昨夜はアスがラズリルの僕の家に初めて泊まりに来て、不器用ながらも僕が捌いた魚料理を彼に振舞って、「スノウ料理ができるようになったんだ、凄い!」と感動して貰って、食後に取って置きのワインを出して乾杯して、他愛ないお喋りを楽しんだ後、狭いベッドに二人で横になった――筈だった。
なのに目が覚めたら、真っ青な海と大きな船の停泊している港を見下ろす丘の上に居るって……どういう事!?   



青い海の向こう側   



夢じゃないよね、と頬をつねってみる。
痛い。夢じゃないみたいだ。
寝ている間に誰かに連れて来られたとか…。ぐるりと辺りを見渡して、それも違うと否定する。
ここはオベルの王宮脇の丘だ。背後を振り返れば、やや見上げる角度に存在する王宮の建物。オベル王国には数回しか訪れたことはないけれど、流石に国の象徴の建物を忘れはしない。
オベル王国関係者が、こんな誘拐じみた手段で僕を連れてくる理由はない。
もし万が一、何かのっぴきならぬ事情があったからとしても、僕じゃなくてアスを連れてくるはずだ。
群島戦争を収めた英雄、王家縁の罰の紋章の継承者、かつてのオベルの巨大船の艦長、そして――オベル王の正当なる血筋の彼を。
昨夜の夕食の後、アスが話してくれた。自分はリノ王の息子であり、罰の紋章を宿していた王妃が、海賊の襲撃から船を護る為に力を解放し、自分だけがラズリルにたどり着いて助けられたと。
打ち明けられて、あぁと納得した。それを知ったのは決戦前夜だね、と訊ねれば、アスの目が驚いたように見開かれた。
気付いてたよ。他でもないアスの事だから。
エルイール要塞突入部隊の本隊は、アスと僕とリノ王とチープーだった。船の上から見送るフレア王女の、気遣わしげに細められた海色の瞳の視線の先を追って、父親であるリノ王が心配なんだなと思った。僕の隣にはアスがいて、そのすぐ後ろにリノ王が立っていた。彼女の揺るがない視線の範囲には、丁度家族が二人とも入っていた。
先頭を買って出て下さったリノ王のすぐ後ろにチープーが、一歩遅れてアスと僕が並んで進んで行く。そのリノ王の背中を見つめるアスの瞳が、いつもと違う事に気付いてたよ。
真っ直ぐな、一生懸命な瞳をして。
まるで視線で叫んでいるかのようだった。あの時君は、声にならない声で父親を呼んでいたんだね。
時折後方確認に振り返るリノ王の瞳が、あんなに優しかったのは、そういう事だったんだ。
オベルに帰らないのかい?の問いに、アスは困ったように微笑んだ。折角家族がみつかったんだろう、リノ王もフレア王女も真実に気づいている、家族の名乗りを上げて、今まで離れていた分を取り戻すんだ、君はオベル王国の王子なんだから。
懇々と説得を繰り返した僕を、益々困ったような表情で見返して、アスはただ一言「僕の故郷はラズリルだから」と呟き、押し黙ってしまった。
それ以上は何を言っても無言だったので、僕も諦めて話題を変えたけど……内心ほっとしていたんだ。
アスがラズリルを故郷と思ってくれていた事が、嬉しかった。
それって家族であるリノ王達より、僕との思い出の方が大事だって事だろう?
アスがリノ王に好意を寄せていないならともかく、重要人物である王を最終決戦のメンバーに選ぶほどリノ王を慕っていた。リノ王が父親だったんだと語った時の、面映そうな笑顔は本物だった。
その彼らよりも、僕を優先してくれた。
僕達の親友とは名ばかりの、所詮は主従でしかなかった歪んだ関係は一度破綻した。そして僕が差し出され続けた手を取れた時、本当の親友になった。
親友だったら、友人の幸せを望むべきなのに。
人間なんて怱々変われるものじゃないと、自分の身勝手さを自嘲する。
アスがオベルに帰らなかった事が嬉しい。群島の英雄というだけで僕の手の届かない所に行ってしまったような気分なのに、オベルの王子だなんて。
最早アスは僕だけのアスじゃない。宿星たちが、群島の人々が敬意を持って見上げる煌きの極星。
――もしかしたら、アスもオベルに来ているのかもしれない。
アスを運ぶついでに僕も連れて来て、邪魔だからってここに放り出されたのかも……ちょっと切ない想像だけど。
いつまでもこうしても仕方がないしと、とりあえず王宮へ向かおうと腰を上げたその時、
「スノウ!ここに居たんだ」
背後の背の低い木の茂みから、ひょこっとアスが顔を覗かせた。
「アス!良かった…君も一緒だったんだね」
アスの無事な姿に、ほっとして駆け寄る。オベルでアスが危険な目に会う筈はないと判ってはいても、やはり本人の姿を見て安堵した。
「という事は、僕たちを連れてきたのはやっぱりオベル関係者か。何だってこんな強引な手段で…夜中だって起こしてくれれば、ちゃんと自分で歩いて来たのに」
「?何言ってるのさ、スノウ。……まあいいや。そんな事より早く王宮に戻ろう。今日は僕の仕事を手伝ってくれる約束だろう?もう一人じゃとても手に負えない。あーあ、折角のスノウとの休暇なのに、どっさり仕事を押し付けられて散々だよ。こんな事なら里帰りなんかしないで、ネイ島にでも行けば良かったな。あそこの温泉も心惹かれてたのに」
肩を竦めて重い溜息を吐くアスを、僕は驚いて見返した。
「約束?…里帰りって…」
アスがリノ王の息子である事は、秘密だったはずだ。
それに。
「休暇ってどういう事?」
僕の手を掴んで歩き出そうとしていたアスが、訝しげに振り返った。
「さっきから一体どうしたの、スノウ。騎士団の休暇にオベルに行こうって言い出したのは君じゃないか。別に一年や二年帰らなくたって、僕は平気だったのに…。まあスノウは実家がすぐ近くだから、故郷を離れた僕に気を使ってくれたんだろうけど、帰国早々国内の視察やら隣国の大使の出迎えやら、働かされてばかりだよ。お陰で君との時間がちっとも取れやしない。予定より早いけど、明日の定期便でラズリルに帰ろう。そうだ、途中でモルド島にでも寄ろうか。少しはバカンスを楽しまないとね」
「…………」
僕は夢でも見ているんだろうか。
それとも頭がおかしくなったんだろうか。
アスが言っている事が理解できない。僕達が騎士団に在籍していたのはもう何年も前の話で、アスが自分の出自を知ったのは、群島での戦いの決戦前夜と聞いた。
なのに目の前のアスは、まるでオベルで生まれ育ったかのような口ぶりで――
「……!アスっ。君の左手…っ」
「ん?僕の手がどうかした?」
普段は黒い手袋で覆われているアスの両手は、むき出しのままだった。僕の手を掴む右手の反対側で、よく日に焼けた左手が揺れている。
だけどそこに、罰の紋章の姿はなかった。
「罰の紋章はどうしたんだっ?あれは宿主が死ななければ、他人に渡らない筈だろう」
「……何でスノウが罰の紋章の事を…」
さっとアスの顔に緊張が走った。
いや違う。これは警戒、だ。
無言の圧を感じて、反射的ににじるように後退さる。脅えを浮かべた僕にアスは小さく苦笑し、表情を和らげた。
「どこで紋章の事を聞いたの。……君を責めてるんじゃないよ。ただ、情報源は確認しておかなければならない。それと…この事は黙っていてくれるよね」
言い方はお願いだったが、実質は命令だった。逆らう事を許さない、威圧的な響きがある。
――これは誰だ?
アスだけれど、アスじゃない。入浴と就寝時以外滅多に外さない赤いハチマキが、額に無い事も違和感に拍車をかけている。
春の夜明け色の柔らかな髪を揺らし、真っ直ぐ見つめてくるマリンブルーは、僕が知るアスそのものなのに。
ゴクリと息を呑んで、必死に頭を回転させる。とにかく、場を取り繕ういい訳をしなければ。僕の真実は、恐らくこのアスには通用しない。罰の紋章は、王妃がこの世に持ち出すまで、オベルの遺跡に封印されていたと聞いた。だったら。
「…リノ王が教えて下さったんだよ。オベルは真の紋章の一つである罰の紋章を所有しているって」
罰の紋章が誰かの手に宿っているのか、封印されたままなのかが判らなかったので、そこら辺は濁して答えた。下手な人物の名を挙げたり架空の存在をでっち上げるより、大物を出しておいた方が安全だ。リノ王の性格ならありえそうだし。
「お父さんが?……全く、あの人は口が軽いんだから」
予想通り、やれやれとアスが――最早僕の知る彼ではない事は確信していたけれど、他に呼びようもない――肩を竦めた。
「ま、スノウだから話したのかもね。一応王家のトップシークレットなんだ。他言無用でお願いするよ」
唇の前に人差し指を立て、悪戯っぽい目でしーっという仕種をして、アスは再び僕の手を握った。
「さあ、王宮へ行こう。さっさと事務仕事を終わらせて、その後はゆっくり過ごそう」
「あ、ああ……」
楽しげに笑う彼の笑顔は、僕が初めて見るものだった。
アスは僕の前でこんな風に……気負いのない顔で笑ったことがない。
照れくさそうな、嬉しそうな穏やかな微笑か、一途な忠誠心が見え隠れする痛々しいまでの信じきった笑顔しか――
ちり、と刺した痛みに胸を押さえながら、僕は彼に手を引かれて王宮へと続く道を走った。


「終わったーっ」
歓声じみた叫びを締めの合図に、全ての書類への捺印が終了したのは、日も暮れた頃だった。
アスが確認して判を押した書類を、僕が種類別に分類し綴じ紐で束ねると言った単純作業だったけれど、量が量なだけに結構時間がかかってしまった。
「お疲れ様、アス」
つい先ほど給仕の女性が持って来てくれたレモン水の入ったグラスを、机に突っ伏している頬にぴとっと添える。「冷たっ」と笑み混じりの悲鳴を上げる横顔を見下ろして、微かに微笑んだ。
彼は僕の知るアスではないけれど、でも確かにアスだ。
一緒にいると落ち着く。無言になってしまっても、居心地の悪さを覚えない。どうやらアスと好みも同じらしい。レモン汁を水で割っただけの飲み物を(しかもかなりレモンの比率が高い)、美味しそうに飲む様子を目を細めて見守る。
僕の手の中には、はちみつを落として甘くしたレモン水がある。子供の頃、酸味が強くて子供が敬遠しがちのレモンを好きな事が密かな自慢だったけど、はちみつが入っていれば子供だって飲めるに決まってる。レモンが本当に好物で、果実を平然と丸齧りするアスに向かってレモンが好きと言い切った僕は、思い返すだけで恥ずかしい。
「あー、お腹空いた。もう広間まで行くの面倒だから、僕の部屋に運ばせて二人で食べよう」
アスが空になったグラスを盆に戻し、室内ベルで侍女を呼ぶ。
その馴れた手つきをぼんやりと眺めながら、僕は訊ねた。
「いいのかい?明日の船に乗るんだろう?」
「お父さんたちと食事すると、いろいろ煩くって。やれ騎士団での生活はどうなんだ、ちゃんと上手くやってるのか、次はいつ帰るんだって。……お父さんはともかく、お母さんと姉さんがね、しつこい。女ってどうしてああも根掘り葉掘り聞きたがるのかな」
「君の事が心配なんだよ。なんたって王子が、身分を隠して他国の騎士団に入団しているんだから」
先ほどの作業の片手間に、彼からぽつぽつこちらの世界での情報を聞き出していた。
どうやらここは、オベル王妃が遺跡から罰の紋章を持ち出さなかった世界らしい。
「僕」とは幼い頃からの付き合いで、彼の身分を知る者の中で唯一アスという呼び名を許されている親友で、(僕以外の人は、彼の本名のアシュレイで呼んでいる)僕たちはラズリルの海上騎士団の訓練生だ。二人とも寮に入っており、ルームメイトでもあるらしい。僕の世界より親密度は高そうだ。
入ってきた侍女に食事の支度を言いつけているアスの後ろで、僕はこっそりと溜息を洩らした。別にこの世界が嫌だって訳じゃないけど、やはり自分の育った世界の方がいい。
「僕の部屋に運んでくれるって。行こう、スノウ」
「……ああ」
振り返ったアスに憂鬱を気づかれないよう笑顔で覆い隠して、彼の後に続く。
着いた部屋は、王宮の中央から離れた位置にある、風通しのいい海に面した部屋だった。
部屋の四隅に置かれたランプに火を入れると、室内が明るく照らし出される。
油と火種を持った侍女が退出するのと入れ替わりに、食事の盆を掲げた侍女たちがやってきて、テーブルの上に広げていく。 
長椅子に腰掛けたまま彼女らを労うアスは、気品と威厳を兼ね備えた王子だった。
「そんなとこに立ってないで、こっちにおいでよ。食事にしよう」
侍女達が下がって二人だけの空間に戻ると、アスが柔らかく笑んだ。
手招きされ、所在無く立ち尽くしていた入り口近くの壁から離れて彼の向かいに腰を下ろす。オベルの料理は船でも時々食べていたので、ちょっと懐かしかった。
「――今日のスノウは、何か変だよ」
食事を終え、呼び鈴を鳴らして食器を片付けさせ、代わりに運ばれて来たワインのグラスを傾けながら、アスが呟いた。
長椅子の淵に片肘を預け、半分横になった状態で寛ぐアスの、僕を見つめる視線だけは緩んでいない。
「そうかい?ちょっと疲れたからね…」
声が上ずらないよう必死に祈りながら、ワインを口に運ぶ。
月を楽しむ為、食事の後は窓際の明かりは落とされていた。
窓から差し込む月光に照らされたアスの顔は、能面のような無機質さを感じさせた。
「スノウ」
ゆっくりとした動作で、アスがグラスを置き、立ち上がる。
何とはなしに彼を目で追う。しゃらり…という鈴の音が聞こえて来そうな、優雅な歩き方だ。
僕の座る、一人掛けの椅子の肘掛に横座りに腰を下ろすと、長い指が僕の手からグラスを掬い取った。
「アス……?」
見上げる動きを、顎に添えられた指が手助けして。
「……っ……!」
唇に押し付けられた柔らかさに目を瞠る。
間近には整った顔と長い睫。伏せられた瞼が微かに震え、月光をまとった海色の瞳が姿を覗かせる。
口付けられた驚きよりも、その美しさに目を奪われた。
服の下に潜り込んで来た掌に肌をなぞられ意識を取り戻すまで、抵抗する事も忘れていた。
「!……アスッ……何を…!」
「何をってキスだよ。今更だろう?」
「ちょっと待っ……んんっ……」
押しのける間もなく再び塞がれた唇に、頭がパニックを起こす。唇の間からざらついた舌が潜り込んで来て、ぞわりと背が粟立った。 
「待たない。僕は今、スノウに欲情してる。いつもこうしてキスして、抱きあって、何度も夜を過ごしてるじゃないか。知っているはずだよ。――僕のスノウならね」
「……!!」
耳朶に歯を立てられ、続いて落とされた冷えた声音に、全身が強張った。
「君は誰?姿かたちも言動もとてもよく似ているけど、僕のスノウじゃない。どこから差し向けられた刺客かな。スノウの姿だったら、僕を騙せると思った?……甘いよ。僕がスノウとこういう関係だって事は知っていたかい?知ってたんだとしたら……僕に抱かれる覚悟で来てるんだよね」
「……ち、違っ……僕は…っ……あっ……」
下半身を強く握りこまれ、続く声を失う。アスの手が、慣れた手つきで服の上から僕のものに触れて来て愕然とした。
「覚悟は出来てたようだね。むしろ願ったり叶ったりってとこ?男に抱かれるの、慣れてるんだ」
こんな風に冷たい嘲笑を浮かべるアスを見たことがなくて、体を強張らせながら――だが確かに、僕の体はアスの愛撫に反応していた。
情けなさからふるふると首を振る僕を、アスは嘲るように見下ろして、
「いいよ。抱いてあげるよ。僕のスノウの代わりに、絶頂を見せてあげる。だから……」
「ぐはっ…」
喉を片手で締め上げられ、息苦しさに生理的な涙が滲む。
「――スノウをどこにやった?」
「………っ…」
今までとは比較にならない殺気を帯びた声に、体が竦む。
視線だけで射殺されそうだった。
「――……ッ……はぁ…はぁ……」
喉を締め付けていた手が離れ、荒く空気を吸い込む。アスの手が、僕の上着にかかった。襟を無理矢理引きちぎられる。
「言わなければ体に訊く。スノウと同じように扱ってもらえるだなんて思うなよ」
「……い、嫌だ…っ…!」
渾身の力でアスを突き飛ばして、開け放たれた窓から躊躇い無く飛び降りる。そのまま無我夢中で、振り返りもせずに正面に見える海に向かって走り出した。
「…………やっぱりあの顔には無理強いはできないな」
室内に佇む影の自嘲交じりの呟きは、僕の耳には届かなかった。



どうやら追っ手は差し向けられてはいないようだ。
オベル港から少し離れた崖の影に蹲り、暫く様子を窺っていたが、夜の港に僕が懸念した人影が現れる気配はなかった。
どっと体の力が抜けて、溜息を吐く。
――どうしてこんな事になってしまったんだろう。
普通にベッドで寝ていただけなのに。
これが夢だったらどんなにいいか。心細さも手伝って潤んだ目から雫が溢れる前に、慌てて強く腕で擦った。
アス……君はどうしてる?
この世界の彼ではない、僕と一緒に育ったアスを思い浮かべ、ますます切ない気持ちになる。一緒に寝たはずの僕が、翌朝急にいなくなっていたら、ひどく心配するだろう。
どうやったら元の世界に戻れるのかも、皆目見当がつかない。
もしかしたら、この世界の僕と入れ替わってしまったのかもしれない。だとしたら、永遠に元の世界には戻れないのだろうか。
「……アス、君に会いたいよ」
曲げた膝の間に顔を埋め、ぽつりと呟く。言葉に出してしまうと止まらなかった。
「アス……アス……」
涙と同じように、アスへの思慕が溢れて止まらない。
「……本当に、君は僕のスノウに良く似てる」
「!…っ」
前触れもなく突然降って来た苦笑交じりの声に、びくりと大きく体を奮わせる。
崖の上で月光を背に立っていたのは、この世界のアスだった。
ひっと悲鳴を上げて飛び退った僕を困ったような目で見つめ、アスは周りの崖を伝ってこちらに近づいてきた。
「さっきは苛めてごめん。もう手荒い事はしないから、一緒に王宮に来てくれ。スノウのこと、教えて欲しいんだ」
「嫌だ……それに僕は、君の僕の事は知らない…僕もどうしてこんなとこに来たのか判らないんだ…」
「君の僕……?」
彼には理解できないだろう言い回しに、首を傾げている隙を狙ってその脇を走り抜ける。咄嗟に伸ばされた手を避けようと体を捻った途端、バランスを崩し――
「……スノウ!」
アスの手も間に合わず、僕の体は夜の黒い海へと、まっ逆さまに落ちて行った。
 
 
 
「――はっ!」
気がつくと、僕は固い床の上にうつ伏せに倒れていた。
慌てて体を起こして辺りを見渡す。壁際に置かれた簡素な木のベッド、小さなサイドテーブル、窓からは明るい日の光が差し込んでいる。
紛れもなく、ラズリルの僕の家だった。
「帰ってきた…?いや、そもそもあれは夢…だったのか?」
「……う……」
呆然と洩らした僕の呟きに、別の唸り声が重なる。振り返ると、アスが同じように床に倒れていた。
「!」
咄嗟に飛び退ったものの、よく見れば彼の頭にはいつもの赤いハチマキが巻かれている。手袋をしていない左手には、罰の紋章の姿もあった。向こうのアスじゃない。僕の知っているアスだ。
ほっとすると今度は倒れたままの彼が心配になり、抱き起こそうとして体の不自然な重さと寒さに気付いた。
服がぐっしょりと濡れている。水を被ったなんて可愛いものじゃない。雫が滴りこそしないものの、まるで服のまま泳いで来たかのような――
そして仄かに香る、潮の匂い。
「アス。起きて、アスっ」
何故か、アスの体も僕と全く同じ状況だった。濡れた服の所為で冷え切っている体を、荒く揺さぶる。
「……スノウ…?…………!!」
海の香りを漂わせ、しっとりと濡れた髪の間から覗いたマリンブルーが僕の姿を映した途端、大きく見開かれた。 
驚きにじゃない。瞳の中に僕に対する怯えをはっきりと見止めて、ぎくりと身を強張らせる。
怯えている?アスが僕に?
――心臓を鷲掴みにされたような冷たさを、覚えた。
そして続いたアスの言葉に、今度は僕が目を見開く番だった。
「ここは……スノウの家?オベルじゃない?」
「オベルって、まさか!君も向こうの世界に行っていたのかい!?」
「え、じゃあスノウも…っ?」
「ああ。紋章を持たない、オベルの王子の君と会ってきたよ。濡れた服といい、本当に……夢じゃなかったんだ…」
全身濡れ鼠の僕たちが倒れていた場所は流石に湿っているが、部屋の入り口や窓近くに水が零れた形跡はない。何処かからテレポートで運ばれて来た感じだ。
「『僕』に化けた刺客と間違えられて、向こうの君に追いかけられて海に落ちたんだ。気がついたらこっちに戻って来ていた」
「僕も……向こうのスノウから逃げてて、誤って海に落ちて……」
次第に語尾が小さくなっていくアスに、おやっと首を傾げる。
覗き込んだアスの顔はほんのり赤く染まっていた。
――ちょっと待てよ。向こうのアスは、その……『僕』と夜を共にする関係だって言っていた。
彼が僕を襲ったように、アスもまた向こうの僕に迫られたんじゃないのか?
さっきのアスの怯えた表情といい、アスが「僕」から逃げたってのが、そういう行為からだとしたら。
「……す、スノウ?」
突然抱きしめられ、アスが戸惑いの声を上げる。
「ごめん。向こうの僕が、君を傷つけたんじゃないのかい…?」
「え、いや、ひどい事はされてないよ…それにスノウが謝る事じゃないし…」
弁明するアスの顔が益々赤くなる。何かされたのは間違いないだろう。嫌悪は感じていないようなのが救いだけど……。
何だろう、この気持ちは。
むしゃくしゃする。イライラする。
何に対して?誰に対して?
向こうの僕が、アスに触れた事が?
「―――ッ……」
唐突に、向こうのアス――アシュレイの唇の感触を思い出した。
そうだ、僕もキス……されたんだ。
アスと…キス、したんだ…。
彼に口付けられて驚きはしたものの、嫌ではなかった。
小さな頃から一緒に育った僕のアスではないけれど、彼も確かにアスだ。このアスと同じ魂だ。
アシュレイたちがそういう関係にあるのなら……僕たちもそうなってもおかしくは無いはずだ。
だって今、僕の心臓は痛いくらい早鐘を打っている。冷え切った体を温めてくれる温もりを手放したくないと……躰の芯が疼いてる。
「アス、向こうの僕に何をされたんだい?」
自分に嫉妬するなんて、馬鹿げた話だ。
「何をって……」
だけどアスにこんな顔をさせたのは、『僕』であって僕じゃない。
「こういう事を……されたんじゃないのか」
俯く顎を掬い上げ、そっと唇を重ねる。
生まれて二度目のキスは、同じだけど違う相手とだった。
「……っ……」 
抵抗は予想通り、なかった。
睫を瞬かせて驚きを露わにするも、下ろされた両腕が僕を押しのける事はなく、されるがままになっている。
勢いづいて、微かに開いた唇の間に舌を差し込んでみると、おずおずと言った感じで唇が開いた。
その奥でひっそりと潜む舌に触れた途端、理性と遠慮が弾け飛んだ。
「……んっ……」
抱き寄せて口付けを深くする。舌は逃げることなく、僕の求めに応じてくれた。もっともっと欲しくなって、夢中になって唇を貪る。いつの間にか、アスの腕が僕の首の後ろに回っていた。
「……アス……」
熱を帯びたままの声で、そっと名前を呼ぶ。
「スノウ……」
見知った瞳が恥ずかしげに潤む様子に、血流が一気に下半身に集まった。
アスは体格もいいし、顔立ちは綺麗だけど凛々しい感じだし、声は僕より低いし、どう見ても女の子には見えない。
なのにどうしようもなく――熱を煽られる。
「キスされたんだろう。答えて」
「………」
こくん、とアスが小さく頷いた。
「それで君は『僕』から逃げたんだね。キスだけ?それ以上の事もされた?」 
赤い顔のまま、今度は緩く首を振る。
「……すぐ、逃げたから」
「どうして逃げたんだい?さっき僕がした時は抵抗しなかったじゃないか」 
だんだんアスが固まっていくのが判っていながら、詰問じみた口調を続ける。彼の口から本音が聞きたかった。
僕を……求める言葉が聞きたい。
「…スノウになら何されても構わない……でも向こうの彼は、僕のスノウじゃないから…」
「アス……っ」
溢れてきた愛しさに、抱きしめずにはいられない。
羞恥からか視線を揺らすアスの顎を取って、上向かせる。
「なら僕が君に触れたいと言ったらどうする?」
移ろっていたマリンブルーが、ゆっくりと僕を捉えて。
「今まで考えた事無かったけど……スノウがしたいと言ってくれるなら……嬉しい」
見上げてくる恥じらいを含んだその目の、なんと愛しかった事か!
 

この時の僕の気持ちが想像できるだろうか。
もう天まで飛び上がりたい気分だ。
「君に触れたいんだ……アス」
薄い唇に再び口付けて、重く湿ったアスの上着を肩から落とす。いい?と最後の意思確認をする。
アスが雰囲気に流されている訳ではないと判っていたけれど、うやむやのまま進めるのは嫌だった。
ちゃんと合意の上の行為なんだって、アスにも自覚して貰いたい。
「僕も…スノウに触れたい。向こうのスノウにキスされて…びっくりしたけどドキドキした。だから、さっきスノウに抱きしめられた時、内心を見透かされたみたいな気がして…」
ん、と首を伸ばして、アスが唇を押し付けて来た。掠めるだけの口付けは、自分からした時以上に甘く柔らかく。
「……アスっ……」
頭が真っ白になって、噛み付くように唇を貪る。抱きしめた背がしなやかに反る。
「ん……スノ……」
耳を擽る甘い声。アスの付き合いは長いけど、こんな声は初めて聞いた。もっともっと、あげさせたい。この声で僕の名前を呼ばせたい。
「アス…このままじゃ風邪を引く。腕を上げて」
濡れて体にぴったりと張りついたシャツの裾を掴み、耳元で囁く。従順に従う体から、子供のように万歳させてシャツを脱がせると、鍛え上げられた見事な腹筋が姿を現した。
つ…と腹から胸にかけて、確かめるように手を這わせる。 
「……っ……」
指先が硬くなっていた胸の飾りに触れると、頭上でアスが息を呑むのが判った。
「寒かった?それともキスで感じてた……?」
人差し指でくるくると、円を描くように粒を転がす。答えはきっと両方。だって僕も全く同じ状態だから。濡れた服の下で、上も下もしっかり反応してる。
「…………」
眉を寄せ、泣きそうな顔で見上げてくるアスが堪らなく可愛い。
未だ僕を絶対と崇めている節がある彼だから、僕に逆らえないのは判ってる。
だけどその身についてしまった忠義心で、躰を差し出して欲しくはない。
アスにも望んで欲しい。僕に触れられる事……僕に触れる事を。
後ろ手に床に手を付いて体を支え、与えられる愛撫に堪えているアスのズボンに手をかけると、緊張気味に伏せられていた目がハッと見開いた。
「濡れた服は全部脱がないと。……脱がし辛いな。腰少し浮かせてくれるかい」
「………」
同じく濡れ鼠の自分の事は棚に上げて、次々とアスの服を剥いて行く。アスは黙って僕の指示に従った。きつく食いしばった口元、ぎゅっと閉じた目、真っ赤に染まった頬で、彼がどれだけの羞恥に耐えているかは容易に想像できる。
そんな彼の姿に、堪らなくそそられる。
今まで同性に対してそんな感情を抱いた事は無かったし、アスとは船に居た頃何度も一緒に風呂に入っているのだから、裸なんて見慣れたものだ。
なのに一旦意識してしまうと、自分と同じ躰をひどく艶かしく感じる。
下着ごとズボンを下ろすと、緩く立ち上がっていたそれが天を仰向いた。慌てて隠そうとする手を掴み、反応している様子をまじまじと見つめる。
「スノウ…っ…」
懇願交じりの悲鳴にも耳を貸さず、刺激を求めて震えている彼自身をやんわりと掌で包んだ。
「あ、駄目だよ……汚い…っ……」
膝を立てて逃れようとする足の間に、体を割り入れて開かせる。
「君も海に落ちたんだろう?海水で洗われたから大丈夫だよ」
「でも……」
本当は汚いとか、そんな事どうでもよくなっていたんだけど、アスの心の負担を軽くする為に囁く。アスのそれは当然の事ながら、僕のものとは形も手触りも違って、違いを楽しみながら上下に擦りあげる。
「や…スノウっ……そんな、こと……」
「気にしなくていいから。どう、気持ちいいかい?」
アスの右手には既に力がない。支えを片方失って今にも崩れそうな左手の助けに、掴んでいた手首を離して、その腕を背中に回して抱き寄せた。
「……ぅあ………んっ…」
指先で背中を擽りながら、反らされた喉元に唇を這わせる。
右手はアス自身に絡みついたままだ。先端から溢れた精液が潤滑油となり、擦りあげる速度が早くなる。 
アスは従順に、抵抗は一切せず、僕の与える刺激に素直に反応を返している。袋を揉みしだけば眉が切なそうに寄り、先端に立てた爪には痛みと甘さの混じった声を洩らす。異性相手と違って、どうしたら相手が気持ちよくなれるかは、自分の体で実証済みだ。個人差はあれども、普段自分がやるように慰めればいい。
ただ射精目的の自慰ではしない動きも、少し混ぜている。時折激しい摩擦を止め、五本の指先だけでそーっと羽毛が触れるように全体を擽る。もどかしさにアスの腰が、僕の手に押し付けられてくる様を密かに愉しむ。
身を捩る度に、柔らかな髪が僕の肩を擽る。右手は痛みで快楽を紛らわせるかのように、強く脇腹を掴んでいた。
伏せた睫と薄く開いた唇がひどく艶かしい。
「ん…っ……」
甘い吐息を洩らす唇を自分ので覆って口内を弄ると、途端に絡み付いてくる舌。アスのキスに明確な意思はない。ただがむしゃらに舌を動かしている感じだ。
昔から、初めてでも何でも上手に出来てしまうアスだった。
その彼が、今は僕の手に成す術もなく翻弄されている。忘れたはずのアスに対する支配欲が頭をもたげる。
これは僕のものだ。誰にも渡さない。
「スノ………お願……離し、て……もう…」
睫が震えて、懇願を宿した群島の海色の瞳が姿を現す。
「イきそう?」
こくこくと子供のようにアスが頷いた。
「いいよ。そのままイって」
「――……っ……」
できない、と言わんばかりに、今度は横に首が振られる。
「気にしなくていいよ。……君の恥ずかしい姿が見たいんだ」
煽る手を速めながら、耳元に甘く囁く。腰に回していた腕を肩へと移動して、今にも崩れそうな躰を横抱きに抱き寄せた。
「スノウ…」
――そんな泣きそうな顔で見上げて来ても、逆効果だって。
手の中のものは硬く張り詰めきっている。どんなに堪えても、限界は近い。
「イってごらん……アス」
耳朶を甘く噛み、最後の刺激にと先端に爪を強くねじ込む。
ああ、すっかりいじめっ子モードだ。自分にこんな一面があるなんて知らなかった。それもこれも、アスが可愛すぎるのがいけないんだと責任の全面転嫁。
「……や……あああっ…」
どくんっと大きく脈打ち、手の中で熱い液体が弾けた。
弛緩した頭を胸に押し付け、柔らかな髪をそっと撫でる。
「良かった?」
「――スノウっ、手!」
余韻に浸る間もなく、アスが飛び起きた。白く汚れた僕の手を掴み、放り出されたままのアスの服でごしごしと拭かれる。
「ごめんなさい…ごめんなさい……」
目尻に浮かぶ雫は、快感からというより罪悪感のようだ。神経質なまでに拭き取られた手がひりひりする。
「そんなに気にしなくていいよ。僕だって男だし、慣れてるから」
「でも人のなんて…タオル!濡らしてくるっ」
小間使い根性を思い出したのか、慌てて立ち上がろうとするアスの手を引いて胸に取り戻した。
「いいから…それより離れないでくれ。寒くて凍えそうだ」
腕の中の温もりが一旦失われた所為で、冷えきっていた自分の体を思い出してしまった。裸の背中が軽く竦む。濡れた服を着た人間に抱きしめられれば当然だろう。
「スノウも服を脱いだ方がいい。風邪をひく」
迷い無く、アスの手が僕のシャツにかけられた。騎士団に入るまでは時々アスにも着替えを手伝って貰っていたから、彼にとっては当然の行為なんだろうけど、今の状況ではちょっと別の意味合いも出てくる。
「大胆だね、アス」
くすりと笑って見せると、一呼吸置いてアスの顔が真っ赤に染まった。
良かった、ちゃんと意識してくれているみたいだ。変なとこ鈍いアスだから、含みに気づいて貰えないかと思った。
「ち、ちが…風邪引いたら困るからっ」
「そうだね。じゃあお願いするよ。昔みたいに脱がせてくれるかい?」
「……うん…」
息を呑んで、アスの手が再び僕の服に伸びた。ボタンを外そうとするが、指が震えてうまく外れない。珍しいアスの緊張っぷりがおかしくて愛しくて、急かすことなくその様子を見守る。
ようやくボタンが外れ、恭しく持ち上げられた腕から交互に袖が抜かれ、丁寧にシャツを脱がされた。黙々とこなすアスの表情は真剣だ。自分の状態に目を瞑り、仕事に集中しようとしているのが伝わってくる。
「下も脱がすから…立ってくれる?」
「判った」
腰を上げて彼の前に立つ。跪いた裸のアスが僕のズボンを下げていく光景に、倒錯的な快感を感じてしまった辺り、僕も大人になったんだな、などと変に感心したりして。
アスの肩に手をついて、ズボンから足を引きぬく。冷えていた肌が空気に晒され、本気で寒さを覚えた。
最後の一枚も脱がすべきかどうか、迷った視線を向けて来たアスの手を取って立たせる。下着は流石に恥ずかしいので、自分で脱いだ。
湿った重い服から解放され、再び温もりを抱き寄せる。
「寒いね……君の熱で温めてくれるかい?」
「………」
返事は背中に回された腕で返ってきた。
 
 
当面の寒さ回避も兼ねて、ベッドへと移動する。
冷えた体を覆ってくれる布団にもそもそと潜り込んで、ほっと安堵の溜息。ふと視線を上げるとアスと目が合い、何となくドキマギしてしまう。
気まずい空気を打開すべく腕を伸ばして抱き寄せると、しっくりと馴染む温かな体。喉元に落とされた吐息に、下半身に再び血が集まっていくのが判る。
二人とも裸で抱き合っているんだから、こちらの変化は当然バレバレで……そしてそれはお互い様だ。
硬くなっている下半身を、アスのそれに押し付ける。濡れた先端同士がぬるりと滑って、背筋を電気が走り抜けた。
「……っ……」
俯いて声を殺すアスの唇を、指で辿る。
「食いしばっちゃ駄目だよ……傷がつく」
僕の言葉に従い、震えながら徐々に開いていく唇の隙間に、指を潜り込ませる。アスの口の中は温かくて、凍えた指にじんと染みた。
「…スノウの指…冷たい」
濡れた音を立てて、舌が指に絡み付いてくる。
――幾ら初心なアスでも、この状況で「温めようと思って」とは言わないよね。
彼なりの拙い誘いなんだと気付いて、ますます熱が上がる。
「アス……」
指を引き抜き、代わりに唇を押し付ける。強く抱きしめて、二人の間に隙間がないように。
「……んっ……」
絡まった両足が、互いの熱を刺激する。堪らない。我慢出来ない。早くアスの中に入りたい。
背中を抱いていた腕を片方下ろし、引き締まった双丘の間にそっと指を這わせる。
男同士ではここを使うと言うことは一応知っていた。こんな場所に本当に入るのかどうか疑問だけれど、他に挿れられる場所がない以上、間違いないんだろう。
その場所に触れた途端、アスの体が強張った。逃げるように引いた腰が、僕のと擦れあって思わず呻く。
「スノウ!…何を……っ」
「え…何って………もしかしてアス、知らなかった…?」
アスは不安げに視線を揺らしている。
――まいった。アスがこの手の事に疎い方なのは判ってたけど、男と寝るのを受諾したからには、知識はあるんだと思ってたのに。
僕だって男と寝るのは――男に限らず、誰かと肌を重ねるのは――初めてなのに大丈夫なのかな、と今更ながら不安が過ぎってみたり。
まあ、最悪本能に任せれば何とかなるだろうと腹をくくり、とりあえずはアスの無知から来る不安を取り除いてやる。……知らない方が怖くないって可能性もあったけどね。  
再び腰に手を這わせ、脅かさないようあえかな場所をそっと指先でノックする。
「男同士では、ここに挿れるんだよ」
「………………え?」
蚊の鳴くような声が返ってくるまで、たっぷり十数秒かかった。
「大丈夫、案外するっと入るらしいよ。そんなに痛みもないって聞いたし」
「……何でそんな事知ってるんだ」
「海賊船にいた頃、彼らがしょっちゅうそう言った下卑た話をしていたからね。女がいない時は、男で紛らわすんだって……ああ、そんな顔しないで。僕は艦長として据えられていて、そういう目に合ってはいないから」
「……本当に?」
気遣わしげに細められた目尻に、軽く口付ける。
「本当だよ。もしそんな経験があったら、今絶対こんな事してないよ」
「……良かった」
納得したらしいアスが、安堵の笑みを浮かべ擦り寄ってくる。
ああなんて可愛い。こんなに逞しい体をしてるくせに、本質は子犬だなんて反則だろ!
「そういう訳で…だから怯えないでくれよ」
逃げられないよう腰に腕を回し、再び指を後ろに這わせる。
「え……ちょっと待っ…………やっ……」
静止の声を無視して指を押し込む……つもりが、アスの躰が強張っているのに加えて、僕の方も怯えがあるのか、中々入っていかない。
無理に挿れると傷つけてしまいそうだし…思案して、ふといい案を思いついた。
手を伸ばして、サイドテーブルの引き出しから香油を取り出す。冬の肌荒れ対策に購入しておいたものだ。
「こっちにおいで、アス」
瓶を片手に持ち、アスの腕を引いて壁に凭れて座る。胡坐をかいた膝の上に横抱きに抱え、このままでは寒いので背中から布団を巻きつけた。
アスは完全に僕の言いなりだ。でもそれが小間使い精神からじゃない事は、潤んだ瞳を見れば判る。
安心させるようにっこりと微笑んで、香油の蓋を開け、掌にたっぷりと取る。ぬらぬらと光る指先を、力なく投げ出された両足の間にそっと潜り込ませた。
「……やっ…スノウ……っ」
油の助けを借りて滑りのよくなった指は、今度は難なく中への進入を果たした。
「痛い…?」
中指を根元まで埋めた後、ゆっくりと出し入れを繰り返す。必死にしがみ付いてくる体を優しく抱きとめ、震える唇にキスを落とす。
「痛くは…ない、けど……」
否定の接続詞の後が、幾ら待っても続かない。寄せられた眉は悩ましげで、洩れる吐息は熱さと粘度を含む。奥まで入れた時よりも浅い挿入時の方が反応がいいので、入り口辺りで軽く揺す振ってやると、蕩けるような甘い声が上がった。
そうか、ここを刺激した方が気持ちいいんだ。
性感帯を一つ一つ暴いていくのは、宝探しをしているようで楽しい。中をかき回していて、アスの体が大きく跳ねる箇所を発見した時は、思わず笑みが零れた。その部分を集中して攻めると、喘ぎがすすり泣きに変わる。
「……ん、んっ………っあ……や……だっ……」
「可愛いよ、アス。もっと乱れて見せて」
更に彼を追い詰めたくて、抱えていた体をシーツへと落とし、膝を掴んで左右に大きく割り開く。浮いた腰の下に枕を宛がい、後ろがよく見えるよう固定した。
「ああっ……い…ゃ……ぅんっ、ぁ、……」
先ほどの香油を再び手に取り、前後を同時にぬるついた手で擦る。アスの背が反る度に、握りしめたシーツが深い皺を刻んだ。
ひっきりなしに上がる甘い声に煽られ、僕自身も痛いほど張り詰めている。
見ているだけでは我慢できなくなって、アスのと自分のを合わせて、二本同時に扱く。ぬるついたそれ同士が擦れ合う感覚は、堪らない刺激となって全身を駆け巡った。
「……ああっ…スノ……スノウ……」
空を掻いたアスの手が僕の首に回された。溺れた者が空気を求めるような、必死のキス。上と下の両方で、悩ましい濡れた音が上がる。
そろそろ僕の方も限界だった。今にも弾けそうな程いきり立った物をアスの後ろに宛がい、入り口を数回、円を描くようになぞって侵入を予告する。
「挿れるよ……アス。体の力を抜いて…」
「……っ……」
泣きそうに歪んだ頬に軽く口付けて、僕はゆっくりと腰を押し進めた。
「……く…っ……」
入り口の締め付けの強さに、それだけで達してしまわないよう歯を食いしばる。何とか中ほどまで収め、快楽の第一波をやり過ごして見下ろすと、アスが掌で目を覆っていた。
「……どう?…きつくない、かい……」
「…………」
まさか泣いてる訳じゃない……よね。
不安になって、そっと手に触れてみる。
「アス…?」
だがやはり応えは返らず、少し躊躇った後、手を掴んで顔から退かした。抵抗は殆ど無く、手の下から現れた顔は――
「アス…」
アスは泣いていた。だが僕が懸念したような、痛みや恐怖からではなくて。
「どうしよう、スノウ……すごく嬉しい……」
アスは笑っていた。綺麗な涙を両の瞳から溢れさせながら、幸せそうに笑っていた。
「スノウを僕の中に感じる……スノウと繋がってるんだと思ったら、嬉しくて、幸せ、で……止まらな……」
「アス……っ」
胸が密着するほど上半身を折り、頭を抱えて抱きしめる。
「僕もだよ……君と一つになれて嬉しい。君の熱が愛しくて堪らない。――向こうの世界の僕たちは、ずっと前からこの幸せを知っていたんだね。最初は驚いたけど、今はきっかけを与えてくれた彼らに感謝しているよ。彼らに出会わなければ、ずっと知らないままだった…」 
「……好きです…。あなたが好きです……」
子供の頃のように敬語を口にするアスを、咎めることはしなかった。兄弟になろうと約束したあの日から、大人たちの目のない所では一切の敬語を使う事を禁じた。
だが今のこれは、アスの心そのものだと思うから。
「好きだよアス……子供の頃からずっと。弟で親友で――僕のもう一つの魂」 
「スノウ……っ…」
涙に濡れる頬に自分の頬を押し付け、あらん限りの力で抱きしめたまま、最初はゆっくりと、徐々に激しく動き始める。
重なる鼓動、肌を伝う玉のような汗、絡み合う手足と舌。
言葉はなかった。どちらのものともつかない激しい呼吸音と、甘い喘ぎと、耳障りなベッドの軋む音だけが室内に広がっていく。
「は……はぁ……アス……」
「スノ………ん、んんっ……スノウ…っあ……」
互いの名前を呼びながら、ただひたすらに絶頂を目指して駆け上がる。
「……あああっ……!」
甲高い悲鳴と共に、密着した腹の間で熱い液体が弾け。
「……ぅあっ……!」
直後に食いちぎられそうな勢いで締め付けられ、僕もアスの中に全てを吐き出した。
 
 
 
 
 
 
 
 
「――僕達が見てきたあの世界……あれは何だったんだろうね」
汗で湿ったベッドに横たわり、肩に乗せられた髪の手触りを楽しみながら、僕は抱えていた疑問を口にした。
「罰の紋章が遺跡から持ち出されなかった世界……君が歩むべきだった歴史。向こうの世界での君…アシュレイは、自信に満ち、威風堂々とした正に王子だった。オベルでは第一子が王位を継ぐそうだから、実際は彼が王の冠を頂く事はないんだろうけど、あれが本来の君の姿なんだよね。僕の小間使いなんかで終わるような器じゃなかったんだと、改めて思い知らされたよ」
「……そんな風に言わないで。僕はアシュレイじゃない、アスだよ…。僕は自分の運命に感謝しているよ。向こうの僕は確かに平穏な人生を送っているかもしれない。だけど小さな頃からスノウと一緒に育つという幸せを、逃してるんだ」
「アス……」
驚いて腕の中を見下ろせば、優しい笑顔が迎えてくれる。
アシュレイと同じ顔。だけど僕が守りたいと思ったのは、この笑顔なんだ。
アシュレイが、同じ『スノウ』である僕を否定したように。
僕にとって、『アス』は彼一人だ。
「ありがとう。僕もこの世界で君と出会えた事に、君を手放さずに済んだ事に感謝している。――アシュレイに会わせてくれた、神様の気まぐれな悪戯にもね。君とこうなるきっかけになったのもそうだけど、僕たちはどんな出会い方をしても、惹かれあう運命だって証明された訳だろう?」  
「……スノウ……」
わななく唇に口付けながら、目尻に滲んだ涙を優しく拭う。
普段感情をあまり表に出すことのないアスの、泣き顔を知っているのなんて僕位だろうな。
ましてや嬉し涙なんて――他の誰にも絶対見せてやらない。




合同誌「Binary Star」より再録。
「当面の寒さ回避も兼ねて〜」から「〜吐き出した」までは袋とじでした。
この部分を裏に持って行こうと思ったんですが、最後のアスの告白をカットしたくなくて全部表に置きました。
ちなみにアスが向こうのスノウと交わした会話はこちら 。基本はスノウ編と同じです。これを元に藤代さんがパロ漫画を描いてくれましたv
おまけでパラレル世界のその後の二人


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