約束



不思議な雰囲気を持った人でした。
ここらでは見かけない異国の服を着ており、すぐに旅人だと判りました。
近くに大きな港があるので、彼もきっとそこを目指しているのだと思いました。この町を訪れる旅人は、陸を離れようとする人が殆どだったからです。
浜から港へは歩いてすぐなのですか、初めて来た人には少々判りづらい地形でした。
僕はお節介心を起こして、浜辺を歩いている彼に声をかけました。
「港は向こうですよ」
振り返った彼は、僕を見て静かに微笑みました。
年は10代前半から半ばと言った所でしょうか。一瞬女の子とも見まごう丸みを帯びた頬のラインと、大きな琥珀色の目が印象的な、綺麗な顔立ちの少年です。
ですが僕が目を奪われたのは、彼の外見ではなくその微笑でした。
僕には年老いた祖父がいます。根っからの海男で、若い頃からの無茶がたたり、今では海の変わりにベッドに縛り付けられている祖父は、一日中窓から見える海を眺めています。
目の前の少年に、その祖父の目と似た光を見て僕は驚いたのでした。
「ありがとう。でも僕は船に乗りに来た訳じゃないんだ」
「では誰かを迎えにいらしたのですか?」
年下の彼に僕は敬語を使っていました。家が客商売をしていることもありましたが、彼の雰囲気に飲まれたと言った方が正しいでしょう。何となく、タメ口きくのが躊躇われたのです。
「いや。海を見に来たんだ」
彼もまた、年上に敬語を使われる事に慣れているようでした。身のこなしが綺麗ですし、貴族の方なのかもしれません。
「海を?」
「僕の生まれた町には、海がなかったから」
そう言って海に向けた視線は、再び僕に祖父の顔を思い出させました。
寂しげな、焦がれるような目です。どうして彼はあんな目で海を見るのでしょう。
「では実際に見ていかがですか?」
僕は彼への好奇心を止められませんでした。もっと彼と話をしたくて、彼の言葉を引き出す問いを投げかけました。
「驚いたよ。湖よりずっと広くて水の色が濃い。絶えず波が打ち寄せて来るし、海からの風を長く受けていると肌がべたべたする」
「海風は塩を含んでいますからね」
「そうだね。水を嘗めたら物凄く塩辛かった。聞いていた通りだ」
初めて浮かんだ年相応の笑みに、僕は嬉しくなりました。
「誰かに海のことをお聞きになったのですね」
「ああ、僕の親友に。昔船に乗って旅をしたらしい」
「羨ましいです。僕はこの町を出たことがありませんから」
そこで僕は彼を引き止めるいい口実を思いつきました。
「あなたも旅をしているのでしょう?宜しければ今夜、旅のお話を聞かせて頂けませんか?実は僕の家は港で宿屋をやっているんですよ。全客室から海が眺められるのがうちの自慢でしてね」
彼は少しだけ目を見張り、
「それは助かる。海が見える宿屋を探していたんだ」
と実に子供らしい顔で笑いました。



幸いにもこの日の宿泊客は少なく、僕は給仕をしながらゆっくり彼と話をする事が出来ました。
彼は驚くほど旅の知識が深く、地図上でしか知らない遠い国の話を色々語って聞かせてくれました。幼い頃から宿泊客の旅話を聞いて育った僕でさえ聞いた事のない、小さな国の事も彼は知っていました。
「お連れはいらっしゃらないのですか?」
この年で、一人で旅をするには広すぎる範囲でした。誰か同行者がいて、今だけ別れて行動しているのかと思ったのです。
「いないよ。僕一人だ」
彼が語ってくれた国を全て回るとしたら、それこそ何年とかかります。彼は一体いくつの年から旅をしているのでしょう。
それを訊ねると、彼は小さく苦笑するだけでした。どうやら訊かれたくない話だったようです。
客商売をやる者として、客に不快感を抱かせてはいけません。僕はそれ以上、そのことについて訊ねるのを止めました。
夕食はうちの宿自慢の魚料理でした。母はこの町一の料理上手なんです。
彼は海の魚は食べたことがないそうで、とても喜んでくれました。もう少し時期がずれていれば、脂が乗った一番美味しい魚をお出しできたのにと思うと残念です。
食事が終わると、彼を一番眺めが良い部屋に案内しました。
部屋に入るなり、そんなに払えないけれどと困ったような顔をした彼に、サービスですと僕は答えました。その部屋は、うちで一番いい部屋だったんです。
旅の話を聞かせてくれたお礼だと告げると、彼は小さく笑ってありがとうといいました。
不思議な人です。他人に、彼の為に何かをしたいと思わせる人です。
一人でずっと旅をしていることや、持っている棍の使い込まれ具合で、彼がとても強いことも判りました。どこかの軍に入れば、将にまで上り詰められる人でしょう。
挨拶をして、僕は部屋を後にしました。朝が早いので夜は早々に休みましたが、夜中に彼はどこかに出ていたようでした。


翌朝、彼は朝食の席で「やはり船に乗ってみるよ」と言いました。
大陸を離れるつもりはないけれど、次の町に行くのに船旅を楽しんでみようと思ってね、と笑った彼の顔は、最初の印象からは程遠い子供らしい顔でした。
港まで案内して、船の出港を見送った後、ふと僕は彼の名前を聞いていなかったことに気づきました。
おかしな話です。昨夜あれだけたくさんの話をしたのに、一度も名前を呼ばなかったなんて。
彼が記入した宿帳を広げると、そこには端正な文字で「シオン・マクドール」と書かれていました。
僕がその名前を歴史書の中で見つけたのは、それからずっと後のことでした。








夜の海は、昼間とは全く違う顔を見せる。
青ではなく黒。黒いうねりが波飛沫の白を抱えて、シオンの足を濡らして行く。

『海の水は物凄くしょっぱいんだ。で、湖とは比べ物にならないくらい広い』
『しょっぱい水じゃ、魚は生きられないんじゃないの?』
『海でしか生きられない魚もいるんだ。淡水魚より味が濃くて美味いんだぜ』
『へえー。食べてみたいな。しょっぱい水っていうのも嘗めてみたい』
『ああ、海に行ったら絶対嘗めてみろよ。一杯は飲むなよ?むせるからな』

寄せてきた波に手を沈め、滴るしずくをぺろりと嘗める。
「うん、やっぱりしょっぱいや」
苦味を含んだ塩気が、舌と喉を焼いていく。
「海の魚も食べたよ。凄く美味しかった。ここより北では貝がよく取れるそうだ。今度はその町に行ってみようかな」
無人の浜辺の、誰かに話しかけるような声は、波音に掻き消され広がることなく消えていく。

『海か…グレッグミンスターからは遠いんだよね。その時はちゃんと道案内してね、テッド』
『えー、俺も一緒に行くのか?お前足手まといになりそうだからなぁ。どうしよっかなあ』
『絶対足手まといになんかならないよっ。だからいつか一緒に行こうね。約束だよ!』
『……いつかな』

「やっと約束を果たせたね」
波に洗われ濡れた右手を掲げて微笑む。
「さて次はどの『約束』にしようか。行きたい所があり過ぎて、迷ってしまうよ」
共に過ごした二年の間にした約束は、まだ半分も終わっていない。
「まあ時間はたっぷりある。焦らず行くさ」
それこそ終わりが見えないほどに。
唇に柔らかな笑みを上らせて、シオンは友の命が宿る右手にそっと口付けた。











*種辺るるさんに捧ぐ*


モノローグ無しの第三者視線でという事で、オリキャラが出張ってしまいました…。
最近この手の文章楽しくって仕方ありません。一人称よりずっと書きやすい。




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