記憶に残る一番古い光景。
天高く燃え上がる炎の煙。甲高い悲鳴を上げながら逃げ惑う人々。
炎の中で高笑いを続ける女。
いつも厳しい祖父が必死の形相で何か叫んでいる。
あまりの出来事に動けないでいた自分の腕を引き、安全な場所まで連れて行ってくれた「恩人」。
もう彼らの顔も思い出せない。どんな姿をし、どんな声をしていたのか忘れた。
ただ村を滅ぼした女の名前と、「恩人」の優しかった手だけは覚えてる――




神は静かな場所に降りて来る




◇◇過去(テッドがマクドール家に来た年)
「テーッド」
後ろ手に何かを持ち、怪しい笑いを浮かべたシオンが猫撫で声で近づいて来たものだから、また何か企んでいるなと思ったら、目の前に突き出された物を見て呆気に取られた。
「……花火?」
夏になると何処の道具屋にもある、ありふれた線香花火である。
だが今はもう九月も末だ。花火そのものより、よくまだ手に入ったなと言うのが最初の感想だった。
「そうっ、花火だよ!店の最後の一袋を買ってきたんだ。ねえねえ、今夜一緒にやろうよ」
「別にいいけど、何でまた今頃…って、あ……」
言いながらその理由に思い当たり、テッドは小さく苦笑した。先月テオに連れて行って貰った夏祭りで見た打ち上げ花火がひどくシオンのお気に召したらしく、あれから何度も花火を見たいと付き人に訴えている姿を思い出したのだ。
今年の夏祭りはあれが最後だからまた来年連れて行って貰いましょうと宥められ、納得したと思っていたのだがどうやら諦めていなかったらしい。
打ち上げ花火が駄目ならせめて普通の花火でもと、道具屋を駆けずり回った姿が容易に想像できておかしかった。
「じゃあ今夜は俺もお屋敷に泊めて貰って、花火大会と行くか。でも線香花火だけってのは寂しいよなぁ。……んー、もしかしたらもう少し手に入るかも」
「ええっ、本当!?」
シオンの顔がぱぁっと輝く。
「ああ。品揃えのいい店を知ってるんだ。あそこならまだ何か残ってると思う。よし、ちょっと聞いてくるな。夕飯までにはお屋敷に行くよ」
「僕も行く!」
「だーめ。お前は俺が泊まることをグレミオさんに伝えなきゃならないだろ。それに色々準備もあるし。ちゃんと水を張ったバケツとろうそくを用意しておけよ。花火やるんならこれらは絶対必要だからな」
びしっと鼻先に指を突きつけると、シオンが渋々と言った感じで頷いた。
だが納得させれば話は早かった。じゃあ待ってるからね!と言い残し、子犬のように屋敷に向かって走っていく。
その後姿が見えなくなるまで見送って、テッドは踵を返した。
これから行く所は一見普通の道具屋だが、裏では名の通った情報屋だった。連れて行ってもどうせ気づきはしないだろうが、脛に傷持つ連中や傭兵が出入りするような店に、マクドール家のお坊ちゃんを伴う訳には行かない。
実はテッド自身もそれを生業としている時期があった。真っ当な仕事が見つからないときの最終手段としてだが、長い生の間に培われた知識と洞察力が役に立ち、テッドの情報はそこそこの値段で取引された。
情報が確かであれば、子供であっても正当に取引が行われる。むしろ子供の方がその外見を利用した有能な情報屋になれるのだ。
この町では幸いにも並以上の庇護者に恵まれ、そういった後ろ暗い仕事は一切していなかったが、習慣とは恐ろしいもので、気がつくとこの町一番の情報屋と顔見知りになっていた。何気なく入った店のどこか陰湿じみた空気に気づいてしまったテッドと、テッドに同類のにおいを嗅ぎ取った店主のお陰で。
(結局綺麗になんてなれないってことか)
仕立てのいい服を着てお屋敷に出入りしていても、染み付いた汚れは落としきれはしない
「…………」
握り締めた拳をズボンのポケットに突っ込む。俯いていた顔を上げ、市場へと足を向ける。
判っている事だ。己のして来たことから目を背け、綺麗に生きようとは思わない。
ただシオンにだけは、こんな自分を知られたくない。


シャアアア――
暗闇に色とりどりの火花が散る。
「よーし、次は鼠花火やりますよ。坊ちゃんたち、もう少し下がっていて下さい」
「うん!………わわっ、こっちに来たーっ」
名前の通り、鼠のようにちょこまかと走り回る花火に歓声が上がる。ぴょんぴょん撥ねながら避け、ようやく火が消えると、狙い済ましたようにパーンが第二弾に火を点け、再び追いかけっこが始まった。
「あははははっ、凄いね、これ!」
「だな!こんなのは俺も初めてだ。……っと、やばっ。こちに来るな、シオンの方に行け!」
「ひどいやテッド!しっしっ、テッドの方に行っちゃえーっ」
火点け担当のパーンの周りには、ここらでは滅多に見かけない変わった花火の残骸が散らばっている。鼠花火に落下傘、小型の打ち上げ花火もある。
これらは全てテッドが情報屋の所で仕入れてきたものだった。

『お前がここに来るなんて珍しいな。果物を買いに来たのか?それとも売りにかい?』
表通りから一本入った、およそ商売には不向きな場所に小さく店を構える道具屋は、お世辞にも繁盛しているようには見えない。軋んだ音を立て、立て付けの悪い歪んだ扉を開けて入ってきたテッドの姿を見て、人懐っこそうな白髪交じりの店主の目がきらりと光る。
『違うよ、花火が欲しいんだ。あんたのとこなら珍しい物も置いてるだろ』
『花火ってあの、夜にやる花火か?あるにはあるが、また変な物を欲しがるな』
『俺の親友がご所望でね』
親友の言葉に、店主の顔に皮肉気な笑みが浮かんだ。
『将軍家の坊ちゃんが親友たあ、いいご身分だよな。お前もいつまで猫被っていられるのかねぇ。坊ちゃんはお前が何してきた知らないんだろ。一度体に染み付いたもんは、どうやったって取れやしねえ。お仲間にはちゃーんと判っちまう。俺がお前に気づいたようにな』
『いつまでもあそこにいるつもりは無いさ。で、花火は?』
『ちょっと待ってな』
店主は一旦奥の部屋に向かい、大きな箱を一つ抱えて戻ってきた。蓋を開けると、中には花火がぎっしり詰まっている。
『好きなだけ持って行け。どうせもう時期はずれで売り物にはならないもんだ』
『どうも』
目に付いたいくつかを選んで代金をカウンターに置く。その1割だけを取って、店主は残りをテッドの方に戻した。
「在庫処分が出来て助かったよ」と笑う店主に心からの礼を言って、テッドは店を後にした。
外見からは只の寂れた道具屋にしか見えない。
だがその中では、戦争ともなれば国一つを揺るがせるだけの大きな情報がやり取りされている。


「あーあ、もう派手なのは全部終わっちゃったね。さて、最後のシメの線香花火だ!はい、テッド」
「サンキュ」
渡された数本の花火を受け取り、テッドはしみじみと手の中の花火を眺めた。
「線香花火っていいよなぁ。最後の火がぽとって落ちる瞬間は寂しいんだけど、他の花火では味わえない良さがあるって言うか」
「だね。ねえねえ、勝負しよう。一緒に火を点けて、先に落ちた方が負け」
「いいぜ。負けないからな!」
「僕だって!」
残すところ線香花火だけになったので、パーンは俺はもう居なくてもいいですねと、いそいそと屋敷の中に戻って行った。
これからいつものようにグレミオの夜食を食べるのだろう。あれだけ夕食を食べた後なのに、よくまだ入るものだと感心する。
パーンを見送った後、二人は再び花火に視線を戻した。風除けの石に囲まれたろうそくの炎に、そっと花火を近づける。
せーの、の掛け声に合わせて同時に火薬部分を炎に触れさせる。燃え上がる音の後、ぱちぱちと小さな火花が暗闇を照らし出した。
「綺麗だね」
「ああ」
明かりのない闇の中では、こんな小さな炎でさえ明るく輝く。
ちらっと隣を伺い見ると、シオンは真剣な表情で花火の行く末を見守っていた。
ふっと頬が緩む。
子供の姿をしているとはいえ、実際は三百年生きている。花火は花火という品物でしかなく、こんな風に自分でやって楽しむものではなくなっていた。
(そういやシオンはよく一緒にって言うよな)
一緒に遊ぼう、一緒にご飯を食べよう、一緒に寝よう……誰かと何かを共有する喜び。あれは楽しかったよな、と共通の体験を語り合う楽しさ。
こんな感情は久しく忘れていた。誰かと共にいると言う事は、こんなにも楽しいものだった。
「あ、落ちる!」
ギリギリまで膨らんだ火の玉が、とうとう重力に耐え切れず落下した。地面に触れると同時に火が消える。
「俺の勝ちだな」
テッドが勝ち誇ったように笑った。テッドの手の中の花火は、未だふるふると震えながら芯にしがみついている。
火の落ちた花火を握り締め、シオンは悔しそうに頬を膨らませた。
「何でテッドのはまだ落ちないんだよ。同じの使ってるのにずるい!」
「絶対揺らさないのは勿論だけど、後は火薬の量とか運だな。……っと、これも限界」
小さなオレンジ色の光が、地面に落ちて弾けた。
「もう一回やろう!今度は負けないからね!」
「おう。何度でも受けてたってやる」
顔を突き合わせ、二人で息を詰めて小さな火の瞬きを見守る。
ひっそりとした小さな小さな火の華。緩やかに流れていく時間。
あんな派手な花火なんて必要なかったのかもしれない。
シオンがくれた線香花火は、さっきまでのどの花火よりも心に染みた。




◆◆現在
じめじめとした空気と薄暗い室内。
一日のうち数時間だけ高窓から差し込む太陽の光が、何とかテッドに昼と夜とを教えてくれている。
最初の頃は床に印を付けて日にちを確認していたが、それもやがて判らなくなってしまった。
「う……」
楽な姿勢を求めて不用意に体を動かした途端、戒められた手首の傷が擦れて痛んだ。
弱った体は、僅かな動きでも軋みを上げる。右手首を拘束する鎖は、壁から数メートルしか離れる事を許してくれない。
ひんやりと冷たい石畳の床と壁は、触れている部分から容赦なく体温を奪っていく。春先だというのに、ここはひどく寒かった。
だがまだ耐えられる。今までもっとひどい環境の中でだって生き延びて来た。この程度で辛いなんて、暖かい場所と人たちに囲まれすっかり鈍ってしまった。
(シオン……)
大きく息を吐き、壁に頭を凭れさせて天井を仰ぐ。
彼らは無事に逃げおおせただろうか。
巻き込みたくはなかったのに。結果的に、自分はあの優しい家の人たちに不幸を齎してしまった。
今までで一番の不幸を。
ずっと抱えてきた紋章をシオンに託した。ちゃんとした説明もせずに、友情に縋ってシオンが断れないのを判っていて『一生のお願い』を口にした。最低最悪の『お願い』だ。
この国の宮廷魔術師の名前を聞いた時に、ある程度こうなることは予想がついていたのに。
(ウィンディ)
三百年の間、片時も忘れたことの無い名前。村を滅ぼしたあの女の哄笑と冷たい目は、今でもはっきり脳裏に焼きついている。ウィンディにだけは絶対に渡すなと、命をかけて紋章を守った祖父の最期。
紋章のことを忘れ、一時ささやかな平穏に浸るテッドをあざ笑うかのように、ウィンディはテッドの行く先々に姿を現した。存在を気取られずに上手く逃げた時もあったし、見つかって紋章を暴走させてしまった事も一度ではない。
彼女の真の紋章に対する執着は尋常ではなかった。
いや、ソウルイーターに対すると言った方が正しいのか。
世界には門とソウルイーターの他に、二十五の真の紋章が存在している。真の紋章を手に入れたいだけなら、他の紋章でもいい筈だ。だがウィンディは執拗なまでにソウルイーターに固執している。
そもそも一人の人間が、二つも真の紋章を持つことができるのだろうか。
たった一つでも人の運命を狂わす真の紋章――それを二つも手に入れたなら、それは既に『人』ではない気がする。
(俺はシオンにとって疫病神でしかなかった)
ウィンディがこの町にいると判った時点で、出て行くべきだった。ウィンディの狙いはテッドの右手に宿る紋章。テッドさえいなくなれば、シオンにこんな運命を強いることはなかった。
(ごめんな……それでも俺は、少しでも長くお前といたかった)
冬になる前に出て行こう。春が来る前には行かねば。シオンが仕官するまでいちゃいけない。でも今までみたいに黙って出て行くんじゃなくて、ちゃんとシオンには別れを告げて行きたい。シオンも薄々感づいているようだ。出て行く事を打ち明けようとすると話が逸らされる。来週には言わなくては…明日には必ず…。
ずるずると自分に言い訳して、逃げられない最悪の所まで来て、あの女にみつかった。
だがテッドがロックランドに同行していなければ、シオンが清風山で命を落していたのは明白で。
どちらがシオンにとって良かったのだろう。
帝国軍の一兵士として殉職するのと、紋章の呪いに囚われるのと。
(……それは俺の都合のいい言い訳だ)
死ぬよりは生きているほうが良かったんじゃないかって、シオンの傍にいたのは間違いじゃなかったんだって、自分の行為を正当化したいのだ。
ソウルイーターを宿した苦しみは、誰よりもよく知っているのに。
勿論再び生きてシオンに会う事ができれば、紋章を返して貰うつもりだった。だが紋章の力を使うなと、使えば紋章なしでは生きられない体になる事を伝えそびれてしまった。シオンがまだ紋章に魅入られていない事を祈るばかりだ。
そして今のテッドの状況も厳しいものだった。紋章を手放したお陰で、時折全身がバラバラになりそうな痛みが走る。更に牢につながれ体力の落ちた体では、自力での脱出はまず不可能だった。
誰かが助け出してくれるにしても、テッドがここに居る事を知る者は誰もいない。
ウィンディは何故まだテッドを生かしておくのだろう。紋章を持たない死にかけの子供など、用済みの筈なのに。
「………………」
長く思考して疲れた体が休息を欲し、意識がまどろみ始めた。
眠っている間に体温が奪われないよう、体をできるだけ小さく丸める。昔一人で野宿していた時も、よくこうして凍えながら眠った。
まだ死ぬものか、と思う。シオンにもう一度会って無事を確かめるまでは死なない。あの女に一矢報いるまでは死ねない。
(シオン……)
決して心地よいとは言えない眠りは、テッドを懐かしい記憶へと誘って行った。