小銭稼ぎの小さな仕事を終え、昼過ぎに屋敷に戻って来ると、何だか家の中がシーンとしていた。
いつもなら家庭教師に出された課題を午前中に終わらせたシオンが「遊びに行こう!」と駆け出してくるのだが、出かけてでもいるのか二階にいる気配はない。 マクドール家に厄介になって一ヶ月近くが経つが、こんなことは初めてだ。どこが気に入られたのか、やたら懐かれ辟易してはいたが、日課となりつつあるパターンが崩されるとやはり調子が狂う。 「おや、お帰りなさいテッド君。お昼はどうしますか?」 物音に気づいたシオンの付き人が、台所から姿を現した。慌てて頭を下げる。 「仕事先で済ませて来ました。………あの、シオンは?」 「少し前にお出かけになりましたよ。今日は二十四日ですからね」 テッドがシオンの名を口にした途端、青年の瞳に喜色が浮かぶ。 マクドール家の家人は、二人が親しくなる事を期待している。屋敷に来た当初のテッドは、当たり障りのない質問には答えるが、自分からは何も話そうとはしなかった。無口な少年に最初は皆戸惑ったものの、テッドが引き取られた目的でもあるシオンがいたく彼を気に入り、あれこれと手を変えてアプローチしていくうちに、テッドの心も大分解れてきたらしい。 テッドの方からシオンの所在を訊ねたのは初めてで、それがグレミオの頬を緩ませたのだった。 「二十四日だから?」 テッドが首を傾げる。この日にちに何か意味があるのだろうか。 「今日は坊ちゃんのお母様の月命日なんですよ」 「…………え」 シオンの母親が、シオンを産んだ翌年亡くなった事は聞いている。顔色を変えたテッドに、グレミオは静かに微笑み、 「町の西にある墓地は知っていますよね。そこに坊ちゃんはいると思います」 それだけ言うと彼は再び台所に戻って行った。残されたテッドは困惑するばかりだ。 シオンがテッドに黙って出かけたのは、墓参りに他人を連れて行きたくなかったからではないのか。 だがグレミオはテッドに行って欲し気な口ぶりだった。 暫く逡巡した後、どうせやることも無いのだしとマクドール家を後にして、テッドはシオンがいる筈の墓地へと足を向けた。 墓地の門番に声をかけ、立ち並ぶ墓石の間を進んでいく。 教えられたマクドール家の墓は、小高い丘の上にあった。 延々と連なる白い墓石の中に、シオンの赤い服と緑のバンダナがくっきりと浮かび上がっている。 草を踏む音に、屈みこんでいたシオンが振り返った。 「テッド……どうして」 泣いているのかと思いきや、彼の目も声もいつもと変わらなかった。 「グレミオさんに、お前がここにいるからって言われて…」 問われて自分でも不思議に思う。 どうして来たのだろう。来て、何をするつもりだったのだろう。 死を悼む人間の姿など、見たくなんかない筈なのに。 「……邪魔して悪かった」 踵を返そうとしたテッドを、シオンの明るい声が追う。 「邪魔なんかじゃないよ。来てくれてありがとう。本当はテッドにも一緒に来て欲しかったんだ。だけど墓参りなんてテッドは嫌かと思って」 「……なんで俺を?」 振り返ると、シオンがにっこりと無邪気な顔で笑った。 「母さんに、僕の初めての友達を紹介したかったんだ」 「…………」 立ち尽くしてしまったテッドの腕を掴んで、シオンが墓石の前に連れて行く。手を取られることはない。握手は苦手だと、初めて会った時に伝えたから。以来二度とシオンはテッドの右手には触れてこない。 「母さん、さっき話したテッドだよ。テッドはずっと一人で旅をして来たんだって。僕と同じ年なのに、自分のことは全部自分でやってきたんだよ。凄いよね」 「…………」 マクドール家の紋章の入った墓石は、何も語りはしない。 顔も声も知らぬ母を、冷たい墓石の中に見るシオン。月に一度、こうして彼はたった一人で物言わぬ母に会いに来るのか。 テッドも物心ついた時には既に祖父と二人暮しだった。両親は流行り病で亡くなったという。家には肖像画位はあったのだろうが覚えていない。 シオンもテッドも、母の温もりを知らない子供だ。 「……なあ、何で自分だけ母親がいないんだろうって思ったことはないか?」 視線は足元の墓石に据えたまま、ぼそりと呟く。 この手の質問は、これまでも旅先で出合った様々な人間に投げかけてきた。 運命を恨むというならそれもいい。同じ境遇の者同士の愚痴は傷の舐めあいでしかないが、一時の慰めにはなる。 だが逆風にまっすぐ立ち向かう者の力強い言葉は、ともすれば立ち止まりそうになる心に再び歩き出す勇気を与えてくれた。 シオンの答えはどちらだろうか。 「母さんがいないのは僕だけじゃないよ。母さんはね、体が弱くて子供は産んじゃいけないって言われてたんだって。でも僕がお腹にいるって判った時、家族みんなを説得して僕を産んでくれたんだ。それを聞いた時はショックだったよ。僕が母さんを殺したんだって自分を責めた。でも父さんは僕に生まれてきてくれてありがとうって言ってくれたんだ」 「…………」 「僕は母さんの命を貰った。母さんがいないのは寂しいけど、僕が生きてここにいることが、母さんに愛された証なんだ」 「…………」 それに僕には父さんもグレミオたちも、テッドもいるしね、とシオンが笑う。だから寂しくないんだと。 「…………」 テッドは無言のまま膝を折って屈みこみ、墓石に向かって手を合わせ、目を閉じた。 そういえば、故郷の両親の墓はどうなったのだろう。何百年も訪れる者のいなくなった墓は、もうとっくに朽ちて砂礫と化しているかもしれない。 「……テッド?」 長い時間をかけて真剣に祈るテッドに、シオンが不思議そうに名を呼ぶ。 暫くして顔を上げたテッドは、最近少しずつ見せるようになった笑顔で、俺の母親の分も一緒に祈らせてもらったんだと答えた。 「うん、いいよ。きっと母さんが、テッドの言葉をテッドのお母さんに伝えてくれるよ」 300年前の死人だから、シオンの母さんも探すの大変だろうななどと思いつつ、笑みを浮かべたまま立ち上がる。 並ぶと視線はテッドの方が少し高い。この目線が同じになる位までは、ここにいてもいいかと思う。 シオンの答えは決して特別ではない。同じような答えを返して来た者は何人もいた。 だが何故か、シオンの言葉は心にひっかかった。 もっとシオンの言葉を聞いてみたいと思った。嬉しい言葉も悲しい言葉も。 たくさんの言葉を、彼の隣で。 連日蒸し蒸しとした暑い日が続く。 トラン地方は湿度が高く、夏の不快指数は今まで旅して来た町の中でも上位に入る。この町で迎える夏は二度目だが、どうもこの湿度には慣れない。 街路樹の下で日差しを避けながら、シオンが来るのを待つ。 今日は二十四日だ。恒例のシオンの母親の墓参り。 あの時以来、墓参りは二人で行くようになった。親友の母との対面は、いつしかテッドにとっても欠かせないものになっていた。 「ごめーんっ、テッドー」 聞きなれた自分を呼ぶ声に視線を向けると、シオンが息を切らせて走って来た。忘れ物して一度取りに帰った上、そこで道を訊かれて遅くなっちゃったと謝るシオンの肩越しに、彼が来た方向を見やると、長いマントを羽織った旅人が立っているのが目に入った。 「…………」 「どうかしたの?テッド」 「いや、何でもない。さ、行こうぜ」 首を傾げるシオンを促し、シオンの背中を押すようにして歩き出す。隣で揺れる右手を取ると、シオンがおやっという顔をした。 「なんかご機嫌だね」 「ん。ちょっといい事があってさ」 繋いだ左手の温かさも加わって、喉を突く声が自然弾んだものになる。 一年半前この町に来た時は、こんな風に笑えるようになるなんて思っても見なかった。 紋章の事も、シオンとの身長差がもうすぐ無くなる事も忘れてはいない。だけどもう失う事に脅えて逃げるだけの、かつての自分ではない。 前を向いて歩く勇気を、シオンに貰ったから。 ――俺も、まっすぐ生きられるようになったよ 心の中、過去の残像に向かってそっと呟く。 あの頃には出来なかった、心からの笑顔を浮かべて。 「今だから、テッド祭」記念アンソロに寄稿した作品をちょっと修正して再録。タイトルにaとbが入ってるのは、実はキノ旅のまねっこでした(笑) |