もう何度、人を見送ったのだろう。
大好きだった人、優しい言葉をくれた人、愛してくれた人、挨拶をする程度の知人。 人の死は何回体験しても慣れる事がない。たった今まで声を発し息をしていた肉体が、冷たい肉の塊と化す瞬間。 姿かたちは何も変わらないのに、確かにそこにはもう魂は無いのだと、理屈ではなく体が悟る死の定義。 人の最期の呼吸はどうして吸気なのだろう。自分を取り巻く人々の涙を飲み込むかのように、ひゅっと短く息を吸い込み全機能を止める。 病で、老衰で、天の定めた死を迎える人々は、そうしてあの世への旅路に着く。 真っ赤に目を晴らしたシオンの隣を、シオンに合わせてゆっくりと歩く。 涙はもう乾いていたが、足取りは重かった。母親はシオンが生まれてすぐ亡くなったそうで、シオンが実質人の死に対面したのはこれが初めてらしい。 「じいさん、いい死に顔だったな」 苦しまずに、眠るように亡くなった彼の顔を思い出す。体が元気な頃は、市場で彼が野菜を売る威勢のいい声がいつも聞こえていたという。昔からマクドール家に野菜の配達をしていた縁で、シオンもこの老人にとても懐いていた。 引退して店を息子夫婦に任せ、自宅でのんびり好きな絵を描いている彼の家に、2人でよく遊びに行ったものだった。 故に老人の危篤の知らせは、テッドの家にももたらされた。 付き合いがあるとはいえ、貴族であるマクドール家にまで連絡をするのは憚られたのだろう。テッドの方から坊ちゃんに伝えてくれないかい、との老人の息子の嫁の頼みに、テッドは急いでマクドール家へと走った。 ショックで呆然としているシオンの腕を引き、老人の家へと向かい――老人はまるで二人が来るのを待っていたかのように、二人が到着して数分後静かに息を引き取った。 ベッドの周りを息子と娘夫婦、その孫たちが囲み、近所の人も駆けつけて、愛する人々に見送られての幸せな死だった。 「70歳だったって。倒れてそのまま意識が戻らなかったから、本人も苦しまずに逝けたみたいだ。大往生だったな」 「……テッドは平気なの?」 老人の家を出た時からずっと黙り込んでいたシオンが、俯いたまま訊ねる。 「何が」 「お爺さん死んじゃったんだよ。悲しくないの」 「悲しいよ。俺もじいさんの事好きだったからさ。遊びに行くと、よく新鮮な果物を出してくれたよな。うちの果物は天下一品だろうっなんて言ってさ」 「だったらどうしてそんな平気な顔してるんだよっ」 長い前髪の下から、赤く潤んだ瞳がキッとテッドを睨みつけて来た。 「どうして泣かないのさ。死んじゃったらもう会えないんだよ」 「……涙を流さなければ、死を悼むことにならないのか?」 「……え…」 思いもかけない返事にシオンが呆けた。歩みを止めてしまったシオンをちらりと振り返り、視線を前に戻すとまた歩き出す。 「死はお前が思っているほど残酷な物じゃない」 「テッド……それ、どういう意味……?」 慌ててその背を追い、だがシオンはテッドの隣に並ぼうとはしなかった。 何故か今のテッドの顔を見てはいけない気がした。 「死は全ての終わりだ。人は終わりが約束されているから、前に進むことが出来る。何か嫌なことがあっても、いつかは終わるから我慢しようって思えるだろ。……じいさんは幸せだったと思うよ。子供や孫に囲まれて、眠ったまま逝けて。幸せな終わりだった」 「テッド……」 「俺もそんな風に死ねたらいいな」 きっと無理だろうけどと続けようとした言葉は、シオンの怒声によって阻まれた。 「簡単に死ぬとか言わないでよっ」 「シオン?」 驚いて振り返る。 「お前、何そんなに興奮してるんだよ……。例えばの話だろ」 「例えばでも聞きたくないよっ。どうして終わりばかり見るの。そりゃ誰だっていつかは死ぬし、悲しいけど、僕だって死ぬ事が悪いこととは思ってないよ…」 「………」 「テッドは死にたいの?」 ドキリと。 心臓を鷲掴みにされた気がした。 「……そんな訳あるかよ。俺はまだぴちぴちなんだぜっ。まだまだやりたいことも一杯あるし」 気づけば、もうマクドール家は目の前だった。 死ぬの死なないのと物騒な会話をするには、この先は人の往来が激しすぎる。 それにこれ以上の会話は、テッドの方が耐えられなかった。 「俺急用を思い出したから帰るよ。グレミオさんに今日の夕食はいらないって言っておいてくれ」 「テッド……っ」 「じゃあな、また明日っ」 シオンが何かを言う前に、くるりと背を向け走り出す。 自分の名を呼ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。 ――テッド、何としてもお前だけは生き延びてくれ。 ――愛しているよ。私たちの養い子。 ――嫌だ…死にたく……な……俺が死んだ、ら…村は… ――泣かないで。幸せになって。テッドくん… ――ああ、これで一人で逝かなくて済む…。最期に傍にいてくれてありがとう… ――この…死神め……っ… ぐるぐると、今まで看取って来た人たちの今際の際の声が頭を駆け巡る。 愛しい人たち。ほんの数日共に過ごしただけの相手。紋章に命を喰らわれた男の断末魔の叫び。 生と死を司る紋章を宿し、他人の魂を喰らう。誰よりも死に近い所にいるのに、己自身の死は遥か遠い。 年月を感じさせる年老いた手が、瑞々しい赤子だった頃よりも更に昔から、少年の姿のまま生きている自分。 ――終わりはいつか来るものだから。 ねえ、だったら 俺の終わりはどこにあるの。 「テッドっ!!」 腕を掴まれてはっとする。 テッドを現実に引き戻した声は、よく知ったものだった。 「シオン……」 恐らく全力で駆けてきたのだろう。真っ赤な顔ではぁはぁと荒く息を弾ませるシオンを、呆然と見返す。 「何……お前どうして」 「……あんな風に言われて、放っておけるわけないだろっ……っ。あんな…泣きそうな、顔で……」 (泣きそう?俺が?) そんなはずは無い。さっきだってちゃんと笑っていた筈だ。 ほら、今みたいに。 息を整え、シオンが顔を上げる。 「傷つけるような事言ったんならごめん……。でも僕、テッドの口から死って言葉を聞くのが嫌だったんだ。そりゃ僕だって嫌なことがあった時には死にたいとか言うけど、テッドのは本当に今すぐ死にたいって言ってるように聞こえて」 「……そんなの」 お前の気のせいだよ、と言おうとして。 ――声が出なかった。 「テッド……?」 300年にも及ぶ長い生と、紋章に喰われた魂の絶望の声を聞く日々。 いつの間にか、こんなにも。 「ねえ、テッド!」 未だ掴まれたままの手に力が篭る。 「明日は屋敷に泊まりに来るって言ったよね?今度の休日は釣りに行く約束でしょ。来月はクリスマスだし……」 何故か必死な様子で話しかけてくるシオンの声が、他人事のように耳を滑っていく。 どうして声が出ない。どうして体が動かない。 ――今すぐ死にたいって言ってるように聞こえて。 (死にたいのか、俺は) 「テッド!!!」 一際強く揺さぶられて、ようやく咽喉が声を取り戻した。 「あ、ああ……ごめん」 「気分でも悪いの。顔色が真っ青だよ」 「大丈夫だよ。……いや、やっぱり調子悪いかな」 思考がぐらぐらする。今すぐベッドに飛び込んで、何も考えずに寝てしまいたかった。 「屋敷に行こう。グレミオに栄養のあるもの作ってもらうから」 「寝れば治るって」 「駄目だよ。屋敷に来るんだ。病人は大人しく言うことを聞いてよ!」 口調はきつかったが、声は懇願だった。強く掴まれた腕を振り払って抵抗するだけの気力もなく、テッドは半ば引きずられるようにしてマクドール家へと向かった。 「熱はないみたいですね」 テッドの脇から取り出した体温計を眺めて、グレミオはほっと安堵の溜息を洩らした。 「薬を飲まなくて平気ですかねぇ。でも食べなければ薬は飲めないですし…」 心配され構われるのが面倒で、体調不良を理由に食事は断っていた。 本当は何処も悪くはなかったが、屋敷に連れて来られてしまった以上、病人のフリをしていた方が一人にして貰える。 「薬なんていらないですよ。シオンが大げさなんです」 ベッドの上で半身を起こして、テッドは小さく苦笑した。 「坊ちゃんは病気に対してやや神経質な所があるんです。お母様を病気で亡くされたからなんだと思うんですが、私たちも少々の熱だからと仕事をしていると怒られるんです。病人が働いてるんじゃないって、それはもう凄い剣幕で。今日は八百屋のお爺さんの臨終に立ち会ったのもあって、余計になんでしょうね…テッド君を引っ張って来た時の坊っちゃんは、どっちが病人だかわからない位青ざめてましたし」 「そっか…だから…」 シオンは死に直面したのは初めてでも、死の悲しみは知っている。 遺された者の寂しさを知っている。 温もりも覚えていない母の月命日に必ず墓を訪れるのは、喪った悲しみではなく、得られなかった空虚なのだろう。 「そういう訳で、今日はゆっくり休んで早く元気になって下さいね。お医者様を連れてくるとごねる坊ちゃんを、明日は止められそうもありませんから」 「そりゃ大変だ。何としても今日中に治さなきゃ」 部屋のランプを一つだけ残し、静かに部屋を出て行くグレミオを笑顔で見送って、扉が閉まった直後シーツへ背中から倒れこんだ。 薄暗い天井に、先ほどのシオンの顔が浮かぶ。 (泣きそうな顔をしていたのは、お前じゃないか) だけど多分、テッドもシオンと同じ顔をしていたのだろう。 シオンと同じ感情、だが違う理由で。 (死にたかったのか、俺は) くっくっと喉の奥から低い笑いが洩れる。 (自分が生き延びる為に人の命を散々奪っておきながら、今頃になって終わりを望むなんて) 昼間、シオンに追求されて気付いた。無意識に考えないようにしていた望み。 もう、終わりにしたい。 300年生きて来た。もう充分だろう?解放してくれてもいいだろう? 長い人生の中で初めて出来た親友。彼の側で静かに最期を迎えたい。 あの老人のように、シオンに看取られて死ねたらどんなに幸せだろう。 (シオンは泣くだろうな) 泣いて泣いて…涙も枯れ果てるといい。 シオンの心臓に一生消えない深い傷痕を刻み込んで、彼の腕の中で果てれたら。 「……俺ってサイアク」 自己嫌悪の呟きを洩らして瞼の上に腕を乗せ、視界を塞ぐ。 暫くして意識も闇に沈んだ。 額を撫でる手が気持ちいい。 小さい頃、祖父や養い親がよくこうして頭を撫でてくれた。 おやすみ、テッド… 目を閉じていても判る。優しく微笑みながら、愛しさを込めて、彼らはテッドの寝顔を覗き込んでいた。 その温もりに安心して、眠ったものだ。 懐かしい夢を見ていると思った。彼らはもういない。テッドの右手に宿る紋章が、彼らの魂を奪い取った。 (じいちゃん…おじいさん…おばあさん…) テッドがいなければ、彼らが死ぬ事はなかった。 少なくとも養父母は。テッドを引き取って育てたりしなければ。 ごめんなさい。 夢の中、声にならない声で叫ぶ。 大好きでした。おじいさん、おばあさん。死なせてしまってごめんなさい…っ 謝罪は届かない。呪いのように、悲鳴じみた懺悔が反響する。 大丈夫だよ。 頬に浮かんだ皺を深くして、彼らが微笑んだ。 謝らなくていい。大丈夫だから。ゆっくりおやすみ、テッド… 幼子の姿に戻ったテッドの頭を撫で、彼らが消えていく。 そこで目が覚めた。と同時に、すぐ側に感じた気配にぎょっとした。 「……シオン」 「ごめん。起こしちゃった?」 シオンの手のひらがテッドの前髪を梳いていた。 「様子を見に来たら、うなされておでこに汗かいてたから…寝苦しい?水飲む?」 枕元に置かれた水差しを取って、シオンが訊ねる。 「あ、ああ…じゃ少しだけ」 「うん」 ランプの僅かな明かりの元、水が注がれる音が響く。 「はい」 「サンキュ」 手渡されたグラスの中身を一気に飲み干して、ようやく落ち着いてきた。 空になったグラスを両手で包み込み、ちらりとシオンを伺う。 「俺、何か言ってたか?」 じっとテッドを見つめていた琥珀が微かに泳いだ。躊躇いがちに、 「……ごめんなさいって繰り返してた」 「そっか」 小さく微笑む。あの手がシオンのものなのなら。 「ありがとな」 「え」 突然の感謝の言葉に、シオンが顔を上げる。 「大丈夫って言ってくれたの、お前だろ。聞こえたよ」 「……テッド…」 「お前は本当に、俺が欲しいものをくれるんだな」 滲んだ雫を落とさないよう、僅かに仰向く。 おやすみのキスが欲しかった。 撫でてくれる手が欲しかった。 心細く思うとき、心はいつも幼少時代に返る。まだ紋章のことを知らなかった、無邪気だった頃の思い出に逃げ込む。 シオンはそれと知らずに、テッドが欲しいものをくれる。 それはまるで奇跡のように。 「そうなの?だったら嬉しいな。……勝手に入って来てって怒られるかと思ってた」 えへ、と照れくさそうに舌を出したシオンに視線を戻して、いつものように笑って見せる。 「そんなの今更だろうが」 「あはは、そうだよねぇ」 明るい笑顔が、心に巣食っていた闇を溶かしていく。 シオンの側で死にたいという願いは変わらないが、 (それと同じ位、ずっとお前の隣で笑っていたいとも思うんだ) 相反する二つの願い。でもどちらも本当で。 (もう少し頑張れるだろうか) もう少し、シオンが天寿をまっとうするまでは生きてもいいかもしれない。 死を望むのは、シオンとの「終わり」が来てからで充分だ。それ位はまだ頑張れる。 「もういい時間だ。お前も寝ろよ。続きはまた明日な」 「うん。おやすみ、テッド」 シオンの顔が近づいて来たかと思うと、頬を柔らかなものが掠めて行った。 じゃあねーの声と共に、猫のような軽やかさでシオンが扉の向こうに消える。 再び戻った静寂と暗闇の中、テッドは参ったという風に赤くなった頬に手を当てた。 「本当に、お前って奴は」 テッドアンソロ「300」のボツ原稿を完成させたもの。 アンソロに寄稿するにはちょっと重い内容だったので別の話に変えたのですが、数年後にこんなオチがつけれて良かったv 戦前シオンの天然っぷりは、スノウと同じものを感じます…スノウもこういうタイプだよね。 回想に出てくる声は順番に、おじいちゃん、養い親、同郷のお兄ちゃん、アルド、その他です。 死がテーマだったので、タイトルはズバリそのものです。 |