砂の幻



「日差しが厳しくてかなわんなぁ」という空々しい独り言を呟いて門番が持ち場を離れた隙に、一行は急いでグレッグミンスターの内と外を隔てる唯一の出入り口である城門を駆け抜けた。これで取りあえず一安心だ。この門さえ抜けてしまえば、追っ手も彼らの足取りを辿るのが難しくなるだろう。
スった財布をグレミオに返し、男はようやく彼らの主である少年の名を聞いていなかったことに気付いた。
「えーと……坊主……」
「ソフォス様だっ!」
「ソフォスか。また言い難い名前だな……よしっ、ソフィでどうだ?この方が言いやすいし、親しみあるだろ」  
ソフィ、の言葉にソフォスの眉がぴくりと動いた。
「良い訳ないだろうっ。僕の名前はソフォス・マクドールだ。変な略し方するな!」
厳しい口調で怒鳴りつけると、呆気に取られているビクトールを置いて、ソフォスはさっさと歩き出した。その後を慌てて家人らが追いかけて行く。
「待ってくださいっ、坊ちゃんっ」
「なんだあ?そりゃソフィなんて女の名前みたいだが、あんなに怒る事かよ」
ビクトールの呆れたような呟きに、グレミオが主人を追う足を止めて振り返った。訳が判らずぽりぽりと頭をかいている男に向かって、複雑な表情で理由を告げる。
「坊ちゃんはソフィって呼ばれるのを嫌がるんです。…それに坊ちゃんの事をそう呼ぶのは、たった一人しかいませんから」
「…………そうか」
勘のいいビクトールは、それだけで判ってしまった。
たった一人にだけ呼ばれる名前。
その人物を語るグレミオの表情。
(大事な人間を失った……か?)
失ってはいないにしても、今この場にいる人間ではない事は確かだ。
「ソフォス、ね」
面白い少年だと思う。威圧的な態度の割には、人に不快感を与えない。揺るぎない凛とした輝きは、自然と人を従わせる何かがある。
その背を追ってみたいと思わせる何かが。






ガッ
棍同士が激しくぶつかり合う音が、トラン湖に響き渡る。
湖に突き出た城の庭先では、一刻ほど前からソフォスとその師匠であるカイの打ち合いが続いている。カイの流れるような棍捌きに対し、ソフォスのそれはまだまだ荒削りだが、相手より高い身長を生かしたリーチの長さで間合いをとり、決定的な一打を受けずにいた。
「ほらほら、逃げてばかりじゃ勝てんぞいっ」
「判ってる!」
横から迫って来た棍を間一髪で払い退け、ソフォスが遠い位置から己の棍を突き出した。棍は真直ぐカイの顔面に吸い込まれたかと思いきや、手ごたえを持ち主に伝えることなく空を切り、一瞬後ソフォスの背中に棍が押し当てられていた。
「………………参りました」
「まだまだ甘いの」
にやりと笑う。カイは棍を軸にして見事な跳躍でソフォスの頭を越え、背後に回ったのだ。
「腕の長さに頼っとるから、ワシの動きについて来れんのじゃ。チビだった頃の方が動きが素早かったぞ。でっかくなって動きも鈍ったか」
「もう一度お願いする!師匠!」
カッと身を翻し再び構えるが、カイは棍を立ててしまった。
「師匠!?」
「今日はもう終わりじゃ。がむしゃらに稽古したからといって強くなれはせん。それよりほれ、さっきからお前を待っとる奴がいるぞ」
「何?」
棍でくいっとソフォスの後ろを指し示す。振り返ると、ソフォスを解放軍に引き込んだ男が岩陰から姿を現した。
「流石だな。気付いてたか」
「当然じゃ。隠れとらんと、そこで見とって良かったんじゃぞ」
「邪魔したくは無かったんでな」
軽い笑みを浮かべたビクトールが、ゆっくりとした足取りで二人に近づいて来た。傍観者の存在に気付けなかったソフォスは、不機嫌そうに黙り込んでいる。
「じゃ少しこいつ借りるな」
「ああ、連れていくがいい。今の坊は武芸よりも精神的な修行が必要のようだからの」
「師匠!」
勝手に決められいきり立つソフォスを残し、ふぉっふぉっと笑いながらカイは城の中に戻って行った。
「……僕に何の用だ」
「別に用って程のことじゃねぇんだが、ちとお前とゆっくり話をしてみたくてな」
ソフォスの刺々しい態度に気を悪くした風もなく、ビクトールはすぐ傍にあった大きな岩の半分に腰を下ろし、空いている半分をぽんと叩いた。
「立ち話もなんだから、お前も座れよ」
「僕は別に話すことはない」
「そう言うなって。ソフィ♪」
「ソフィと呼ぶなと言っただろう!!」
「あいつ以外には呼ばれたくないって?」
「あいつにだって同じだ!僕の名前はソフォス………………お前、誰に聞いた」
ひっかけられた事に気付き、ソフォスが声を低くする。黒目がちなグレーの瞳が鋭さを帯びたのを見て、ビクトールはからかうように言った。
「御付きが心配してたぜ。屋敷を出て以来、お前が今まで以上に稽古ばっかりしてるって。カイが来てからは特にだな。あんまり無茶すると、また発作が起きても知らねぇぞ」
「なっ……グレミオの奴、そんなことまで言ったのか。発作は最近は起こしてないからもう大丈夫だ。おいっ、この事は他言無用だぞ!絶対他の奴に言うなよ」
「言わねぇよ。リーダーが喘息もちなんて知れたら、全体の士気にも関るからな」
ソフォスは幼い頃気管支が弱く、高熱を出しやすい子供だった。生死の境をさまよったのも一度や二度ではない。十歳を過ぎた辺りからは、すっかり元気になったが、それでも無理をすると時々喘息の発作を起こしていた。だがそれもここ一年ほどは起きていない。
ベッドから下りられなかった幼い頃は、窓から見える光景だけが全てだった。遊び相手もなく、子供たちの楽しそうな声を窓越しに聞くだけの毎日。動物の毛は気管に良くないとの事で、小動物を飼うことすらできなかったのだ。
お蔭で外で遊べるようになっても、他人との付き合い方が判らず、ソフォスはずっと一人だった。体を鍛えるために始めた棒術にのめりこみ、ひたすらカイとの修行に励んでいだ。心配したテオが、遊び相手にとテッドを連れてくるまでは。
「喘息は治った。結局お前は何を言いたいんだ。話がないならもう行くぞ」
返事を待たずに身を翻したソフォスの腕を慌てて掴む。
「おいおい、短気だな。少しは話したっていいだろうが。話つーか…そうだな。お前のことを知りたいんだ。何にそんなにイライラしてるんだ?」
「イライラしてなんか……」
いない、と打ち消そうとして、振り返った先のビクトールの目に声を失う。
世間話をするかのような軽い口調のくせに、見上げてくる視線は真剣だった。押し付けがましい心配や同情と言った色は一切なく、それ故に意地っ張りなソフォスの心を揺るがせる。
「別に悩みを打ち明けろって言うんじゃねぇ。お前は誰かに相談したり、人に意見を求めたりするタイプじゃねぇしな。ただもし腹に抱えてるもんがあって、それを吐き出したいと思うなら、一時俺の耳を貸してやる。貸すのは耳だけだから、何を言っても俺は何も覚えてねぇぞ」
「……変な奴だ」
ふっとソフォスの目から緊張が消える。それを見て取ったビクトールが、再び掴んでいる腕を軽く引くと、今度は素直にソフォスも隣に腰を下ろした。
「そうか?こんないい男は他にいないと思うけどな」
湖から吹いてくる風が二人の頬を撫でて行く。それっきりビクトールは完全に黙ってしまった。岩に後ろ手に手を着き、楽な姿勢で湖面に反射する光や、視界を横切っていく鳥達を眺めている。
長い沈黙を破ったのはソフォスの方だった。
「何故僕がイライラしてるなんて思った?」
「んー、何故って言われても困るんだけどよ。何となくだな。悩んだり、落ち込んだりって訳じゃねえみたいだが、何か重たいもんを抱えてる事は判った」
「………そうか」
「ま、他の奴らは気付いてねぇから安心しろよ。お前の御付きの連中は別だろうがな」
言いながら傍にあった石を拾って投げる。石は空に大きな弧を描いて水面に落ちた。
再び広がる静寂。
「………どうしたらいいか判らなかった」
ややあって、ソフォスが重い口を開いた。
ビクトールはちらりとソフォスを見たが、またすぐに視線を湖に戻した。耳だけだと言った彼は、本当に何も言わないつもりらしい。その事が判って、ソフォスの体から力が抜けた。
後は心の内から溢れてきた言葉を、ただつらつらと連ねるだけだった。
「笑っているのに笑っていないと気付いたのは、割とすぐだった。大袈裟に馬鹿騒ぎをし、誰にでも笑顔を向ける癖に、自分の心は一切開こうとしない。近寄ろうとすると退く。無理矢理踏み込めば切り捨てられる。問いかければはぐらかされ、縋れば背を向けられ、引けばこれ幸いとばかりに離れていく。時折自分から近寄ってきて弱音を吐いたかと思うと、僕の言葉など聞きもしないで勝手に自己完結してまた離れてく。これのくり返しだ。僕のことが信用ならないなら、どうしてあんな風に弱い部分を見せる」


最後の発作は、テッドの家での最初で最後のお泊りの日に起きた。
互いの皿のおかずを奪い合うようにして夕飯を食べ、一緒に入った風呂で見たテッドの全身の傷痕に驚愕し、翌日のおやつと一個しかないベッドの使用権を賭けてゲームをして、勝ったくせに床で寝ると言い張るテッドを無理矢理ベッドに引き込み、ソフォスが寝入ったのを見計らって家を出たテッドを追いかけて、夜の散歩をしてしまったあの夜。
暗い夜道を一人ふらふらと歩いているテッドの姿を見つけた時は、安堵より先に怒りが込み上げた、重たい思いをして持ってきた毛布を広げて、背中に突進する。
『……だぁぁ!何しやがるっ!こら、何だってお子様がこんな夜中に出歩いてんだ!』
それはこっちのセリフだ。そんなに僕と一緒に寝るのが嫌なのか。
暖かい家を出て、防寒着も着ずに夜中の町を彷徨うほどに。
掛けようとして逆に被せられてしまった毛布を半分テッドに掛け直し、逃げられないように腕を掴む。頬で風を切るようにして、真直ぐ前を見据えて歩き出す。
『わかったわかった。さびしん坊のソフォス坊ちゃんのために帰ってやるから、そう引っ張るなって!』
嘘つけ。
手を離したら、お前はまたどこかにいくつもりだろう?
『そんなに……が嫌か』
子供じみた呟きが口を吐く。
テッドに向かって言う勇気はなかった。言って肯定されてしまうのが怖かった。
そんなに―――僕が嫌か?

家に戻ると、上着だけ脱いでさっさとベッドに潜り込んだ。
今度はもう無理に同じベッドに寝せようとはせず、それでも隣に彼が来れるよう端っこに寄ってスペースを空けた。彼が来ない事は判っていたが。
案の定、おやすみの言葉だけを残してテッドは部屋を出て行った。
寝具があるのはこの部屋だけだ。一体どこで寝るつもりなのか。案外寝ない気なのかもしれない。
外に出て行くんでなければいい。あんな寒空で凍えているんじゃなければ、もう彼の行動を止めはしない。
どうせ自分の言葉は届かないのだから。

たった一晩でどれだけ驚いたか。気付いてしまったか。
彼の生き様に、浮かべる笑顔が心からのものではない事に。


二度目の眠りは発作によって妨げられた。
咳を聞きつけ様子を見に戻ってきたテッドは、今度は流石に部屋を出て行きはしなかった。咳き込む自分に背を向け、ぼそぼそと淡白な声で呟く。
『俺を知ろうと思うな。まだ………もう少し、オレはここにいたい。――おまえがオレを追い出す事はしないでくれ』
テッドの言葉はいつも肝心な部分が抜けていて、何を言いたいのか全然理解できなかった。何故彼を知ろうとする事が、彼を追い出すことになるのか。彼の言葉で判った事はひとつだけ。
オレはここにいたい。
いたいならいればいい。別にテッドが追われていようが人殺しだろうが関係ない。そう伝えた言葉をどう取ったのか。
『…………わからない、か……だろうな…。まあ、わからない方が、良い』
寂しげな顔で言われても、全然説得力がなかった。
本当は判ってほしいって目が言っている。
でも判らない方がいいというのも嘘じゃない。
どうしたらお前は本音を言うんだ?
『お前がわからないって言ったんだろ?どうしようもないじゃないか』
何ですぐに諦めてしまうんだ。
『………オレの言い方が悪かったな……さっきの言い様じゃおまえはわからないだろうけど、これ以上オレは言う気がない』
大人ぶった態度で全てを終わりにするな。
『説明する気なんて更々ないんだ。だから、どうしようもない』
どうしようもなくしているのはお前だろう?
『今日はもうこれ以上、同じ事を言わせるな。病人は大人しく寝ろ。日が昇るまでこの部屋から出てくるな。……オレは隣にいるから』
やんわりと、だがきっぱりとした拒絶は、ソフォスに己の無力さを嫌と言うほど思い知らせた。
振り返りもせずに閉められた扉は、今のテッドの心そのものだ。
『ぅ、っく…げほっ……っ…ぅ……………ぅわああああんっ…っ……!げほげほげほっ…ごほっ……っく…わああ…っ……』
再び一人取り残され、きつく閉じた目から涙が溢れ出す。その場に立ち尽くし、声の限りに号泣する。涙は咳を激しくし、軽かった発作を深刻なものへと変え、このままではまずいと判断したテッドが呼んで来たグレミオによって、初めてのお泊りは中途半端なまま幕を閉じた。


あの時の胸の痛みは、今もちりちりと心を焦がしている。
「判らない方がいいというなら、言わなければ良かったんだ。説明する気がないなら、あんな風に助けを求めるみたいなこと言わなければ、気付かなかったのに。自分からばらしておいて、僕が判らないからって否定するのは卑怯だ」
「…………」
俯いて感情のままに言葉を吐き出すソフォスを、ビクトール無言で見つめている。
紋章の事を知った今なら、あの時テッドが何を言いたかったのか何となく判る。
手袋を外すことを拒否した理由も。
左手にあったひどい火傷の痕。それ以上にひどい火傷だと言っていた右手は、紋章を受け取った時に初めて見た。
血のこびり付いた手袋の下から出てきた、無残に焼け爛れた手。適切な治療がされなかったのか、赤黒く変色し所々引き攣れている皮膚は、正視に堪えられるものではなかった。どんな風にしたらこんなひどい痕になるのか。丁度手袋に隠れる部分だけなんて、まるで炎か熱湯の中に手を突っ込んだような――。
老人のような手に宿る紋章だけが、肉体の損傷など関係なしに、その姿を保っていた。
テッドの詠唱に続いて紋章から生まれた光が、自分の右手に吸い込まれていく。
彼がずっと抱えてきたもの。彼を永の放浪の旅に出させたもの。
テッドにとってこれは何だ?
守るべき大切なものか?それとも――追われる原因を作った憎むべきものか?
真新しい傷だらけの体でベッドに横たわるテッドを見て、小さいと思った。
全身に刻まれた無数の傷痕が、彼の生き様を物語っている。
背中を走る袈裟懸けの太刀傷、矢傷、剣に貫かれた脇腹の傷、そして火傷…この幼い体で、彼はどれだけの修羅場を潜って来たのか。
傷の痛みなど知らぬ気に笑いながら。
「どうして欲しかったんだ。僕に気付いて欲しかったのか。近寄らないで欲しかったのか。だったらどうして何も言わない?どうして僕を完全に否定しない?中途半端に拒否したり受け入れたり、あいつは僕に何を求めていたんだ?」
それとも――と微かな呟きが洩れ。
「僕なんて最初から眼中になかったということか?」
自嘲的な、響き。
「ソフォス」
沈黙を守り続けていたビクトールが、ぽんっとソフォスの頭を叩いた。
「俺は耳だから、耳の言う事なんてさらりと聞き流せよ。聞いた限り、そいつは相当の捻くれ者らしいな。そして相当の面倒くさがりと見た。そんな奴が自分に関心を持っている人間がいる家に、一年もいるか?面倒だなと思ったらさっさと家を出て行くはずだ。真の紋章をお前に預けたのが、そいつの本心だと思うぞ」
「どういう意味だ」
「言葉通りさ」
ビクトールがニヤリと笑う。ソフォスは再び考え込んでいる。この手のタイプにはストレートな答えは必要ない。与えられたピースを組み立て、自分で答えを見つけ出せるはずだ。
「一応心に留めておく。確かに僕は少し思いつめていたのかもしれない。話したらちょっとだけすっきりした。こんな事はグレミオたちには言えないからな」
「そりゃ良かった」
立ち上がって座ったままのビクトールを見下ろす。びゅんっと風が唸ったかと思うと、次の瞬間棍がビクトールの喉元に突きつけられていた。
「おいおい、ご挨拶だな。肝が冷えたじゃねぇか」
「ふん。避けもしないくせによく言う。ちゃんと毎日鍛錬しているか?」
軽く手首を回して棍を引く。ソフォスに殺気がないのを感じ取り、ビクトールは敢えて避けなかったのだ。
「ちゃんとやってるぜ。俺はこう見えても忙しいの」
「人生相談までやってたらな。ご苦労なことだ」
そのままくるりと背を向け、城に向かって歩き出す。
「戻るのか?」
「僕も忙しい身だからな。何時までも油を売っている訳にはいかない。……でもまあ、感謝はしている」
お前も早く戻れとさりげなく釘を差され、ビクトールは肩を竦めた。その後に続いた言葉に小さく笑みが浮かぶ。
「悩め悩め若者。悩んだ分だけきっとお前は大きくなれる」

答えは全て己の中に






目の前にいる、まだ自分の知っている彼ほど荒んでいない幼い子供。
火傷の痕もない、子供らしい柔らかい綺麗な手。
だがその右手に宿る不気味な紋章が、これからの彼の運命を暗示している。
「わああああんっ……」
祖父を失い村を失い、泣き喚くテッドに感じる既視感。
泣いていたのはテッドではなく、昔の自分。受け止めようと差し出した手を、大人のずるさでもって拒絶され、今の彼のように泣き叫んだ。
無言のままのソフォスの代わりに、クレオがついて行くと言ってきかないテッドを宥めている。このテッドを連れて行けば今に続く歴史が変わる。
――いっそ変えてしまってもいいんじゃないだろうか。
これからまたこの子が、傷だらけの体で三百年も孤独な旅を続けるよりは。寂しげな背中で全てを拒絶するようになるよりは。
自分を否定した、“あの”テッドがいなくなった方が。
いつの間にかテッドの号泣は治まり、嗚咽をかみ殺して睨むようにソフォスを見上げていた。その両目からは、未だぼたぼたと大粒の涙が溢れ続けている。この場には他にも人がいるのに、テッドの視線はソフォスから離れない。
「……僕と一緒に来たいか」
こくりとテッドが大きく頷く。
「来てもいい事なんて無いぞ。それでもか」
再び頷く。
「判った。一緒に来い」
「坊ちゃん!?」
「ソフォス!」
思っても見ない発言に、一同が一斉にソフォスを見た。
「しかし彼を連れて行ってもいいものか…」
「歴史が変わるっていうんだろう?いいじゃないか。それもまた運命だ」
「坊ちゃん……」
ソフォスが言い出したらきかない性格である事を、嫌というほど知っているクレオは、もうそれ以上何も言わなかった。
「しっかり捕まっていろ。手を離したら、もう僕と一緒に来る事はできないからな」
テッドの手を引き、もう片方の手は自分の服の裾を掴ませる。テッドは頷くと、ぎゅっと掌が白くなるほど強く服を握り締めた。嗚咽と涙は止まったが、目はまだソフォスを睨み付けたままだ。睨む事だけが、今のテッドに出来る精一杯の意思表示であるかのように。
「行くぞっ」
祠に飛び込むと、真っ暗な闇に取り込まれる。来た時と違い、今度は空気の抵抗が激しかった。下手をすると押し戻されそうになる。ソフォスは強くテッドの手を握りなおした。
「…………っ!!」
ずっと握っていて汗ばんだのか、テッドの手がずるりと滑った。慌てて両手でソフォスの服の裾を掴むが、下から吹き上げてくる風が容赦なく幼い体を巻き上げる。ソフォスが手を伸ばしてテッドの腕を掴もうとした瞬間、堪え切れずにテッドの手が離れた。
「テッド!!」
「っ…………おにいちゃ……」
風は凄い勢いで、テッドを元居た入口へと押し上げていった。テッドが離れた途端抵抗が止む。あとは来た時同様、ゆっくりと下に見える光に向かって落ちていった。


「多分彼は元々向こうの世界の人間。こちらへ来る事はできなかったんです。彼はこれから一人で生きていかなくてはならない。しかし、その運命を変えるのは許されないことなのでしょう」
重苦しい空気の中を、クレオの声が静かに染み渡る。ソフォスは皆の視線を受けながら、じっと己の右手を見詰めていた。
自分の知っていたテッドは、決して自分から手を伸ばすことはなかった。助けを求めることも、与えられることも拒否していた。
連れて来る事の叶わなかったあの幼いテッドも、これから誰の手をも拒んで生きていくようになるのだろうか。
体中に無数の傷を刻みながら。
「行くぞ、ソフォス」
立ち尽くしたままのソフォスを促し、ビクトールが歩き出す。
感傷を振り払うようにキッと顔を上げ、ソフォスは早足にビクトールを追い抜き先頭に立った。
今はまだ立ち止まる訳にはいかない。











かつてビクトールに彼の事を語ったこの場所で一人佇む。
炎のように赤い夕日を頬に受けて。

『ソフォス』

当たり前のように伸ばされた手。
こんな時はこうするのが当然とでも言うような。ソフォスがその手を取ると確信しているような。
今まで絶対に自分からは手を伸ばさなかったくせに。

ずるいと思った。
ここにきて、こんな最後で。
最期まで自分勝手で。
でも

彼の手が伸び、それを取ったそのとき初めて
彼に言葉が届いたような気がした。








赤い狸氏との合同誌、「砂の幻」をすこーし修正して再録。狸氏サイドは初めてのお泊り話でした。
このお話がソフィの話の基本です。ソフィとせテッドは、かみ合わなさっぷりが書いてて楽しい♪


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