテッドとずっと一緒に居られたのに。
そこである可能性を思いついて、サヤは顔を上げた。
「テッドが気にしてるのは、年を取らないからここにいられないって事だよな?」
テッドが頷く。
「俺が嫌になったわけじゃないよな?」
「当たり前だろ」
即答に、サヤの顔に柔らかな安堵が浮かぶ。
「だったらいい。さよならする必要はない。俺も…テッドと一緒に行くよ」
「サヤ…お前…」
テッドが絶句した。目が喜びに輝いたのも束の間、すぐに諦めに覆い隠され。
「サヤ…お前の気持ちは嬉しいよ。でもお前を大切に思ってくれる人たちはどうするんだ?俺も危険と判っている旅に連れて行くことは出来ない…」
だがサヤの心は揺るがない。
「俺は父さんを好きだし尊敬もしてるけど、父さんのように軍人になりたいとは思わない。どんな大義名分を掲げたって人を殺すことに変わりはない。でもそれ以外の道は思いつかなくて、言われるまま軍に入ったけど……今テッドの話を聞いて、やっとやりたい事を見つけた。俺も世界を見てみたい。紋章がどう世界に関わってくるのかこの目で確かめたいんだ」
テッドをこの町に引き止める事はできなかった。父や家人たちは気にしないだろうが、テッドも言ったように成長しない子供は噂に上る。真の紋章持ちは特別な人間なのだという認識は、サヤにもあった。歴史の本を紐解けば、必ず出てくる真の紋章の存在。
真の紋章の元には人が集まる。いい意味でも、悪い意味でも。
門の紋章を持つが故に滅ぼされた門の紋章一族、群島諸国に伝わる罰の紋章の伝説、グラスランドで起きた真の火の紋章の暴走、宿主の人格を歪めるというファレナ女王国の太陽の紋章。
真の紋章は、持ち主を否応無しに歴史のうねりに巻き込む。
テッドがそれを望まないのはよく判っていた。だから彼は旅を続けて来たのだ。紋章を手袋の下に隠し、一所に留まらず、町から町へと。
テッドはこの町にいられない。かといってこのまま別れたくもない。ならば。
共に行けばいい。テッドを引き止めるのではなく、自分が彼について行こう。
ずっと心に蟠っていた想いも、サヤの背を押した。このまま漠然と決められたレールに乗って軍に居続ければ、嫌だと思いつつも、いずれは人を殺すことに躊躇いを感じなくなっていくだろう。
父の庇護下、守られた場所でそんな風に自分の心を偽って生きるより、本当にしたいことに向かって一歩を踏み出そう。
たった一度きりの人生だ。後悔はしたくない。
一人では無理かもしれない。だがテッドと一緒なら。きっとどこまでも行ける。それこそ世界の果てまでだって。
心を預けられる友達と一緒なら、どんな困難にも立ち向かえる。
そうテッドが教えてくれた。
「俺はもう子供じゃないよ。テッドが駄目だって言ったって勝手に付いていくからな」
「サヤ……っ!」
強く抱きしめられ、サヤは自分の肩に顔を埋めているテッドの背をそっと撫でた。
小さな肩だった。この肩で、テッドは300年も生きてきたのか。周りの人が自分を置いて死んでいくのを見つめながら、たった一人で。
「……判った。一緒に行こうな。俺もサヤと旅をしたいよ。でもテオ様やグレミオさんにはちゃんと話すって約束しろよ?」
「勿論話すよ。止められてもちゃんと説得する。黙って出て行くような真似はしないから」
家族の説得が最初の壁だ。これを越えなければ、テッドと旅なんて夢の夢だ。
「サヤと旅か…考えもしなかったな」
「そう?俺は前から考えてたよ。テッドと旅をしたら楽しいだろうって」
それはずっと先の話だろうとは思っていたけれど。
少しだけ時期が早まっただけだ。テッドが秘密を打ち明けてくれたお陰で、サヤの世界は開けたのだ。
それぞれに複雑な思いを抱えながら眠りについた夜半、片方のベッドに寝ていた人物がむくりと起き上がる。
布団を退けベッドを降りると、窓際に置かれたもう一つのベッドに近づき、枕元に屈みこんだ。
「何で…何でテッドなんだよ……」
低い消え入りそうな声が、暗闇に溶けた。
テッドの布団の裾を握り締める手の平に、ぽつんと涙が落ちる。
「初めての友達が真の紋章持ちなんて出来すぎだろ……何でテッドがそんな運命を背負わなくちゃいけないんだよ……どうしてっ!」
テッドの前では必死に堪えていた分、止まらなかった。後から後から滝のように大粒の涙が零れだす。
テッドが背負う運命の重さへの憤りと、それを恨むことなく受け入れたテッドへの尊敬と、彼と同じ時を生きることが出来ない悔しさがごちゃまぜになって、涙となって溢れてくる。
「俺、テッドの傍にいるから。ずっと一緒だから…」
ぐすっと鼻をすすり、眠っているテッドに誓う。テッドの前では、決して涙は見せない。明日になったら、またいつものように笑うから。
彼が深い眠りについている今この時だけは、感情のままに泣くことを許して欲しい。
その後、眠りについたサヤの頬に残る涙の痕を、拭う指があった事を、サヤは知らない。


翌朝、まだ寝ているテッドを残して父の部屋に向かい、サヤは己の気持ちをテオに打ち明けた。
サヤは既に皇帝への謁見を済ませており、正式に軍に登録されている。除隊するのであれば、少しでも早い方がいい。
来訪するには早い時間だったが、テオは既に起きていた。朝一番に聞かされるには衝撃的な内容に始めは驚いたものの、サヤの決心が固いことを知ると、最後には頷いてくれた。
「あの人見知りの激しかったお前が、こんな風に自分の意見を言えるようになったとはな…。テッド君がお前を変えてくれたんだな。今度はお前がテッド君の助けになってやるんだぞ」
「ああ。ありがとう、父さん!」
それから暫くして、二人は旅立った。約束どおり、家族の了承を得、皆に見送られる形での旅立ちだった。


「また近いうちにグレッグミンスターに行くか?そろそろチビも武器を持ち始める頃だよな。お前、弟にも棍を習わせたいって言ってなかったっけ」
「棍の方はカイが見てくれてると思うよ。そうだな、そろそろ5つになるもんな。顔見たいかも」
「俺たちがいなくなってすぐソニアさんと結婚!だもんな。そいで翌年には子供誕生だろ。テオ様もやるね〜」
「俺が勧めたんだよ。父さんもずっと一人だったし、邪魔者もいなくなる訳だし。父さんには幸せになってもらいたかったんだ」
サヤがやや照れくさそうに笑う。
テオとソニアの仲は前から知っていたが、母を裏切られたような気がして中々認めることが出来なかったサヤだった。
だがテッドと旅立つ事を告げた日、サヤは素直に父を祝福することが出来たのだ。父に寄り添ってくれる人がいたことを喜んだのだ。
振り返ってみても思う。あれは自分にとって、人生の転機だった。あの日テッドが紋章の事を打ち明けてくれなかったら、今頃全く違う人生を歩んでいたに違いない。
更に、テッドが、父が同行を許してくれなかったら、今のサヤは居なかった。誰よりも大切なこの二人に、心からの感謝を贈りたい。
「本当は父さんは旅立ちに反対だったと思うんだ。入隊した直後の上、子供だけで旅に出るなんて。実際グレミオには猛反対されたしな。テッドが真の紋章のことを皆にも話してくれなかったら、きっとグレミオはどこまでも付いて来ただろうな」
「あの時のグレミオさん、物凄い剣幕だったもんなあ。こりゃちゃんと説明しないと無理だと思ってさ。まあ一般的に見て、子供だけで旅に出るなんて確かに無謀だし。マクドール家には絶対また遊びに来たかったから、嘘ついたままって訳にはいかなかったしな」
「それに俺は知らなかったけど、あの当時、解放軍と名乗る奴らが帝国に弓引いていて、いつ暴動が起きてもおかしくない危険な状態だった。確かに帝国の政治は、馬鹿な官吏たちのお陰で乱れまくってた。グレッグミンスターから離れてみてよく判ったよ。黄金の皇帝と呼ばれたバルバロッサ様の名は、帝都を離れれば離れるほど、悪名になっていた」
次々と耳にする悪い噂に、途中で何度、引き返そうと思ったか判らない。
これらの噂を将軍である父が知らない筈がない。父は知っていて送り出してくれたのだ。国の事は気にせず、自分の道を歩めと言ってくれたのだ。
親不孝を詫びながら、サヤは国に背を向けた。テッドと共に在る事を選んだ。
「解放軍の方は率いていたリーダーが途中で命を落とし、その後なし崩しに解散したみたいだけど……もしウインディ様が、皇妃様を亡くされ傷ついたバルバロッサ様の心を慰めて下さらなかったら、いずれ帝国は滅んでいたに違いない」
「そうだな……」
夕日を受けて金色に輝く草原の海を眺め、テッドは静かに呟いた。
サヤはウインディがテッドの村を滅ぼした張本人であることを知らない。
風の噂でウィンディが皇妃になったと知った時は、赤月帝国を乗っ取るつもりかと焦ったが、その後二人の間に世継ぎが生まれ、国が安定したと聞き安堵した。
彼女もようやく、過去の呪縛から解放されたのだ。
復讐よりも、一人の女として生きる方が幸せだ。伴侶を得、皇帝も再び国に目を向けることが出来るようになった。
もしグレッグミンスターに居る時に、ウインディにテッドの存在が気づかれていたら、彼女は間違いなくテッドを追って来ただろう。そうしたらサヤと二人での旅などできる筈がなかった。本当に運が良かったのだ。
どれか一つでも違えていたら、あり得なかった現在。