赤月帝国に来る前は、自前の二本の足以外移動手段がなかったお陰で、大陸内を転々とすることが多かった。 本当は南の方が寒さに凍えることも食いっぱぐれる事もないんだが、どうにも足が向かなかったってのが本音だ。 誰だって、近よりたくない場所の一つや二つはある。 海 だからテオ将軍が群島諸国行きを決定した時、内心「冗談じゃねぇっ!」と叫んでいた。 それもこれも、シオンがクリスマスプレゼントに外国に行ってみたいなんてぬかすからだ。 丁度この時期、テオ将軍は軍務が暇になったらしくて、来週ならいいぞの返事に、シオン自身も実現するとは思ってなかったであろう願い事が、にわかに現実味を帯びた。 赤月に近い外国と言うと、上はハイランドかちょっと足を伸ばしてハルモニアとグラスランド、下はかつてのクールーク皇国の廃墟があるばかり。 近い所でハイランドに行くかと話がまとまりかけた所で、シオンの「海が見たい」の一言で、全面賛同を決め込んでいた俺の心境が一変した。 群島までは遠いだろと言えば、馬ならそれほどでもない、とテオ将軍。 ハイランドは子供の頃に行った事があるんだよ、どうせなら初めての国に行きたいし、とシオン。 群島なら治安もいいですしねぇ、北の方は今はやや落ち着かないようで、とグレミオさん。 じゃ俺は留守番を、と言い出す前に、無邪気な笑顔を浮かべたシオンに、テッドも一緒に行こうね!と腕を掴まれた。 あああ、この笑顔に逆らう術があるなら教えて欲しい…! しぶしぶ頷くと、シオンが嬉しそうに飛びついてきた。 まあ、あれから150年も経ってるんだし、大丈夫だよな…。 「凄ーいっ!水が青緑で綺麗ーっ!」 船から身を乗り出すようにして、シオンは海を眺めている。 湖しか見たことの無いシオンにとって、押し寄せる波や深く澄んだ水の青さ、飛び交う海鳥は何もかもが新鮮らしい。 「テッドもこっちにおいでよー。いい風だよ」 甲板に蹲って顔に濡れタオルを乗せた状態で、遠慮の意に手をひらひらと振る。 「船酔い大丈夫?」 「じっとしてればへーき。お前は気にすんな」 勿論船酔いなんて嘘だ。昔の船上生活ですっかり鍛えられ、この程度の揺れなど屁でもない。 だけど放っておいて貰うにはいい口実で。船に乗るなりすぐに気分が悪くなったことにして、こうして船の片隅で一人目を閉じている。 懐かしい、体に馴染んだ揺れ。肌を焼く日差し。潮の匂い。 船はミドルポートに向かっている。大陸に近く、群島一開かれた島であるミドルポートは、観光客の受け入れも盛んだ。 群島滞在中の宿はミドルポートと聞いて、ほっとした。この島は絶えず変化を続けていて、ほんの少し足が遠のけば全く違う町並みになっている。恐らく島に降り立っても思い出が揺さぶられることはないだろう。 思い出したくなかった。 あの船のことも、船に乗っていた奴らのことも。 記憶に手を伸ばそうとすると、堪らない重苦しさが胸に広がる。浮かぶ笑顔を懐かしく思うのと同時に、ひどく苦しい。 目を背けたい思い出が、奴らに付随するからだ。 あの絶望を思い出したくないのだ。 特に赤月からクールークの跡地を抜ける時は、周りの景色を見ない様、馬車の中で必死に寝たフリをした。俺たちがあの国を通った時はまだ皇国も健在だったが、森の風景は国があろうと無かろうと変わらない。 赤月まで徒歩で半日程の森の中に、天高くそびえる巨木が立っていた。当時から見事な枝を伸ばしていた樹は、何事も無ければ今もそこにあることだろう。 その木の根元に、奴が眠っている。 (ああくそっ!!) ギリと音が鳴るほど奥歯を噛み締める。 マクドール家に来てから、ずっと忘れてられたってのに。 ボー 汽笛が鳴って、船の速度が落ちた。もうすぐ港に着くらしい。 150年ぶりのミドルポートだ。 期待通り、ミドルポートの町は見事な発展を遂げていた。 基本的な建物はそのままなのだろうが、補修や改築の手が入って記憶とは違う姿になっている。 ほっとしたような、だけどちょっとだけ寂しいようなで気持ちは複雑だった。 麗しの巻き毛亭(この名前はいい加減改名すべきだと思う)に荷物を預け、テオ将軍を除いたメンバーでめぼしい観光地を見て回った。 城主の館は今は博物館になっていた。シュトルテハイム=ラインバッハ三世の生家と聞いて、シオンの目が輝いた。 成る程、シオンが群島に行きたいと言った理由に、ラインバッハの存在もあったらしい。 従者の手によって書かれた英雄伝は大陸中に広まり、今でも各国の子供たちの冒険心と憧れをかきたてているという話だ。確かに架空の物語として読むなら、キャラクターは魅力的だし、見せ方も上手くて面白い。 ナルシーの後ろをついて回っていた、なよっとした従者にそんな特技があったとはな。確かミッキーとか言う名前だったか。 英雄伝の内容は6割は嘘っぱちだが(何せナルシーを称えるエピソードは全て捏造だ)この本のお陰でリーダーが忘れ去られるのは早かった。公的な歴史書には罰の紋章を宿した軍主の存在が書かれていても、一般的にはラインバッハが群島戦争の英雄と思われている。 テオ将軍が写しを手に入れたターニャとペローの共同作である裏歴史書は、英雄伝初版と並んでガラスケースの中に収められていた。本には後付のいかつい鍵が取り付けられており、恐らくその鍵はラインバッハ家の者が持っているのだろう。 歴史書の表紙には、目ただない位置に小さく軍の名前が書きこまれていた。 あの戦いに於いて、軍名は仲間同士の合言葉だった。乗員以外は知らない、船を下りた後は口に出すことを禁じられた名前。リーダーがつけた名前。 本来は存在自体隠すべき筈の軍名入りのこの本が、鍵付きとは言えこうして展示されているのは、奴に宛てたメッセージなのだろう。 ここにいるよ。ここで待ってるよ。だから会いに来て。 奴を呼ぶ本の声が聞こえて来るようだった。 本の待ち人であるあいつは、今どこで何をしているのだろう。 間違ってもくたばってはいないはずだ。そんなヤワな奴じゃない。 「あ、これうちにある本だね」 シオンが声を落して耳打ちしてくる。他国の違法な写本を所持しているなんてバレたら大事だ。 「そうだな。あっちも見に行こうぜ」 シオンを促して、ガラスケースから離れた。奴を待つ本の想いに、俺の心もそっと乗せて。 滞在2日の群島諸国の旅は、出発前の懸念に反して楽しいものだった。 久し振りに群島の料理を食べてマグロの旨さに改めて感激したり、後半は記憶と現在の違いを楽しむ余裕も出てきた。 何より見るもの全てにはしゃぐシオンが、俺の気持ちを引き立ててくれた。 群島を去る日、シオンの「また遊びに来ようね」の誘いに俺は素直に頷くことができた。 古い記憶は、シオンとの楽しい思い出に塗り替えられた。 群島を振り返る時、思い出すのはこれからはあの戦いじゃなくシオンの笑顔だ。 「テッド君、見えてきましたよ」 隣で馬の手綱を握るグレミオさんの声で、我に返った。 「多分あれだと思います。行きに見た時、他にそれらしき樹も見当たりませんでしたから」 「え、どこどこっ」 「あそこです」 グレミオさんが指差す先に視線を向ける。 街道から少し離れた木々の合間に、頭一つ飛び出ている太い樹がある。 「…あれだ」 前から横へ、後ろへとゆっくりと流れていく巨木を目で追う。 「その樹がどうしたの、テッド」 車内にいたシオンが、俺たちの会話を聞きつけて窓から顔を覗かせた。 「昔、あの樹の根元に相棒を埋めてきたんだ」 「ふぅん、そうなんだ」 気のない声を残して、シオンの頭が引っ込んだ。 俺の言い方から、多分シオンは壊れた武器とでも思っただろう。 共に戦った、俺の為に死んだ弓使い。 150年間一度も墓参りに行かなかった俺を、怒っているだろうか。 いや、きっと奴はそんなこと気にしてないだろう。 今は無理だけれど、いつか赤月を去る時に笑って会いに行こう。 そして今日の報告をしてやるんだ。 海は相変わらず青かったぜって。 テ坊祭なのに、アルテド色が濃くなってしまった(苦笑) |