ロスマリヌス




「元気でやっているようで安心したぞ。スノウ」
家の中を見渡して、ケネスがほっとしたように言った。
「ケネスのお陰だよ。家捜しの時は本当に世話になった。ありがとう」
湯気の立つカップをケネスの前に置き、向かいに腰を下ろす。
ケネスの表情が柔らかく崩れた。
「契約以来、中々様子を見に来れなくてすまなかった。気にはなっていたんだが…」
「新しい騎士団が設立し、今が一番忙しい時だろう。家探しを手伝ってくれただけで充分だよ。副団長の君が保証人になってくれなかったら、僕に家を貸してくれるような奇特な大家はいなかっただろう」
「コネは使える時は使った方がいい。最も、俺程度じゃ使えるコネも限られているが」
そう言って、ケネスは肩を竦めて笑った。

クールークとの戦いが終わった後、オベル船に集った仲間たちは、それぞれの向かうべく地へと散って行った。
故郷に帰る者、新たな新天地を目指す者、群島に留まる者…群島諸国連合の代表となったオベル王国には、リノ王の勧誘で結構な人数が残ったようだ。
僕も誘われたが、丁重に断った。
――俺の国は学のある奴が少なくてな。文官が絶対的に足りねぇんだ。船でお前がやっていたような雑務を、引き受けてくれると有り難いんだが。
リノ王は、僕がラズリルの民にどう思われているかを知っている。
リノ王の心遣いは嬉しかったし、求められオベルで働く方が幸せなのは判っていたけれど、どうしてもラズリル以外の地に住む気にはなれなかった。
騎士団団長となって、名実共にラズリルを守る領主になる夢は潰えたが、尽くす先は故郷のラズリルでありたい。
騎士団の友人達に心配されながらも、僕はラズリルに戻った。
ケネスやカタリナ団長の口利きで、かろうじてラズリルの民に受け入れて貰えたような微妙な立場で、家族も使用人も無く一人で生きていこうだなんて、かつての僕では考えられなかったことだ。
あの戦いで、愚かな僕も少しは成長できたのだと思いたい。
「ところでフィンガーフートの屋敷を手放してしまって、本当に良かったのか?せっかくアスがお前の為に残しておいたのに」
「一人で住むには、あの家は広すぎるからね。この家位が丁度いいんだ」
海を臨む丘の上にぽつりと立つ、石造りの小さな一軒家。ここが新しい僕の城だ。町からは少し遠いが、その分家賃が安く、周りも静かだ。
流石に町中に住む度胸はなく、海が見えるを重視して家を探した。この家の窓からはラズリルの海が見渡せる。
あの海の向こうには、オベルがある。
「アスには感謝しているよ。土地と家財道具を売ったお金で、ラズリルの人たちに僅かでも謝罪が出来る。こんなことで僕たち親子の罪が許されるとは思わないけど…。預けたお金は、ラズリルの為に役立ててくれ」
「ああ、騎士団で検討して、一番いい使い道を考えさせてもらう」
そこでケネスは一旦言葉を切り、ややあって口を開いた。
「俺とタルとジュエルは、明日のオベル行きの定期船に乗る。ナ・ナルにいるポーラも向かっていることだろう。もう一度言う。スノウも一緒に行かないか」
「僕は遠慮するって言ったはずだよ」
「どうしてだ。アスはあんなにお前の事を気にかけていた。お前だってそうだろう。罰の紋章を使い、呼吸の止まったあいつを誰もが死んだものと諦めた時、お前だけがあいつの生還を信じた」
――彼は生きている。必ず目覚める。
――僕は罰の紋章に命を削りつくされた人間の死に様を知っています。グレン団長は、黒い塵になって跡形もなく消えました。でも彼の体は消えていない。彼は死んでいない!
――もしどうしても彼の体を海に流すと言うのなら、水と食糧、その他必要な物を船に積み込んでください。目が覚めれば、彼は必ず帰ってきます。
「そしてお前の言葉通り、アスは還って来た。リノ王からあいつの生存報告を受けた時、俺はまさかと思った。あの戦いが終わってもう一ヶ月だぞ。奇跡だと沸き返る俺たちを他所に、お前は他人事のように平然と日常を過ごしていた。オベルに向かおうと言う俺たちの再三の誘いにも頷かない。何故だ。あいつに会いたくないのか!」
「会いたいよ」
いつになく声を荒げたケネスを、僕は静かに見返した。
「だけど僕が行っても、彼は会ってはくれないかもしれない。僕が彼に会おうとしないようにね」
ケネスが苦しそうに眉を寄せた。
「どうしてそんな風に思う…。あいつがお前に会いたがらないなんて、そんな事ある筈ないじゃないか。あいつが帰って来て、誰よりも嬉しいのはお前じゃないのか。お前達は本当の親友になったんだろう?」
「本当の親友だからこそ……判るんだよ。今会えば、僕たちは再び愚行を繰り返す。戦いの中で育てた新たな関係は、まだ不安定なんだ。艦長と仲間という立場を離れれば、僕たちは自然昔に還ろうとしてしまうだろう。僕は彼を頼り、彼は僕に尽くし…それでは何も変わらない」
「スノウ…」
「僕たちにはもう少し時間が必要なんだ。距離をおいて、互いに考える時間がね。大丈夫、そんなに遠い話じゃないよ。来たるべき時が来れば、必ず僕たちは再会する。だから…今は君たちに委ねるよ。僕の代わりに、彼を抱きしめに行って欲しい。態度には出さないだろうけど、きっと寂しがっていると思うから」
「そこまであいつの事を判っているなら……いや、よそう。俺にはこれ以上口出しする権利はないからな」
緩く首を振り、ケネスは顔を上げた。
「それともう一つ。屋敷の解体が一週間後に決まった」
「――そう」
「後悔はしないか?」 
ケネスの青い瞳に、労わりが浮かんだ。
「今ならまだ間に合う。屋敷ごと購入したいという貴族からの申し込みが、何件かあったと聞いている。荒れてもいない家を壊して本当にいいのか?」
「いいんだ。もうあの場所に領主の屋敷があってはいけない。本当は屋敷ごと売却の方が、いい値が付いたんだけどね。これは僕の我侭だ。屋敷との別れは済ませてきた。未練は無いよ」
揺るがない僕の言葉に、「お前が決めたならもう何も言うまい」と言い残して、ケネスは騎士団の館へと戻って行った。
その背が見えなくなるまで見送って、掲げた手を下ろし、彼の前では言えなかった言葉を口にする。
「――逆だよ、ケネス。荒れていないから、あまりにも昔のまますぎるから、壊すんだ」

 

 

 

 キィ
錆付いて鈍い音を立てる門をそっと押し開く。
放置されてまだ半年ちょっとだと言うのに、人が住まなくなった家は驚くほど傷みが早い。
庭の草は鬱蒼と生い茂り、荒んだ光景を晒している。親子二代に渡って丹念にこの庭を整えてくれていた庭師たちが見たら、さぞや嘆くだろう光景だ。
毎年美しい花を咲かせていた庭の中心だった薔薇の木は、無残に枯れていた。乾燥に弱いミニ薔薇だ。人の手を失えば生きられない。
スノーメイアンディナ。花びらの尖った剣弁咲きで、中心部に向かって白からアイボリーへの色の変化が美しい、直径五センチほどの小さな花だ。
生前、母はこの薔薇をとても愛していたのだと言う。僕の名前もこの薔薇から取ったらしい。母は女の子が生まれたらディナと名づけるつもりだったと、乳母が教えてくれた。
僕を産んですぐ亡くなった、肖像画でしか知らない母の形見。  
その形見も、思い出の詰まった屋敷も、もう戻っては来ない。
石畳を歩いて、屋敷へと向かう。玄関を除く全ての窓と扉は、外側から板で厳重に打ちつけてあった。ラズリルをクールークから奪回したオベル船艦長の命により、主の去ったフィンガーフートの屋敷は即座に完全封鎖されたとの事だった。
お陰で屋敷は荒らされずに済んだ。彼の迅速な指示が無ければ、今頃はめぼしい家具は運び出され、廃墟の体を晒していただろう。
それか僕達親子への怒りの感情を持て余した民衆の手によって、破壊されていてもおかしくはなかった、彼が護ってくれた屋敷。
すぅと軽く一息吸い込んで、玄関の鍵穴に鍵を差し込む。
実際に鍵を使うのは、初めてに近かった。屋敷にはいつも誰かしらの使用人がいて、鍵をかける必要がなかった。呼び鈴を鳴らせば、出迎えてくれる人がいた。
横に回すと、カチャリと乾いた音がして開錠した。
――鍵を持つ者以外、あの屋敷には近づけないようにと命じてある。もし騎士団の見張りがいたら、この鍵を見せるといい。最も、スノウが家に帰るのを止める権利なんて誰にも無いけどね。
船にいた頃、そう言ってアスは僕に屋敷の鍵を握らせた。
拒否しなければいけない立場である事は判っていた。ラズリルを護るためにはクールークの傘下に入るしかなかったのだと、どう言い訳しようとも、ラズリルの民が僕ら領主親子を憎んだ事実には変わりがない。人の上に立つ者として、民衆の心を掴めていなかった。信用を得ることができなかった。それが僕と父の罪。
ラズリルを追放された僕に、財産が保証されるのは間違っている。
だが、僕は掌に落とされた鍵を握り締めた。
間違っていると判っていて、彼の好意に甘えた。
財産なんてどうでも良かった。取り戻したかったのは思い出。父が居て、優しい使用人たちに囲まれて、彼と二人、輝かしい未来を語り合ったこの家に残された、懐かしい記憶。
重い扉をゆっくりと引くと、閉じ込められ饐えた空気が溢れ出た。空気の澱む家の中へ、僕は足を踏み入れた。


ほぼ密閉状態だったお陰で、屋敷の中はそれほど埃が積もってはいなかった。
窓に打ち付けられた板の間から差し込む僅かな光を頼りに、奥へと進んでいく。十九年間過ごした家だ。明かりなどなくても、壁にぶつかる事はない。
広間を通り過ぎ、二階の自室へと向かう。
急な封鎖だったにも拘らず、家の中に慌しさの名残はなく、いつものように綺麗に片付いていた。メイド頭である乳母が、きちんと指示をして行ったのだろう。いつ誰が来ても見苦しくないように。自分の仕事に誇りを持つ、彼女らしいと思った。
僕の部屋も、出て行った時そのままだった。
ズキンと胸を刺した痛みを飲み込んで、クローゼットから鞄を取り出し、手に持てる程度の私物と、母の部屋からいくつか宝石を選んで詰めた。
本来なら全ての私財をラズリルに寄付するべきだが、今の僕には収入がない。当面の生活費と、新たな基盤作りの準備分だけ許して貰う事にした。
人気のないガランとした薄暗い屋敷内は、やけに広く感じる。足音や扉を開ける音が反響する。
もう、誰もいないのだ。
大好きだった乳母、人のいい庭師親子、小さな頃から慣れ親しんだ使用人たち、父上――
父の行方は知らない。会いたい気持ちはあるけれど、どこかで元気で暮らしてくれていればそれでいい。父よりも僕はラズリルを選んだ。父が見捨てたこの地で、これからも生きていく。
バラバラになった使用人たちも、今はどこかの屋敷で働いていることだろう。その内町中で偶然会えるかもしれない。
だけど、もう二度とあの光景は戻ってこない。
階下へ下りて広間を通り過ぎ、調理場を覗き込む。今は塞いであるが、調理場からは裏庭へ出られるようになっている。子供の頃のアスは、裏庭の井戸から水を汲んで屋敷内の各水周りに運ぶ仕事をしていて、大きくなってからは薪割りや庭の手入れを手伝っていた。
だから屋敷の中でアスを探す時は、まずここに顔を出していた。
――あ、スノウ。
――君、レモンをそのまま食べてるのかい……?
――うん。
 それがどうかした?と首を傾げた幼い頃のアスに、子供の僕の幻影が話しかける。
――酸っぱくないの?
――酸っぱいけど、美味しいから。スノウもレモン好きなんだよね。食べる?
無邪気に突き出されたレモンの果実に、幼い僕が困惑している。
「レモンは好きだけど、君みたいに生では食べられないよ」
あの時はプライドが邪魔をして言えなかった言葉を、笑み混じりに洩らす。
やがて子供達の幻影は手を取りあい、僕の足元を通り過ぎ、打ち付けられた扉を物ともせずに裏庭へ飛び出して行った。
 きゃはははは……
 あはははは……
鈴の転がるような、楽しげな歓声。
彼らの後を追って玄関から裏庭に回ると、訓練生の制服を着たアスが、同じく鎧を身に付けた僕と剣の稽古をしていた。
よくこうして彼を剣の稽古につき合わせたものだ。
金属同士がぶつかり合い、耳障りな音を立てる。アスは防戦一方で、僕の打ち下ろす剣を受け止めている。
――少しは君も反撃しなきゃ。練習にならないよっ。
頷いて、アスが剣を横に滑らせる。力を逃がされ、僕の腰がぐらついた。すかさず彼が踏み込む足に力を込める。
 キンっ…
土に足を取られたのか、振り下ろす剣が一瞬遅れた。その間に僕は体勢を立て直し、アスの剣を力強く受け止めた。そのまま渾身の力で上へとなぎ払う。
アスの手を離れた剣が空に舞い、少し離れた所に転がった。
――惜しかったね、もう少しだったのに。
――うん。
自慢げに胸を反らす僕の頭を叩いてやりたくなった。
今のはどう見たって、アスが手を抜いてくれたんじゃないか。
あの頃の僕はそれに気づきもしないで、アス相手に剣の講義なんて始めてしまっている。何て愚かなのか。
彼らの横を通り過ぎた、水の入った重いバケツを運ぶ幼いアスが空を仰いだ。二階から顔を覗かせる僕に向かって手を振る。
次の瞬間、二人は花壇の前に座り込んで白い薔薇を眺めていた。
庭師の父親が、坊ちゃまたちは本当に仲がいいんですねぇと、好々爺の笑みを浮かべる。小さな僕が大きく頷く。
――だって僕たちは、兄弟で友達だもの!
――おやおや、じゃあ坊ちゃまたちは親友って訳だ。
――しんゆう?
――何でも話し合える、一番大事な友達ってことですよ。
――そうなんだ。うん、僕たちは親友だよ!
――スノウ…
嬉しそうにはにかむアスの手を引いて、幼い僕が再び駆け出す。  
幻の背に向かって、小さく呟いた。
「ごめんね、折角アスが守ってくれた屋敷だけど、ここは取り壊す事にしたよ。この家を他人に渡したくないんだ」
愛用した家具、何年も開いてなかった本、どこかのお土産で貰った置物、採光の向きが悪く使い勝手を嘆いていた部屋。当時は気にも留めなかったそれらが、今になって堪らなくいとおしい。懐かしい。
僕はこんなにも、この家を愛していた。
だから破壊する。もう誰も、この家で思い出を重ねられないように。
思い出を、僕たちだけのものにするために。

 

 

 

「仕事決まったんだってね、おめでとう、スノウ!」
相変わらずの元気一杯の声で叫んだ後、ジュエルは綺麗にラッピングされた瓶をテーブルの上に乗せた。
「これお祝い。スノウが生まれた年のワインだよ」
「凄い。カナカン産の赤ワインじゃないか。手に入れるの大変だっただろう。ありがとう、ジュエル」
「えへ、ちょっと奮発しちゃった」
ジュエルが照れくさそうに頭をかく。
「心配してたんだよ。折角カタリナさんが、騎士団への復帰は無理でも学科の講師としてならどうかって言ってくれたのに、断っちゃうんだもん。ラズリルにスノウができるような仕事なんて、そうそうないのに」
「手厳しいな」
テーブルに頬杖をついて座るジュエルを、苦笑交じりに見返した。
歯に衣着せぬジュエルの言葉は辛辣だが、的を射ている。
ずっと勉強一筋で来た僕は、一般的な事に対して恥ずかしいほど無知だった。小さな子供でも当たり前に知っている事を知らない。自分の役立たずっぷりが情けなかった。
「カタリナ団長の申し出はありがたかったけど、新しくなったとはいえ、騎士団に戻れるほど厚顔ではないよ。訓練生の中には、僕を恨んでいる者もいるだろう。それに僕にとっても、あそこは辛い記憶が残る場所だからね」
「そうだね…」
ジュエルの表情が翳った。ジュエルは実際に、村人たちの僕に対する声を聞いている筈だ。優しい彼女は、それを決して僕には告げないけれど。
「ところで仕事って何なの?」
明るい声が、やや暗くなってしまった空気を変えた。
彼女の笑顔は太陽のようだと思う。この笑顔に救われたのも、一度や二度じゃない。
「装飾品のデザインと細工をやっているんだ。船に居た頃、ガレスさんや人魚たちの工房の手伝いがてら、色々教えて貰ってね。簡単なアクセサリーを作ったりしていたんだ。それで生活費にと屋敷から持ち出した宝石類と一緒に僕が作ったアクセサリーを道具屋に見せたら、デザイン画を描いてみろって言われてね。細工の腕はまだまだだけど、デザインの方は契約して貰えることになったんだ」
「デザイナーなんて凄いじゃない!スノウって昔からセンス良かったもんね。いいなぁ、いつかあたしに似合うアクセサリーを作ってくれる?」
彼女にしては珍しい控えめな問いかけに、僕は深く考えることなく頷いた。
「いいよ。何がいい?ペンダント?イヤリング?」
「――指輪がいいな。シンプルな奴。いつも付けていられるように」
「判った。何か石もつけようか。ジュエルは赤が似合うから、ルビーなんてどうかな」
「ううん、石は要らない。急がないから、スノウの作ったアクセサリーが、道具屋の目立つ所に置いてもらえるようになった頃ちょうだい」
ね、と悪戯っぽく笑った後、ジュエルは唇を引き締め、机の上に置いた手で拳を作って俯いた。
「あのね………あたし、ナ・ナルに帰る事になったんだ」
「え……」
「父親があんまり体調良くないんだって…それで母親から、何度も帰って来て欲しいって言われてて。島長にムカついて飛び出してきたけど、今はアクセルが跡を継いで、大分変わったみたいだし、向こうに行けば、エルフの村に戻ったポーラにも会えるし……」
微かに声を震わせ、視線を合わさず語るジュエルは、まるで自分に言い聞かせているようだった。
「だから…離れ離れになっちゃうけど…あたしのこと、忘れないでね」
「何を言ってるんだい、ジュエル。君の事を忘れるわけないだろう。手紙を書くよ。君もナ・ナルでのことを、一杯書いて送ってくれ」
「スノウ…っ」
ジュエルの顔がくしゃりと歪んだ。
「うん、送る。いっぱい書くから、ちゃんと返事ちょうだいね」
「ああ、必ず出すよ。そして次に再会する時には、指輪を渡せるよう頑張って腕も磨いておくから」
「……うん」 
あの時の、何故かほんのり赤く染まった彼女の頬を思い出すと、僕の顔まで熱くなって来るのはどうしてだろう。

 

 

「よぉ、スノウ!今日はいいマグロが手に入ったんで、少し持って来たぜ。四日前に釣ったものだから、そろそろ旨味が出て食べ頃だぞ」 
「こんなに一杯…いつもありがとう、タル」
手に乗せられた包みはずっしりと重い。
タルは騎士団には戻らず、ラズリルでシラミネさんと漁師をやっている。俺は剣を振るうよりこういう生活の方が合ってたみたいだと、日に焼けた顔を綻ばせたタルは、確かに騎士団にいた頃よりも生き生きしている。
タルは町から遠いこんな辺鄙な場所にある我が家への、数少ない訪問者だ。仕事が自宅作業な為、下手すれば一週間人と顔を合わさない僕を心配して、漁の合間に立ち寄って魚を届けてくれる。
受け取った包みを冷暗所にしまって、僕はタルを振り返った。
「食事をしていくだろう?夕食ができるまでの間、のんびりしていてくれ」
「おう。お言葉に甘えてちょっと休ませて貰うな。実は昼過ぎにラズリルに戻ったばっかりでさ。獲った魚を新鮮なうちに市場に持って行かなきゃならねぇもんだから、休み無しに駆けずり回って、もうくたくたなんだ」
窓際の揺り椅子にどっかりと腰を下ろしたタルを横目に、僕は夕食の準備に取り掛かった。 
「疲れているなら僕のベッドを使っていいよ」
「いや、この椅子で充分だぜ。揺れ具合が船の上にいるみたいで落ち着く」
「そんなものかい?僕は陸の上の方が落ち着くけどね。船は天気がいい時はいいけど、時化の時の揺れが苦手で」
「おいおい、ガイエン海上騎士団の団長まで務めた男の言葉とは思えないぜ」
「それは嫌味かい?タル…」
返事の代わりに上がった笑い声を、軋んだ音が追いかけ始めた。キィ…キィ…と一定のリズムで椅子が揺れる。
確かに、海の揺れに似ているかもしれない。
今の僕には遥か遠いものになった、波のゆりかご。
「にしてもスノウの手料理が食える日が来るなんて、騎士団にいた頃は夢にも思わなかったよなあ。スノウが一人暮らしをしてるって言うだけでびっくりなのによ」
「必要に迫られれば、人間何でもできるものだよ。やってみたら料理って結構楽しいよ。少しずつレパートリーも増えてきたんだ。町に出た時に騎士団の館に寄って、フンギに色々教えて貰っててね」
「へえ〜。アスが知ったら感動するだろうな。結局あれから会ってないんだろ?連絡は取ってるのか」
「……いや、取ってないよ」
玉ねぎの皮を剥く手が一瞬止まり、だけどすぐにまた動き出す。
「僕も出さないし、彼からも手紙は来ない。元気でやってる事は、風の噂で聞いている。チープーも頑張っているみたいだね」
「――全く揃いも揃って、どうしてお前らはそんな平然としてやがるんだよ。おかしいだろ。あれだけの事があってようやく仲直りしたんだから、普通はもっとマメに連絡取り合うもんだろうが。アスも同じ事言いやがった。スノウが元気ならそれでいいって…そうじゃねぇだろうが!」
「タル」
振り返ると、タルは半身を椅子から乗り出してこちらを睨みつけていた。
「どうしてなんだよ。俺はお前たちが仲直りしてくれて、凄く嬉しかったんだぜ。またお前とあいつが並んでる姿が見れたって……前みたいな主人と小間使いじゃなくて、本当の友達になれたんだって…。あれは戦いの間だけの、嘘だったのかよ!」
僅かに潤む瞳に浮かぶ感情は怒りじゃない。
苛立ち、もどかしさ、悲しみ……僕たちを心配してくれる優しい心だ。
「タル…僕たちの為に泣いてくれるんだね」
調理の手を止め、タルの元に近づく。
「泣いてなんかいねぇよ!」
前に向き直ってぐいっと乱暴に顔を拭うタルの、背後に立った。
「君の気持ちはとても嬉しい。君にもケネスにも感謝している。ナ・ナルにいるジュエルとポーラも、手紙の中でいつも僕たちの事を心配してくれている。ありがとう」
「そう思うんだったら、アスのとこに行ってやれよ!互いに意地張ってないでよ!」
「意地になっている訳じゃないよ。僕はね、待っているんだ。時が熟すのを……彼が、自分の意思でラズリルに来るのを。そしてその時はそう遠くないはずだと……信じてる」

 


 
今日はナ・ナル島からの定期船が着く日だ。
午前中に道具屋に新作のデザインを届けて僅かな賃金を貰い、港の郵便局へと向かう。ジュエルやポーラから手紙が来ているのなら、自宅に配達されるのを待つよりここで受け取った方が早い。
窓口で訪ねて少し待つと、太った局員が一枚の封筒を手渡してくれた。ポーラからだ。
昼食に入ったレストランで注文をし、料理が出てくるまでの間に封を開ける。
『元気ですか、スノウ。ポーラです』
手紙を開くと、見慣れた文字が飛び込んできた。
『この前、ジュエルとオベルに行きました。リノ王から、時々手伝いに来て欲しいと言われています』
「そうだろうね…リノ王も大変だ」
オベル船の時の仲間で、腕に自信のある群島に残った者のうち、何割かはオベル王国軍に、何割かはラズリル海上騎士団に在籍しているが、どちらも人手不足だ。群島が安定するには、まだまだ時間がかかるだろう。
『帰りは足を伸ばして無人島に寄りました。二人とも元気でした。少しぐうたらし過ぎだと思います。野生的な生活をしている所為か、アスのハチマキがボロボロになっていました。
椰子の実が美味しかったです。それではまた』
ポーラの手紙はいつも短い。
だが温かい。読み終えた手紙を折り、封筒に戻した所で料理が運ばれて来た。
食事を終え、買い物をしながら帰途につく。町に来るのは週に一度なので、必要な物はこの時に買い溜めしている。
「ハチマキか……」
記憶にある限り、アスがあの赤いハチマキ以外を付けているのを見たことがない。傷んでくると、同じものを購入していたらしい。
以前、たまには違う色も付けてみたらと言った時、アスは少し寂しそうな顔をして、これがいいんだと答えた。
彼の行動範囲を考えても、この辺りで売っているはずだ。
僕は食料品の購入を後回しにし、小物を扱っている店を一軒一軒覗いていった。
「――あった」
数軒目で、目指すものは見つかった。棚の上に残っていた最後の一本だった。迷わず手に取って、店主の元へ持っていく。
「これを下さい」
「はいよ。……おや、あんたは」
新聞を読んでいた店主が、品物から僕へと視線を移して目を丸くした。続く非難の視線を予感して、体が緊張に強張る。
だが中年の店主は、微かに顔を綻ばせた。
「今年は久しぶりにスノウ坊ちゃまがプレゼントですかい?あの子も喜ぶでしょう。って、もうあの子なんて言っちゃいけねぇな。ラズリルを救ってくれた、英雄なんだから」
店主は僕が「領主の息子」だった頃のように、敬愛を込めて坊ちゃまと呼んだ。あんなことがあっても、僕に好意的な人も少なからず居てくれる。この店主もその一人のようだ。
「坊ちゃまは止めてください。今の僕はただの一市民です」
「そうでしたねえ。つい昔の癖で。じゃあスノウさんとお呼びしましょう」
店主はカウンターに置かれたハチマキを手に取ると、僕が言う前に包装紙で包み始めた。慌てて代金を机の上に置く。
「あの、どうしてこれがプレゼントだと?それに久しぶりにってどういう意味ですか」
「おや、覚えてないんですかい。このハチマキを最初にあの子にやったのは、スノウさんじゃないですか」
「僕が?」
首を傾げた僕に、店主は手を止めずに昔語りを始めた。
あの子扱いはまずいといいつつ、変える気はないようだ。
「あれはあの子がお屋敷に引き取られてすぐ位でしたかねぇ。スノウさんがあの子の手を引いてうちの店にやって来て、これと同じハチマキを買って、あの子の額に巻いてあげたんですよ。これなら両手が塞がっていても、汗が目に入らないからって言ってね。以来毎年同じ日に、あの子は小遣いを貯めてこのハチマキを買いに来ていました。毎日付けているから、せいぜい一年程度しか保たないんですね。ハチマキの柄は大抵一点ものなんですが、『他のハチマキじゃ駄目なんだ。スノウが選んでくれたこれでなきゃ』と言うあの子のいじらしい姿に心打たれましてね。職人に頼んで、毎年一本この柄のハチマキを作って貰ってるんですよ」
「覚えてない……」
きっと幼い僕には些細な出来事だったのだろう。思いつきでアスをここに連れてきて、ハチマキをプレゼントして、そうしてすぐに忘れた。 
なのに彼は、その僕の気まぐれをずっと大事にしてくれていた。
包み終わったハチマキを袋に入れて、店主は僕へと差し出した。
「じゃあ素晴らしい偶然でしたね。あの子がこれを買いに来る日は、七日後です。今は無人島にいるという話でしたから、今年は来ないかもと思ってたんですが、あの戦の最中にも買いに来た事を考えて、一応入荷しておいて良かった」
「ありがとうございます…また来年もよろしくお願いします!」
袋を受け取って、僕は急いで港へと引き返した。郵便局に駆け込み、無人島のチープー商会宛で荷物を預ける。
悩んだけれど、差出人名は書かないことにした。ラズリルからの無記名の荷で中身がこれなら、きっとアスは気づいてくれるだろう。いっそカードも手紙も無い方が、気持ちが伝わるに違いない。
一日おきに出ている無人島を経由するオベルへの定期船は、今日はもう出航している。明後日の船に積み込まれたとして、ラズリルから無人島までは五日。丁度その日にアスの手元に届く。
今日ポーラからの手紙が届いた事も、僕が家に帰る前に手紙を読んだことも、まるで運命のようだ。
「君のお陰だよ、ポーラ」
港に停泊しているナ・ナル島からの定期船を見上げて微笑む。彼女の手紙が、素晴らしい事実を教えてくれた。
今度ポーラに手紙を出す時は、お礼の品もつけなければと心に決めた。

 

 


タルにせっつかれながらも、僕はそれからもラズリルから出る事はなかった。
ようやく細工の腕の方も認められ、ぽつぽつと依頼が来るようになったのと、ボランティアで始めた裏通りのふさふさ退治があって、日常が忙しかったというのもある。
だけど結局の所、僕は僕の方から迎えに行くのではなく、アスに戻ってきて欲しかったのだ。
ラズリルは、彼にとって良い思い出ばかりではないだろう。無実の罪で彼を流刑にした騎士団、穢れを流す海からやってきた子供という事で、黄泉返りと忌み嫌う大人たちの冷たい視線。フィンガーフート家も、居心地のいい場所だったとは思わない。
だけどラズリルを追放された僕がこの地に戻って来たように、アスも僕と幼い時を共に過ごしたこのラズリルに、彼自身の意思で帰ってきて欲しかった。
そしてその願いは、群島での戦いから一年半後、実現した。
新たな戦いと共に。

 

「久しぶり、元気だったかい?」
「うん」
キリル君たちの後ろを歩きながら、さり気なくアスの側に近寄って話かける。
前を行く皆との距離が先ほどより開いたように思うのは、気のせいではないだろう。
きっとアスも、僕と同じ事を考えている。
「スノウも元気そうだね」
「ああ、最初は大変だったけど、何とかやっているよ」
隣を歩くアスの顔は、記憶より低い位置にある。それは僕の背が伸びた所為で、彼の身長が二年前から変わらないという事。
罰の紋章が呪いから解放され、宿主の寿命を削ることなく、真の紋章の恩恵である不老をもたらしている証。
決戦前夜、彼の前に現れたという謎の女性の言葉は真実だった。
もう紋章は、アスの命を脅かさない。
僕が彼の死を完全否定できたのは、エルイール要塞でその話を聞いていたからだ。
――俺、もしかしたら死なずに済むかもしれない。
俯きがちに歩きながらぽつりと洩らした声には、弾むような期待と信じきれない不安が入り混じっていた。
本当かい?!と思わず問い返した僕に、アスはしっと指で唇を塞ぐ仕草をして、
――確信は持てないから、皆には黙っていて欲しい。スノウには我慢しきれずに話したけど。
前を歩く二人の様子を伺いながら、声を落として言った。
謎の女性が告げた言葉は、どれだけ僕たちの心を勇気付けてくれたか判らない。本隊での出撃は、危険な任務の上に罰の紋章の次の呪いを受けるリスクをも背負う。
それでもアスと行くと決めたから。
不安要素が無くなった僕達に、最早迷いはなかった。
あんなに彼を近く感じた事はない。背を向けていても、彼の動きが判る。呼吸を感じる。体を駆け巡る充足感に、ああ、これが本当の親友攻撃だったのだと、叫びだしたい気分だった。
大丈夫だと信じてはいても、エルイール要塞に向けて左手を掲げたアスがゆっくりと崩れ落ちるのを間近で見た時は、背筋が凍りついた。呼吸の止まった体を抱き起こし揺さぶるリノ王を、瞬きもせずに凝視して、
――彼は生きています。
込み上げる不安をねじ伏せ、自分に言い聞かせるように断言した。
一ヵ月後、リノ王からアスを発見したと連絡を受けた時の、全身の力が抜けて立てなくなるほどの安堵感は忘れない。
「ずっとラズリルに来なかったこと…怒ってる?」
躊躇いがちに、上目遣いでアスが見上げて来た。それが子供の頃の、僕の機嫌を伺う時の目と同じだったものだから、思わず笑ってしまった。
「それを言うなら、僕がケネスたちと一緒にオベルに会いに行かなかった事を怒ってるかい?」
「――ううん。きっと来てくれても、どんな顔をして会えばいいか判らなくて困ったと思う」
「僕もだよ」
僕の言葉に、アスの表情から緊張が抜けてほっと緩んだ。
「怖かったんだ……戦いが終わったら、宿星から解放されたら、スノウは俺から離れてしまうんじゃないかって」
「馬鹿だね。そんな心配は生涯しなくていいよ。僕が君の所に行かなかったのは、自分に自信が持てなかったからだ。胸を張って君の前に立てるようになるまでは、我慢しようと決めた。最近は、忙しくなって身動き取れなかったというのもあるけど。――毎日海を眺めながら、君の事を考えていたよ。元気にしているだろうか、体を壊してやしないだろうかって。そういえば、昨年のハチマキはちゃんとその日に届いたかい?」
「うん。チープーに荷物を渡された時はびっくりしたよ。中を見て、すぐスノウだと判った。凄く嬉しかった…。ありがとう」
「じゃあちょっと早いけど、これが今年の分」
そう言って、僕は肌身離さず持っていた包みを懐から取り出し、ぽかんとしているアスの手を取って掌に乗せた。
「いつ会えてもいいように、ずっと持ち歩いていたんだ。手渡せてよかった。これからは毎年僕がプレゼントするよ。初めてこれを贈った時のようにね」
「スノウ…っ!」
弾かれたようにアスが顔を上げる。
「お帰り、アス。離れていた一年半分、君に話したい事も聞きたい事もたくさんあるんだ」
くしゃくしゃと顔を歪めたアスに、笑って手を差し出す。
「僕も…スノウと一杯話したい。ただいま、スノウ…」
重なった手を、互いに強く握り締める。
アスの一人称が、「俺」から「僕」に変わった。元々は「僕」だったのだが、リノ王に「リーダーが僕じゃ様にならねえな」と言われて変えたのだそうだ。
今この瞬間に元に戻った自覚は、恐らく本人にはないだろう。
「俺」がリーダーとしての彼なら、「僕」は本来の彼自身。
僕たちはようやく帰ってきたのだ。

 




スノウアンソロジー「SNOWE3」より再録。
ロスマリヌスとはローズマリーの事で、ラテン語で「海辺のしずく」です。
ローズマリーの花言葉は、想い出を抱いて、私を思って。


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