黄昏の旅人 番外編 

アルド




ああ、今日もまだ生きている。

朝目が覚めて、一番最初に思うこと。
自分が生きて呼吸をしている事を確かめる。目が覚めた事に感謝する。
ほんの一ヶ月ほど前までは、まだ布団の中にいたいなとか、今日は何をしようとか、そんなことを考えていたのが嘘のようだ。
全開のカーテンのお陰で、室内には隅々まで朝日が差し込んでいる。隣のベッドは既にもぬけの空だった。
窓の外では、小鳥たちが騒がしく朝の挨拶を繰り広げている。ベッドに横たわったまま、目を閉じてドアの向こうに集中すると、微かにトントンと包丁を使う音が聞こえて来た。
「…………」
微笑んで、再び瞼を開ける。力の入らない腕を伸ばして、ベッドサイドに置かれた天使の姿を模った陶器のベルを取る。
それは彼が近くの町で購入して来たものだった。教会のないこの辺りで天使のデザインなんて珍しいねと呟くと、たまたま入った飲食店で使われていた物を、頼み込んで譲ってもらったとの返事が返ってきた。
――一目見て気に入ったんだ。お前に似てると思って。
――え、似てるかな。……どこが?
――表情。
目を閉じた陶器の天使は、優しい顔で微笑んでいる。
これと似ていると言われたことより、彼がそう思ってくれている事が嬉しかった。
手を少し揺らせば高く澄んだ音が鳴り響き、余韻が消え去る前に、朝食の支度を中断して彼が姿を現すだろう。自分と同じく彼もとても耳がいい上、特に朝はこの部屋の物音に神経を尖らせているようだ。
彼が心配してくれるのは嬉しいし、何かあったら遠慮しないで鳴らせと強く言われているのだが、それでもベルを振ることには抵抗があった。
彼の時間を奪ってしまうようで。
実際今では彼が居なければ、一人でベッドから起き上がることもままならない体だ。水を飲むのも食事を摂るのも、排泄ですら彼の手を必要とする。これ以上彼の負担になる位なら、いっそ早くこの命が尽きてしまえばいいと願う。
だがこうなった原因を考えれば、自分は少しでも長く生きなくてはと思うのだ。
全身の毛を逆立て、近づく者全てを威嚇していたかつての彼。
牙を剥くのは脅えているからだ。怖いから自分に近づく者を攻撃する。これ以上傷つけられないように。
まるで手負いの動物のようだと思った。
島に居た頃、時々森で怪我をした動物に遭遇した。彼らは一様に、治療しようとする自分の手を拒んだ。だがこちらに敵意がない事を示し、根気良く語りかければ彼らはその身を委ねてくれた。
体の傷は適切な治療をしてやれば癒える。野生動物の持つ治癒力は、ほんの僅かな手助けだけで彼らをみるみる回復へと導いた。
だが心の傷は、眼に見えない分難しい。
初めて顔を合わせた時、この少年は心に大きな傷を抱えているのだと思った。その傷を癒してあげたいと思った。
こんな昏い孤独な目をした子供を、どうしてみんな放って置けるのだろう。抱きしめて、愛してあげたい。もう誰も君を傷つけない。だからそんなに脅えないでと、震える背中を撫でてあげたかった。
差し出した手は予想通り振り払われたけれど、諦めずにいたら少しずつ牙を剥かれる距離が短くなった。
ある日、何で付きまとうんだと問われたので、好きだからと答えた。人間として好きだと言ったつもりだったが、彼は慣れた手つきで服を脱ぎ捨てた。
その時の、瞳に浮かんだ自虐的な色が忘れられない。
ああ、彼の傷はここなのかと理屈ではなく心で感じた。
同時に彼の右手の紋章の秘密も聞いた。それも充分傷に成りえるものではあったが、直接の原因ではなさそうだった。紋章はいい訳。彼はやはり他人が怖いのだ。人に傷つけられる事が怖いのだ。
怖くて怖くて――だからこそ他人に傷つけられる前に、自分で傷を作る。
痛みで痛みを誤魔化そうとする。
同性相手にそういう感情を抱いた事はなかったが、彼の事は抱きたいと思った。抱かなければと思った。
彼の傷は、付けられた時と同じ行為でもってしか癒せない。
彼との物質的な距離は近づいた。抱きしめてキスをして、躰同士を深く繋ぐ。だが彼が心を開いてくれないうちは、彼の自虐行為の手助けでしかない。
それでも諦めず、彼に精神的にも近づけるよう努力を続けた。
戦争が終わって船を降り、二人で旅をするようになって暫くして、体の不調に気づいた。
最初はだるいなと感じる程度。その内反射神経が鈍くなり、体が思い通りに動かなくなり、手足が痺れて物を掴めなくなって――そこで彼が一つの恐ろしい可能性を思いついた。
お金が勿体無いからと渋る自分を、彼は強引に医者に引っ張って行った。そして原因不明の上、治療も不可能と告げられた時、彼は今にも泣き出しそうな目で強く唇を噛み締めた。
いつの間にか、自分は精神的にも彼に近づけていた。
教えられていなかった、彼の紋章が持つもう一つの特性。
宿主の近しい者の魂を喰らう――
自分の首に死神の鎌がかけられている事を知った。
二人はこの町に小さな家を借りて住み着いた。最早自分が旅に耐えられる体ではなかったからだ。
これだけ弱ってしまっては、今更彼から離れた所で命の流出は止まらないだろう。彼もそれが判っているから、自分の側に留まってくれた。
彼はとても優しい人間だ。自分が死んだらきっと激しく己を責めるのだろう。他人に傷つけられてばかりだった彼。自分自身にも攻撃されてしまったら、一体誰が彼を庇ってくれるのだろう。
死ぬのは怖くない。だけどその事で彼がまた傷つくのは怖い。
もう誰も彼を傷つけないで欲しい。
傷だらけの子供に、どうかこれ以上鞭打つ真似をしないで欲しい。

迫り来る死を前にして、ただそれだけを願う。




同人誌に書き下ろした部分の再録です。



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