霧の宴



目を開くと見慣れた天井があった。
少しの間ぼんやりとそれを眺め――暫くして眠りにつく前何があったのかを思い出す。
本当なら、こことは違う天井を眺めているはずだった。
(テッド……)
昨夜テッドの家に初めて泊まりに行き、無茶をして数年ぶりに発作を起こしたのだ。もうすっかり治ったと思っていたのに、喘息は未だにソフォスを苦しめる。
発作の原因はテッドだった。
テッドが真夜中にふらふらと家を出て行ったりするから、テッドを探して夜の町を彷徨った所為で発作を起こした。
咳き込むソフォスの隣で、珍しく弱気な態度を見せたテッドに、元気を出させようとかけた言葉は完全に拒否され。
溢れてきた涙が、発作を激しくした。
「バカヤロ、大人しくしてろ。グレミオさん呼んできてやるから」
今のテッドの心そのもののように、硬く閉じられたと扉の向こうで、テッドの怒鳴る声が聞こえる。続いて、がんっと扉を殴る音。苛立ちが音を通じて伝わってくる。
「いいか、動くなよ!!」
怒号を残し、足音が遠のいて行く。扉はとうとう開かれることのないまま。
「グ……ミオ…は…だ、め……」
這うようにしてたどり着いた扉を開けても、もうテッドの姿はない。
屋敷までは走ればすぐだ。もうすぐグレミオがテッドに連れられて来る。こんな姿を見たら、グレミオは二度とお目付けなしのお泊りは許してくれないだろう。
「……なきゃ……」
ふらふらしながらベッドに戻り、必死に呼吸を整える。グレミオが来る前に、少しでも発作を抑えておかなければ。
連れ戻されたくはない。
こんな形で終わらせたくはない。
折角テッドの心を少しだけ覗くことが出来たのに。
今日のテッドはいつもと違っていた。咳き込むソフォスのベッドの脇に背を預け、顔を見ないように――見られないようにして呟いた言葉は本物で。
オレを知ろうと思うな。
もう少し、オレはここにいたい。
お前がオレを追い出すことはしないでくれ。
声は単調だったが、そこに込められた想いが言葉に哀願の響きを持たせた。
偽りの笑顔と嘘で塗り固められたテッドの本心が、ほんの少しだけ見えた一言。それらはすぐにまた、大人びた「諦め」に覆い隠されてしまった。
呼吸が整う前に、ばたばたという二人分の激しい足音が近づいてきた。
荒々しくドアが開く。青ざめたグレミオの顔。
「坊ちゃん!」
どうして終わりはこんなにもあっけないのか。
苦しい息の下、まだ帰らないと駄々をこねるソフォスを、グレミオは持ってきた毛布で包み有無を言わさず抱えあげた。一言二言テッドと言葉を交わし、テッドの家を後にする。
テッドはソフォスの顔を見ようとはしなかった。



***


裏口からの訪問者を見送った後、いつもよりやや遅くなった朝食をトレイに乗せ、主の部屋まで運ぶ。
昨夜は遅かったため、まだ寝ているかもしれないと控えめにしたノックに、応えはすぐ返ってきた。
ベッドの上で半身を起こし、静かに窓の外を眺めている主の横顔。
見慣れてしまった光景。
最近は殆どお目にかかることはなかったが、以前は当たり前だった光景。
一瞬の動揺を飲み込み、グレミオは努めて明るく言った。
「おはようございます、坊ちゃん。調子はどうですか。朝食を持ってきましたよ」
「もうすっかり平気だ。わざわざ部屋に持ってこなくても、呼べば広間に行ったのに」
顔は窓の外に向けられたまま、ちらりと目だけがグレミオを捉え、すぐに元に戻る。
トレイをテーブルに置いても、主の視線は一向に窓から離れようとはしなかった。
その態度で、ああ、かなり機嫌を損ねてしまったなと思う。あれほど楽しみにしていたお泊りを途中で中断されたのだ。発作が原因とはいえ、無理に連れ帰った自分を快く思っていなくとも仕方はない。
「すみません。でもこちらの方が落ち着けるでしょう?お部屋ならグレミオしかいませんから」
広間に行けば、否応無しにパーンやクレオと顔を合わせる。下手な慰めや労りは、今の主にとって煩わしいものでしかないだろう。
自分の意図が伝わったのか、ソフォスがようやくしっかりとグレミオを見た。ほっとしてグレミオは食事にかけてあった埃よけを取り去った。
「さ、温かいうちに召し上がってください。お腹が空いたでしょう?」
「……うん」
ベッドから降り、トレイの乗せられたテーブルに移動してくる。いただきますをした後は、黙ってもくもくと食べ物を口に運ぶ姿には、やはりいつもの覇気がない。
向かいに腰掛け、食事の様子を眺めながら、ふと疑問に思う。
(昨夜は一体何があったのだろう)
カイとあれだけ激しい稽古をしても平気になったソフォスが、ただのお泊りであれだけひどい発作を起こすとは信じられなかった。
原因を知っているであろうテッドも、昨夜はばたばたしていたし、今朝もすぐに帰ってしまったので訊きそびれてしまった。彼の態度で、彼が原因の一旦を担っているのは判ったが。
発作を起こし、激しく咳き込む主の頬に残っていた涙の跡。これは発作の後についたものなのか。
それとも…。
「ご馳走様」
皿の上のものを全て食べ終えたソフォスが、スプーンを置いた。
「はい、お粗末さまでした。今お茶を淹れますね」
普段なら食後すぐに席を立とうとする彼を引き止めるためにお茶を淹れるのだが、今日は慌てる必要はないらしい。
用意をしている間、主は再び窓の外に視線を戻している。
昔、ちょっとのことですぐ熱を出していた頃、彼はよくこうやって空を眺めていた。放って置けば何時間も窓にへばりついているので、何がそんなに面白いのかと問うと、「空と鳥」という返事が返ってきた。空の青さと流れる雲と、その中を飛んでいく鳥の姿を見ているのだと。
自由にどこへでも行ける鳥と、飛べない自分。
動けないもどかしさ、苛立ち。
普段不満や苦痛を口にしない分、それらの短い言葉から押し込めた彼の心の内がひしひしと伝わってきて、かける言葉が見つからず、ただ抱きしめることしか出来なかった。
健康になるにつれて彼のこの癖は鳴りを潜め、(稽古に明け暮れ、そんな暇もなくなったのだが)テッドが来てからは全く見られなくなっていた。それがここに来て再び現れるとは。
テッドという名以外、素性も経歴も何も判らない少年。テオが彼を連れて来たとき、主と上手くやって行けるのか正直心配だった。大人の、しかも自分に付き従う者たちの中で育ったソフォスの態度は、同年代の子供にはひどく傲慢に感じられるだろう。病気がちでつい我侭を許してしまっていたのが、生来の癇の強さに拍車をかけている。
彼がソフォスに対して使用人の態度を取るならば問題ないだろうが、それではテオや自分が期待する関係は望めない。
だが彼はソフォスの我侭をさらりとかわし、長年屋敷で禁句だったソフィの愛称で呼び、身分の差にひるむことなく対等に接してくれた。主は愛称で呼ばれる事を嫌がってはいるが、本気で嫌なら力ずくでも口を閉じさせているはずだ。それだけの棍の腕と、気性の激しさを主は持っている。
それをしないのは許しているからだ。
唯一彼にだけは。
おそらく本人に自覚はないだろう。呼ばれた時の嫌そうな顔は本物で、決して表面的なものではない。
ただそれに伴うテッドとの子供じみた言い合いは、楽しんでいるのだろうと思う。
――ソフィって呼ぶなっ
――やーだねっ。
毎度毎度同じ事で言い争う彼らは、まるで肉食獣の子供たちが、軽く爪を立ててじゃれあっているようで。
主の心の傷を知らないテッドだからこそ出来る接し方。
テッドが来てから、ソフォスはどんどん子供らしくなって行った。テッドの家に泊まりに行くからなっ、と言った彼の嬉しそうな顔が忘れられない。いつも空を挑むように眺めていた主に笑顔を与えてくれたテッドには、心の底から感謝している。
唯一気になることがあるとすれば、それはテッド自身に関してだった。
時折見せる、大人びた――というより長い年月を生きた老人のような深い表情。子供らしからぬ諦めのよさと物分りのよさ。孤児として生きてきた彼だ。年齢より大人びてしまうのは仕方ないとは思うのだが。
失敗を恐れずぶつかっていくのは子供の特権だ。テッドがそれを既に無くしてしまっているのなら、ようやく子供らしさを取り戻した主と、いつか激しいすれ違いを起こすのではと危惧していた。
そして昨夜、二人きりで長時間過ごすことによって、それが現実になってしまったのではないだろうか―――。
当事者ではない自分の在り来たりな慰めなど、彼にとっては何の意味も持たない。所詮自分の意見は想像の域を出ず、確かなものは何一つないからだ。
ソフォスの世界は決して広くはない。テッドが来るまで、家人と屋敷に出入りする大人たちとしか接触したことのない彼だ。
だが狭い分、その世界は深かった。無言でじっと空を眺める瞳の奥で、彼はこちらが驚くほど深く物事を捉えていた。
恐らく今も彼の中では数多くの葛藤が渦巻いていることだろう。必死で道を探そうと模索していることだろう。
目の前の空を見つめる横顔の真剣さに、グレミオは何も出来ない己の無力さを密かに歯噛みした。
(私にはどうすることも出来ないんですね)
こんな風にソフォスが苦しんでいても。
(でも見守ることはできますから)
彼を救う力はなくとも、激しく吹きつける風に対峙する彼の背を、支えること位はできるから。
「お茶が入りましたよ、坊ちゃん」
「うん」
ほどよく蒸されたお茶をカップに注ぎ、ソフォスの前に置く。
「そうそう、先ほどテッド君が来ましたよ。会いたくなったら坊ちゃんの方から来い、だそうです」
「……あいつはどんな様子だった?」
浮きかけたカップが再びテーブルに戻される。
「いつもと変わりませんでしたよ」
「…………ずるい奴」
ぼそりと呟くと、ソフォスは今度こそカップを口に運んだ。熱い湯気を立てるそれを、注意深く含む。
先ほどより、少しだけ主の雰囲気が柔らかくなったような気がするのは間違いではないだろう。
「でもいくら会いたくなったとしても、今日一日は我慢してくださいね。二日続けて倒れられたら、流石にグレミオの心臓が保ちません」
「安心しろ。もうあいつの家には泊まりに行かない」
冗談交じりに発した言葉に、意外な返事が返ってきて驚く。
しかも当の本人は、内容とは裏腹にやけに清清しい顔をしているのだ。
「坊ちゃん?」
「その代わりあいつを僕の部屋に泊めるからな。空いているベッドを僕の部屋に運んで……あ、グレミオ、久しぶりにアップルパイが食べたい」
「……判りました」
悪戯を思いついたような楽しげな表情に苦笑する。
どうやら主は作戦を変えたらしい。「押して駄目なら引いてみろ」か。
グレミオは己の見識の甘さを痛感した。
自分の大切な主は、自分が思っているよりもずっとずっと強いのだ。庇護しなければと思っているのは自分だけで、ソフォス自身は助けなど必要としていない。
吹き付ける嵐も、彼の意思の前では道を譲るだろう。
「ああでも、今週はお泊りはなしにしよう。約束を破った罰だ。アップルパイの自慢だけしてやる」
「約束…ですか?」
「うん」
ソフォスが答える気がないのを察して、グレミオも重ねて訊くことはしなかった。彼らだけの約束。それは他の人間が知る必要はないのだろう。
それにしてもテッドといい、ソフォスといい、自分とは考え方の違う種の人間らしい。
きっと一生彼らの気持ちを知ることはできないのだろうなと思いつつ、とりあえず今は目の前の少年に笑顔が戻ったことを嬉しく思うのだった。




***


軋む肺とひっきりなしに喉を吐く咳。
まるで自分の周りだけ酸素が奪われているかのような息苦しさは、何度経験しても慣れる事がない。
横になっていても苦しくて、起き上がっても苦しくて、ただ息を吸うだけでも辛くて、その度に本当に今にも死ぬんじゃないかと思う。
死は自分にとって身近なものだった。
体が弱く、十まで生きられないだろうと言われていたし、実際何度も死線を彷徨っている。
軍人であるテオはいつ命を落とすともしれない。屋敷に来るテオの部下で、二度と会えなくなった者も少なくない。
初めて死に直面したのは、六つの時だった。
握り締めた手がだんだんと冷たくなっていくのが判る。一呼吸する度に、砂が零れるように命が流れ落ちていくのを感じてしまう恐怖。
――母様っ…
寝乱れて広がった長い黒髪が肌の白さを引き立てる。彼女は自分の手を掴む小さな我が子に、これから死に往く者とは思えぬ穏やかな笑みを浮かべて言った。
――……泣かないの、ソフィ…あなたは我慢強い子でしょう。母様がいなくても父様やグレミオたちがいるから大丈夫よね…。
髪を撫でてくれる弱弱しい、優しい手。
頷く以外の何が出来ただろう。母にこれ以上心配をかけてはならない。母が安心して逝けるように、涙を見せてはならない。
――勿論だっ。だから母様は心配しなくていいっ。母様がいなくても、僕はちゃんと父様のような立派な軍人になる!
精一杯の虚勢に、母はほんの少し寂しげに微笑んで、
――…母様はいつもあなたの傍にいるわ。
それが最期だった。


母はいつも自分のことをソフィという愛称で呼んでいた。
女の子の名前っぽくて嫌だったが、母が気に入っているので何も言わなかった。自分以上に病弱な母の、悲しそうな顔は見たくなかったのだ。
だから当然母以外の人間には絶対に呼ばせなかった。――家人以外で、自分の名を呼んでくれるような人間もいなかったが。
医師の宣告した十に手が届く少し前から、発作の回数は激減していった。
グレミオの栄養を考えた食事が良かったのか、ソフォスの中の強靭なテオの血が力を発揮しだしたのか、十一になる頃にはカイの元で棒術の修行を始められるまでになり、元々素質もあったのかみるみる上達して行った。
だが相変わらずソフォスは一人だった。棍の稽古と今までの勉強の遅れを取り戻すため、外で他の子供と遊んでいる暇はなかった。
どちらもテオが強制したものではない。自主的に、ソフォスは子供らしい遊びに背を向け、己を高める道を選んだ。
遊びたくなかった訳ではない。いつも窓の外から聞こえてきた子供たちの歓声。どれだけその中に混ざりたいと思っていたか。
だがそれ以上に、強くなりたかった。心身ともにテオの息子として恥ずかしくないように、もう二度とあんなふうにベッドの上で悔しい思いをしないように、強くもっと強く。
他のことには目もくれず、ソフォスはひたすら稽古と勉強に明け暮れた。他の貴族の子供が数年かけて学ぶ事をソフォスは二年で追いつき、そこでようやく回りを見る余裕が生まれたのだ。
テッドが屋敷に来たのは、ちょうどその頃だった。


値踏みするように上から下まで眺める。相手はやせっぽっちで、ソフォスよりやや背が高かった。
「オレはテッドって言うんだ。よろしくな!」
半ば睨む様なソフォスの視線を軽く流して、彼は初めての、しかも貴族の家に(彼の身なりと物腰から、貴族出身ではない事は判った)来たとは思えないような堂々とした態度で言った。
その態度にむっとする。
自分のいた村を滅ぼされたばかりだろう。何でそんなに明るくしていられる?
「テッドか…馴れ馴れしくするな。平民風情が」
上手くテオにつけ入って、住むところを確保したつもりか?
だったら自分はそんなに甘くはない。
だけど。
「僕は本来ならお前なんか口をきくことも出来ない身分なんだ。ただこれから軍に入るのに、同世代と過ごした経験がないのは不利だからな。遊び相手としてここにおいてやる。ありがたく思え」
「…ありが……」
唖然としたテッドの顔に内心にやりとする。
「お前の家は屋敷の裏の家だ。毎日朝食後に屋敷に来るんだぞ」
言うだけ言うと、くるりと身を翻した。
あの笑顔が弱味を見せまいとする空元気だというのなら、話は違ってくる。
今テッドはどんな顔をしているだろう。傲慢な奴だと呆れかえっているか?
一方的だと怒っているか?
確認する必要はない。答えはすぐに出る。
明日の朝、ちゃんと彼が来たなら。
笑顔じゃなくて、嫌そうに、仕方なさそうに毎日毎日ちゃんと来たなら。

その時はきっと――






赤井さんからのゲスト原稿を元に本の構成を組み立てたという、何か間違っている本(笑)
ゲスト原稿はグレミオとテッドの会話でした。同人誌の再録です。



<<-戻る