さらさらと砂が流れ落ちていく。
長い間留め置かれた砂時計の砂は、堰が外された瞬間から重力に従って一気に落下を始めた。 細い通路は重みで広げられ、砂は通常の数倍のスピードで流れていく。 だがその音はもう聞こえない。 右手に宿ったブラックルーンが、目と耳を覆い隠した。 光の下を歩いていても、世界は闇と静寂に包まれている。 見えているのに、聴こえているのに、何も感じない。まるで自分の周りにだけ薄い膜が張られているような、希薄な現実感。 窓際に飾られた豪華な花瓶には、血の様に真っ赤な花が生けられている。何気なく触れると、指先に微かな刺激を感じた。 「………」 見る見る膨れ上がって行く小さな赤い玉を、微動だにせず見つめる。やがて指を伝って床に落ちた。 「怪我をしたのかい?その花は棘を取っていないと言っただろう」 涼やかな甘い声がふわりと背中を包んだ。声の主はテッドに近づくと、血の滲んだ人差し指を手に取った。 「痛みを感じない体なんだから気をおつけ。まあブラックルーンだってこの程度の傷なら治せるけどね…」 指先が、綺麗に紅の引かれた唇に含まれる。温かく柔らかいものの洗礼を受けた後、傷は跡形も無く消えていた。 「治してくださったのですか。ありがとうございます」 慇懃に頭を下げ礼を述べると、女は美しい眉を寄せて苦笑した。 「お止め。お前に敬語を使われると調子が狂うよ」 ブラックルーンに支配された脳が、それを命令と判断して即座に体に指令を出す。 「了解。で、今日は何だって?」 がらりと態度を改めたテッドに、ウィンディは満足気な笑みを浮かべて言った。 「お前の出番が来たよ。坊やがシークの谷に向かったそうだ。あの谷に生えている月下草は、竜たちに飲ませた毒の毒消しになるからね」 「へぇ」 親友の名前を出されても平然としている。 テッドの中で、もうシオンは完全に切り離されている。勿論ブラックルーンの所為ではあるが。 「シークの谷に同行し、シオンから紋章を取り返せって?」 「察しが良くて助かるよ。これ以上ソウルイーターに力を与える訳にはいかないからね」 「あれは宿主の身近な人間の魂を好むからな…。オデッサ・シルバーバーグもあいつが喰ったみたいだし、グレミオさんにテオ様に…次に喰われるのは誰だろうな。案外俺かもしれないぜ」 くすくすと笑うその視線は、氷のように冷たい。 「紋章を宿して一年ちょっとの坊やが、ブラックルーンを持つお前に敵う訳がないだろう。お前が紋章を取り返したら、坊やの魂を喰ってやるといい。親友に喰われるなら本望だろうさ」 「判らないぜ。なんたって五将軍であり、父親であるテオ様を倒したんだからな。シオンの魂か…紋章もシオンなら満足するだろうよ。あいつの魂は本当に綺麗だから…」 微かに目を伏せ淡々と言葉を紡ぐテッドを、ウィンディは凝視している。 ブラックルーンの力は絶大だ。右手に宿っている限り、支配から逃れることはできない。 だが時折、支配が解けているのではと思う時がある。シオンを語るテッドの表情がどこか寂しげなのは気の所為だろうか。 「……とにかく、これからすぐにシークの谷に向かうよ。おいでテッド」 差し出された白い手を取ると、足元に移動の魔法陣が浮かび上がった。 「久し振りの親友との再会だ。お前の手で引導を渡してやるといい」 魔法陣から光が立ち上る。異空間への道が開く。 「ああ……そのつもりだ」 テッドの呟きを残して、二人の体は部屋から姿を消した。 夢にまでみた再会は永遠の決別の時。 「さあソウルイーター、かつての主人として命じる!今度は俺の魂を盗み取るがいい!」 テッドの叫びに呼応して、ソウルイーターが不気味な光を発する。 「嫌だっ!テッドぉおおおっ」 シオンが紋章を抑えようと必死に抵抗するが、魂を喰らうという本能を充たす命令の前では効を成さない。 (ごめんな…もうこれしか方法がなかったんだ) 飢えた獰猛な光に包まれるのを感じながら、テッドは目を閉じた。 長年真の紋章を宿してきたテッドは、最早紋章なしでは生きられない。ブラックルーンのお陰で痛みは感じないが、そろそろ肉体は限界に来ていた。 ソウルイーターが傍にある事で得た自由は限られていた。このままシオンと逃亡したとしても、谷を出る前に再びブラックルーンの支配を受けるだろう。そうしたら恐らくもう二度と自分には戻れない。 これが最後のチャンスだった。 シオンに父親に続いて親友殺しの重荷まで背負わせる訳にはいかなかった。 「そんな…こんな馬鹿な…」 ウィンディの絶望的な声に、微かに視線を向ける。 彼女は勝利を確信していた筈だ。テッドが自力で支配の紋章から逃れる可能性など考えてもいなかっただろう。 小さな頃からずっと怯え、憎み続けてきたウィンディ。 (実はもう、そんなにあんたのことが憎くないんだ) 平素の彼女は、テッドの村を焼いた女と同一人物とは思えない、優しく聡明なただの女性だった。花を愛で、読書に勤しみ、テッドとの会話を楽しむ。 ウィンディは、ブラックルーンを宿させた他の将軍たちとは違い、テッドには普段どおり振舞うよう命じた。テッドはそれに従い、まるで旧知の友のように接した。 彼女と過したこの数ヶ月は、テッドにとっても心安らかな日々と言えるものだった。 勿論彼女がして来た事を許せはしない。ソウルイーターを得る為に焼き払われた多くの村、絶望に泣き叫ぶ人たち。あの光景を忘れはしない。 だけどもう――憎む事は止めてもいいんじゃないかと思う。 ウィンディだって被害者だ。故郷をハルモニアに滅ぼされなければ、真の紋章を集めるなんて野望は持たず、平和に暮らしていた筈だ。 垣間見えた彼女の孤独。 力さえあれば一族が滅びることはなかったと、力こそ全てと思い込んでしまった。 真の紋章の絶大な力に魅入られた彼女は、自分がハルモニアと同じ事をしていると気づいていないのだ。 「くっ!何てことなの!こうなったら」 ウィンディが動く前にソウルイーターが光り、その体を弾き飛ばした。 「忌々しい。いつかその紋章を私のものにして見せるよ」 捨て台詞を残してウィンディの姿が消えた。 呪いの紋章に囚われて、彼女はどれだけの時間を費やしてしまったのだろう。 そしてこれからも。 緊張の糸が切れ、がくりとテッドの膝が折れた。霞んだ目が、必死の形相で駆け寄ってくるシオンの姿を捉える。 「テッド!」 力強い腕に抱き起こされた。自分を呼ぶ懐かしい声。夢じゃない。本物のシオンだ。 「しっかりしろっ、テッド!」 黒目がちの大きな目を見開き、泣きそうな声で叫んでいる。 解放軍リーダーになってどんなに変わったかと思いきや、全然変わらない。テッドの知るシオンのままだ。 それが嬉しくて、テッドは力の入らない腕を上げシオンの手を握り締めた。 「ごめんな…色々ありすぎて謝りきれないけど…ごめん…最後に『俺』として…お前に会えて……良かった」 「テッド!」 抱きしめてくる腕が、前よりも小さくなった気がする。 いや自分が成長したのか。そしてシオンの体はあの時と寸分変わらない…。 (俺は卑怯だ。シオンに全部押し付けて、自分だけ楽になって…) 恨んでくれて構わない。自分が三百年ウィンディを憎み続けて来たように、テッドを恨む事でシオンが生を諦めないでくれるのなら。 (もう一度、『あの人』に会いたかった…) 幼いテッドに、きっとまた会えるからと励ましてくれた人。 彼は自分の手袋を外してテッドの右手にはめてくれた。子供の手にはぶかぶかだったそれ。あの温もりは忘れない。 「嫌だ!死ぬな、テッド!!」 シオンがテッドの手を強く握り返した。右手の手袋はシオンの意思に反して発動した紋章の所為でボロボロになっている。 (え……?) 破けた手袋の下から覗く、自分以外の手に宿ったソウルイーター。その光景が、心の奥に眠っていた古い古い記憶を呼び覚ました。 励ますように握ってくれた手には紋章が宿っていた。それは何の形をしていた…? (………シオン…?) 思い出の中の『あの人』と今のシオンが重なる。赤い服、バンダナ、棍を持っていた黒い髪の『おにいちゃん』。 どうして忘れていたんだろう。あの時、彼の手にも自分と同じ紋章が刻まれていた。そして彼が「次に会う時は親友だよ」と言った意味。 (お前だったのか……) ふわりと微笑む。ずっと探していた人はすぐ傍にいた。 「…やっと…会えた………約束…」 泣きたいほど嬉しい。この為に自分は生きてきた。もう一度シオンに会うために、三百年生きて来たのだ。 神なんてとっくに信じていなかったけれど、今なら神の存在を信じられる。 (ありがとう神様。願いを叶えてくれて) 「…………!!テッドおおおおおっっ!」 誰もかける言葉がみつからない。 テッドの体は、彼の瞼が閉じた直後細かい光の粒子となって消えた。まるでテッドという人間など最初から存在しなかったように。 「……すればよかった」 親友を喪ったばかりのシオンを気遣い、他のメンバーは離れて先を歩いている。重い後悔の滲む呟きを耳にしたのは、しんがりを務めるクレオだけだった。 「シオン様?」 「過去の村から幼いテッドを連れてくれば良かった。たとえ僕の知るテッドに会えなくなっても…こんな風にテッドを喪う事は無かったはずだ。いつかまた会えるからなんて希望を持たせるような事を言って、焼け落ちた村に小さな子をたった一人置き去りにして来た結果がこれか。普通の人間の寿命を超えた辺りで、テッドはあれはその場を取り繕う為の嘘だったと僕を恨んだだろう。僕はテッドを救えなかった。連れて行ってくれと縋ってきた子供のテッドも、僕と親友になってくれたテッドも…」 柔らかな黒髪が、俯いたシオンの顔を隠している。 シオンは泣いてはいなかった。グレミオを亡くし、子供のように泣き叫んだ彼はもういない。 あれ以来、シオンは人前で涙を見せなくなった。一武人としてテオを倒した時も、彼は静かに現実を受け止めていた。少なくとも表面的には。 そして今もまた、軍主として泣く事を己に許さない。 「私はそうは思いません」 後ろを歩きながら、クレオは静かにシオンの言葉を否定した。 「テッド君の最期の笑顔、シオン様は見てなかったんですか?幸せそうな、満足そうな笑みでしたよ。恐らく、過去の人間をこの時代に連れて来る事はできなかったと思います。テッド君が三百年の間に出会った人々や、干渉した出来事が無かったことになってしまう。ましてやテッド君とシオン様の手には同じ真の紋章が宿っていた。唯一無二のものが同時に存在する事は許されないでしょう。それに……」 懺悔すべきはシオン様ではない、私です――。 声には出さず、クレオはひっそり胸の内で呟いた。 過去から戻った日の夜、眠りに落ちる前の一日の反芻で、クレオは己が口にした「助言」の醜悪さに気づいて愕然とした。 『テッド君、強い子になりなさい。決して負けないこと』 テッドを思っての言葉のつもりだった。 だが故郷と保護者と同胞を一度に失い、死体の燻る焼け跡にただ一人取り残されようとしている彼には、死刑宣告のごとく響いただろう。 右手の紋章が何たるかも知らされぬまま継承者となった幼い子供が、この先どんな辛酸を嘗めるか容易に想像できていながら。 主のように現在のテッドを救う為の苦しい決断ではなく、過去を変えてはならないと言う正論を盾に、2年間、家族のように笑いあった少年を見捨てたのだ。 主を襲った数々の困難と喪失に、テッドが居なければ主がこんな運命を背負うことはなかったと、恨んだ事もあった。 その彼に、自分自身が三百年も昔に一生消えない傷跡を刻んでおいて。 縋ってくる小さな手を、容赦なく振り払っておいて。 被害者顔で彼を責めた自分は、何て罪深い。 なのに、彼は最期に微笑んでくれた。 今際の際の言葉から、テッドが『恩人』の正体に気づいた事が伺えた。 知った後に浮かんだ笑みが、許しや哀れみではなく喜びだった事に心から感謝した。 身勝手な自分を、赦された気がした。 「また会えたのは嘘じゃなかったじゃないですか。シオン様との約束は、幼いテッド君の心の支えになったと思います。彼が『恩人』を語る時の顔を思い出してください。もう逢えないと判っていても、テッド君は嬉しそうでしたよ」 だから彼の代わりに主を励ますのは自分の役目だ。 「クレオ…」 潤んだ瞳で見上げてきた顔は、久し振りに見るリーダーではないシオンだった。 「頑張りましょう。皆の分まで」 自分にも言い聞かせるように、力強くクレオが言う。 「うん……」 シオンはようやく小さな笑みを浮かべると、歩みを止めてテッドの最期の場所を振り返った。 水晶が光を反射してきらきら輝いている。 「…テッド……」 もう何度呼んだか判らない名前を、想いを込めて唇に上らせる。 谷を吹き抜ける風がシオンの髪を巻き上げ、今一度その表情を隠してくれた。 僕の右手にはおじいちゃんから貰った紋章がある。 同人誌を加筆修正して再録。 |