夜明けの風・b



ギラギラと容赦なく肌を焼く海の太陽とは違い、大陸の日差しは雲のフィルターを抜けてその熱を僅かに和らげる。
だが絶え間なく吹き付ける海風もなく、雲のドームに覆われ熱の逃げ場のない内陸の夏は、空気が湿気を帯び、常夏の故郷よりも暑さを覚えた。
一所に留まらない根無し草生活を始めて、もうどれ程の時が経つだろう。冬であれば気にも留めない望郷の念を、夏の太陽は克明に呼び覚ます。
空を映したかのような、海の青さと波の白。
絶え間なく続く船の揺れ。頬に受ける、塩気を含んでしっとりと重い風。
あの懐かしい海へと心が還って行く。




故郷を想って目を閉じれば、浮かんでくるのは巨大な船だ。
船乗りから海賊、生まれてこの方武器など持ったことのない一般人までが集まって暮らす、まるで船自体が一つの町のような大型船、チカル号。
彼らと共に過ごした期間は、人生の内のほんの瞬き程度でしかない。だがそれでもあの日々の輝きは、今も色褪せることなく瞼に甦る。
共に鍛錬に励んだ友、思いがけず再会できた失った筈の肉親、家族であり親友である唯一の人、大らかで優しい人たち。
その仲間たちの中には、自分の他にもう一人、世界に27しかない真の紋章を宿している者がいた。

「……どうしてお前はそんな平気な顔をしてられるんだ?」
「……?」 
何を言われているのか判らなくて、僅かに首を傾げる。
その仕草で、意味は同じく、だが言葉を変えて相手はもう一度尋ねた。
「使う度に自分の命を削り、死ねば今度は他人に呪いを受け継がせる。そんな紋章を持ってて、どうして普通にしてられるんだよ…」
「…………」
アスの左手に宿る罰の紋章の事は、この船に乗る者ならみんな知っている。強大な力を与える代わりに、宿主の命を削り転々と人の手を渡り歩く呪われた真の紋章。
この紋章を宿した者は三年と生きられないという。紋章を使わずとも三年。神の雷とも言える力で人の命を奪えば、代償に紋章はすぐにでも持ち主の命を焼き尽くす。
目の前で塵と化したグレン団長のように。
「死ぬのが怖くないのか?自分が死んだ後で、誰かに呪いをかけてしまうのが怖くないのか?この船の奴らもみんな変だ。お前が死ねば、次に誰に紋章が宿るか判らないってのに、誰もお前を恐れてない。それどころか自分から紋章を引き受けようなんてお人よしまでいる…」
左手で強く右手の甲を握り締めている彼の手にも、真の紋章がある。
生と死を司る紋章、ソウルイーター。
文字通り魂を喰らうという紋章は、アスが持つ罰の紋章と似て非なるものだ。
罰の紋章が宿主の命を削るのに対し、ソウルイーターが望むのは宿主以外の魂。
だがどちらの紋章も、呪いの紋章と称されるに相応しいものだった。
この船のリーダーであるアスと違い、彼の紋章は一般乗員には殆ど知られていない。彼が戦闘時以外は極力他人を避けているからだ。
その理由は、先ほど彼が投げかけた問いが全てを語っている。
紋章が、誰かの魂を奪ってしまうのが怖い。
自分の近くにいた所為で、人が死ぬのが怖い。
紋章が魂が喰らうのは彼の所為ではない。だが彼はそれを紋章の本能だから、宿主には止めようが無いことだからと割り切るだけの、生きるための不条理な大人の分別を未だ身につけてはいなかった。
「……平気な訳じゃない…けど…」
他人のことを気にしない無神経な奴と言われたようで寂しさを覚えたものの、彼のように人と距離を取る方法を選べない己は、やはり自分の事しか考えていないのかもしれない。
「仲間の手前、平気なフリをしてるって?リーダーは大変だな」
「そういう訳でもない……」
若干皮肉を含んだ物言いに、困ったように視線を返す。
何と説明したらいいのだろう。思っている事を口に出すのが苦手な自分は、きっと周りにも色々誤解させているに違いない。
それでも何とか彼の真剣な問いに答えたくて、思い浮かぶままの感情を口に上らせる。
「……死が怖くないって言ったら嘘になる。この戦いが終わるまですら、俺の体は保たないかもしれない。途中で俺が死んで仲間の誰かに紋章が宿るのも怖い…」
「…………」
「だけど、俺に宿って良かったと……そうも思う」
「何でだよっ!」
驚きではなく怒りの形相を浮かべる彼に、僅かに微笑した。
「紋章のお陰で、オベルの人たちを守れた」
「……なんで…オベルはお前の故郷って訳でもないんだろっ。お前が命をかけてまで守る義理なんかないじゃないか」
「ああ、俺の自己満足だ」
「………人の為に死ねるなら本望って?馬鹿じゃないのかっ。誰もそんな事したって喜ばない。それよりお前が無茶して、他の奴に紋章が宿る方がよっぽど迷惑だ。死にたくないって言うんなら、もうちょっと自重しろ!」
言い方はきついが、結局のところ彼の怒りはアスを想ってのものだ。
背負わされた理不尽な運命を、アスの代わりに彼が怒ってくれている。
ああやはり、彼は何て優しい。
「本望って訳じゃないけど…どんなに運命を呪っても、俺に紋章が宿ったことには変わりはない。引き返せないなら、前に進むしかない。残りの人生を、悔いて脅えるだけのものにしたくないんだ」
アスが紋章を恐れずにいられるのは、彼のお陰でもある。
同じように真の紋章を宿す者がすぐ傍に居る。それだけで強大な力への漠然とした恐怖が少し和らいだ。
気心の知れた仲間たちにも、この気持ちは理解しては貰えないだろう。彼は大海原にたった一人放り出されたアスの前に現れた、唯一の「同じ境遇の者」だ。
「それに俺はオベルが好きだから。故郷のラズリルと同じくらいに」
足りない言葉の分は笑顔で伝える。
「……やっぱりお前は凄いよ」
暫くの沈黙の後、彼の声からは激情が消えていた。
「そういうお前だから、みんなついて来るんだよな…。自分にひどい仕打ちをした奴らを許して……俺みたいな奴まで受け入れて。お前の元には、許しを求める者が集まる。俺も…それに引き寄せられたのかもしれない」
俯きがちだった顔を上げて、彼が微笑む。
「もう一度運命に立ち向かうって決めたんだもんな……また忘れる所だった」
それは見慣れたどこか困ったような寂しげなものではなく、素直な笑みで。
「この戦いが終わるまでは付き合うって約束だからな。さっさとこんな戦い終わらせて、少しでも長生きしろよ」
「ああ」
その笑顔の温かさに切なくなる。
彼の本当の年齢は判らない。だが恐らく紋章を宿して長いのだろう。持ち主を不老にするという真の紋章は、力を求めない者には呪いでしかない。
老いない体で人の中で生きるのは辛いだろう。紋章が人の魂を喰らうというなら尚更、彼のような優しい人間が宿すには辛いだろう。
彼の頑なな態度は、拒否でも拒絶でもなく。
紋章に相手の命を奪わせない為の、防御壁。
向けた背中が泣いているのを知っている。差し伸ばされた手を、喰らってしまうのではないかと脅えているのを知っている。
真の紋章を宿している者の魂は、ソウルイーターも喰らえないのだという。彼が自分と二人きりの時だけは、少しだけ緊張が解けていることにも気づいている。
だけど自分では彼の真の救いになることはできない。
口下手な分、長けた勘が言っている。自分は彼と同じものであり、彼とは道を異とする者だ。
だからせめて祈る。
アスに、自分の無実を信じて疑わなかった騎士団の仲間がいたように。
いつか彼にも心を委ねられる存在が現れることを。






町の中央にある女神像の持つ瓶からは、絶えず水が溢れ出している。
人口的な噴水から漂う水の匂いは、塩気を含んだそれではないけれど、水と共に育った身にはやはり落ち着く。
国の首都であるというこの町には貴族の屋敷が多く、近隣の町に比べて整備も行き届いていた。あの町で泊まるなら噴水近くの宿屋にするがいいよ、値段もそこそこで女将さんのサービスもいいからね、と一つ前の町で教えて貰ったはいいが、こう大きな建物ばかりだと、どこが宿屋なのか見当もつかない。
丁度目の前を通り過ぎた少年を呼び止めて教えてもらい、礼を言って身を翻す。背後で駆けていく足音を聞きながら、宿屋に向かおうとして。
「ごめーんっ、×××…」
たった今まで思い返していた懐かしい名に、ふと振り返った。
緑と赤のバンダナを揺らし、少年が友達らしき少年に駆け寄った。耳に飛び込んでくる、遅かったな、道を訊かれてたんだという微笑ましい会話。明るい栗色の髪の少年がふっとこちらに視線を向ける。
「………っ」
これは運命の悪戯だろうか。
最早記憶もおぼろげになった筈の彼の顔が、今そこにある。
互いに大きく目を見開き、視線を交すこと数秒。
少年がふわっと笑った。
「どうかしたの?テッド」
「いや、何でもない。さ、行こうぜ」
バンダナの少年を促し、栗色の髪の少年もくるりと背を向ける。その肩に通した鉄の弓は、やたらと使い込まれて古びてはいるが見覚えがあった。かつて彼自身が持っていた物とは違う鉄の弓。
「…………」
アスの唇に、柔らかな笑みが浮かぶ。
全てを拒否していたあの頃とは、纏う空気が違う。
温かな、穏やかな。きっとあれが彼本来の気質。
差し伸ばされた手を取ることが出来るようになった。与えられた好意を返すことが出来るようになった。
それにはきっと、当時愛情拒絶症だった彼に、ひるむことなく好意を注ぎ続けた仲間の存在もあるのだろう。慈愛の雨はひび割れた土に染みて水脈となり、再び注がれた雨を受け入れる地盤を作り、潤った大地に蒔かれた友という種は、そうして見事な花を咲かせた。
少年と肩を並べて歩いていく背中は、幸せそうに笑っている。


仲の良い友達同士が見えなくなるまで見送って、アスは再び踵を返した。
旅用の長いマントを羽織りなおして、来た時よりも軽い足取りで宿屋へと向かう。
かつての仲間の、初めて見た心からの笑顔に祝福を贈りながら。








「今だから、テッド祭」記念アンソロに寄稿した作品をちょっと修正して再録。先にbを読んでからaを読んで、「あーっ!」と思って貰えたらにんまり。

あ、テッドの弓描き忘れた…(爆)


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