水は冷たかっただろうか。
日差しは強かっただろうか。
風は、波は厳しかっただろうか。
飢えと乾きは苦しかっただろうか。
救いの手を求めてあげた泣き声は、虚しく風に攫われた事だろう。当時は名前すら知らなかった不安という感情で胸を一杯にして、まだぼんやりとしか世界を映さない瞳で、青と白だけを見つめる孤独の時をどの位過ごしたのか。
それほど強烈な体験であれば、ようやく歩き出したばかりの赤子であろうと、多少なりと記憶に留まってもいいものを。幸いにも、塩気を孕んだ海風にも、眩しいばかりの空と海の青さにも、絶え間なく揺れる船上にも心的外傷を持つことなく、こうして海を駆けている。
思い出せる一番古い出来事は、五歳になるかならないかのものだった。
あの時から、自分の人生は始まった。




       光咲く処         




光を反射して所々銀に輝くはちみつ色の髪。美しい飾りのついた白い服。父親の隣にちょこんと立つ、アスよりいくばくか年上の彼は、幼いアスの目にきらきらと輝いて見えた。
アスを連れてきた男が、自分の腰にも満たない少年にぺこぺこと頭を下げている。
家では威張りくさって些細なことでアスや妻に手を上げる男の、こんな姿を見たのは初めてだった。大の男を従わせる少年は、きっと以前近所の子供に聞かせてもらった物語に出てくる王子様なんだと思った。
『これがあの時の子供か』
『はい。領主様のご命令どおり、四年間育てました。体は健康ですし、頭も悪くないので、きっと坊ちゃまのお役に立てるかと』
『ご苦労だったな。これはとっておくがいい』
『ははっ、ありがとうございますっ』
頭上で繰り広げられる大人の会話を他所に、少年はすたすたとアスに近寄ると笑顔で手を差し伸べた。
『こんにちは。僕はスノウ。君の名前は?』
『………』
『こら、坊ちゃまが尋ねてらっしゃるんだから、ちゃんと返事をしろ。坊ちゃま、こいつはアスと言います』
『ほう。変わった名前だな』
『こいつが反応したんですよ。何せ拾った時は自分の名前も言えない赤ん坊でしたでしょう。家に連れてきた晩、女房と今後の話をしていたら、US(私たち)って言う度にこいつが振り返りましてね。それでそのまま名前にしたんです』
『アスだね。これからよろしく』
「………」
王子様が自分の名前を呼んだ。親しげにこれからよろしくと言った。差し出された白い手。期待に満ちた眼差し。自分はどうしたらいいのだろう。
困惑した表情で、少年と目の前の白い手を交互に見るアスに、
『どうするか判らない?握手だよ』
スノウはアスの手を取り、右手同士を絡ませた。とっさにアスはその手を振り払ってしまった。
『こらアス!!』
『握手は嫌い?』
養い親に怒鳴られたことよりも、王子様の顔が悲しそうに歪んだ事がショックだった。アスは慌てて凄い勢いで首を振った。
『違……手……僕の手が』
『君の手が?』
『…汚い、から……汚れるから』
スノウの視線から隠すようにぎゅっと握り締めた手のひらは、毎日の水汲みで荒れて硬く、日に焼けて黒かった。
勿論今日はフィンガーフート家に行くという事で、体は綺麗に洗い、服も一番いい仕立ての物を着せられている。
だが王子様の柔らかな傷一つない真っ白な手が触れるには、自分の手はひどく汚く思えた。
『泥んこ遊びをして来たの?』
無言で首を振る。
『見せてみて。……何だ、全然汚れてなんかいないよ。綺麗な手だよ。だからね、もう一度握手』
スノウはにっこり笑って、再びアスの手を握った。今度はアスも振り払えなかった。
王子様がアスの手を綺麗だと言ったから。
折角笑ってくれたのに、またさっきのように悲しい顔をさせたくなかったから。
握った手のひらの温かさは、手だけでなくアスの心にもじんわりと染みた。


養い親はフィンガーフート伯から謝礼を受け取ると、そそくさと屋敷を出て行った。
その際、一度たりともアスを振り返る事はなかった。男にとってアスは金づるでしかなかった。男がアスに愛情らしきものを注いでくれたことは無かったし、彼の妻もアスに必要以上に近づこうとはしなかった。
いや、夫に禁じられていたのかもしれない。抱きしめる、優しい言葉をかけると言った具体的なものはなくても、妻がアスを大事に思ってくれている事は感じていた。
アスが美味しいと思った料理は、何も言わなくとも次から食卓に上る回数が多かったし、ほつれた衣服は翌朝には丁寧に補修されていた。アスが熱を出した夜は、目が覚めればいつも心配そうに覗き込む妻の顔があった。
今朝家を出る時、妻は目を潤ませて夫とアスを見送っていた。
もうこの家に戻らない事は判っていた。彼女と別れるのは寂しかったが、アスも妻も男には逆らえない。
アスは最後に一言、「ありがとう」と彼女に告げた。彼女の目には大粒の涙が浮んでいた。
屋敷に向かう途中、養い親は坊ちゃまと領主様の機嫌を損ねないようにと何度も念を押した。お前はこれから坊ちゃまの小間使いとして、坊ちゃまの為に働くのだと。
小間使いという仕事が具体的に何をするのかは判らなかったが、アスは神妙に頷いた。逆らえば拳が飛んでくる。従順さと忍耐力は、アスが男の元で身に付けた処世術だった。
それはアスがスノウの側で生きるためにも、必要なものだった。



「アス、遊びに行こうよ!」
裏の井戸で水汲みをしていたアスの姿を見つけたスノウが、笑顔で駆け寄ってきた。
「スノウさま、これからお昼寝の時間じゃ」
太陽は真上を少し過ぎている。スノウは丁度昼食を終えた頃だろう。
「うん。だからこっそりとね。今日はオベルからの船が港に入ったんだって。オベルの船が来るなんて珍しいから、見てみたくて」
「港は危ないです」
「平気だよ。手前の町まではよく行ってるし」
「港は色々な国の人が来るから、子供だけでは絶対行っちゃいけないって…」
お使いでアスも時々町には行くが、港には近寄るなと強く念を押されている。入港の際の簡単な乗員チェックだけでは、どんな人間が紛れているか判らない。ガイエン海上騎士団が目を光らせているラズリルでも、子供が攫われる事件は年に一、二回は起きているのだ。
「建物の影からちょっと覗くだけだよ。港には近寄らないから」
「……勝手に抜け出したら叱られます」
「後で僕も一緒に謝ってあげるよ。ね。お願いだよ。アスと一緒に行きたいんだ」
「はい…」
スノウにそう言われれば、アスに逆らう術はなかった。
港云々は別として、こんな風にスノウに連れ出されるのは初めてではない。
みつかれば二人ともにきついお叱りが待っている事は判っていた。アスは仕事を、スノウは午後の勉強を放り出した事を。スノウの口添えはあってもなくても同じなのだ。
「この水を台所に運んだら、すぐ戻ります」
「みつからないよう急いでね、アス」
頷いて、手に食い込む重い桶を抱えて、できるだけ早足で、だが水を零さないよう慎重に台所へと向かう。
部屋の隅の大瓶に中身を空け、覗きこんで淵まで一杯になったのを確認すると、調理場にいた食事係の女性がひょいっと顔を覗かせた。
「お疲れ様、アス。終わったらこっちにおいで。今日はお前の好きなオムライスだよ」
「……うん」
好物の誘いにぐらりと心が揺らいだが、裏庭で待つスノウの事を思って、アスは空の桶を再び掴んだ。
使用人の食事は主人達の後になる。スノウが午睡している時間が、アスたちの昼食時間なのだ。
「あの、今日はお腹の調子が悪いので、ご飯はいいです」
「おや、だったらお粥でも作ってあげようか」
「大丈夫です」
お風呂にも水を運んでおきますと言い残して、アスは台所を後にした。浴室は台所よりも井戸に近い。夕方までに戻って来て急いで運べば、ギリギリ入浴時間に間に合うだろう。
帰りは走った。右手に持った桶が分銅の役割をして、体が自然に前に出る。スノウは井戸の庇が作る小さな影の中に立っていて、アスの姿をみつけると大きく手を振った。
「アス、早く早くっ」
「遅く…なって…ごめんなさ…」
荒い息の合間に切れ切れに謝罪の言葉を口にするアスに、スノウはにっこりと微笑んで、
「まだお日様はあんなに高いから大丈夫だよ。さあ行こう!」
桶を井戸脇の物置に仕舞い、スノウの手に引かれてアスはまたもや全力疾走をする羽目になった。
子供の頃の三つの年齢差は、歩幅も走る速度にも体力にも大きな差がある。スノウに引っ張って貰うまいと必死に走ったお陰で、町の入り口に着いた時にはアスの息は絶え絶えになっていた。
「走るの速かった?ごめんね」
道の隅で蹲ってしまったアスを、スノウが心配そうに覗き込む。呼吸が整わずまだ言葉が出ないアスは、首を振って、平気だと言うように小さく笑った。
「ちょっと待ってて。近くの家でお水貰ってくる」
「っ!!」
身を翻そうとしたスノウの服をとっさに掴む。
自分はスノウの小間使いなのだ。スノウに自分の世話をさせる訳にはいかないし、ラズリルの領地内とはいえ彼を一人にするなんてもっての他だ。
「一人ぼっちは不安かもしれないけど、すぐ戻るから心配しないで」
心配なのはスノウの方なのだ、という声は言葉にならない。
服の裾を掴むアスの手をやんわりと引き離し、スノウはたたたっと走り去ってしまった。追いかけようにも、息が苦しくて立ち上がれない。
「…っ…」
アスは弱い己の体を悔やんだ。フィンガーフート伯には、スノウから目を離すな、スノウの盾になれ、命に代えてもスノウを守れと口を酸っぱくして言われている。その自分がスノウの足手まといになってしまうなんて。
スノウが大して時間を置かずに視界に姿を現した時には、心底安堵した。
真剣な面持ちでみつめてくるアスに、スノウは明るい笑みを浮かべて軽く手を振った。
「お待たせ。さあこれを飲んで」
差し出されたコップには、色の着いた液体が入っていた。鼻を擽る爽やかな柑橘系の香り。
「……?」
「オレンジジュースだよ。飲んだことない?凄く美味しいんだ」


促されるままコップに口を付けると、口の中にオレンジの甘い味が広がった。
「美味しい?」
目を見開き、ほんのり頬を染めて固まっているアスに、スノウが楽しそうに笑う。こくこくと頷くと、スノウはもっと飲みなよ、と優しい声で言った。
ジュースは、生で食べるより果実の量を必要とし、手間もかかる。そんなものを使用人の子供が口にできる筈も無く、アスは存在すら知らなかった。ジュースをくれた家は、スノウが飲むものと思い、フンパツしたのだろう。糖分を多く含む生のジュースは乾いた喉にはややひっかかったが、舌に広がる濃い甘さにアスは夢中になった。
人心地つき、ジュースが一人分しかなかった事にようやく気が付いた時には、既にコップの中身は極僅かになっていた。
「ごめんなさいっ、スノウさま。僕一人で飲んでしまって…」
アスの顔から一気に血の気が引いた。残りを渡そうにも、自分が口をつけたコップである。スノウの残りを自分が貰うのは構わないが、逆はとんでもない。
「アスの為に貰って来たんだから、僕はいいんだよ。そんなに喉乾いてないし、屋敷に帰れば幾らでも飲めるしね。だから気にしないで全部飲んでいいよ。オレンジジュース気に入った?リンゴとかグレープフルーツとかレモンも美味しいんだよ。僕はレモンにハチミツが入った奴が一番好きなんだ」
「僕も…レモン好きです」
太陽の光を一杯浴びてつやつやと黄色に輝くレモンは、スノウに似ていると思った。絞った時の爽やかな香りも、オレンジと似た外見に反した、強烈な酸味も。
添え物として出されたレモンの残りをおやつ代わりにしゃぶっていて、子供なのに酸っぱい物が好きなんて変わってるわねえと、よく使用人仲間に笑われていた。
「じゃ僕の分を用意する時は、アスにもあげるようメイドに言っておくよ。そうだ、今度からおやつはアスも一緒に食べよう。そしたらお昼寝の後からずっと一緒にいられるもの」 
名案を思いついて浮かれるスノウに、アスはちょっと困ったように言った。
「無理です」
「どうして?食事はお父様がいるから駄目だろうけど、おやつだったらいつも僕一人だから、アスがいても怒られないよ」
「僕は使用人だから、おやつは食べれません」
「違うよ、アスは僕の友達だよ!」
「友達?」
綺麗なパールグレイの瞳に間近で覗き込まれ、何だかドキマギする。
「そうだよ。友達はね、いつも一緒で、何でも話し合えて、困ったことがあったらお互いに助け合うんだ。本当は僕はアスを弟にしたかったんだけど、お父様が絶対駄目だって。悔しいな」
「弟……」
胸の鼓動が早くなった。弟?スノウが友達と言ってくれただけでも嬉しいのに、弟だなんて!優しくて綺麗で何でもできるスノウが、こんなやせっぽっちの使用人の子供を弟にしたいと言ってくれた。
「アス?どうかした?」
「……」
「僕の弟にはなりたくない?」
沈黙を困惑と取ったスノウが、寂しそうに呟いた。慌てて振り切れんばかりに首を振る。
「違…」
感動と焦りとで震えてしまう声を、必死に絞り出す。
「スノウさまが弟にしたいって言ってくれて、凄く嬉しくて…!」
「なんだ、そうだったの」
スノウが花が咲くように笑った。自分の一言で、スノウが笑ってくれたのが嬉しくて、アスは一生懸命自分の気持ちを伝える言葉を捜した。
「僕はスノウさまが大好きです。スノウさまとずっと一緒にいたいです…!」
「僕もアスが大好きだよ。じゃあお父様には内緒で、僕達兄弟になろうよ。僕はアスのお兄さんで、アスは僕の弟。兄弟がその言葉遣いじゃおかしいな。これからは僕の事をスノウって呼ぶんだよ」
「!!そんな事できません…っ」
スノウが物語に出てくる王子様じゃないと判っても、アスにとってスノウは王子様だった。何よりも大切で、守るべきもの。
屋敷に引き取られて暫くした頃、フィンガーフート伯から自分がスノウの小間使いになった理由を聞いた。
アスは一歳になるかならないかの赤ん坊の時、板切れに乗ってラズリルの港に漂着したという。
恐らく乗っていた船が沈没したのだろう。沈没した船の残骸がラズリルまで来ることは珍しくなかったが、ラズリル近辺の海流は荒く、生きた人間が流れ着く事は極めて稀だった。ましてやまだ満足に歩く事もままならない赤子となれば、奇跡に近かった。
赤ん坊が身につけていたものは、漂流の苦労を物語るように最早布としての役割を果たしておらず、衣服からの身元の判別はできなかった。
肌や髪、瞳の色もこれと言った特徴はなく、群島諸国でよく見かける色合いだった。
町の診療所で診察を受け、点滴と滋養のある食事ですっかり元気になった赤ん坊を、発見者は領主の元へと連れて来た。海での形ある拾得物は、必ず領主に届け出なければならない。だが前例のない生きた赤子という拾得物は、フィンガーフート伯の頭を悩ませた。
発見者は男やもめの漁師で、当然子供を育てることなどできない。子供のいない夫婦にとも思ったが、名乗りを上げるものは恐らくいないだろうと思われた。
ラズリルには、穢れを海に流すという慣習がある。伝染病に侵された遺体や重罪人は、船に乗せられ海へと還される。海流の関係で、途中どこかの船に拾われでもしない限り、オールのない船が陸地にたどり着くことはまず有り得ない。
海に流される事は死を意味する。よって船に乗らずに海からやってくる者は、黄泉返りとして忌み嫌われるのだ。
次の連絡船が入港した時に乗員に売り払うか、いっそまた板に乗せて海に流すかという、どちらに転んでも赤ん坊にとっては不幸な結論が出掛かった時。
『お父様、その子どうするの?』
当時四つになろうという領主の一人息子が、部屋に入ってきた。
『スノウ、今お父様は大事なお話中だ。向こうに行っていなさい』
『この子が海から来た子なんでしょう。皆が騒いでいたよ。わあ、本当にまだ小さいんだね。こんな小さいのに、一人でラズリルまで来たなんて偉いね』
父親の制止を聞かず、スノウは赤ん坊を抱える男に近寄った。
背伸びして覗き込もうとするスノウに、男は赤ん坊の顔が見えるよう腰を落とした。
お包みの中の、澄んだ海色の瞳がスノウを映す。伸ばしたスノウの手を、小さな指がしっかりと握り返した。
『あー……』
『僕のことが判るのかな。可愛いなあ。ねえお父様、僕この子を弟にしたい。いいでしょう?』
『何を馬鹿な…。スノウ、この子は明日の連絡船に乗せるんだ。弟が欲しいなら、貴族の子供の中から養子をとって…』
『嫌だっ。僕はこの子がいいっ。この子でなくちゃ嫌なんだっ』
スノウの我侭はいつもの事で、飽きっぽい息子の事、子供がいなくなってしまえば諦めるだろうと、フィンガーフート伯は赤ん坊を翌朝一番の連絡船に乗せる手配をした。
だが翌朝、発見者の男が赤ん坊を船に連れて行こうと家の戸を開けると、おろおろとしたメイドを従えたスノウが立っていた。
『この子を連れて行かないで!』
報告を受けた領主は、珍しいスノウの行動力に、やむなく子供を船に乗せるのを諦めた。そして子供のいない夫婦に金を渡し、赤ん坊を手のかからなくなる五歳まで育てるよう命じた。
だがスノウの望むとおり、弟として引き取る事は断固として許さなかった。
子供に与えられた役職は、坊ちゃま付きの小間使い。日中スノウが勉強や剣の稽古をしている間は、お使いや水汲みや掃除などの簡単な仕事をし、自由時間はスノウの遊び相手となる。
『いいか。お前はスノウがどうしてもと言うから引き取ったのだ。スノウがいなかったら、今頃お前はどこかで野垂れ死んでいたかもしれん。スノウはお前の命の恩人だ。スノウへの感謝と忠誠を忘れるな。お前の命はスノウの為にある』
伯の話はアスに深い感動を与えた。そこまでしてスノウは自分を望んでくれた。大好きな父親に逆らい、早朝に屋敷を抜け出してまで、自分を助けてくれた。
スノウにずっとついて行こう。何があってもスノウを守ろう。
伯の言葉とは関係なしに、幼いアスはそう心に刻み込んだ。
故にたとえそのスノウの命令でも、彼を呼び捨てになんて出来るはずがなかった。
「どうして?僕達は兄弟になったのに」
「だって…スノウさまは僕の『いのちのおんじん』で、王子様だから…」
「王子様?僕が?」
こくりと頷く。
「アスは僕のこと、王子様だと思ってたの?」
もう一度、頷く。
「違うよ。僕はね、騎士になるんだ。大きくなったらガイエン海上騎士団に入って、悪い奴からこの町と海を守るんだ」
「きし……?」
スノウの瞳が、フッと海に向けられた。釣られてアスも同じ方向を見る。高台から見下ろす海は、小さくて遠い。海をみつめるスノウの瞳は真剣だった。
「アスは大きくなったらどうするの?」
「僕はずっとスノウさまと一緒です」
「じゃあアスも騎士になるんだね。よかった。アスが一緒なら心強いな」
スノウのほっとしたような笑顔に、アスは密かに胸に誓った。
自分の存在がスノウの力になれるのなら、どんなことでもしよう。
大好きな彼の為に、大好きな彼の笑顔が曇らないように。
「そういう訳でアス、僕に敬語を使っちゃ駄目だからね。お父様に叱られるって言うんなら、僕と二人きりの時だけ。ね、僕の名前を呼んでみて」
「そんな…」
「お願い。僕はアスのお兄さんで、友達でしょう?」
「……………スノウ」
期待に満ちた目で真っ直ぐ覗き込んでくるスノウに、アスは長い逡巡の後、恐る恐る敬称をつけない名を呼んだ。
口に出してしまってから、パァーっと胸に広がる罪悪感に激しく後悔した。彼は王子様じゃないと言ったけど、アスにとってはやっぱり彼は王子様で。そんな綺麗な彼を、自分の声が汚してしまった気がした。
だけど。
「アス。もう一回呼んでみて」
ぎゅっと閉じた瞼を開いてみれば、嬉しそうなスノウの瞳がごく間近にあった。
「…す、スノウ…」
「アス」
アスが名前を呼ぶたびに、スノウの顔にどんどん笑みが広がって行く。
名前の呼び合いっこは、何度も何度も、飽きることなく繰り返された。






「そういや、そんな事もあったね。結局港に入る前に探しに来た屋敷の者に見つかって、連れ戻されたんだっけ。その日はおやつ抜きで辛かったなあ」
「うん…」
ゆっくりと航行を続けるオベル船チカル号の、右舷側の柵に背を預け、スノウは苦笑交じりに肩を竦めた。
その隣で、スノウとは逆に海に向かう形で柵に凭れかかるアスの横顔を、水平線に沈みつつある赤い太陽が照らしている。
十一年前のあの日、スノウはおやつだったが、おやつのないアスは夕食が抜きとなった。食べ盛りの子供に二食の絶食は辛く、ぐぅぐぅと空腹を訴える胃を水で膨らましながら、それでも幼いアスの心は充たされていた。
あの日から、アスにとってスノウは主人ではなく家族となった。
幼い子供が無条件に母親を慕うように、アスはスノウを慕った。どうしたら大好きな兄が喜んでくれるだろう。そればかりを考えていた。
思慕から来る盲目的なまでの奉仕が、長い間にスノウの心を弱く萎えさせてしまったのだと、集まったたくさんの仲間達と戦っているうちにようやく気づいた。
痛みを知らなくては、強くはなれない。
本当にスノウの為を思うなら、かつてスノウが自分に求めた「友達」であるなら、スノウに従うのではなく一緒に困難に立ち向かって行くべきだった。海賊ブランドの襲撃があった時、スノウの代わりに戦うのではなく、スノウを助けて共に戦うべきだったのだ。
長年かけて作り上げてきた歪んだ友人関係は、一度粉々に砕け散った。そして今また新たに形作られようとしている。
それは身分や立場や、大人たちの思惑に踊らされない、スノウとアスが今度こそ二人で作っていくものだ。
「……どうしてスノウは俺を弟にしたいって思ったんだ?」
視線をゆっくりとスノウに向ける。フィンガーフート伯に言われた時から、ずっと訊いてみたいと思っていた。幼いスノウが「この子でなくちゃ駄目なんだ」と言った理由。
「うーん…実はあんまり胸を張って言える理由じゃないんだけどね」
スノウは肩を竦めて苦笑したが、言葉の割に表情はサバサバとしている。
「君は海から来た『一人ぼっちの子供』だっただろう。君の姿に自分が重なって見えたんだ。子供の頃の僕は、あの屋敷の中でずっと孤独だった。父上に愛されているのは判っていたけれど、父上は忙しくて顔を合わせるのは食事の時だけだったし、母上は僕を産んですぐ亡くなられたから覚えていない。周りの人間は大人も子供も、僕個人ではなく領主様の息子として扱う。だから小さな赤ん坊の君が僕の手を握ってくれた時、凄く嬉しかったんだ。君も僕と同じように一人ぼっちなら、寂しくないよう僕がお兄さんになってあげなきゃって思った。だけどそれは自分が兄という役割を演じる事で寂しさを紛らわせたかっただけで、本当に君の事を想ってじゃなかったんだけどね」
「子供なんてそんなものじゃないのかな。世界が自分中心に回っている頃だろ。動機がどうであれ、俺はスノウのお陰で寂しくなかったんだから、スノウが負い目を感じる事は何も無いよ」
「アス……」
君は何も言わなくても僕の気持ちが判るんだね、と泣きそうな笑顔で微笑むスノウに返されたのは、「だって事実だから」の短い一言。
スノウがいたから、ここまで生きて来れた。
スノウがいるから、まだ生きたいと思う。
左手に持ち主の命を削る呪われた紋章が宿った時、アスは運命を嘆くことなく享受した。間近に迫り来る死を、静かに受け止める覚悟をした。
だがスノウが仲間になってからは、少しでもこの命永らえたいと思うようになった。
それはただ、大好きな人の側にいたいという、純粋で小さな願いから。
だけど自分が死ぬ時には、側にスノウがいなければいいと願わずにもいられない。罰の紋章が他の人間に移らないように、オベルの遺跡の手の持ち主のように、誰も居ない所でひっそりと消えてなくなりたい。
「ねえアス、僕は最終決戦に連れて行って貰えるかな」
「もう少しレベルが上がれば、大丈夫だと思うけど…」
「よかった。それじゃ頑張って訓練所に通わないとね。最後まで君と一緒に戦いたいんだ」
まるでアスの心を読んだかのようなタイミングに、アスは軽く目を見開いて記憶より大人びた笑顔を見つめる。
「ずっと一緒だよ。アス」
――今度こそ、何があっても。
言葉に出さない決意は、二人の胸に確かに響いた。






スノウ&4主アンソロジーより再録。


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