◆◆現在
目覚めると、相変わらず冷たい牢獄の中だった。
(夢か……)
暖かい暖炉も食事も優しい笑顔も、夢と共にかき消えた。
あれは今年の冬の出来事だ。まだ半年も経っていないのに、遥か遠い昔のような気がする。
ぼんやりとした目で、窓を見上げる。太陽はまだ昇っていなかった。
(シオン……お前はどうしてる?)
無事に逃げ仰せているのか。それとも既にウィンディの手に落ちているのか。
(あの女はもう俺のことなんて忘れているのかもしれない)
ここに囚われて以来、ウィンディはまだ一度もテッドの前に姿を現してはいなかった。
あれだけソウルイーターに固執していたウィンディの事、関心は現宿主のシオンに移ったのだろう。
(俺はそうして、ここで死んでいくのか)
誰にも知られずにひっそりと。何も遺さずに。シオンに重荷だけを背負わせて。
(嫌だ!)
何としてももう一度、シオンに会いたい。会って謝りたい。こんな所で一人で死にたくない!
その時、コツコツコツという石畳を踏む足音が聴こえてきて、テッドは顔を上げた。
食事の時間だろうか。にしては、いつもの看守と足音が違う気がする。もっと軽い…
重苦しい音と共に扉が開く。現れた人物の姿を捉えたテッドの瞳が、怒りで燃え上がった。
「……ウィンディっ!」
「久し振りだねぇ、テッド」
長い髪を高い位置で結い上げた、美しい、だが冷たい目をした女は、優雅な笑みを浮かべて中に入ってきた。薄暗い牢内に、華やかな彼女の存在はひどく不釣合いだ。
「ふふ……大分弱っているようだね。気力の方はまだまだ衰えていないみたいだけど」
ウインディはテッドに近づくと、ドレスが汚れるのも構わず傍らに屈み込んだ。白く細い指で、テッドの顎を持ち上げる。
「その目…昔とちっとも変わっていない。隠された紋章の村で、目に涙を一杯溜めて睨む幼いお前は本当に愛らしかった。紋章を外して少しは成長したかい?ああ、背が伸びたようだね…」
指先がそっと頬を滑る。まるで愛しい我が子にするような優しい愛撫。
「ああ…ずっとお前を憎んできた!あの日のことは片時も忘れたことはない!」
奥歯を噛み締め、全身全霊を込めて睨みつける。体が動かない今、視線だけがテッドの武器だった。
「勇ましいこと。お前のお友達も中々手強いよ。今あの子が何をしているか知っている?解放軍のリーダーを引き継ぎ、父親の守る帝国軍に反旗を翻しているんだよ」
「何、だって…シオンが?」
テッドが驚いて目を見開く。
「お陰で色々厄介な事になっていてね。お前にも手伝って貰うよ。お前ももう一度お友達に会いたいだろう?」
「何?」
身構えたテッドの頬を淡い光が照らし出す。
ウィンディの掌の上で、闇に逆らい発光する透明な球体がゆらゆらと揺れている。
やがてその封印球の中心から、徐々に黒い影が滲み出て来た。
「これには何が封じられていると思う?」
ウィンディが楽しげに哂う。封印球に閉じ込められたものが、出口を求めて大きく波打つ。
「支配の紋章ブラックルーン…これをお前に宿してあげる」
「なっ……」
ブラックルーンが何かは判らずとも、危険な物だと言う事は本能的に察した。薄笑いを浮かべたウィンディが、テッドの右手を掴んで引き寄せる。
「止めろっ、離せ!」
目の前に翳された不気味に蠢く影から逃れようと、テッドは必死に抵抗した。
ずり上がった背中が壁にぶつかる。逃げ道がない!
「無駄だよ。それにお前の為でもあるんだよ。真の紋章を外した反動は肉体に返る。止まっていた時間が一気に流れ出し、体は負荷に耐えられず死に至る。ブラックルーンは真の紋章の代わりにはならないが、痛みを麻痺させる事ができるからね」
労わるような優しい声で囁き、ウインディはテッドの右手に封印球を押し当てた。球が消えて中のものが解放され、右手に吸い込まれていく。
「う……あああああっ……」
神経の一本一本に侵入されるかのような激痛に、テッドの喉から絶叫が迸る。
やがて影が完全に吸い込まれると、がくりと首が落ちた。意識を失った体をウインディが優しく抱きしめる。
「お前の命の灯火が消える前に、ソウルイーターを取り戻そう。あれはお前の紋章。あんな子供が主なんかであるものか。私の忠実な僕、テッド…」
汗で張り付いた髪をかきあげてやりながら、恍惚とした甘い声囁く。
それに呼応するように、テッドの手に宿ったブラックルーンが不気味な赤い光を発していた。



***


パンヌ・ヤクタ城での戦い以降、仲間が増え、城も徐々に整備され活気が増してきた。
リーダーであるシオンの部屋も増築し、一人では広すぎるほどだ。
ここの所大きな出来事もなく、皆己の鍛錬に励んだり、財政のやりくりに駆け回っていたりと、そこそこ平穏な日々を過していた。
夕食後早々に自室に戻り、窓に腰掛けてぼんやりと夜空を眺めていたシオンは、扉をノックする音に気づいて誰何の声を上げた。
「私です。よろしいですか」
返って来たのは、よく知った付き人の声。
「いいよ、開いてる」
「失礼します。……おや、暇さえあれば本を開いている坊ちゃんが、何もしていないなんて珍しいですね。流石に疲れましたか?」
「考え事をしてたんだ」
グレミオの姿を確認すると、シオンは再び視線を窓の外に戻した。
正式に解放軍リーダーを継いで以来、シオンは素直に感情を表に出さなくなった。
以前はその日あった事を毎日グレミオに報告して来たのが、今ではこちらから尋ねなければ何も語らない。
かつての無垢な笑顔は鳴りを潜め、大人びた微笑を浮かべるようになった。
それがグレミオを始め、幼い頃から見守ってきたクレオやパーンには少し寂しい。
主の成長を喜ばない訳ではない。自分たちの育てた坊ちゃんが、皆に慕われているのは誇らしい。
だがそれは経験を重ね、肉体的にも精神的にも将足り得る器になってから見られる筈の姿だった。
シオンは時間がある時は、マッシュを師に日夜軍略と帝王学の勉強に打ち込んでいる。
その合間をぬって、カイとの稽古も怠らない。実践での経験が武術ではない棍の技を磨き、今ではカイから3本のうち2本は取れるようになっている。
そしてソウルイーターと呼ばれる呪われた真の紋章を宿しながら、人々を惹き付けてやまない、シオンが持つオデッサ以上のカリスマ性。
初期からの解放軍メンバーがオデッサの遺言をすんなり受け入れたのは、シオンの指導者としての輝きを認めたからだ。
オデッサの選定眼は正しかった。
シオンがまだ15歳の子供である事を除けば。
圧し掛かってくる期待に応えようと、シオンは益々己を殺していく。感情を抑え、我侭や甘えを飲み込み、子供である事を止めていく。
シオンが選んだ道について、グレミオは何も言うつもりはない。
ただ自分たちの前でまで我慢しないで欲しい。自分は解放軍リーダーをではなく、シオンを守るためにここにいるのだから。
グレミオはシオンに近づくと、穏やかな声で尋ねた。
「テッド君のことですか」
「何で判るのっ?」
シオンが驚いて振り返る。
その顔が、悪戯や隠し事を言い当てられた時の見慣れた表情だった事に、思わず笑みが零れた。
「私もテッド君の事は心配ですから。……坊ちゃん、テッド君がずっと年上だって気づいてましたか?」
「いや、よく三百歳って言ってたけど冗談だと思ってたし…。テッドって時々凄く子供っぽくて、下手したら僕より年下みたいだった」
「ええ、坊ちゃんと一緒の時のテッド君は本当に子供らしかったです。でも時々わざとはしゃいでいるように見える時もありました。保護者も無くたった一人で生きてきた戦災孤児であれば、年齢より大人びてしまうのは無理もない事です。ですから私たちも、多少違和感を感じても何も言わないで来たんです。まさか三百年もあのままの姿で生きて来たなんて……」
言いながらグレミオは、時折テッドが見せた寂しげな顔を思い出した。
彼は笑顔の下に、どれだけの涙を隠して来たのだろう。
本来なら自分より遥かに年上であるテッド。だがどんなに大人びてはいても、グレミオから見れば彼は子供でしかなかった。大人になるに連れて失っていくものを、テッドはまだ持ち続けていたように思う。
体と同じように彼の心も、子供のままで止まっている。
「………ずっと考えていたんだ。あの時、テッドが囮になる以外に方法は無かったのかって。紋章を守るという理由があったとは言え、僕はテッドを置いて逃げた。テッドはあんな傷だらけの体で僕たちを庇ってくれたのに」
唇を噛み締め、シオンは膝の上の右拳を左手で覆った。
両手には、昔は稽古の時しか着けなかった手袋。もう一日中着けている事にも慣れてしまった。
「本当はこんな紋章さっさと外してしまいたい。だけど絶対に守るってテッドと約束したから……。それにこの紋章が無ければ、今の僕ではウィンディに太刀打ちできないのも事実だ」
「坊ちゃん……」
「強くならなきゃ。僕自身も、解放軍も。もっと仲間を集めて軍を鍛えて…反乱なんて言わせない。オデッサの意思は僕が受け継いだ。ウィンディの喉元に刃を突きつけられるようになるまで、僕は強くなる。……グレミオ?」
心臓に押し付けるようにして抱きしめられ、シオンが目を丸くした。
「グレミオも坊ちゃんと同じ気持ちですよ。皆でテッド君を助け出しましょう。何があっても坊ちゃんについて行きますから、坊ちゃんには私やクレオさん、パーンさんがいるって事を忘れないで下さいね。城の中だって昔みたいに甘えて下さっていいんですよ」
「何それ、今だって充分甘えてるよ。グレミオたちがいるからこうして頑張れるんだ。僕一人だったらとっくにくじけてたよ」
「坊ちゃん……!」
抱きしめる力が増した腕の中で、シオンは小さく微笑んで目を閉じた。
この温かい腕があるから、どんな困難にも立ち向かえる。振り返らず前に進む事ができる。
(僕は一人じゃない)
揺るがず真っ直ぐ立てる帰るべき大地がある時、人は新たな一歩を踏み出す勇気を得る。
(テッド、君も一人じゃない)
だから待ってて。必ず助け出すから。
彼の帰るべき場所はここにある。