Shining ray



明かりの落とされた深夜。
いつものように夜の船内散策をしていたテッドは、階段の途中でふと足を止めた。
普段は耳に届かない、波が船に打ちつける音や不夜城ブリッジでの操舵者たちの話し声が、昼間の喧噪が嘘のように静まり返った船内に大きく響く。
故に、それを確認する事はできなかった。
あと一段でも階段を登れば、床板の軋みがテッドの存在を相手に知らせてしまうだろう。
居住区のない、消灯後は人気が皆無となる第二甲板に、静かに佇む横顔。
何故あんな―――。




「テッドくん、こっちこっち。席空いてるよ」
トレイを持つテッドの姿を目ざとく発見したアルドが、大きく手を振る。
夕食のピークを過ぎた食堂はそれでもまだ多くの人で賑わっていて、空席は数える程しかない。
ざっとフロアを見渡し溜息を吐くと、テッドはアルドの隣に腰を下ろした。時折楽しげな歓声が上がる若い女性のテーブルや、ナルシーが優雅にお茶を飲む席、ダリオが一方的に喋っているだけに聞こえるが何気に意思の疎通が出来ているらしいバーサーカーコンビの隣しか空いてないとなれば仕方ない。
席に着くなり黙々と食事を始めたテッドを、アルドは微笑ましげに見つめている。
「そっか。あんたがテッドか」
名を呼ばれて顔を上げると、正面に座っていた人のよさそうな青年と目が合った。
「ようやくお目にかかれたな。俺はタル。よろしくな」
「初めまして、テッド。私はポーラです」
続いて青年の隣のエルフの少女が名乗る。
彼女の顔には見覚えがあった。人間嫌いの筈のエルフが人々と普通に会話している姿に驚き、印象に残っていたのだ。
そして二人の名前。
(タルとポーラ?)
――俺がラズリルを追放された時、タルとポーラがこっそり流刑船に乗り込んで付いて来てくれたんだ。俺の無実を信じて。……嬉しかった。
無口で表情の変化の乏しいアスが、口元を僅かに緩ませて自分から語った友人。
アスが乗せられた船は、オールもなければ海図も磁石もない、ただ潮流と風に任せて海を漂流する流刑船だったという。
罪人の船に乗り込んだ二人も、当然騎士団を除名となる。ようやく手にした正騎士の地位を捨て、命の危険も顧みず友に付いて行った二人の熱血ぶりに呆れつつも、そんな友を持つアスを密かに羨ましいと思ったものだ。
(そうか、こいつらが……)
「俺もポーラも、アスと同じく元ガイエン騎士団員だ。俺、ずっとあんたと話してみたいと思ってたんだ。あんた、凄え強い紋章宿してるんだってな。人嫌いでパーティ参加した時しか姿を見れねえってんで、色々憶測が飛び交ってたんだよ。一時結構話題になったんだぜ。もしかしてあいつのも真の紋章なんじゃねぇの、とかさ」
ごくり。
口に入っていた食べ物が、噛み砕かれないまま食道を通過した。 
「だけど伝説の真の紋章が、一箇所に二つも揃うわけないもんな。アスの奴も否定してたしよ。ここら辺じゃ見かけねぇけど、大陸の方ではメジャーな紋章なんだって?世の中は広いよなー」
「…………」
アスは仲間たちにはそんな風に説明しているのか。
ソウルイーターの事は、極一部の人間にしか話していない。只でさえ罰の紋章という厄介な物を抱え込んでいる船だ。ここに更に呪いの紋章が加わるのは乗員の精神衛生上宜しくないし、何よりテッド自身が目立ちたくない。
紋章の事を知る者は、リーダーであるアスとオベル国王、軍師、そしてこれ以上近寄らないよう牽制で話したアルドだけだ。(効果はなかったようだが)
「ま、何にせよ強い奴が仲間になってくれるのは大歓迎だ。クールークと戦うには少しでも多くの戦力が欲しいしな。あー、もうすぐ決戦かと思うと腕が鳴るぜ!アスはああ見えて無茶なとこがあるからフォローよろしくな。あいつ、大事な奴の為だったら平気で敵前に自分の身晒しちまうからよ」
「何で俺が」
不満そうに眉を寄せたテッドに、タルは 
「あんたの強さなら本隊入りは決定だろ。悔しいけど俺のレベルじゃ、足手まといになるだけだからな。その代わり、船には指一本触れさせないぜ!……あのさ、成り行きでリーダーなんてやってるけど、アスは本当は人見知りする性質なんだ。慣れない奴と一緒にいるよりは、一人の方がいいタイプでさ。俺達と話すようになったのも、騎士団に入団してかなり経った頃だったしな。なのにあんたの事は最初から連れまわしてて、今やアスに次ぐレベルだろ。こりゃアスと相当ウマが合ったんだろうと思ってたんだ。どうやらあんたも無口な方みたいだし」
「……判ってるなら俺に構うな」
テッドの出撃率が高いのは、攻撃力の高さと回復魔法、全体攻撃を可能とする協力攻撃が買われてなのは勿論だが、ソウルイーターの存在が大きい。
薄暗い船室で日がな一日を悶々と過ごすよりも、第一線で絶えず緊張の場に身を置き心身を酷使している方がいいだろうと、紋章の事を話した翌日アスに告げられた。
気遣って言葉を濁す事もなく、事実だからと平然と言ったアスに、テッドは深い安堵を覚えた。
この男の前では肩を張らなくていい。牙を向かなくていい。全身の力を抜いた情けない姿を見せても、アスが自分を構う事はない。
だけど決して見捨てる事もない。関心と無関心の絶妙なバランス。
アスの近くにいるのは居心地が良かった。霧の船を下りた直後、アスがテッドを連れまわしてくれていなかったら、数十年ぶりの他人との生活を受け入れられず、引きこもりどころか対人恐怖症になっていたかもしれない。
「そういう言い方は良くないよ、テッドくん」
母親のようにやんわりと窘めるアルドを無視して、料理を口に運ぶ。
弓矢メンバーでの協力攻撃を作るとの名目で、最初にテッドが引き合わされた仲間はアルドとフレアだった。
お節介とお人よしの代名詞が付くこの二人は、純粋すぎる親切心でもってテッドの緊張を少しずつ解して行った。やがてロウハクやフレデリカとの協力攻撃を経て、最近ようやく弓矢隊以外とも会話をするようになったテッドである。
だがやはり出撃時以外は部屋に閉じこもりがちで出没回数の少ないお陰で、特別優遇をやっかむ連中に言い訳をする機会も、するつもりもなく、よって一部の人間にかなり叩かれている事は知っていた。
海賊を始め、好戦的な奴らが多く乗っている船だ。訓練所での模擬戦や、雑魚相手の海上警備では物足りないと豪語している猛者は少なくないと聞く。
そもそもメインパーティへの参加は、収入に大きく関わってくるのだ。出撃者には、日割りでささやかな給料が支払われる。武器の整備や防具やお薬、戦闘で傷んだ衣類の補修は経費で落ちるし、船の中での飲食は全てダダなので問題ないが、酒などの嗜好品や新品の衣服、アイテム以外の装飾品類は自腹だ。大酒飲みや高級志向の連中にとって、パーティにお呼びがかからないのは死活問題なのである。(まれにギャンブルで稼いでいる奴もいるが、殆どはリタたちに身包みを剥がされる側だ)
このタルという青年も、その口ではないかと内心身構える。金ではないにしても、昔からの友人であるタルたちを差し置いて、テッドが連日パーティ入りしていれば面白くはないだろう。
最も、何故かここ一週間はぱたりとお呼びがかからなくなったのだが。
「そうツンケンしないでくれよ。俺はただ、礼を言いたかっただけなんだ」
「礼?」
思っても見なかった言葉に、テッドの目が丸くなった。
「ああ。アスの側にいてくれてありがとうな。オベルにいた頃はまだそうでもなかったが、リーダーになってからのあいつは俺やポーラから距離を取るようになった。俺たちだけじゃない。船に乗っている奴ら皆から、一歩引いてやがった。多分紋章の所為なんだろうが…俺達はあいつの紋章なんて気にしてないってのによ」
悔しげに唇を噛むタルの後を、ポーラが引き取った。
「アスがどんな紋章を持っていようと、私たちは友人です。一人でもくもくと仕事をこなすアスを、側で支えることもできず、ただ見ているだけなのは辛かった…。でもテッド、あなたはアスが一番苦しいときに側にいてくれました。ありがとう。お陰でアスは、また私たちを受け入れてくれるようになりました」
「……俺は何もしてない」
ポーラが心からの感謝を込めて微笑むものだから、テッドはひどい居心地の悪さを覚える。
「確かに以前のアスさんはもっと無機質な感じがしたかな…まるで雨の日の粘土質の土みたいな」
「粘土?」
「乾いた土は水分をぐんぐん吸い込むでしょう?だけど粘土質の土は、どんなに雨が降っても弾いてしまって水溜りを作るだけ。表面的には潤うけど、決して水は染み込まない…」
「ふーん。そんなもんなのか」
森育ちのアルドの例えは、土より海に馴染みの深いタルには伝わりにくいようだ。
「だけど今のアスさんは粘土じゃなくて土だよ。それも肥沃な柔らかい土。山を支え、水を溜め、生き物を育てる、とても優しい土だね」
「アスにとって一番の水が戻って来ましたから」
そうだね、とアルドがにっこり笑ってポーラに同意する。最近のあいつはよく笑うようになったよな、とタルが嬉しそうに続ける。そういえばテッドは、ここの所アスと殆ど顔を合わせていなかった。テッドが知らない間に、何かあったのだろうか。
「ご馳走様」
食べ終えたトレイを持って席を立つ。ただでさえ他人と和やかな会話などしたくないのに、話が見えないとなれば尚更だ。
「あ、待ってよ、テッドくん!」
慌ててアルドが追いかけてくるが、テッドは足を止めずにさっさと食器を返却口に戻しに行った。
と、食堂の入り口の方がにわかに騒がしくなり、続いて元気な声が聞こえて来た。
「あー、お腹空いたっ。運動するとやっぱりお腹が減るわねえ」
騒ぎの元の先頭は、額に逆三角の印を付けた銀髪のショートカットの少女だった。続いて後ろで髪を束ねた刈り上げの青年、その後にアス、最後にボロ服を纏っている割には育ちの良さそうな青年が姿を現した。今日の出撃メンバーだ。
「お疲れさん、四人とも!こっちに来いよ」
タルの呼びかけに、彼らはさっきまでテッドたちがいたテーブルへと向かった。席に着くとすぐに楽しそうな談笑が始まる。
「騎士団の皆さんは本当仲がいいよね」
「……あいつら皆そうなのか?」
最低限の情報しか入れないようにしているテッド、パーティで一緒になった者か、施設街の人間以外は殆ど判らない。
「そうだよ。あの短い髪の女の子がジュエルさん、後ろで束ねているのがケネスくん、アスさんの隣にいるのがスノウくん。皆騎士団の頃からの仲間だそうだよ。…って、テッドくん待ってってばっ」
自分で質問しておきながら最後まで答えを聞かずに歩き出したテッドを、アルドが再び追いかける。
この船にどんな人間が乗っていて、誰と誰が親しいかなんて興味はない。
ただ、約束の時まで弓を引き続けるだけだ。




テッドにパーティ参加要請が来たのは、それから一週間後の事だった。
「テッドに来て貰うのは久しぶりだな」
「本当にな。お陰でこの二週間、体は鈍るわコイツは腹を空かせてるわ、大変だったぜ。今日はたっぷり魂食わせてもらうからな」
「ご随意に」
右手を掲げてこれ見よがしにコキコキと関節を鳴らすも、アスにあっさり受け流され面白くない。
本日の目的地である山塊の島までテレポートで飛ばしてもらい、スノウとアスがインスマウス相手に「真・友情攻撃」などという攻撃力はバカ高いが恥ずかしい名前の協力攻撃をしかけている時、テッドの隣にいたチープーがしみじみと呟いた。
「スノウって本当に強くなったんだねえ。以前に比べて性格も丸くなったみたいだし、びっくりしたよ」
「あいつのこと知っているのか?」
「俺は以前ラズリルにいたんだ。ラズリルに住んでてスノウを知らない人間はいないよ。いい意味でも悪い意味でもね」
どういう事だ?と視線で訊ねたテッドに、チープーはあの大きな目をぎょろっと見開いて、
「スノウはラズリルの元領主の息子で、アスを無実の罪に陥れた張本人だよ」
「何…?」
「おっと、アスたちが戻って来ちゃう。今の話、俺が話したって事内緒ね。アスにばれると怒られるからさ」
これ以上の追求を逃れるかのように、チープーはそそくさとアスたちに駆け寄った。
(あいつがアスを陥れた――?)
人の良い笑顔でチープーと話しているスノウの姿からは、想像も付かない。
チープーの話が事実だとすれば、スノウはアスにとって心穏やかではいられない相手の筈だ。
だがチープーを始め、先日のタルたちもアス自身もそんなそぶりは微塵もない。むしろどう考えてもスノウは特別扱いされている。
つい最近仲間になったそうだが、既に武器は最大レベルまで鍛え上げられ、防具に至ってはアス以上の充実振りだ。スノウは敵の攻撃を受けやすいので、第一線で戦う為にはこれ位必要なのかと思っていたが。 
海からの強風が、スノウたちを見つめるアスの髪を巻き上げている。柔らかめの髪が重力に従い元の位置に戻る事で、その横顔をテッドに晒す。
(……なんて顔してるんだよ……)
気づいてしまった。
チープーが、騎士団の連中が、アスを裏切った筈のスノウを責めず温かく迎え入れ、アスの隣に並び立つ事を赦している理由。
勿論スノウ自身の人柄もあるだろう。今日半日共に行動しただけで、スノウの馬鹿が付く真面目さと善良さはよく判った。ある意味アルドと同種の人間だ。
だけど一番の理由は。
「テッド、お昼にするよ」
いつまでも一人離れた所で立ち尽くすテッドを、アスが呼ぶ。
その声までもが、テッドが知るものとは違っているように聞こえた。




サロンは消灯一時間前が、一日の中で最も賑わう。
遅くまで稼動しているサロンは、夜の時間潰しに持って来いの場所だ。ルイーズとの軽快なやり取りを楽しむ者、子供が寝た後の一時をのんびり過ごす者、人との会話や静かな音楽を楽しみに来る者、ただ酒の酔いを求めてくる者と様々だ。
普段は滅多に近寄らないこの場所の片隅で、一人ちびちびとグラスを傾けていたテッドの前に、透明な液体の入ったグラスが置かれた。
「ふふ…珍しいお客さんだからサービスしとくわ。ここらじゃあんまり手に入らないけど、これがいいんでしょ」
艶然と微笑むルイーズとグラスを交互に眺めた後、テッドはグラスの中身を一口含んだ。
「……本物の清酒だ。よく手に入ったな」
清酒は綺麗な水と米がないと作れない。米が取れない常夏の群島諸国ではお目にかかれない代物だ。
以前初めてサロンに来た時、テッドが清酒はないかと訊ねたのを覚えていたらしい。
「客の好みの酒を仕入れられなくて、酒場を切り盛りなんてできないよ。ましてやこんな雑多な人種が集まってる所じゃね。あんただけじゃなくて、他にもあの酒がいい、この酒がいいって言う奴らは多いのよ。まあ酒の為ならちょっと位遠くても交易に行ってくれる呑み助は多いからね」
「……高いんだろ、これ。金は払う」
ポケットを弄って小銭を出そうとしたテッドの手を、白い指がそっと止めた。
「サービスだって言っただろ。気にいったならまた飲みにおいで。清酒はあんまり飲む奴がいなくて、中々減らないからね。ところで清酒にはどんなつまみが合うの?材料が手に入るものならフンギに頼んで用意しておくよ」
決して押し付けがましくない心遣いと、さり気ない話題の転換。成る程、ルイーズ目当てに酒場に通う男の気持ちがよく判る。
「煮物とか豆腐があったら嬉しいかな。焼き魚や刺身も合うし。俺は焼き魚はあんまり好きじゃないけど」
「刺身はここなら新鮮なのがいくらでも獲れるからね。煮物はどういう奴がいいの?」
「えーと、肉と、里芋とか人参とか大根とか、とにかく根野菜がいっぱい入ってて…」
こちらをちらちらと窺っているオルナンとデスモンドを横目で見つつ、霧の船に乗る前の記憶を辿る。
一冬を厄介になった小さな村。積雪量が大人の身の丈程にもなるその村では、大人も子供も暖を取る為に酒を飲む。威勢のいいおかみさんが作ってくれた、素朴だが温かい料理と、自家製濁酒の合う事と言ったら!あの村で飲んだ酒と料理の味は、未だに忘れられない。
「肉は何肉?」
「豚とか猪とか、脂の出る奴かな」
ルイーズの気さくな態度と、久しぶりの好みの酒のお陰で、テッドの口もついつい緩くなる。ルイーズ相手に煮物の作り方を説明していると。
「珍しい組み合わせだな。ルイーズ、俺にもいつもの奴な」
豪快な声と共に現れたオベル国王ことリノ・エン・クルデスが、テッドの隣にどっかりと腰を下ろした。
「はいはい。グラスもいつものでね」
ルイーズがカウンターの向こうに消え、テッドとリノがその場に残される。
しまったと思っても後の祭だった。こういう場所では一人で隅で飲んでいる分にはあまり話しかけられないものだが、(誰でも独りで飲みたい時はある)誰かと会話をしている所には参加してくる奴は多いのだ。
「ガキが酒なんて飲んでんじゃねえぞ。お子様は帰って寝る時間だぜ」
「……あんたは俺の年知ってるだろうが」
「そうだったな。外見がガキなもんだから、つい忘れちまう」
リノはニヤニヤ笑いを浮かべている。からかわれているのが判って、テッドはあからさまな不機嫌さを表情に乗せた。
「だけど本当に、お前が酒場に来るなんて珍しいな。見ろ、お陰で注目を浴びてるぞ」
「あんたが騒ぐからだろ」
「違うな。俺は皆の視線の先を追ってここに来たんだ。俺が来る前からお前は注目の的だったのさ」
「な……っ…」
慌てて振り返ると、サロンにいた人間が一斉に視線を逸らした。
「…………」
気まずい沈黙を誤魔化すように、突然バックミュージックが明るくポップな曲へと変わる。
テッドが正面に向き直ると、背後から緊張が解けた空気が伝わって来て頭を抱えた。
「…マジかよ…」
「それだけお前は有名人だって事だ。やたらと強い紋章を宿した、滅多に姿を拝めない、しかもリーダーのお気に入りとなれば、興味を引かない方がおかしい」
「だけどそれは…っ」
「俺はお前の事情を聞いているが、他の奴は知らん。人間隠されると余計知りたくなるもんだ。変な憶測をされたくなかったら、最低限の人付き合いはするんだな」
「……どうせもうすぐこの船を下りるんだから関係ない」
リノはやれやれといった風に肩を竦めたが、重ねて説教じみた事を言いはしなかった。
やがてルイーズが大きなグラスを持って戻ってきた。これがリノの「いつもの」奴なのだろう。
グラスをリノの前に置き、会話に加わることなく静かにその場を離れたルイーズを見送って、リノはなみなみと酒の入ったグラスを呷った。
「だが本当にどういう風の吹き回しだ?いつもの腰巾着…アルドって言ったか。奴から逃げてでも来たのか?」
下世話な物言いでからかうリノを、目で非難する。この男、服装もだが言動がとても一国の王とは思えない。こんな王に国民が付いて来るのが不思議だ。
だがこの男なら、テッドが知りたかった答えをくれるかもしれない。その為にわざわざ人が集まるこの時間帯のサロンに来たのだ。
溜息を吐き、テッドは辺りに聞こえないよう声の調子を落として言った。
「アスのことだけど……」
「あいつがどうした?」
アスの名に、リノの声が即座に真剣さを帯びた事にやや驚きつつ、テッドは続ける。
「スノウって奴とアスの関係、あんたは知ってるのか?」
「何だ?スノウのことなら俺より騎士団の奴らに訊いた方が詳しいぞ。俺が知っているのは、アスはスノウの家で小間使いをしていたってのと、奴の浅はかな発言のお陰でアスがラズリルを追放されたって事ぐらいか」
「やっぱりそうなのか……」
「今のあいつらを見てると、とてもそんな関係には見えねえがな。初めてアスに会った時は、牙を隠した獣だと思って慌てて首輪を括りつけたが、何の事はない迷子の犬だったって訳だ」
くっくっと喉を震わせて笑うリノ。
「スノウが仲間になってからのあいつは、いい顔をするようになった。無口なとこは変わらねえが、目が雄弁になったな。失くしていたものをやっと取り戻したって感じだ。肝心のアスがあれじゃ、騎士団の連中もスノウを責めることはできねえだろうよ。まあそれでなくとも、あいつらにとっても、スノウは大事な友人だったって訳だ。過去の過ちは水に流せるんならその方がいい。スノウもアスと別れてから、色々苦労して反省したそうだしな」
「そうか…」
先日石塊の島で見たアスの横顔が甦る。
アスの視線はスノウに向けられていた。
なんて嬉しそうな。満ち足りた。
幼い子供が兄を追いかけるような、絶対の信頼を宿した輝く瞳。
自分を裏切った相手に向ける目では、決してない。
「アスがスノウばかりを構うようになって寂しいか?」
「そんなんじゃねぇよ」
胸に覚えたのは、寂しさではなく羨望と嫉妬だ。
同類だと思っていたアスが、あんな顔ができるようになった事への。
「今まではお前が一番アスの近くにいたからな。騎士団の連中がパーティに入るようになったのはここ最近だ。それまではあいつらは逆にアスから遠い所にいた。恐らくは紋章から守る為にな」
――多分紋章の所為なんだろうが…俺達はあいつの紋章なんて気にしてないってのによ。
タルの言葉が甦る。
「真の紋章を持つお前の隣は、アスにとって唯一の安らげる場所だったんだろう。お前にとってもそうだったんじゃないのか」
「……ああ」
いつになく素直に、テッドはリノの言葉を認めた。
真の紋章を持つテッドは、アスの臨終の場にただ一人に居合わせたとしても罰の紋章は宿らない。
ソウルイーターはどんなに飢えていても、真の紋章に守られたアスの魂には手を出せない。
呪いの紋章を抱える二人にとって、互いは貴重な安全地帯だった。
以前テッドはアスに、戦いの間はできるだけ近くにいてくれるよう言われた。
そして自分が死にそうになったら、自分を人の居ない所に連れて行って欲しい。テッドにしか頼めないと。
こんなことを悲観も感傷もなく淡々と告げるものだから、余計に腹が立って怒鳴りつけてやったが。
アスとテッドは紋章に孤独を宿命付けられた者同士、寄り添っていただけに過ぎない。どちらかの手に紋章が存在しなければ、二人が肩を並べて立つ事はなかっただろう。
「だがスノウが仲間になってからのあいつは、大切なものを遠ざけるのではなく強くなる決意をした。決して紋章に喰われない、死なない決意をな」
確かに以前のアスの目は強い光を宿しつつも透明で、何を考えているのか読み取れなくて、どちらかというと冷えた水を思わせた。
だが今マリンブルーの輝石が放つ輝きは、群島の海に煌く眩しい太陽の光だ。
「お前はどうだ?」
声にまるでアスに対するような深い労わりが含まれているのに驚いて、リノを見る。
「お前も逃げるんじゃなく、守る為に戦ってみないか?」
そいつと、とテッドの右手を顎で指す。
戦う――ソウルイーターと?
今は手袋の下に覆われている紋章を見つめ、そして。
「……あいつの紋章と俺の紋章は違うんだよ」
鉛を飲むような声で低く呟いた。
「そうか」
リノはそれ以上何も言わなかった。グラスの残りを飲み干し、金はツケておいてくれとルイーズに声をかけて席を立つ。
グラスをずっと握り締めていたお陰で、折角の清酒はすっかり温くなっていた。



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