冷たい雨が、血まみれの体を容赦なく打ち付ける。
水を吸って重くなった服が肩に圧し掛かる。先ほど水溜りに突っ込んだお陰で、靴の中は洪水状態だ。
でも雨が降っていて良かった。
もし今夜が星が見えるほどの晴天だったら、流石に見咎められ、即効で城に通報が行っただろう。
雨に薄められた血が止まることはないけれど、明確な赤を人の目に晒すこともない。
重い足を一歩踏み出して重心を乗せ、振り子の要領で前に進む。
やがて、雨と痛みで霞む目にマクドール家の温かな灯りが飛び込んで来た。
微かに笑み、灯りを見据える。
もうすぐだ。もうすぐ。
運命の時が来る。
























目印は二つあった。
他にも色々聞いたんだろうが、覚えていない。まだガキだった上、か細い記憶を留めておくには年月が経ちすぎていた。
目印のうちの一つは、決して間違えようがない。
励ますように俺の手を握った『おにいちゃん』の右手には、唯一無二の筈のソウルイーターがあった。
一体どんな運命の悪戯で、こんな不可思議な現象が起きたのやら。
だからこそ、ソウルイーターを持つ限り『おにいちゃん』との縁は決して切れることはないと信じられた。
揺ぎ無い瞳で、必ずまた会えると『おにいちゃん』は言った。
彼は既に、俺に会っていたのだ。

もう一つの目印のお陰で、シオンと初めて会った時にすぐに判った。
あれを置いてったお前は賢明だったぜ。300年の間にたくさんの人間と出会ったけど、もしかしてって思った奴は一人もいなかったもんな。
彼がくれた緑と紫の布を縫い合わせた特徴あるバンダナは、グレミオさんのオリジナルらしい。
『小さい頃の坊ちゃんは、好奇心旺盛で一人でさっさと行ってしまって、よく迷子になってたんです。それで目印にとバンダナを作ったんですが、派手な色は坊ちゃんが嫌がりましてね。かといって坊ちゃん好みの濃い色は、人ごみに埋もれてしまいますし。苦肉の策で裏地に紫を使ったんです。これなら後ろで結わいた時に、紫が見えて判り易いでしょう?』
『ここに私のサインが入っているんです。坊ちゃんの名前を書いて、不埒な輩に目をつけられたら危険ですから』
グレミオさんが広げて見せてくれた裏地の隅には、小さな小さなGの文字があった。シオンは小さい頃に誘拐された事があるそうで、グレミオさんの用心は当然だった。貴族の坊ちゃんも大変だ。
バンダナをくれる時、彼はGの文字を指差して「この字を覚えていて」とちゃんと念を押した。
もうアルファベットは読めるようになっていたから、Gは彼のイニシャルかと思ってたけど、グレミオさんのだったんだな。
目印のバンダナは、ボロボロに色褪せて朽ちるまで俺のお守りとして活躍してくれた。
空腹や寒さで眠れない夜、孤独に押しつぶされそうな時、バンダナを握り締めて耐えた。
布として形を成さなくなると、小さな端布にして服の裏地に縫い付けた。
そうやって一緒に来れたのも100年ほど前までだ。山火事の飛び火で、上着共々灰になった。
だが手元から無くなっても、あの手触りは忘れていない。
――もうっ、バンダナ引っ張らないでよっ。
――目の前ちらちらされてると、つい気になってなー。
何かにつけてシオンのバンダナに触れた。真新しい生地が懐かしかった。
『おにいちゃん』の年頃は覚えていないが、多分成人はしていなかった筈だ。俺が一つの町に留まれるギリギリの期間――この1〜2年の間に、シオンに紋章を渡すのだろうと思っていた。
その日がとうとうやってきたのだ。
「……はは、覚悟はしてたけど、やっぱ嫌なもんだな」
マクドール家の前に立ち、明るい室内を見上げた。
窓辺に映るシオンの影。その窓のすぐ下にボロボロの俺がいるなんて、夢にも思わないだろう。
このまま立ち去りたい衝動に駆られて、強く腕を掴んだ。
どうする?まだ今なら間に合う。
歴史に逆らい、一人で町を出るか。
シオンに紋章を渡さなければ、『おにいちゃん』とガキの俺が遭遇することはなくなる。
『おにいちゃん』がいなければ、きっと俺は村と共に死んでいた。300歳の俺は存在せず、この町に来てシオンと出会って過ごした日々、抱いた感情、全てがなかったことになる。現在が消える。
――でも、シオンから笑顔を奪わないで済む。
紋章の村を訪れた旅人の中に、グレミオさんはいなかった。どんな時でもシオンに寄り添うあの人がいたならぱ、印象に残らない筈がない。
ソウルイーターは、持ち主の身近な魂を喰らって初めて主に力を与える紋章だ。宿しているだけでは、ただの飾りでしかない。
『おにいちゃん』はソウルイーターの力を使っていた。あの時点で、シオンは既に誰かを喪っていた。
紋章が一番に目をつけそうな魂なんて、考えるまでもない。
泣いたか?泣いたろうな。グレミオさんはシオンにとって、母親みたいな存在だ。シオンの全てを受けて入れ、愛してくれる人。あの人は、シオンを守るためなら躊躇いなく身を投げ出しただろう。
死の間際、グレミオさんはシオンにソウルイーターを渡した俺を恨んだだろうか。クレオさんは、パーンさんは。
……シオンは。
「……っ」
罪悪感という刃に貫かれ喘ぐ心臓を、強く押さえる。
ああ、それでも。
俺はやはりお前に紋章を渡したい。お前を不幸にすると判っていても。
ウインディから紋章を守る為でもなく、歴史を変えてはいけないなどという薄っぺらい正義感ではなく。
お前との『絆』を断ちたくないという、自分のエゴの為に。
初めてマクドール家に来た日からの2年の間、何度も迷った。
シオンには、紋章のことなど知らずに幸せに生きて欲しい。そう願うのも本心で。
だけど結局、俺は自分の望みを通してしまう。
俺はどうしてもお前に、『ガキの俺』に会いに行って欲しい。
お前にたどり着くまでの300年を生きる、支えになってやって欲しい。
でもお互い様だよな。お前だって、突然故郷も家族も失くして一人ぼっちになったガキに、あんな大きな目印を渡して、また会おうなんて唆して、300年生きる約束をさせたんだからな。
俺を苦しめると判っていても、歴史を変えようとしなかった。
それってお前も俺と同じ気持ちでいてくれたってことだろう?
お前と過ごしたこの2年間は、300年の苦しみを帳消しにして余りあるほどの、幸せなものだった。

扉へと続く僅かな階段を上り、ライオンを象った真鍮のドアノッカーに手をかけた。嵐にかき消されないよう、やや強めに二度叩く。
「心残りは、手出しそびれたことかな……」
お互いにそれと意識していたのに、結局キス以上に進展することなく来てしまった。
出会った時のシオンは11歳で、2年一緒にいてやっと13歳だ。
せめて今14、5歳だったなら、一度くらいは関係もあったかもしれない。
そうしたら、もっとシオンとの『絆』は深くなっていただろうに。
「ま、仕方ないか…ガキにはちょっと早すぎたもんな……っつ…」
笑った拍子に頬の傷が引き攣って、痛みに呻いた。
凭れかかったドアを伝って、ずるずるとその場に崩れ落ちる。
――もう少し頑張って。
貧血で霞んだ目に、懐かしい笑顔が映った。立ち上がらせようと両手を差し伸べて来る幻に向かって、緩く首を振った。
大丈夫。まだそっちには行かねえよ。まだまだやることがあるからな。
幻は判ったとでも言うように小さく頷いて、掻き消えた。
相変わらず、お節介の癖に引き際も心得てる奴だ。
その直後、ドアの向こうに人の気配を感じた。
グレミオさんの誰何の声にかろうじて名前を告げると、俺の意識は闇に沈んで行った。


さあ、運命の輪を回そう。俺の命を贄にして。
『おにいちゃん』をお前の元に送ってやる。
300年前の、7歳の俺へ。
お前に未来[過去]を託そう。







テ坊祭の最後の「雨」はやっぱのこのシーンで。
ちゃっかりアルテドも入れてます。
ネタ詰まりしてる時に、テッドが『おにいちゃん』=坊だと最初から気付いていた設定を思いついて、これだ!と思いました。
最後のテ坊とアルテド描写を削って、テッド尽くし7に投稿。