叩き付けられた雨粒が甲板の上で弾ける。厚い雨雲に覆われ、月明かりさえも届かない真っ暗な世界。海での雨は必ず風を伴い、黒い海を大きくうねらせる。大波に乗り上げる度に僅かな緊張が走る体を、大きな腕が優しく包み込む。
(くそっ、何でこんなことになってるんだよ)
普段なら絶対許さない距離。絶対許さない体勢。
こんなふうに広い胸に抱きこまれているなんて。相手の呼吸音が聞こえるくらい近くにいるなんて。
水気を含んで重くなった上着の下で、二人分の呼気が溜まって澱む。たまには新鮮な酸素と入れ替えてやらないと――だけど温まった空気が冷えるのを嫌って、ほんの少し上着を持ち上げる動作をできずにいる。
そう、寒いから。打ち付ける雨と、それによって冷やされた空気が冷たいから。だから今だけ仕方ないんだと。
寄り添わなければ凍えてしまうからと自分に言い聞かせて、背中から感じる温もりに目を閉じる。
「大丈夫、大丈夫だよ、テッドくん。きっとそのうち誰かが気づいてくれるよ。これだけ雨がひどいと中々難しいかも知れないけど、でも朝になったら絶対気づいてくれるから」
馬鹿の一つ覚えのように、大丈夫を繰り返している彼。
こんなことで不安がるほど、小さな子供ではないのに。
「寒くない?そっち側は狭くない?ずっと同じ姿勢で疲れたでしょう。もう少し体を曲げて、足をこっちに伸ばすといいよ」
動かせない体が痛むのはお互い様だろうに、テッドの事ばかり気にして。
子供の体のテッドはともかく、標準以上の体格を持つ彼にはこの狭さはかなりきついだろう。少しでもテッドが楽なように、凍えないようにと考えているのが抱きしめる腕から嫌になるほど伝わってくる。まるで親鳥が羽を広げて子供を守るみたいに。
他人の体温をこんな近くで感じたのは、久しぶりだった。




Night Rain






消灯時間が過ぎたのを見計らって、自室のドアを開ける。
廊下のランプは通行に必要な最低限の明かりだけを残し、全て落とされていた。薄暗い通路を物音を立てないよう細心の注意を払って進む。
夜間の見張りに立つ者の為に風呂や食堂の一部にはまだ明かりが点いていたが、一般船室の並ぶ第四甲板は完全に眠りの底だ。同じく第二甲板のサロンの重い扉も閉ざされている。
いつもは遅くまで光が洩れている作戦室も、今日は真っ暗だった。夜中まで話し合わなければならない問題もない、穏やかな一日だったという事だ。上の階の艦長や国王、軍師の部屋それぞれまでは知らないが。
作戦室の向かいにある僅かな階段を上り、後部甲板への扉を開く。新鮮な冷たい空気が、人いきれで温められた船内にさーっと入り込む。
開けた時同様静かに扉を閉めると、テッドは海へと張り出した柵に歩み寄った。
今夜は厚い雲に覆われ、月の光も届かない。不眠不休のブリッジから洩れる明かりで、かろうじて船を縁取るように立つ白い波飛沫が見える程度だ。黒い海は今にも船を飲み込みそうな不気味さでもって存在している。
天に広がる雲は雨雲だ。おそらく夜半からは雨になるだろう。
引き網用に一段低くなっている柵に両手を着き、今日初めて感じる新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。
パーティ参加要請が無い時は、部屋で本を読んだり武器の手入れをして過ごすのが常で、そういった日は夜中や夕方、早朝など人のいない時間を狙って外の空気にあたりに出て来ていた。
船に乗り込んですぐの頃は日中も散歩していたのだが、甲板を所狭しと走り回る子供や、洗濯物を干す女性たち、日光浴に出てきた人々などで溢れ返り、とてもじゃないが物思いにふけれる環境ではなく、そのうちテッドの存在に気づいた人々がやたらフレンドリーに声をかけてくるので、今ではすっかり日中に甲板に出る事はできなくなってしまった。
普通これだけの大型船だ。知らない人間が居ても気にも留められない筈なのだが――この船の非戦闘員は殆どオベル王国の国民らしい。罰の紋章を迎えに行った時に彼に同行していた粗野な男が、実はオベル国王だと聞いた時にはかなり驚いたが、成る程国王があれだから国民も呑気者が多いのかと半分呆れ、半分そんな国を羨ましく思った。
この船の人々がこんなに明るく笑っていられるのも、国王であるリノを信頼しているからだ。
そしてそのリノと艦長である彼の間にも確かな信頼関係があり、その輪が大きくこの船を包み込んでいる。クールークとの戦闘の為に、外部から助っ人として仲間になった者たちも、彼とリノが作るこの輪の中にいつのまにか取り込まれている。彼について行けば大丈夫、そう思わせる何かが彼にはある。
その左手に宿るものは、自分と同じ呪われた真の紋章であるのに。
(羨ましいのか?あいつが)
呪いを抱えつつも彼の周りには人が集まる。
例えば罰の紋章を宿していたのが自分だったらどうだろうか。罰の紋章の次の呪いを引き受けると言うあの女性は、それが自分でも同じことを言っただろうか。二度と彼に罰の紋章を使わせないと言った彼らは、こんな途中から船に乗ってきたひねくれた子供相手でも、同じ事を言うだろうか。
(馬鹿みたいだ……)
小さく自嘲する。他人を拒絶している癖に、人からは手を差し伸べて欲しいと思うなんて。
ソウルイーターと罰の紋章は違う。罰の紋章の呪いは相手を選ばない。宿主が死ぬ時、近くにいる者の手に無差別に宿る。
だがソウルイーターの呪いは――宿主の心に左右される。
好きで大切で、守りたいと願う人の魂こそを紋章は好む。愛しく想う気持ちが、相手を死に至らしめる。
自分の心が、好きな人を殺す。
ああなんてひどい呪いだ。殺したくなければ愛すな。愛するなら、相手の死を覚悟しろと言う紋章の哄笑が聞こえる気がする。
お前が殺すんだ。今まで奪ってきたたくさんの魂。お前が愛したから喰らった。お前が愛さなければ、死なずに済んだたくさんの人々。
愛さなければ良かったのに。紋章が近しい者の命を喰らうと知った時点で、誰も愛さなければ良かったのに。それでもお前は人を愛した。与えられた好意を振り払えずに何度も何度も愚行を繰り返した。
船長の所にいた時は楽だったろう?紋章を手放して、もうこれで誰も殺さなくて済むとほっとしただろう?だがあの場所では誰も愛することはできなかった。人を愛さずにはいられないお前。他人を死に至らしめようと、人を愛さずにはいられないお前。
だからお前はもう一度紋章を宿す決意をしたんだろう?宿せば再び紋章が愛しい者の命を刈り出すことが判っていて、それでも人を愛したかったんだろう?
(違う……っ!そんなんじゃないっ……)
己の内から湧きあがって来る声は、耳を塞いでも消えない。
真っ直ぐな瞳を持つアスと出会って、紋章から逃げるのは止めようと思った。祖父から受け継いだ紋章に、もう一度立ち向かおうと思った。
その代わり、もう二度と誰も愛さないと心に決めて。
誰も好きにならない。呪われた生から目を逸らさず、いつか再び「あの人」に会える日まで、例えどんなに孤独に心奮わせようとも、たった一人で生き抜いてやる。
――言い訳や戯言は幾らでもほざくがいい。お前は人を愛することを止めれはしない。誰よりもソウルイーターに相応しい宿主だ。
愛するがいい。己が心のままに、この世の全ての人間を愛するがいい。最後の一人になるまで愛するがいい。
「止めろ……っ」
「ご、ごめっ……」
「……っ!」
幻聴を払拭しようと叫んだ声に続いた、自分の物でない謝罪の言葉に驚いて振り返る。
「お前……」
「ごめんね。声かけようと思ったんだけど、何だかテッドくん考え事してたみたいだったから……」
いつの間に来ていたのか、長い黒髪の青年はテッドの真後ろ、後部甲板と船室を繋ぐ一段低くなっている扉の前に身を埋もれさせて立っていた。
弓矢を武器とするものは、総じて気配を殺すのが得意だ。動物は人間よりも耳がいい。小さな物音でも感づかれてしまう。 
テッドも割と気配を感じさせない方ではあるが、彼は――アルドは、多分この船一、気配を消すのが上手かった。
「……何でこんなところにいるんだよ」
気まずいのを誤魔化すのもあって、口調がいつも以上にきつくなる。協力攻撃を共にし、不本意にも浅くはなくなった付き合いで、彼がどんな答えを返して来るか聞かなくても判っていたけれど。
「テッドくんが上へ上がっていくのが見えたから。こんな時間に散歩だなんて眠れないの?」
「…………」
やっぱり、とテッドは大きく舌打ちした。
何が楽しいのか、アルドはやたらとテッドに構ってくる。
この船の乗組員は背が高い者が多く、チビの分類に入るテッドの後ろを180センチの偉丈夫が追いかける光景は、最早船の名物になっていた。
テッドとしては、いつでも一人のつもりだった。並んで歩くでも会話をするでもない。ただアルドが勝手にテッドの後ろをついて来るだけだ。
だが回りはいつの間にかテッドとアルドをワンセットで見ているらしい。たまにアルドがパーティ参加などでいないと、「今日は一人なのかい?寂しいだろ」などと嫌味ではなく声をかけられる始末だ。
冗談じゃない。何が寂しいものか。四六時中テッドの視界に入る所にいて、無視しても能天気な笑顔で笑いかけて来て。はっきり言って鬱陶しくてならない。
堪りかねて放りこんだ目安箱の投書は、あっさりとアスに握り潰された。何のための目安箱だ!、問題を解決する為じゃないのかっと問い詰めれば、
「だってそれは本心じゃないだろ」
と意味深な笑みで一蹴されてしまった。
本心じゃないだと?一体何処を見ているんだっ。俺はこんなに迷惑してるってのにっ!
イライラする。イライラする。どんなに冷たい態度をとろうが変わらないアルドも、何もかも判った風なアスも。
アルドを完全に拒否するだけの言葉を持たない自分も。
――抗う必要はない。認めるがいい。
迷えば、「声」はすぐにテッドの心の隙間に忍び込んでくる。 
――愛するがいい。お前のことを慕う、この純朴な美しい魂を愛するがいい。彼ならば、きっと紋章の事を打ち明けても変わらない。お前から離れて行く事はない。むしろ今まで以上にお前を守ろうとするだろう。お前の150年の孤独を思って、心を添わせようとするだろう。
彼ならば、喜んで自らの首を差し出すだろう。
お前の為に。
「煩い……っ」
囁くのは紋章か、それとも己自身か。
「テッドくん…?」
名前を呼ばれてはっとなった。船を出て以来、紋章を再び宿して以来、「声」は時折こうしてテッドを深い闇へと誘う。
「どうかしたの?何か悩み事?僕で良かったら相談に乗るよ。人に話すと楽になるって言うし…」
「……お前には関係ない」
「僕じゃテッドくんの力にはなれない?」
「…………」
寂しげに微笑むアルドの顔が見れなくて、視線を逸らす。
胸に渦巻く重苦しい感情、これは罪悪感というのだろうか。
彼にこんな顔をさせてしまう事への。
だが右手に宿る紋章が、テッドに心とは逆の言葉を紡がせる。
「助けなんか……」
いらないと言おうとして。
カチャリ
一瞬の空白を狙ったかのように、硬質な音が響き渡る。
「今の音、何だろうね……」
首を傾げたアルドに、嫌な予感がする。音はアルドの方から聞こえて来た。アルドの後ろには船内へと続く扉がある。
ずんずんっと大股で近づいてくるテッドの迫力に、アルドが窪みから上がって道を空ける。その脇を通り過ぎ、ドアノブに手をかけぐるりと回し――
「やられた……鍵をかけられた」
「えっ」
来た時はすんなり開いた扉が、今は頑なにテッドを拒んでいる。ガチャガチャと力任せにノブを回して、やがて諦めたように手を離した。
先ほどの音は鍵をかける音だった。夜の見回りに来た誰かが、面倒くさがって外に人がいるか確認せずに施錠したらしい。
ドンドンっとドアを叩いてみるが、幾ら待っても扉が開く気配はなかった。鍵をかけた主は既にこの階にはいないのだろう。
「え、えーと、大声で叫んだら誰が気づいてくれないかな…」
「生憎と今日は作戦室に誰もいなかった」
「上にも聞こえない、よね……」
後部甲板の上にはリーダーの部屋が大きく突き出していて、当然の事ながらよじ登ることもできない。この下は船の空洞部分だ。「えれべーた」も止まっているこの時間帯では、大きな音を立てたとしても誰も気づいてはくれない。 
次の巡回は明日の朝だろう。居住区のない第二甲板を深夜に通る物好きはいない。朝は早い船だ。あと数時間の辛抱ではあるのだが。
(それまでこいつと居ろって言うのかっ)
閉め出しを食らうのも野宿をするのも、一人なら構わない。だけどよりにもよってアルドと、逃げ場のない場所で二人きりで過ごさなくてはならないなんて。
「雨だ……」 
追い討ちをかけるように、重い雲が耐え切れずに水滴を落とし始めた。最初はぽつぽつと小さな粒だったが、やがて叩き付ける様な激しい雨へと姿を変える。
「くそっ、天気まで馬鹿にしやがって」
横殴りに吹き付ける雨は、屋根の下に立つ二人にも降り注いだ。扉に貼りつくようにして天を睨みつける。
「……つっ立ってないでこっちに来い。濡れるぞ」
「う、うん……」
甲板は海に向かって僅かに傾いているので、窪みの中に雨水が流れ込んでくることはない。再びアルドの大きな体が狭い窪みに収まると、テッドは着ていた上着を脱いで自分たちの頭からすっぽりと被せた。
「皮じゃないからあんまり防水にはならないけど、ないよりはマシだろ」
「ありがとう…ごめんね。僕も何か雨避けになるものがあれば良かったんだけど」
「気にするな」
テッドが気遣う言葉を口にした事に喜んでいるアルドには気づかず、テッドは上着の間から立ち込める黒い雨雲を忌々しげに見あげた。
この空の様子では、通り雨という訳には行かないだろう。かろうじて雨を避けられる場所はここしかない。
狭い通路は二人が並んで立つのが精一杯だった。呼吸に合わせて上下するアルドの胸の動きが判るほどの至近距離で、朝まで過ごさなくてはならないのか。
「雨……止みそうもないね……」
上着に覆われ音が逃げない所為で、アルドの声が大きく耳に届く。
激しい雨は急激に空気から熱を奪って行った。上着を傘代わりにしてしまったお陰でいつもより薄着のテッドが、ぶるりと身を奮わせる。
「テッドくん、寒い?」
「平気だ……」
「でも寒そうだよ……」
「平気だって言ってんだろ」
上着を脱いだとは言え、テッドはまだアルドよりも露出が少ない。普段からむき出しの腕を晒しているアルドの前で、寒いなどとは口が裂けても言えない意地っ張りなテッドだった。
「そう?……でも僕が寒いんだ。僕の服は袖がないし、このままじゃ風邪引きそうだよ。もう少しこっちに来てくれないかな。くっついていれば温かいと思うんだ」
間近で、色素の薄い茶色の瞳が柔らかく微笑む。
「それに立っているのにも疲れて来たよ。ちょっとこれ持ってて」
半分ずつ被っていた上着から身を引き、アルドがその場に腰を下ろした。
「さ、テッドくんも座って。朝まではまだ長いよ。体を休めよう」
「座るってどうやって……」
狭い通路はアルドの大きな体が半分以上塞いでいる。テッドは今、窮屈そうに折り曲げたアルドの長い足の間の僅かな隙間に立っていた。
「狭いけど我慢してね。僕に寄りかかっていいから」
呆然としているテッドに、アルドはぽんぽんと自分の足を叩いて促す。
冗談じゃない、誰が!と叫ぼうとして、脳の裏側で理性が正論を並べ始める。
雨が避けられるのはここしかない。このままでは体温を奪われる。体温維持の為には人肌が一番有効だ。自分はともかくアルドのあの格好では寒さが堪えるだろう。
それに――強がりはしたけれど、やはり寒くてしょうがない。彼と寄り添ったら、きっと暖かいに違いない。
「……仕方ない、今だけ人間湯たんぽになってやる。その代わりしっかり背もたれにさせて貰うからな」
アルドに背を向けるようにして、足の間にどかんと座り込む。雨が吹き込まないよう上着をかけ直して後ろに体重をかけると、体の前で大きな腕がふわりと交差した。
「ありがとう。……やっぱりこうしていると温かいね……」
「…………」
大きな鳥の羽で包むように抱きしめられ、その温かさに何だか泣きたくなった。
アルドが触れている部分がじんわりと温かい。肉体だけでなく、心までもが温まっていくのを感じる。夜の甲板に閉め出された怒りは最早消えていた。背中から伝わる温もりが、ささくれ立ったテッドの心を優しく撫で摩る。
駄目だ、これ以上近づいてはいけない。近づかせてはならない。頭の中で激しく警鐘が鳴り響く。それこそ紋章の思う壺だ。もう誰も殺したくないのなら、彼を突き放せ。
「こんなこと言うと不謹慎だし、テッドくんは怒るかもしれないけど……僕は今この扉に鍵がかかってて良かったなと思ってるんだ」
「え?」
耳元で聞こえた楽しそうな声に、驚いて顔を上げる。
「この扉と雨のお陰で、テッドくんが逃げずにいてくれる。濡れないように自分の上着を被せてくれて、僕が寒いって言ったら傍に来てくれた。凄く嬉しいんだ」
「…………」
「テッドくんは本当に優しいね」
「……………」
返事が返らないことを気にした風もなく、アルドは小さく震えるテッドを抱きしめる腕の力を強めた。
「テッドくん、震えてるけど大丈夫?寒かったら遠慮せずにもっとくっついてね。僕はテッド君のお陰ですっかり温まって眠くなって来ちゃったよ。僕が寝ても気にしないで体重かけていいからね」
やがてそれ程時間を置かず、背後から静かな寝息が聞こえて来た。どんな状態でも眠れるのは旅慣れている証拠だ。テッドだとて、一人であれば彼と同じようにとっくに休息の為の睡眠に入っているだろう。
意識がなくなり力の抜けた腕を持ち上げて、少し体を捻って横向きになる。手足を小さく折りたたんでアルドの足の間にすっぽり収まると、彼の左胸、心臓の上にこてんと頭を乗せる。
ドクン…ドクン…ドクン…
睡眠下の、ややゆっくりとした脈動が耳を擽る。




「……俺はちっとも優しくなんかない…本当に優しいのはお前だアルド……」
どんなに冷たい態度を取っても、怒りもせず慕ってくれるアルド。協力攻撃の度に差し出される手を拒むのに、毎回テッドがどれだけの意思を必要としているか判らないだろう。
振り返ればいつもそこにある笑顔が、自分の名を呼ぶ優しい声が、どれ程テッドの心を温かくしてくれているか知らないだろう。
もう誰も愛さないと決めたのに。
彼を前にしていると、その決意が揺らぎそうになる。
自分勝手な望みを叶えたくなる。 
「…………」
雨はまだ降り続いている。月明かりがない上、上着が作る影の所為でアルドの顔は殆ど見えなかった。微かな寝息だけが目印だ。
体格に似合わず線の細い頬に、そっと手を伸ばす。
大丈夫。ソウルイーターの思惑には乗らない。他人も紋章も自分までも騙して。
一人でこの紋章を抱えて生きていく。
規則正しい呼吸音が不意に途切れた。頬を引き寄せるだけではなく、自分からも伸び上がって更に距離を縮める。手袋越しに手のひらを擽る柔らかな黒髪。
唇から直接奪った熱は、今まで以上にテッドの体を熱くさせた。






「いやー、わりいわりい。人がいるなんて思わなかったもんでよ!」
ちっとも悪いと思っていなそうな態度で、がははっとダリオが豪快に笑う。
一晩中降り続いた雨は、日の出と共にようやく上がった。
その後朝の巡回で鍵開けに回ってきたデスモンドにより、ようやく船内に戻ることが出来た二人は、とりあえず風呂で冷え切った体を温め、それから作戦室で昨夜の鍵当番に引き合わされた。
「戦闘員である俺たちだったからいいものの、閉じ込められたのが小さな子供だったらどうするんだ。大体あそこの施錠は、夜に子供が入り込まないようにする為のものだろ」
反省の色が全くないダリオに、テッドの口調が厳しくなる。
「もうやらねえって!それにおめぇらだったんだからいいじゃねえか。そういつまでも細かいことぐだぐた言うなって!」
「ちっとも細かくないっ!」
「そこら辺で許してやってくれ。ダリオには後で俺がしっかり注意しておくから」
「…………」
見かねたアスが仲裁に入り、しぶしぶながらテッドが引く。ダリオには正面から正論を掲げても無駄なのだと、前にパーティで一緒になったハーヴェイが洩らしているのを聞いたことがある。
「昨夜はあまり寝てないんだろう?今日のパーティ参加は免除するから、二人とも部屋でゆっくりと休むといい」
「僕は充分眠れたんで大丈夫ですよ。野宿は慣れてますから」
「テッドは眠れなかったみたいだけど」
笑いを含んだマリンブルーの瞳を、キッと睨みつける。
「え、そうなの?やっぱり狭くて寝づらかった?それとも僕の寝相が悪かったかな…?」
「そんなんじゃない」
「そんな言い方じゃアルドが気にする。ちゃんと言ってやらないと」
くすりと笑うアスが本気で憎らしくなる。
暫くの沈黙の後、溜息一つ。
「……お前の所為じゃない。野宿は久しぶりだったから寝付けなかっただけだ。そういう訳で俺は眠い。もう部屋に戻らせてもらう」
問答無用で言い切ってドアを潜る。
作戦室に残るアスは、今頃更に笑みを深くしていることだろう。本当に彼の態度は癪に障る。
だがお節介な忠告をするではなく、黙って見守るだけのアスには助けられている部分も多かった。リーダーが彼でなければ、きっと自分はどんなことがあってもこの船から降りていただろう。
紋章の事しかり、背後から慌てて追いかけてくる足音の持ち主の事しかり。
「待ってよテッドくんっ」
「…………」
気づかれない位に少しだけ歩む速度を落とすと、追いついた彼がテッドの後ろ数歩を歩き始める。いつもの自分たちの距離だ。
背中で彼の気配を探りながらも、テッドが振り返ることはない。
並んで歩くでもアルドの後ろを歩くでもない。自分はこれからもアルドの前を歩き続ける。もしうっかり素顔を晒してしまっても、決して彼には見えないように。

この想いを胸に秘めて。
前を向いて歩き続ける。







アルテドアンソロより再録。
まだ付き合いが浅いので、テッドに対するアスの口調が穏やかです。



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