蜜月の小舟





ギィッギィッ
「何だよ、眠いのか?」
揺り椅子の軋む音に重なって届いた問いに振り返って、それが自分に向けられたものではないと気づく。
タルは先ほど同様、こちらに後頭部を向けて揺り椅子で寛いでいた。
揺り椅子はタルのこの家での定位置だった。揺れ具合が波を思わせていいらしい。
一人暮らしに丁度よく、大の男が三人もいると軽い圧迫感を感じる広さの室内を見渡すと、もう一人はベッドの上にいた。薄手の毛布ごと膝を抱きかかえるようにして、ちょこんと座っている。
軽く目を瞠って、それから苦笑した。
「タル。悪いけどこれをフンギに届けてくれるかな」
戸棚に仕舞っておいた瓶詰を二本取り出し、手提げ袋に入れてタルに手渡した。
「いいぜ。この後騎士団の館にも寄るつもりだったしな。お、ピクルスか。スノウが漬けたのか?」
袋の口を広げて中を覗き込んだタルが、感心した声を上げた。
「ああ、フンギに作り方を教わって作ったんだ。これでいいか味を見て貰いたくてね。もう一本は届けて貰うお礼に君に」
「サンキュ!俺ピクルス好きなんだ。スノウもすっかり一人暮らしに慣れたよな。さっきの昼飯も美味かったぜ。ごちそうさん」
揺り椅子から立ち上がったタルの肩越しに、窓の外に視線を向ける。
「一雨来そうだよ」
僕の言葉に振り返ったタルが、重く立ち込める灰色の空を見て眉を寄せた。
「げっ、本当だ。降られる前に行くよ」
「傘を貸そうか?」
「平気平気。騎士団の館までなら何とか保つだろうしな。またな二人とも!」
「フンギによろしく」
慌しく立ち去ったタルを戸口で見送って、室内に戻る。
「さて」
苦笑交じりの溜息を吐き、ベッドの上で手を振るだけだった彼の元に近づくと、頬にかかるサラサラの髪を払って普段隠れている耳に触れた。
「夕方まで待てなかったのかい?甘えん坊さん」
擽ったそうに微笑んで、アスがそっと髪を僕の手に寄せる。
「待てなかった」
瞼がマリンブルーの瞳を覆い隠した。
目を閉じた時だけ拝める長い睫は、彼の印象をがらりと変える。見る者を圧倒させる威圧感は形を潜め、線の細さが際立つ。
「やれやれ、タルはここ暫く遠洋に出ていて、会うのは久し振りだったんだけどな」
意地悪心が疼いてちょっとだけ突くと、パッと開いた瞳が不安色に染まった。
まるで捨てられた子犬みたいだ。
内心くすりと笑って、唇が謝罪を口にする前に人差し指で塞ぐ。
「まあいいさ。タルとはまた会えるし……君からの誘いを僕が断る訳ないだろう」
「スノウ…」
頬を染めたアスを抱きしめて、ゆっくりと倒れこむ。春の夜明け色の髪がシーツの海に広がった。


こういう関係になった後、お互いに口に出して誘うのは恥ずかしいのでサインを決めた。
アスは就寝時以外にベッドに上がったら、僕は彼の耳に触れたらが合図。
殆ど僕から仕掛けることになるだろうという予想に反して、アスがベッドに上がる方が多かった。口下手な彼にとって、言葉を必要としないサインは気安いのだろう。
そしてサインは、さっきのように第三者がいる時にも有効だった。
実はケネスの前でもフンギの前でも、こうしてベッドに上がったアスだ。
二人きりの時よりも第三者がいる時の方が率が上がるのは、嫉妬心なのかなと勘ぐってみたりして。
何事にも関心の薄かったアスが嫉妬を見せてくれるのが嬉しくて、つい僕も意地悪をしてしまう。
今日は本当は、アスと二人で森に木の実を採りに行く予定だった。だが遠洋から戻った足で獲れた魚を届けに来てくれたタルを、すぐに帰らせるのは忍びなく、食事をして行けと引き留めた。
タルは僕以上にアスに取って大事な友人だし(何せラズリルを出た時からずっと一緒だ)、彼を引き止めた事に異存はないだろうが、内心がっかりしているのが伺えた。
アスは一見無表情に見えながら、気持ちは目と仕草ですぐに判る。やる気が無い時は動作がほんの少し鈍くなるし、目から生気が消える。
オベル船にいた時、僕が彼の不調を指摘したら周囲に驚かれた。
あんなに露骨に違うのにと呟くと「惚気?」とからかわれた。慌てて否定したけれど、内心僕だけがアスの変化に気づけることが嬉しかった。
まあ、小さな頃からずっと二人で過して来たのだから、判って当然なんだけどね。
昔から、何かを求める事の少ないアスだった。
使用人という立場の所為もあったろうが、だからこそ今彼が素直に求めてくれるのが嬉しい。
男の身でありながら、抱かれる事を望んでくれるのも。
初めて抱き合った日の翌朝。
目覚めても消えない温もりに若い躯が疼いたが、親友と呼ぶ相手とそういう関係になった気恥ずかしさと若干の後ろめたさに邪魔され、眠る彼を残してそっとベッドを降りた。
否。アスの目が覚めているのを知っていて、気づかないフリをした。
彼もまた気づかれている事に気づいていただろう。
湯浴みをして戻ってきた時には、アスの身支度も終わっていた。
視線が合うと、恥ずかしそうに微笑んだ彼が愛しかった。
全てを失った僕の手に、唯一戻ってきた宝物。
衝動に従って抱きしめると、アスが上ずった声で僕の名前を呼んだ。それだけで幸せに充たされた。
以来、アスはラズリルと無人島を行ったり来たりしている。
一年の三分の一はラズリルのこの家で生活をする。もう三分の一が無人島かオベルで、残りは三つの島を繋ぐ海の上だ。
アスは長期滞在する事はなく、長くても一週間程度で無人島行きの船に乗る。また月末にはこちらに来るんだろう、移動の時間が勿体無いからもう少し留まればと提案したが、断られた。
――全部、好きなんだ。ラズリルも無人島もオベルも海の上も。
屈託の無い笑顔で語られた言葉を疑いはしないけども、アスが定住を拒む理由がそれだけではないことを知っていた。
アスはラズリルに滞在中は、この家か騎士団の館以外に足を向けようとはしない。
特にラズリルの知人に会うことを警戒していた。人の多い所に行く時は、フード付きのマントを身に着けている。
群島戦争の英雄の称号は、アスにとって邪魔でしかない。
アスがラズリルを訪れる理由はただ一つ――僕に会う為だ。
僕もアスが来る時は事前に買い物を済ませておき、できるだけ外出しないようにしている。
二人で出かけるのは、人の来ない山や海辺だ。僕の家の裏手には鬱蒼とした山が広がっていて、森林浴をするにはもってこいの場所だっだ。
天気のいい日は鳥の歌声や波音を音楽に語らい、雨の日は料理をしたり、僕のアクセサリー細工の仕事をアスが手伝ってくれたり(必要な物を手渡すとか)などで過ごすのが常だった。その合間にどちらかがサインを送り、九割の確率で相手が手を取る。
抱きしめる躯は温かく、触れ合う肌は心地いい。彼の心臓の音を聴くのが何よりの安らぎだ。
アスが生きている証。
決戦前に僕だけが聞かされていた紋章の呪いからの解放と、肉体が消えていない事実から、彼の生存を信じてはいたけれど、それでも目の前に突きつけられた呼吸も鼓動も止まった体には心臓が凍りついた。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
「……降って来た」
目を閉じて鋭敏になっていたアスの耳が、雨音を聞きつけた。
屋根で弾ける水滴が、すぐにザァァーという激しいものに変わる。
「タルは濡れずに済んだかな」
返事は返って来なかった。代わりに伸びてきた両手に顔を引き寄せられ、唇ごと声を奪われる。
予想通りの反応に笑みが零れる。我ながら意地が悪いと思うけれど、アスを妬かせるのは楽しくて仕方ない。

 

 

 

 

「来月下旬にラズリルに来れないか?アス」
書類をめくる手を止め、ケネスがふと思い出したように言った。
「何かあるのか?」
装飾の無い実用的なマグカップを口に運びながら、アスが尋ねる。
ラズリル騎士団は質素倹約を声高に唱えている。前身のガイエン海上騎士団と違い、領主からの援助を頼れない現騎士団に於いて、経理に明るい副団長の功績は大きい。
副団長の執務室であるこの部屋も、来客を迎える事を考慮しておらず、訓練生の休憩室と大差ない簡素さだ。だからアスやタルは居心地がいいらしい。
「ジュエルがラズリルに戻って来るんだ」
「本当かい!?」
思わずあげた弾んだ声に、隣に座るアスの体が一瞬止まる。
が、すぐに何事もなかったように滑らかに動き出した。
だけど視線は僕を見ず、ケネスの方にまっすぐ向けられている。
「父親の具合はもういいのか?」
ジュエルは体調を崩して寝込んだお父さんの面倒を看る為にナ・ナルに戻った。
二週間前に彼女から来た手紙では、大分良くなったとはあったけれど。
「ああ、もう母親一人で大丈夫だと言われたそうだ。今後はまた騎士団に籍を置いてくれる事になっている」
「そうか…良かった」
安堵のため息を吐きつつ、それをケネスの口から聞かされた事に、僕は若干の苛立ちを感じていた。
あんなに手紙のやり取りをしているのに、どうして僕には知らせてくれないんだ。
僕の心の中を見透かしたように、ケネスは含んだ笑みを浮かべ、
「アクセルからの、ナセル鳥での定期連絡に一緒に入っていたんだ」
「……成程」
それなら納得が行く。ナセル鳥は手紙の何倍も速い。
きっと次に来る手紙には、詳しい事が書かれているだろう。
「ジュエルが騎士団に戻って来るのか…」
三年前、勝気な彼女には珍しい縋るような目で「あたしのこと忘れないでね」と言った。
アクセサリー細工の腕が認められたら、ジュエルに指輪をプレゼントする約束だった。
これから仕事の合間に作るには、一ヶ月は短すぎる。彼女の指のサイズも測っていない。約束を果たすのはもう少し先になりそうだ。
「ああ、手紙では何だかやたらと張り切っていたな。またポーラと離れ離れになるのだけが残念だと嘆いていた」
「ポーラは騎士団に戻ってこないのかな」
「ようやくエルフの村に受け入れられたばかりだ。当分は難しいだろうな」
「そうだね……」
共に肩を並べて剣を振るった頃を振り返る。
あの頃のようにまた一緒にいられたらと思うけれど、もう僕たちはそれぞれの道を歩み始めている。出来るのは時折道を重ねて立ち止まり、過去を懐かしむ事だけだ。
「そういう訳で、久し振りに旧友同士でゆっくり飲まないか。タルは了承済みで、ポーラもジュエルと一緒に遊びに来る。本当はナ・ナルとラズリルの中間地点の無人島かオベルでやれればいいんだが、俺が長期間ラズリルを離れる訳にはいかなくてな」
「副団長は大変だね、ケネス」
「俺の代わりに雑務をやってくれる奴がいないからな」
肩を竦めて、ケネスは書類の束を机に置いた。アス同様、彼もまた肩書きを喜ばない人間だ。
「二十日辺りを予定している。スノウは大丈夫だろう?ラズリル外にいる奴の都合を優先して悪いが」
「僕の予定なんて、あって無きが如しだからね」
こういう時、自分で仕事のペースを決められる技術屋は得だ。
「じゃあ二十日で大丈夫だな?アス」
「ああ。楽しみにしてる」
アスがケネスに向かって微笑した。感情が読めない笑顔だった。

 

 


雨が降っている。
激しい雨音が、建物の内外の音を遮断する。
悩ましい声も、ベッドの軋む音も。

「…っ……ん、スノウ……っ」
いつの間にか腕の中にすっぽり収まるようになった体。
アスは変わっていない。僕が成長したのだ。
昔は大して差が無かったのに、今は視線も肩の高さも噛み合わない。引き締まった筋肉に覆われた体は、それでも小さいと感じる。
もう、これだけ外見が離れてしまったのだ。
全ての生き物に平等な筈の時間は、真の紋章の宿主だけを置いていく。
アスの時間は十五歳で止まってしまった。僕は二十四歳になったと言うのに。
この腕の中にいるのは二十一歳の青年のはずなのに、俯いた首筋から覗くうなじは、少年の色気を漂わせている。
髪の毛で隠れる辺りに、そっと口づけた。
「っ……」
背をしなやかに反らして、アスが身悶える。飽きる事無く二人で何度も抱きあう。
この雨が止むまで。

 

 

 



リーンゴーン…
ラズリルの港町に、軽快な鐘の音が響き渡る。
突然の海風が、撒かれた花々を空へと巻き上げた。
風の祝福に歓声が上がり、宴は最高潮へと達していく。
僕は懐から小さな箱を取り出すと、蓋をあけて中身を取り出した。
要望に答えて飾りのないシンプルなものにしたが、内側には小さな石をはめ込んだ。持ち主のイメージである真っ赤なルビーだ。
「何だか夢みたい……」
彼女が泣きそうな笑顔で笑った。
「夢じゃないよ」
すらっとした褐色の指を手に取り、リングを嵌める。左手の薬指にしっかりと収まった。
「ようやく約束を果たせたね」
「スノウ……」
「これからよろしく、ジュエル」
純白の花嫁衣裳に身を包んだジュエルを、そっと抱きしめた。
再び上がった歓声の中に彼の姿を見つけ、意図的に微笑みかける。
アスはじっと僕を見つめ、そして―――

 



 




こうして僕たちの四年間の蜜月は終わりを告げた。
僕たちの関係を他人が知ったら、きっと色々な憶測をするだろう。
僕が結婚したのは男同士の不毛な関係を清算しようとしてだとか、その為にジュエルを利用したとか、僕は結局アスを捨てたのだとか。
だけど正面から問われれば、僕はそれらを胸を張って否定する。
彼女の事は心から愛していたし、僕の血を継ぐ息子を産み、生涯僕に寄り添ってくれて感謝している。僕の犯した罪を受け入れ、共に償うと言ってくれた彼女でなければ、僕は結婚など考えなかっただろう。
ジュエルと結婚すると告げた時、アスは軽く目を見開き、それから零れるような笑顔を浮かべて心から祝ってくれた。
タルやケネスの前でベッドに上がったアスはいなかった。
アスは気づいていたのだろうか。
世の中の「好き」の中で、恋愛が最も激しく、醜く、脆い存在だと言う事を。
この関係を続けたら、離れていく時間にいつか耐えられなくなることを。
少年の躯を愛撫しながら、近づいてくる破滅の予感に戦いた。
このままでは、いつか僕は彼を憎むようになる。
真の紋章に魅入られ、僕のものにならない彼を。
そうなる前に断ち切った。恋愛感情を殺せば、友としての愛しさだけが残る。
アスもそれを知っていたからこその、笑顔だったのではないか。
アスへの最後の手紙を書く手を休め、一息吐く。
一時の熱情と永遠の友情を天秤に掛け、僕は後者を選んだ。
もし前者を選んでいたらどうなっただろう。
少なくとも今のように、彼や家族を想い、穏やかに死を迎える事は出来なかったに違いない。
萎びた手で再びペンを取り、最後の文章を刻む。
『大好きな、大切な、僕の弟で生涯の親友』
そして愛した人。
最後の一文は目と自分の声で確かめた。
「『君に出会えた事が、僕にとって一番の幸せだった』」
 










持て余すこの攻撃性をどうしたらいいだろう。
物理的にではなく精神的に、がんじがらめに縛りつけたい。
今でさえ僕しか見ないマリンブルーの瞳が完全に僕色に染まった瞬間に、
手を傾け地面へと落とす。
いびつに割れた宝珠は、きっと元の姿より愛しくなる。
愛しているよ、アス。
だから僕の手で砕けて。
幸せそうに笑む壊れた人形の君を抱きしめて、僕は天国の調べに陶酔する。
何て甘い夢。
甘すぎて、吐き気がしそうな夢。

願うのは僕?それとも君?
運命の糸はどちらの手に握られている?
互いが同じ夢を紡ぎ、互いにそれを振り払おうと足掻いている。
天秤の左右に乗るのは、堕落の誘惑と笑顔の未来。
そこに感情と言う名の分銅だけを乗せるほど、僕はもう子供ではなくなっている。
理性と感情の両方を併せ持つ分銅が、静かに運命を傾ける

 

君を永遠に愛する為に、僕はこの道を選んだ

 




あなたは僕の世界の始まりであり、行き着く場所なのです


持って生まれたものか、後天的に育んだものか。
頭垂れ、支配される事に歓びを感じる。
ただ1人と決めた人に、征服されることを願う歪んだ願望。

独占欲ではない。
望みは、僕からパールグレイの瞳以外の世界を奪ってくれること。
あなたは真っ白な羽を広げ、太陽を背に、広い青空を天高く飛んで欲しい。
雄雄しき鳥と賛美されるあなたを、僕は地面から見上げ続ける。
そして寄り添う雌鳥に願う。
どうか彼を支えて下さい。
疲れて畳んだ羽を、癒してあげて下さい。
寒さに凍える体を、温めてあげて下さい。
僕は羽を休める止まり木にすらなれないから。
彼女が彼の隣にいてくれて本当に良かった。

僕は風になる。
一箇所に留まる事無く流れ、羽ばたくあなたの背を押す追い風になる。
そうして未来永劫見守り続ける。


 



 


同人誌「蜜月の小舟」より再録。
「最後の一文」は「たった一つ、伝えたいこと」にリンクしています。


4年前のこの日に旅立った、大好きな彼女に捧げます。



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