飛ばない鳥



人間の時間の感覚というものは、ひどくあやふやだ。
一日、一月、一年という単位で見ればその歩みは光のようなのに、10年という単位を振り返れば、もうこれだけ経ったという思いと、やっと10年かという思いが交錯する。
時の流れに流されることも逆らうこともできず、ただたゆたうだけの自分にも、そういった時間の感覚だけは残されている。
萌え出る花を愛で、木陰で強い日差しから逃れて体を休め、舞い散る落ち葉に心のうちを振り返り、大地を覆う雪に慰められる事を幾度が繰り返した頃、ふと彼の事を思い出した。
あれから何年が経っただろう。
あの戦争が終わって10年目に再会し、以来時々顔を見せに行く、自分と同じように時に取り残された存在。
ふらりと思い立った時に行くだけなので、訪問の回数も片手で事足りる程度だが、そう言えば既に何回か春を迎えたような気がする。
そろそろ顔を見せに行ってやろうか……行き先をデュナン地方に定め、冬の間滞在していた町を後にしたのが一週間前の事だった。




首都に近づくに連れて、街道沿いの宿屋もきちんとしたものになってくる。
部屋の設備も整えられており、安全性の面でも衛生面でも問題はない。夕食の時に出されたワインがデュナンから遠く離れた地方産のものである事から、交易が盛んな事も伺える。

「うちの大統領ですかい?ああ、素晴らしい大統領ですよ。戦後の僅かな期間で、これだけ豊かな国にしちまったんだから。あの若さでねぇ……って真の紋章の所為ですけどもね。真の紋章持ちってぇのは年を取らないそうで。わしら、みんなあの方には感謝しとります」
宿屋の主人が誇らしげに自国の大統領を語るのに、セイはそうかと短い返事だけを返して再びワイングラスを傾けた。どんなに優秀なトップでも、いつかは老いによってその地位を退かざるを得ない。だがいつまでも若いままであるなら、それは正に民衆にとっては理想の統治者だ。その為に彼がどれだけ苦労しているかなど、彼らは知るべくもない。
文字通り自分の命を削って国の為に働くカナト。他人に任せることをせず、全て自分の目を通して確認してからでないと書類に認印を押さない。不審な点があれば徹底的に追求し、不正やごまかしは一切許さなかった。政治に関する知識を完璧にシュウに叩き込まれたカナトは、シュウの助言もたまにしか必要ない位になっていた。
あんな生き方は命を縮める。肉体ではなく、精神の寿命が尽きていく。
ナナミとジョウイを失った彼に残されたものは、生まれたばかりでまだ保護を必要とするデュナン国だった。彼はまるで母親のように、妄執的に国に尽くした。それだけが生きる目的であるかのように。
同じように全てを失った自分とは対照的だ。国としてのトランに執着は無かった。お前のものだと言われても何の感慨も涌かなかった。それは多分、カナトのように自分で一から得た国ではないからだろう。バルバロッサを倒し、首を挿げ替えただけのグレッグミンスター城は到底自分の城とは思えなかった。むしろ懐かしい思い出の残る、自分にとっては辛いだけの城だったのだ。

「でもねぇ…最近大統領は少しお疲れのご様子で。昨年の建国50周年式典の時も、途中で席を立たれたんですよ。まあ最後の最後なんですけどね。ここらで暫く休養なさった方がいいんですがねぇ……」
「……まだ調子が悪いのか?」
「みたいですよ。この前の隣国訪問も取りやめになりましたしね。早く元気になって欲しいですよ」
大きな溜め息を吐く主人の向かいで、セイは苦々しく酒を嚥下した。美酒だと感じていたものが、急に饐(す)えた味に変わる。
休めと言って休む相手ではない事はよく判っている。限界まで無茶をして、倒れてからようやく休むのだ。いつもはそこまで行く前にシュウの息子が強制的に休ませるのだが(80に手が届こうかというシュウの代わりに、今はその息子がカナトのサポートに入っていた)、今回は式典が有ったのでそれもままならなかったのだろう。
だとすれば今ごろは自分を待ち侘びている筈だ。体調が悪いときは誰もが人恋しくなるが、あの城の中に彼が縋れる相手はいない。カナトはかつての戦友とも、はっきりと外見に差が出てきた辺りから一線を引くようになっていた。今や彼が素顔を晒せるのは自分だけなのだ。
彼の外見と同じように50年前と寸分違わぬ自分だけが、城という名の鳥篭に閉じこもった彼の唯一のよりどころ。
そしてそれは……自分も同じこと。
カナトと会っている時は、セイ・マクドールでいられた。今は亡きマクドール家の家名を名乗る事は、自分の正体を明かすことになる。家名を捨て、ただのセイとして生きている自分が、テオ・マクドールの息子に戻れる場所。過去を共有できる相手。
だから自分はカナトの元に行く。自ら鳥かごに篭った哀れな鳥の元へ。

ワインを飲み干し、自分にあてがわれた部屋に戻ってベッドに横になった。このまま行けば明日には城に着く。今回はどういう風に驚かせてやろうか、そんなことを考えながらセイはゆっくりと目を閉じた。






「よくいらしてくださいました。どうぞこちらへ」
父親に良く似た鋭い眼光の男は、セイに向かって慇懃に頭を下げた。デュナン国でも一、二の権力を持つ男が礼を尽くす相手に、警備の者たちの間にどよめきが走る。
何処かの国の王子がお忍びで来たのだろうか、いやあの少年の雰囲気はどこか大統領に似ていないか?、もしや大統領の隠し子……などとひそひそ話をする警備の者たちを無視して、セイは男の後に続いて城内に入った。相変らず城の中は質素だが堅固で、主である大統領の人と形(なり)をよく表している。
「まさか正面からいらっしゃるとは思いませんでしたよ。いつも我々の警備をあざ笑うかのように裏から侵入してきたあなたが……どういう風の吹き回しです?」
エレベーターに乗り込み、最上階の大統領の部屋を目指す。こうして話すと、彼は父親に比べて雰囲気が柔らかい。母親の真面目さが表に出ているようだ。
「だろう?それが狙いだ。最近はカナトも驚かなくなって面白くないからな」
「……それはまた……警備の者たちはあなたのお顔を知りません。門番に向かって『カナトはいるか?セイが来たと伝えろ』では、刀を向けるしかないでしょう」
「だがお前が来ただろう。それにあの程度の奴らが僕に傷をつけられるものか」
「……そこまでお見通しですか」
苦笑いを浮かべ、男は主君と同年代の少年を見下ろした。見た目はどんなに幼くとも、年齢的には二人とも男よりずっと年上だ。実際彼は二人を年下だと思った事はない。滲み出る雰囲気が彼らの本来の年齢を知らしめている。
もっとも自分が知っているのはこの城の中での二人なので、セイなどは旅をしている間は子供らしいフリもしているのかもしれないが。流石に地のままでは外見と雰囲気の不一致が疑惑を呼ぶだろう。
「シュウ軍師は健在か?」
エレベーターが着き、扉が開くと同時にセイが歩き出した。カナトの部屋の前で立ち止まって男を振り返る。
「口は相変らず達者ですがね。体の方は大分弱ってきています。多分あなたとお目にかかれるのもこれが最後かと」
「……そうか」
微かに視線を揺らせたセイの隣まで行き、シュウの息子はいつものように部屋の扉をノックした。
「カナト様、私です。よろしいですか」
主君が待ち侘びた人物を連れているとは思えない、普段と全く変わらない口調で声をかける。扉の向こうから、入れ、という応えが返り――その声に滲む疲労にセイの眉が寄せられる。
「カナト様を見れば判ると思いますが、よろしくお願いします。……もう私たちではあの方を救えないのです」
苦渋に満ちた声で男はセイに一礼し、くるりと背を向けてエレベーターに戻っていった。わざわざ声をかけたのは、カナトを驚かせようというセイの悪戯に協力してくれたのだろう。
だが今の言葉はどういう意味なのか。
エレベーターの扉が閉まったのを確認した後、セイは部屋のノブに手をかけ、ゆっくりと回した。
「……!…………セイさん……」
予想していたのと違う人物の登場に、カナトの目が大きく見開かれる。ベッドの上で半身を起こし、書類に目を通していたカナトの顔が、してやられたとばかりにみるみる崩れ。
「驚いたか」
「驚きましたよ……まさか、堂々と正面から来るとはね。あいつはどこに?」
「戻って行った。中々話の判る奴だ」
ベッドに近寄りカナトの持っていた書類を取り上げると、セイはそれをぽいっと机の上に放った。
驚いたのはカナトだけではなかった。軍師の息子の言ったとおり、一目で判ってしまった彼の不調。
「こんなものを読んでいたら休養にならない。休むときはちゃんと休め」
「……眠れないんですよ。どうせ眠れないなら目を通してしまおうと思って」
いつもの事ですから、とさらりと言うカナトに、セイの眉が上がる。
「だったら眠るための努力をしてみろ。鏡を見たか?今のお前の顔はまるで死人だ」
ふくよかだった頬はこけ、目の下には大きな隈が出来ている。夜着から覗く腕は随分細くなっていた。
「努力はしてますよ……酒も薬も試しました。でも駄目なんです。眠れるのは飲んだときだけで、飲まなければ眠れない。そのうち薬も効かなくなりました。今は薬と酒を併用してやっと寝ているんです」
ほら、と顎でしゃくった先には、背の高い奥行きの浅いガラスの戸棚があった。陳列されている様々な種類の酒ビンは、飾りで無い証拠にどれも開封され半分ほどに減っている。
並んでいるのはアルコール度数の高い酒ばかりだった。
こんな酒を飲んでもまだ眠れないのか――愕然とするセイに、カナトはいっそ穏やか過ぎるほどの笑みを浮かべて言った。
「セイさんが来てくれないからですよ」
「……!……」
このやせ細った腕のどこにそんな力が残っていたのか、一瞬の隙をついてセイはカナトの腕の中に抱き寄せられていた。
「ああ、セイさんの匂いだ」
「……離せ、カナト」
「嫌です。不思議なんですが、セイさんが来てくれた時だけは酒も薬も必要ないんです。昔のようにぐっすり眠れるんですよ。ナナミたちがいた頃のように」
「カナト………」
「だからこのままでいさせてください。……僕が心配なら」
「…………」
卑怯だ、とセイは思った。そんなことを言われては逃げられないではないか。
押し付けられた胸はすっかり筋肉が落ちている。忙しい日々の合間も鍛錬を怠らなかったカナトだが、今はその体力もないという事か。
「……っ……」
ふいにぐらりとカナトの体が傾き、セイごとベッドに仰向けに倒れこんだ。慌てて体を起こそうとするが、がっちり抱きしめられていて身動きが取れない。
「カナトっ」
殴りつけて逃れようとして、頭上から寝息が聞こえてきたことに気付き手が止まる。不眠を訴えていたのが嘘のようにあっさりと眠ってしまったカナトに、自分がいると眠れるというのは本当だったのかと複雑な気分になる。
だからといってこのまま抱き枕をしている訳にもいかないと、セイは何とか体を動かして、完全に寝入って力の抜けたカナトの腕から逃れた。
「…………」
目を閉じたカナトはその幼い外見も手伝って、ひどく痛々しかった。心地よい眠りというよりは、泥のように睡眠を貪るその寝顔を見下ろす。

どうしてこんな風に自分を追い詰めるのだろう。
不眠の原因は恐らくこの国であろう。不老の大統領にかかる期待は大きい。ましてやそれが名君であるなら尚更だ。人々はもっともっとと彼に要求する。彼はそれを叶える。そして民衆は益々彼に求め、彼はその求めに応え続ける。人々の要求に終わりなどありはしないのに。
かつて英雄と謳われた赤月帝国の皇帝バルバロッサも、長い生のうちに自らを歪めていった。真の紋章を持つものが一国の主になる危険性を、自分はよく知っていたのではなかったか。
どんなに名君でも、トップに立ち続ける事は難しい。肉体が不老でも心が人間である限り、愛するものに置いて行かれる哀しみが王の心を歪めていく。
――僕はこの国が愛しいんです
僕だってトランの事は大切に思っている。
――この国を豊かにしたい。ナナミとジョウイを救えなかった分も。その為の苦労は苦労ではありません
父さんやグレミオ、テッドを失ったトランにいるのは辛い。あそこは思い出が多すぎて。
――僕が先頭に立って為した革命です。僕にはこの国の行く末を見届ける義務がある
僕は解放軍の象徴である旗印になっただけだ。帝国が滅びレジスタンスが解散すれば、旗はもう必要ない。
同じ道を歩いてきたのに、自分とカナトの選んだ道はこんなにも違う。
自分にとって戦争の終結は終わりだった。だがカナトにとっては通過点であるらしい。ナナミとジョウイを失った時点で、彼の終わりは「デュナン国の平定」に定められてしまったのだ。
期待という鎖で翼を封じられていた鳥は、今度は自らの手で翼を引きちぎった。
背中を濡らす赤い血は、乾くことを知らない。

「……馬鹿だ、お前は」
どうしてわざわざ自分を追い詰める?
もう自由になってもいいはずだ。彼はそれだけの代償を支払った。大切な家族を失い、時間の流れに取り残され、人として生きる術を失い……自らの肉体を酷使して国に尽くした。もう充分ではないか。
ベッドに横座りに腰掛け、カナトの髪をかき上げる。
「仕方ない、少しだけ付き合ってやる」
自分がいれば眠る事が出来るといったカナト。自分が何を言っても彼がこの国を見捨てることはないだろう。たとえその為に命を落としても。
飛び立つことが出来ないのなら、少しの間だけでも彼に休息を与えてやろう。流れる血を止めてやろう。
血まみれで足掻く鳥に束の間の安らぎを。

セイは上着とバンダナを外すと、もそもそとカナトの隣に潜り込んだ。カナトの体を動かして自分の分のスペースを確保する。
窓からそよいで来る風が心地よい眠りを誘う。ずっと旅続きだったため、こんなに柔らかい布団で昼間から眠るのは久しぶりだ。
そう言えば、誰かとこんな風に一緒に眠るのは何十年ぶりだろうか。かつてはテッドと二人わざわざ一つのベッドに潜り込み、毛布を被って一晩中語り明かしたこともあった。
疲れていたのか、目を閉じると睡魔はすぐにやって来た。ぬくもりに懐かしい思い出を呼び覚まされながら、セイも眠りに落ちていった。




息苦しさを覚えふっと目を開けると、目の前には規則正しく上下する誰かの胸。
自分の頭が抱きこまれているのだと気付き、とりあえず少しだけずり上がって大きく息を吸い込むと、まだ寝ている相手の顔を覗きこむ。
「……そんな無防備に寝ないで下さいよ」
小さく苦笑する。自分の気持ちを知っているのだから、少しは警戒すればいいものを。
「襲っちゃいますよ……」
バンダナを外し、目を閉じたセイはいつもより幼く見え。
やれやれと溜め息を吐くと、カナトは布団をセイの肩にかけてやった。信用されているのだろうとは思う。少なくとも寝込みを襲うような人間ではないと。だがカナトだって男なのだ。好きな相手が隣で寝ていて、我慢しろというのは中々酷ではないか。
もしかしたら全く意識されていないのかもしれないが。それはそれで悲しい。
「まあ…隣に来てくれただけ進歩かな」
気位の高い猫がようやく自分から近づいて来たというところか。かといって追いかければまた逃げてしまうのだろう。広げた腕に飛び込んで来てくれるのはいつになることやら。
「焦らずにゆっくりやりますよ。時間はたっぷりあるんですから。………これだけ許してくださいね」
眠るセイの白い頬にそっと唇を落とす。目を覚まさなかったことに感謝の祈りを捧げ、カナトも再び体を横たえる。
目を閉じるとすぐに優しい眠りが訪れた。








END









なんかちっとも主坊じゃない気がしますが…この二人ってプラトニックなんですよぅ。次回に期待!(笑)
前回の自信満々なカナトは何処へ(口だけかっ)コウリよりもよっぽど繊細なタイプらしいです。



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