昼下がりのオベル王国の宮殿に、若い王女の澄んだ通る声が響き渡る。
「いかがなされました、フレア様」 「あら、デスモンド。ねえ、あの子を見なかった?ラズリルから手紙が届いているのだけれど、どこにもいないの」 声を聞きつけ現れたデスモンドに、フレアは手に持った白い封筒を掲げ、軽い溜め息を吐いた。 「この手紙、今日必着になっているのよ。きっと急ぎの用件に違いないわ。でも勝手に開けて中身を見る訳にも行かないし…。まったくもう、いつもの事ながらどこでフラフラしているのかしら。それと言うのもお父さんがあの子を甘やかすからよ。せめて午前中位は王宮にいるよう言って欲しいわ」 「王ご自身がああいう方ですから中々難しいのでは……。私がお探しして参りましょう。フレア様は王宮でお待ちください、はい」 「そうね、行き違いになっても困るし。頼むわね」 頷いて、身を翻した気弱そうなお付きの背中を見送る。フレアの手の中の封筒は、花を模った刻印で封をされていた。差出人の家の名前を表す、ジキタリスの花だ。 「後で後悔しても知らないわよ」 小さく唇を尖らせて、フレアは海へと視線を向けた。 王宮から見える海は今日も蒼く穏やかだ。 オベル港を眼下に見下ろす丘を、海からの風が吹きぬける。 絶えず一方向から煽られるお陰で、ここの植物は全てが島の中心にある王宮に向かって身を倒している。傾斜にしがみ付くようにして咲く小さな白い花々は、強風に負けない強い生命力を持つ花だ。 その中に埋もれるようにして、赤い物が見え隠れする。 夜明けの空のような髪色の少年が、身に付けている服の色だ。 心地よい惰眠を貪る少年の顔の上に、影が落ちた。 「やっぱりここにいた」 宝物を見つけたような楽し気な声。だが少年はまだ目覚めない。 影の主はえへんっと一つ咳払いすると、身を屈めて、眠る少年の耳元に唇を寄せ、できうる限り低い声で囁いた。 「共も連れず、こんな所で一人寝とは大胆な。お命頂戴する」 「!!」 途端、少年の目がパチっと開き、寝起きとは思えない素晴らしい反射神経で、元いた場所から飛び退った。全身に緊張を張り巡らせ、声の主を見据えると。 「……く…くくっ……」 自分の命を狙って来た筈の刺客は、背を丸め、肩を震わせ必死に笑いを堪えている。当然の事ながら、彼の手には武器はなかった。目に優しい萌黄の服と亜麻色の髪が、残っていた眠気を吹き飛ばす。 「……スノウ!」 「おはよう、アス。久しぶりだね」 驚きに口をパクパクさせているアスに向かって、スノウが鮮やかに微笑んだ。 「ひどいよ、スノウ…」 並んで草の上に腰を下ろし、アスがぽつりと恨み言を口にする。 「あはは、ごめんごめん。あんまり君が無防備に眠っているものだから、つい悪戯したくなってね。僕がすぐ側まで来ても、ちっとも目を覚まさないし。だけどオベル王国内とはいえ、こんな所で一人で寝ているのはどうかと思うよ。群島諸国連合設立を面白く思わない人間はまだたくさんいるからね。リノ王の片腕である君を暗殺して…という不埒な輩がいないとも限らない。まあ、そこらの刺客じゃ君には敵わないだろうけど、さっきみたいに武器を持たずにいる所を襲われたら、流石の君でも危ないだろう?」 「………」 反論できずに黙り込む。 「それに今頃こんな所で昼寝だなんて、勉強はどうしたんだい?」 「……もう終わったから」 「アス、嘘は感心しないな」 咎めるような口調に、アスは埋めた両ひざの間から、視線だけをスノウに向ける。 「今日は王宮に行ってないだろう」 「何で……」 呆けた表情が、スノウの言葉を肯定していた。 スノウの頬が楽しげに緩む。 「何でってそれはね、もし君が今日ちゃんと王宮で勉強していたら、今頃港で僕を出迎えてくれていた筈だからさ」 スノウはラズリルを発つ前に、今朝必着でアスに手紙を送っていた。 手紙には今日の昼にオベルに到着する旨が書かれており、アスが勉強をサボりさえしなければ、もっと早く再会できていたのだ。 「港で君の姿を見かけなかったから、多分ここだと思って。この君の昼寝場所、まだデスモンドさんたちに見つかってないんだね。見つかっていたら、手紙は君の手元に届いただろうから」 「……ごめん」 自己嫌悪でがっくりと項垂れてしまった頭を、スノウがそっと撫でた。 「僕の方こそごめんよ。本当はもっと早くに手紙を出せたんだけど、君が手紙を見るか見ないか判らないのも楽しそうだと思ってね。見て港に来てくれるのも嬉しいし、見ないで驚く君の顔が見れるのも楽しい」 「驚いたよ。まだ夢の続きかと思った」 「夢?」 「スノウの夢を見ていたんだ。さっき」 さあ…っと吹き付けて来た風が、アスの柔らかな髪を靡かせた。穏やかな横顔には、照れたような笑みが浮んでいる。 「どんな夢だい?」 「ラズリルでスノウと一緒に育つ夢」 マリンブルーの瞳が、スノウを映す。 「僕はスノウの小間使いなんだ。二人とも子供で、仕事の内容は主に遊び相手だけど、スノウが一人でどんどん行っちゃうから、追いかけるのが大変で」 「へえ。面白いけど恐れ多い夢だよ。僕が君の小間使いっていうなら納得もするけどね。王子?」 アスが嫌がるので普段は絶対に口にしない敬称で、からかい混じりに臣下の礼を取ると、予想通りアスの眉が寄った。 「スノウに小間使いなんてできないよ。見た目よりも大変な仕事だよ、あれは」 「王子にできる仕事なら、私めにも可能と存じますが。ラズリル村領主が嫡男スノウ・フィンガーフート、オベル王国王子の側近としてお側に配して頂ければ、ありがたき光栄に存じます」 「……スノウ」 強い非難の篭った声と視線に、スノウが笑って肩を崩した。 「王家の方々がラズリル来訪の際にお世話した縁で君と仲良くなって、以来こうして親しくさせて頂いているけど、本当は僕は君と対等に話すなんて許されない身分だ。リノ王もああいう方だからオベルではともかく、ラズリルで他国の王子を呼び捨て、しかも略称で呼ぶなんて、無礼も甚だしい所だよ」 「……」 アスが溜め息を吐く。貴族階級が根付いているラズリル出身のスノウの言い分は判るし、ある程度仕方がないと頭では理解しているが、こうして二人きりでいる時まで身分の差がと言われるのは気が重い。 アスは王子という己の立場が嫌だった。国を守る責任から逃れたいのではなく、誰かに傅かれ守られるのが苦痛だった。その意味で、アスはリノの血を色濃く継いだと言える。リノ自身、王という地位に誇りを持っているが、大海に飛び出したい、己の力を試したいという強い願望を若い頃から捨てきれずにいる。王らしくない振る舞いにそれが表れている。 だからリノは、第二王位継承者であるアスには煩い事は言わなかった。勉強をサボるのも、知っていて見逃している節がある。母親である王妃は、息子にそこまで寛大にはなれないようだが。 「ところで、今回は君にある報告をしに来たんだ」 「?」 スノウがやや表情を引き締めてアスを見る。 「もうすぐ僕はガイエン海上騎士団に入るんだ。数年の訓練生時代を経て正式な騎士になったら、長期の航海に出る事もあるだろう。騎士になる前でも、オベルに来れるのは休暇の時だけだから、年に一回が精々かな。寂しいけど手紙は一杯書くよ」 「騎士団って…スノウは領主になるんだろう。何でわざわざ…」 そんな危ない道を選ぶんだという言葉は、かろうじて飲み込んだ。 ガイエン海上騎士団は、群島の海上治安維持に欠かせない存在だ。海域を荒らしまわる海賊や北のクールーク皇国と応戦する事もあり、地位は華やかだが決して安全な職業とは言えない。いずれ領主となるスノウが、入団する必要はない筈だ。 アスの反応が判っていたかのように、スノウはやんわりと手で押し留めた。 「領主になるから、だよ。僕は父のように、騎士団の後ろに隠れるような領主にはなりたくない。いざという時、自分の手でラズリルを守れる力を身に付けたい。僕は団長を目指すつもりだ。現団長のグレン団長は立派な人でね。あの人の下でなら、たくさんの事を学べると思うんだ」 「スノウ……」 「なんてそんな風に思うようになったのは、君の父上のお陰なんだ。リノ王は素晴らしいよ。オベルに危険が迫った時、あの人は国民を守る為に躊躇わず矢面に身を晒すだろう。僕もそんな領主になりたいんだ」 穏やかに微笑むスノウは、アスの目にとても眩しく映った。 自分を持て余し、逃避しているアスと違い、スノウは自分の夢に向かって迷い無く進んでいる。自分の知らない所で、彼はどんどん行ってしまう。後ろを振り返る事もなく、アスを置いて。 その時、風に乗ってフレアのアスを呼ぶ声が聞こえて来た。フレアは二人がいる場所よりもやや高い所にいるようだ。ここは茂みが生い茂っていて、上から覗かれてもまず見つからない。 「フレア王女が呼んでる。行こうか。まだこの場所を彼女にばれたくはないんだろう?」 素早く立ち上がったスノウが、手を差し出した。その手を借りて腰を上げる。 フレアの声が少し遠のいたのを確認してから、反対方向に回って茂みの影からこっそりと姿を現す。やや遠回りしてフレアの正面から、何食わぬ顔で声をかけた。 「お久しぶりです、フレア王女」 「あらスノウ。もう二人とも会えていたのね。折角あなたからの手紙を届けに来てあげたのに」 「王女自らとは、ご足労ありがとうございます」 深々と礼をするスノウに、フレアは悪戯っぽく肩を竦めた。 「本当はデスモンドに頼んだのだけど、いつまで経っても戻ってこないから自分で探しに来ちゃったの。二人揃って現れたという事は、多分この近くにあなたの隠れ場所があるのね。アシュレイ?」 探るような姉の視線に、アスは――本名、アシュレイ・リノ・クルデスはギクリと体を強張らせた。 「まあいいわ。この手紙、もう意味はないかもしれないけど、一応渡しておくわね。そうそう、スノウ、騎士団入団おめでとう」 「姉さん知ってたの?」 自分にだけ黙っていたのか――。スノウに非難の目を向けるアスに、フレアは腰に両手を当て、怒ったように言った。 「あのね、毎日王宮で勉強していれば、群島の情報もちゃんと入ってくるの。ラズリル領主の跡取りが、ガイエン海上騎士団に入団が決定した事は、数日前に知っていたわ。アシュレイもフラフラしてないで、スノウを見習ってしっかりしなさいね。いっそスノウと一緒に騎士団に入っちゃったらどう?」 「僕も入れるの!?」 「え、ええ……大丈夫だったわよね。スノウ」 冗談のつもりが、アスが予想外の反応をした事に戸惑いつつ、フレアがスノウに確認する。 「はい。訓練生は健康な十二歳以上の若者であれば、身分や出身は問わないとなっていますが……」 フレア同様、スノウも困惑気だ。 「なら僕も騎士団に入る」 「アシュレイ!」 「アス!本気かいっ」 きっぱりと言い切ったアスに、二人が左右から驚愕の声をあげた。 「うん。スノウと一緒にラズリルに行く」 「駄目だよ、アス。君はこの国の王子で……」 「王位は姉さんが継ぐから僕は関係ない」 「でもリノ王がお許しになる筈がないよ。王子が他国の騎士団に入団するなんて」 「お父さんは多分許してくれると思う」 「そんな……。フレア王女っ」 縋るようにフレアを見ると、彼女も渋面を作って頷いた。 「この子の言うとおり、父は恐らくアシュレイの決めた事に反対しないわ。むしろ頑張って来いって笑顔で見送っちゃうわね。あーあ、余計な事言わなければよかった」 大きく溜め息を吐くと、フレアはスノウの手を取り、弟と同じ色の瞳で見上げた。 「とんだ事になっちゃったけど、アシュレイのことお願いね」 「……止めないんですか」 「止めてきく弟なら、とっくに止めてるわ。アシュレイと私はあんまり似てないって言われるけど、こういう時の頑固さはそっくりなの」 「王女……」 二人の真剣な眼差しに、迷っていたスノウもとうとう観念した。 「判りました。アス、一緒に騎士団に入ろう」 「スノウ」 アスの顔がパッと輝く。 「確かに、一度こうと決めたら君はどんな事をしても、それこそ家出してでも騎士団に来るだろうからね。でもちゃんとリノ王と王妃様の許可を貰ってからだよ。黙って出て来たら追い返すからね」 「うんっ」 子供のような満面の笑顔に、スノウもフレアも苦笑を隠せなかった。特に普段の無気力なアスを見ているフレアは尚更だ。アスのこんな生き生きとした顔は久しぶりだった。 「それじゃ王宮に戻りましょうか。母は反対するかもしれないけど、私も助け舟を出してあげる。騎士団でしっかり鍛えられてらっしゃい」 「ありがとう、姉さん」 デスモンドが心配してるといけないから、私は先に戻るわねと言い残して、フレアは軽やかに駆けて行った。見る見る小さくなっていく背中を見送った後、スノウが照れたように口を開いた。 「本当は、少しだけこうなる事を期待していたんだ。君も騎士団に一緒に来てくれないかなって…」 「スノウ」 「ありがとう、アス。これからは本当に身分なんて関係ない。同じ騎士団で学ぶ訓練生だ。改めてよろしく頼むよ」 「――こちらこそよろしく」 差し出された手を握り返して、二人はどちらからともなく笑みを上らせた。 王宮までのなだらかな坂道を、肩を並べてゆっくりと歩いていく。 「ところで訓練生は寮生活なんだよ。王宮育ちの君に耐えられるかい?」 「自分のことは自分でやってるよ。スノウの方こそ、世話係がいなくて大丈夫?」 「僕だって自分の事は自分でやってるよ」 「本当に?」 「当然だろう」 「判った、信じるよ。寮という事は、他にも同年代の仲間がいる訳だ」 「ああ、どんな人たちがいるんだろう。上手くやっていけるといいけれど」 「大丈夫だよ。スノウには僕が、僕にはスノウがいるんだから」 スノウアンソロジー「ウナルベクサ・ノチウ」より再録。 罰の紋章の封印が解かれておらず、クールークが攻めて来なかった世界のお話です。 和田慎〇先生のピグマ〇オの最終回が大好きで大好きで!何度読み返しても感動し、幸せ過ぎて泣けます。メデューサ姉さま…。 もしかしたらありえたかもしれない、もう一つのストーリーを、4主とスノウで書きたかったんです。 「ウナルベクサ・ノチウ」は、アイヌの方言で「老婆の川渡り星」。 わし座の星のうちの2つで、明るいγが働き者の弟、暗いβは怠け者の兄。 |