僕は今、一枚の扉の前に立っている。 この先は僕にとって未知の領域だ。大きく深呼吸をして逸る心を押さえながら、僕は古ぼけた木の扉を叩いた。 トントントン しばらくして扉の向こうにいた人物が、戸に近づいてくる気配を感じた。かちゃりとノブが回り、軋んだ音を立てて扉が開かれる。 「よく来たな、シオン」 この家の家主、テッドが笑顔で出迎えてくれた。 「・・・・なんだよお前、その大荷物は。引越しでもする気か」 僕の顔を見るなり、テッドが呆れたように言った。 僕の右手にはパンパンに膨れたかばん、左手には枕を入れた袋がある。 「だって必要だろ。着替えと、パジャマと、タオルと、洗面道具と、枕と、ゲームと、あとテッドと食べようと思ってお菓子も持ってきたし。あとグレミオが持ってけって、これ」 慌てて言い訳しながら手にしていた包みをテッドに渡す。枕はさすがにクレオたちにも呆れられたけど、ないよりはいいだろ。きっとテッドの家には客用の枕なんてないだろうし。僕は頭がちょっと高くないと寝れないんだ。 包みの中身はグレミオ特製のミートパイだ。テッドの好物の一つで、グレミオもテッドが家に来たときはよく作ってくれる。 テッドは中身を見て、嬉しそうに顔を綻ばせた。 「夕飯のおかず、一品浮いたな。まあ、とにかく入れよ。何もない家だけどな」 テッドがひょいと、枕の入った袋を持ってくれる。テッドに続いて家の中に入ると、僕はきょろきょろと辺りを見回した。 テッドの家に来るのは初めてだ。僕の家から歩いて5分くらいのところにあるテッドの家は、父さんが見つけてきた。本当は僕の家に一緒に住む予定だったんだけど、テッドが「そこまでされたら申し訳ないから」といって断固として1人で住むことを強調したので、少しでも僕の家に近い家を探してやっと見つけたのがこの家だった。昔子供のいない老夫婦が住んでいたらしいが、その夫婦も亡くなり、空家になっていた所を父さんが買ったのだ。 テッドがここに住むようになってからも、僕はこの家に来たことは無かった。テッドは週に3日は僕の家で夕飯を食べていたし、外に遊びに行って帰ってくるのが遅くなると、大抵僕の部屋に泊まっていったから、僕がテッドの家に来る必要が無かったんだ。たまに来ても、テッドは家の中まで入れてくれないし。なんでか知らないけど、テッドは僕を家の中に入れたくないみたいだった。 だから、先日思い切ってお願いしてみた。 『テッドの家にお泊りしてもいい?』 テッドは最初びっくりして、それから自分の家は狭いし、何もないから来ても面白くないぞと必死に説得してきたけど、僕の気が変わらないのを知ると、うーんと腕を組んで考え込んでしまった。 『何で俺のうちになんて来たいんだよ』 『よそんちにお泊りをしてみたいんだ。宿屋は泊まったことあるけど、誰かの家に泊まるってしたこと無いから。あとグレミオたちのいないとこで、たまには羽を伸ばさないとね』 結構疲れるんだ、色々小言言われるし。 そういうとテッドはぷっと吹き出して笑った。 『判る判る、その気持ち。そうだよなー、たまには思いっきりハメ外したいよな――。・・・・いいぜ、泊まりにこいよ』 『いいの?やったあっ。じゃあいつ?いつなら行ってもいい?』 『いつでもいいよ。お前が来たいときで』 『今日は?』 『それは・・・早すぎだろう。ちゃんとグレミオさんに許可貰ってからにしろよな』 『判ってるよ。じゃあ明日ね。そうだね。僕も色々準備しなくちゃなんないし・・・』 家に戻るなりグレミオにお願い攻撃をして、お許しを貰ったのが昨日のこと。 そして今日、僕は初めてテッドの家に足を踏み入れたのだ。 家の中は外見どおりこじんまりとしていて、僕の家と比べるとはっきり言って狭い。だが家の中はきちんと掃除されていて綺麗だった。・・・ちょっと綺麗過ぎる位。 家の中には何も無かった。 中央には小さな木のテーブルとイスが一個。右手には台所があり、スープでも作っていたのかいい匂いが漂ってくる。部屋の奥の扉を開けるとそこは寝室で、窓際にベッドが一つぽつんと置かれており、その横に小さなタンスとサイドテーブルがあるだけだ。最低限の家具しかない。 「もうすぐメシできるから、待ってろよ」 台所からテッドの声が聞こえた。狭い家の中ではちょっと叫べば何処にいても聞こえてしまう。 僕は寝室の戸を閉めると、テッドのいる台所に向かった。 台所の入り口からひょいと頭を覗かせると、テッドが火の前で鍋をかき回していた。 「僕も何か手伝うよ」 「いいって、お前は客なんだから」 お玉を持って振り返るテッド。青いエプロンをつけて、なんだかかわいい姿だ。 「でもやることないし、手伝わせてよ」 「んー――じゃあ風呂の掃除頼んでいいか?まだやってなくってさ」 「うん」 風呂場はすぐそこだから、と言われて台所を出ると、右手に扉があった。戸を開けると小さな洗面所がある。ここが風呂場らしい。 お風呂を洗うのはよく家でもやっているので得意だ。お坊ちゃんがお風呂掃除って驚くかもしれないけど、僕は小さな頃からグレミオのお手伝いとか結構してたんだ。料理だけはグレミオに止められたからやってないけど。 一度台所を壊滅させちゃったことがあるんだよね。あの時はグレミオも真っ白になっちゃって、夜中まで焦げ付いた鍋を磨いている音がしたっけなあ。 テッドもその時の事をグレミオに聞いていたから、僕にお風呂洗いを任せたんだろうな。 よし、ぴかぴかに磨いてやる! 僕は早速腕まくりをして浴室に入り、堪っていた水を抜くと浴槽を洗い始めた。 浴槽に入れたお湯の量が丁度いいくらいになって、僕がお湯を止めに来た頃、テッドから夕食の声がかかった。 部屋に戻ると中央のテーブルに、暖かい湯気を上げた料理が並んでいる。 「テッドが作ったの?」 「まあな」 イスが一つしかないので木箱をひっくり返してイスにする。僕がそっちに座ると言ったけど、テッドが頑として譲らなかったので、僕はしぶしぶイスに腰掛けた。木箱に座っているテッドはやや僕より目線が低くなる。二人で食前のお祈りをした後、グーグーなっている胃袋を宥める為、夢中になって食べ物を詰め込んだ。 テッドの料理はグレミオの作る料理のように凝った物ではなく、煮込むだけ、炒めるだけの簡単な料理だったけど、とてもおいしかった。中には初めて食べる料理もあり、これは何かと聞くとじいちゃんの得意料理だったんだ、と笑った。まずいかと聞かれ、大慌てておいしいと言うと、テッドは照れくさそうに微笑んだ。 テーブルの上には結構な量があったけど、二人で全部綺麗に平らげてしまった。家にいるときより食べてるな、僕。でもテッドの料理がおいしかったんだから仕方が無い。 そのあと二人で食器の後片付けをして、しばらくごろごろする。イスが無いので僕はテッドのベッドに寝転がり、テッドはこの家唯一のイスを寝室に運び込んでいた。 ごろごろしながら改めて部屋の中を見渡して気づく。この家は生活感が希薄だ。 普通に生活していれば増えていくであろう私物が、ここにはまったく無い。 ここに住み始めて間もないとはいえ、まるで宿屋に泊まったような印象を受けるのは、ここにテッドの色が無いからだ。テッド自身もここに住むというより、泊まっているといった感覚なんじゃないだろうか。そして家の中にはイスが一つしかないという事実。普通1人で住んでいても、来客のことも考えてイスは最低二つはあるはずだ。それがひとつしかないのは、・・・・誰も家に入れる気が無かったということ。コップや箸は今日テッドが慌てて買ってきたのだろう、出されたそれらは皆新品だった。 そんな風に他人と一線をひいてきたテッドが、今日僕を自分のテリトリーの中に入れてくれた。 嬉しい。すごく嬉しい。自分は特別なんだと言われたみたいで。 特別ついでにもう一歩、テッドの中に踏み込んでいいかな。それともやっぱり嫌がられちゃうかな。 僕はちょっとびくびくしながら、精一杯のさり気なさを装って誘ってみた。 「テッド、一緒にお風呂入ろうよ」 「はあ ?お前俺んちの風呂見ただろ。あんな狭いところで二人も入れるかよ」 予想通りテッドが眉を顰めていう。断られるのは判ってたんだ。でもここで引き下がってなるもんか。 「大丈夫だよ。二人ぐらいは入れるよ。僕、一度友達とお風呂で背中流しっこしたかったんだよね。駄目?」 上目遣いにおねだりポーズをしてみる。グレミオならこれで効くんだけどなあ・・・・。 テッドはうーん、と腕を組んで考え込んでいる。テッドが自分の右手を見ているのに気づいて、僕はある提案をした。 「右手の火傷が気になるんでしょ。大丈夫。これさえつければ水にも濡れないし、僕にも見えないよ」 そういって僕が差し出したのはピンク色をしたゴム手袋だ。皿洗いや、掃除用に用いられているそれは、このうちの台所にあったものだ。さっき皿を洗うのに、テッド自身が使っていた手袋。 テッドはゴム手袋を見て目をぱちくりとさせたが、やがてにっこりと微笑んだ。 「確かに・・・・判った。いいぜ。一緒に入ろう」 「ホントに!?」 半ば断られると諦め始めていた僕は、思わず大きな声を上げてしまった。 だってだって、嬉しいんだもん。テッドと背中の流しっこができるなんて。 「じゃあすぐ入ろうよっ。僕着替え用意するね!」 テッドの気が変わる前に準備しなくちゃっ! 「お前先に入ってろよ。お前の分のタオル出してからいくからさ」 「うんっ。早く来てね、テッド」 僕はかばんの中からいそいそと着替えを出してお風呂に向かった。脱衣所で服を脱ぐと、体が冷える前に急いで浴室に入って湯船に飛び込む。もうもうと湯気を上げているお湯はちょっと熱めだったけど、浮かれている僕には気にならなかった。 (早くテッド来ないかな) 友達とお風呂に入る。なんてわくわくするんだろう。正に裸の付き合いだ。 自分と同年代の子供とお風呂に入った経験のない僕にとって、人と自分の体を比較する初めての機会でもある。テッドは僕と同い年って言ってたけど、12歳にしては背も高いし体もしっかりしてる。まだ喉仏も出てきてない僕としては、テッドの体に非常に興味があった。 テッドは着膨れするタイプだからって笑ってたけど本当かな。裸になったらやっぱり僕と同じように子供体形なんだろうか。それともやっぱり見た目どおりなのかな。 ガララ 脱衣所の扉が開く音がして、曇ったガラスにテッドのシルエットが浮かんだ。 「シオン、お前のタオルここに置いておくな」 「うん。早くテッドもおいでよ」 「ああ。すぐ行くから待ってろよ」 シルエットが服を脱ぎ始める。上着を脱いで、状態を屈めてズボンを。それから下に来ていたシャツを脱いだ。 シルエットが服を脱いでいくのを見ていたら、なんだか心臓がドキドキしてきた。頬も熱いし、どうしたんだろう僕。 「お待たせ。・・・・・シオン?」 扉が開いて裸のテッドが入ってくる。ああやっぱり僕より肩が張ってる。くやしいな・・・・・・。なんか頭がくらくらする。息も苦しいしボーっとしてテッドの姿がぼやけるなあ・・・・ 「シオン!?おい、しっかりしろっ」 慌ててテッドが僕に駆け寄り、僕の体を掴んで揺すぶる。それやだよテッド。気持ち悪い・・・・本当にどうしたんだろう。なんかふわふわして・・・・・ 僕の名を呼ぶテッドの声を遠くで聞きながら、僕の意識は途絶えた。 目が覚めるとベッドの上だった。 額にはぬるくなったタオル。起き上がるとまだ頭がくらくらした。 (僕・・・どうしたんだっけ?) タオルをベッドの脇のサイドテーブルに置くと、そこには中身が半分ほどになった水差しとコップが置かれていた。 ふらつく体を奮い立たせてベッドから降り扉を開けると、暖炉の側で本を読んでいたテッドが振り返った。 「起きて大丈夫か、シオン」 「テッド・・・・僕一体・・・」 「風呂でのぼせて倒れたんだよ。湯熱かったら薄めればよかったのに。一応もう一回水飲んどけ。脱水症状起こすといけないからな」 「水?」 イスから立ち上がったテッドが台所に行って、それから水のなみなみ入ったコップを持ってくる。手渡されて受け取るとひやりと冷たい。 「ほら」 「ありがと・・・・」 言われるままごくりと飲む。そんなに喉の渇きは感じていなかったけど、一口飲むと止まらなかった。むさぼるように一気に飲み干す。 空になったコップをテッドに返しながら、僕は情けなさでいっぱいになった。 「・・・・・ごめんね。テッドがベッドまで運んでくれたんでしょ。かっこ悪いなあ僕」 「気にすんなよ。お前そんなに重くなかったし、大丈夫だからさ。背中の流しっこはまた今度しような。今度はちゃんとお前がのぼせる前に風呂に行くから」 「ありがとうテッド・・・」 テッドは優しい。その優しさに、僕は益々自分が情けなくなる。せっかくのお泊りなのに、僕のせいで全部台無しになってしまった。 しゅんとしている僕の心情を察したのか、テッドがぽんぽんと僕の頭を叩いて微笑んだ。 「さ、もう寝ろよ。まだ赤い顔してるぜ」 「テッドは?まだ寝ないの?」 大人が子供を宥めるようなその仕草に、ちょっと膨れながら尋ねると。 「暖炉の火落としてから寝るよ。ああ、ちゃんとベッドの半分空けとけよ。俺んちはベッド一個しかないんだからな」 ぴしりと指差されて僕は小さく笑った。そうだった。ベッドが一個しかないということは、一緒に寝るんだ。僕のうちにテッドが泊まる時は簡易ベッドを出すから、一つのベッドに他の人と寝るのは初めてだ。背中の流しっこは出来なかったけど、友達と一緒に寝るというのは出来るからまあよしとしよう。 「うん、じゃあ先に寝てるね」 「おやすみ、シオン」 「おやすみ・・・・あ、ねえテッド」 寝室の戸を開けようとして、僕はあることを思い出して振り返った。 「何だ?」 「僕いつ水飲んだっけ?寝てた・・・はずだよねえ」 さっきテッドにもう一回水を飲んどけって言われて、あれっと思った。 サイドテーブルに置かれた飲みかけの水さしと、のぼせて倒れた割りにはそれほど喉が渇いていなかったことを考えても、水を飲んだのは確からしいけど。 倒れてから今まで寝ていたのだ。一体いつ水を飲んだのだろう。 するとテッドは何やら意味深な笑みを浮かべ、 「さあ、寝ぼけて飲んだんじゃないのか」 「寝ぼけてた・・・のかなあ」 「だろ。さあもう寝ろよ」 押し切られるように言われて、なんだかしっくりいかなかったが、ボケた頭にはこれ以上の思考は無理だった。言われるままに手にかけていたノブを回して寝室に入ると、再びベッドに潜り込む。 目を閉じると一気に眠りの波がやって来て、しばらくしてテッドが寝室に入ってきたときには、僕はすっかり夢の国の住人だった。 「寝たのか?シオン。・・・・・・・うん、大分顔色良くなってきたな。やっぱり起きる前に水飲ませといて正解だった」 テッドが寝ている僕の髪をかきあげる。そして”今度は”そっとおでこにキスをする。 こうして僕の初のお泊りの夜は過ぎていったのだった。 *さくやさんに捧ぐ* |
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