Determination of dusk その部屋は、記憶と寸分違わなかった。 上にも横にも贅沢に空間を取った、広々とした作り。西側の壁は一面が窓となっており、ガラス越しの柔らかな光が、天蓋付きのベッドに降り注いでいる。 室内にはベッドとドレッサー、座り心地の良い大きなソファセットが一式あるだけだ。生活感はない。 だが家具の華やかなデザインと色使いが、ここが客室ではなく、特定の個人の為の部屋である事を教えている。 この部屋には、ファレナにおいて最も高貴な色とされる、始祖を表す銀色が一切使われていなかった。 かつて、ここを用意した相手に好みの色を訊ねられた時、「銀色以外」と答えた自分から、何を感じ取ったのか。 赤子の頬のような鮮やかなピンク色を基調とした、優しい空間に通された時は、胸がじんと熱くなった。 ――お気に召して頂けましたか? ――どうしてこの色を? 感動よりも疑問が勝った。物静かで知的な姉とは対照的に、お転婆で通っていた自分だ。こんな可愛らしい部屋を用意されるとは思ってもいなかった。 ――ピンクはお嫌いでしたか? ――ううん。本当は…誰にも言ってないけど一番好きな色なの。どうして判ったの?恥ずかしいから隠していたのに。 すると背後に立っていた二つ年下の婚約者は、穏やかな微笑を浮かべて言ったのだ。 ――この色が、サイアリーズ様に一番似合うと思ったんです。 (今のあたしには、もう似合わないよ) 憂いの溜息を飲み込んで窓辺に近づき、ガラスに手を這わせる。 この部屋自体、とっくに片付けられていると思っていた。 ゴドウィン城の、ギゼルの私室に程近い一室。最早遠い過去となった、何も知らない純粋だった頃の自分の気配が残る部屋。 サイアリーズがゴドウィン家当主の一人息子、ギゼルとの婚約を一方的に破棄してから、もう八年になる。 先の争いで王座に着いた母ファルズラームが、姉シャスレワールと彼女に繋がるゴドウィンの一族を粛清した事により、バロウズの力が強くなる事を危ぶみ、娘に命じた政治的な婚約だった。 次女であるサイアリーズは、闘神祭を行う必要もなく、女王の命一つで婚姻を結ぶ事ができる。ある意味、女王にとって一番役立つ駒だった。 ――義兄上が姉上と結婚してくれて本当に良かった。 十年前この部屋で、少女のサイアリーズはギゼルに向かって、そう言って笑った。 ――もし姉上のお相手がゴドウィン家の者だったら、私はバロウズ家の者と結婚させられていたに違いないわ。今のバロウズで私の夫になれそうな独身者って言ったら、ユーラムしかいないのよ。私より六つも年下の、あんな泣き虫のお子様と結婚だなんて冗談じゃないわ。 ――私もサイアリーズ様より年下ですが…。 ――ギゼルはいいの。頭がいいし、可愛いし、気がきくから。背が低いのが難点だけど、そのうち私を追い越してくれるでしょ? 必ず、と微笑んだその顔を、サイアリーズは愛しいと思った。 婚約者がユーラムではなかった事だけではなく、本気でこの婚約を喜んでいた。 優しいギゼル。サイアリーズを誰よりも愛してくれるギゼル。 サイアリーズは母親に愛された記憶がない。サイアリーズが七つの年、母親姉妹の熾烈な女王争いが始まった。 女王の伴侶の地位を、二代続いてゴドウィン家に奪われる事を恐れたサルム・バロウズに唆され、実の姉を押しのけ王座に我が物にしようという野心に取り付かれた母の背しか知らない。 父カウス・バロウズは、そんな母に従うだけの小さな男だった。同じ王女の夫であるマルダース・ゴドウィンは、妻との間に幸せな家庭を築いていたというのに。 温かいハスワールの家族。両親の腕の温もりを知らない自分達姉妹。 サイアリーズにとって、アルシュタートは姉であり、母だった。大好きな姉が恋焦がれる相手と結ばれた時、置いていかれたような寂しさに胸が痛んだものの、姉の幸せを心から祝福した。 いつかきっと、自分も姉たちのような家庭を作りたい。 自分を心から愛してくれる優しい人と、笑顔の耐えない家を作りたい。 ギゼルとだったら、その夢が叶うと思った。 (あの頃が、あたしの一番幸せだった時かもしれない) ギゼル・ゴドウィンを夫と呼び、姉夫婦のような可愛い子供を腕に抱く日が来る事を、信じて疑わなかった婚約時代。 女王である母が、僅か二年の在位で突然この世を去った事により、事態は急変する。 王家は病死と発表したが、実際は発狂した上での自殺だった。実の姉を暗殺してまで手に入れた王座は、彼女に平穏を与えはしなかったのか。 後継者は先代の第一王女というしきたりに従い、アルシュタートが女王の座についた。 王家の十年にも及ぶ血生臭い争いに疲弊しきっていた国民たちは、強豪の集まる闘神祭を己が腕一本で勝ち抜いた、歴代のようなお飾りではない女王騎士長共々、新しい女王の時代を期待と歓喜でもって迎え入れた。 だがその一方で、女王の夫が流れ者のフェリドである事を快く思わない偏屈な血統主義者が、身分を問わず存在しているのも事実だった。 ゴドウィン家と婚約関係にあるサイアリーズの即位を望む派と、他国への外聞を考え唯一生存を許された、シャスレワールの娘ハスワール姫こそ女王と主張する派。(彼らのうち、貴族は主にゴドウィン派だった。両王女と縁を持たず、現女王が己が血統であるバロウズ派は、内心の感情はともかく、表向きは沈黙を守っていた)憚ることのない二派の声は王族の耳にも届いており、即位したばかりの女王の心痛の種の一つであった。 そんな中、サイアリーズはハスワールがルナスの斎主に着任する事を聞いた。 ――ハス姉っ。ルナスに行くって本当? ――ええ。現斎主様がお年でね。実は数年前から内々にお話を頂いていたの。まだ私が若いからって待っていて下さったんだけど、アルちゃんも女王になったし、いい機会だと思って、お受けする事にしたのよ。 母親譲りの穏やかな微笑を浮かべる従姉を、信じられないと言った目で見つめる。 ――斎主なんて、王女の呈のいい厄介払いじゃないっ。結婚も出来ずに、一生ルナスの山奥で暮らすのよ。姉上が女王になったから?だからハス姉は斎主になるの? ――サイアちゃん。 ――私だって今の状況は判ってる。だけど…だけど!これじゃハス姉が可哀想だよ!母上があんな事をしでかさなきゃ、今頃斎主になっていたのは、姉上か私だったのに…っ。ハス姉の闘神祭も普通に行われて、結婚して子供を産んで、幸せに暮らしている筈だったのに…! ――サイアちゃん。 感極まって泣きじゃくるサイアリーズを、ハスワールがそっと抱きしめる。 ――優しい子。いいの。私は女王なんて柄じゃないし、アルちゃんなら立派にこの国を治めてくれるわ。ファルズラーム叔母様の事は関係ないの。私達の代で斎主の交代が行われる事は判っていたから、子供の頃から斎主になろうと決めていたのよ。おかしいと思わなかった?バロウズ家の後押しでアルちゃんの闘神祭が行われた時、私は二十二歳。普通の姫ならとっくに婿取りをしている年だわ。両親は勿論、亡きオルハゼータ御祖母様も、闘神祭の開催を熱心に勧めて下さったけれど、私はお断りし続けた。だからもしお母様が王位を継いでいたとしても、私が斎主になるのは変わらなかったのよ。 ――どうして…。ハス姉、子供大好きじゃない。自分の子供、欲しくないの。 優しく背中を撫でる手が、一瞬止まった。沈黙に寂しげな吐息が溶ける。失言に気付いたサイアリーズが謝罪の言葉を口にする前に、ハスワールは穏やかな声を取り戻し、その後を続けた。 ――そりゃあ子供は欲しいわよ。私にそっくりな可愛い子供たちを腕に抱けたら、どんなに幸せかしら!でもね、それ以上に、私はアルちゃんとサイアちゃんに幸せになって欲しいの。大切な妹たちですもの。アルちゃんの旦那様が素敵な人で良かった。ギゼルちゃんは再従兄弟で小さい頃から知っているけど、本当にいい子よ。サイアちゃん、ギゼルちゃんと素敵な家庭を築いてね。 おっとりして少女じみた、どこか浮世離れした従姉だった。 だが彼女は誰よりも早く未来を見据えていた。高齢な現斎主、争いの火種となりうる三人もの王女たち。誰かが女としての未来を捨てなければならないのなら、最年長である自分がと、十代の頃に既に考えていたというのか。 ――私、ギゼルとの婚約を破棄する。 ――サイアちゃん!? 驚いて体を離したハスワールを、サイアリーズは潤んだ瞳に確かな決意を浮かべて、真っ直ぐ見据えた。 ――ハス姉がルナスに行っても、まだ私を女王に立てようとする者たちが残ってる。長い内乱の末、たった数年で二度も女王交代が為されたこの国は、これから疎かになっていた国力の強化と政治に力を注がなければならないのに、国の状況も考えず、感情と欲に任せて私の名を掲げた奴らは、姉上とファレナを脅かす要因となる。…今まで第二王女の私なんて誰も見向きもしなかった癖に、人間って本当勝手だよね。今更あいつらに利用されてなんかやるものか。私も王位継承権を放棄し、またリムに次ぐ継承権を持つ娘を産むことのないよう、一生結婚しない。 ――……… 長い沈黙が流れた。銀色の髪を持つ従姉妹たちは、互いの瞳の中に本心を読み取った。 ――……いいのね? ――ええ。 ――後悔しない? ――後悔なんて、するに決まってる。だけど私も王女だから。ハス姉や姉上にばかり苦労させて、一人のうのうと生きるなんて出来ない。 サイアリーズには判っていた。ハスワールが本当は、ギゼルとの結婚を望んでいない事を。 いや、従姉のハスワールとしては心から祝福していたのだ。ただ王女の立場が、それに影を落としていた。 私欲に塗れた貴族達は、彼女らの母親たちと同じように、姉妹を政略の海へと引きずり込もうとするだろう。 もう勢力争いの口実を与えては……ならない。 ――ごめんなさい…っ。 ぎゅっと再び、ハスワールはサイアリーズを抱きしめた。震える背を抱き返し、目を閉じる。 ――ハス姉が謝る必要はないよ。ハス姉と同じように、婚約解消は私が決めたこと。……ねえ、ハス姉。もうこんな悲しい事は起きないといいね。姉上の子供は男と女だから、間違っても母上たちのように、兄妹で争うことはないよね。 ――大丈夫よ。アルちゃんたちの子供だもの。それにサイアちゃんって言う、凄く頼りになる叔母様が側についているんだもの。あの子たちは大丈夫よ。 ――ギゼル…婚約解消するって言ったら怒るかな…。嫌われたって思うかな。悲しむ…かなぁ……。 ――…っ…ギゼルちゃんなら、きっとサイアちゃんの気持ちを判ってくれるわ。あの子は、サイアちゃんが大好きなんだからっ…。 ――ハス姉ぇ…っ…。 再び溢れてきた涙を拭おうともせず、サイアリーズはハスワールの腕の中で泣いた。涙と共に、夢に別れを告げた。 この可愛らしい部屋で、ドレッサーの前に座って、銀に輝く髪を梳いていた少女はもういない。 (あたしは母上にそっくりな、銀色の髪が嫌いだった) グレーがかったアルシュタートの銀髪と違い、サイアリーズの髪は、色質共に母親に瓜二つだった。自分達を愛してくれなかった母親。大好きな従姉から家族を奪った、非道の女王。 鏡を覗く度に、自分は確かにあの母の血を継いでいるのだと思い知らされ、苦しかった。 ――美しい髪ですね。 肩で跳ねる癖のある髪を一房掬って、ギゼルがそう微笑んでくれた時までは。 ――太陽の光を受けて、キラキラと輝いている。フェイタス河の澄んだ流れのような、涼やかな青を含んだ銀色ですね。 ――そんな…私より、姉上やハス姉の髪の方がずっと綺麗よ。私はこんなに癖毛だし…。 ――癖のある髪も、サイアリーズ様らしくて可愛いらしいですよ。私は好きです。私にとって、あなたがフェイタスの流れだ。 ――……ありがと。 婚約を破棄した後、サイアリーズは髪を染めた。 服装も今までとはがらりと違った、露出の大きい派手な柄物を身につけ、口調は王女らしからぬ蓮っ葉な物言いを意識して使った。 王家の象徴である銀の髪を染める事で、王位継承権の放棄を主張するのと――ギゼルが愛してくれた自分と決別する為に。 新しい髪色には茶色を選んだ。 フェリドと、ファレナ初の有色髪の女王となるリムスレーアへの親愛を込めて。 銀の髪は優性遺伝で、今まで歴代の女王がどんな髪色の夫を迎えても、銀の髪以外の子供が生まれる事はなかった。 ゴドウィンとバロウズと女王家、狭い三つの一族で綿々と交配を繰り返し、濃く澱んでいだ血に注がれた、フェリドの強い血。その血を色濃く受け継ぐリムスレーアが王位につく事は、この国と女王を絡め取っていた、貴族や元老院からの解放のように思えた。 リムスレーアは、サイアリーズの希望だった。 そしてリムの兄である、銀の髪のライアリードもまた。 女王の第一子であるにも関わらず、男子であるが故に軽んじられる日陰の存在。口さがない貴族達に、婿にやるしか使い道がないと囁かれる弱い立場だ。 気性の激しい妹の隣でひっそり微笑んでいる、穏やかで優しい少年だった。 アルシュタートは初めての子供に、妹の名から4文字を取って名づけた。それはアルシュタートの、サイアリーズへの誓いであり、願いだった。 ――この子の御世までには必ず成し遂げましょう。あなたの決意に報いる為に。 ――どうか、この子の力になってやってください。 ゆりかごの中ですやすやと眠る赤子を間に挟み、姉妹は固く手を握り合った。 その彼が太陽宮を出た後、みるみる成長を始めた。 穏やかな性格はそのままに、だが子供らしい甘えが消え、代わりに身に纏い出したのは王の風格。ここ数ヶ月で背もぐんと伸びた。柔らかかった肉は引き締まり、バネのような筋肉が身を包む。守られるばかりだった「王子」から人々を率いる王へと、この短期間で、蛹が羽化するように、鮮やかに変身を遂げた。 あのまま何事もなく太陽宮の両親の元にいたら、決して成り得なかった姿だろう。試練が彼を輝く宝石へと磨き上げた。 この国の硬く凝り固まった血のしがらみは、継承権を持たない銀髪の王子によって解かれ、有色髪の女王の手によって、新たに紡がれて行く。 彼ら兄妹が太陽宮に並び立つ時、ファレナは新しい時代の幕開けを迎える。姉夫婦が成しえなかった改革は、子供達が引き継ぎ、完成させてくれるに違いない。 ――だが、それには彼らはあまりにも若い。 この戦いで多少触れる機会はあったものの、人の心に巣食う悪に抵抗する備えが、彼らにはまだできていない。 真っ直ぐな正義感や希望を見つめる眼差しは、戦乱において光となっても、平穏の影で渦巻く陰謀には太刀打ちできない。 女王騎士たちも同様だ。女王騎士は王家を護る懐刀。幽世の門のような兵器と違い、武器は使う者次第で、鋭利な刃物にもなまくらにもなる。フェリドと言う強力な束ねを失った女王騎士たちは、降りかかる火の粉を払うだけで精一杯だ。 時代がせめて後五年遅ければと、嘆かずにはいられない。もし今、ライアリードが立派な青年であったなら、ドラートの北方での戦いで全てを終わらせる事ができたのに。 あんな風に兄妹が引き裂かれる事もなく、忠実な女王騎士見習いが、命を危険に晒す事もなく…。 自分を庇って倒れたリオンを腕に抱きながら、何故、と泣きそうな目で問いかけて来た甥の視線が辛かった。彼の妹のように、感情のままに罵ってくれた方がどれだけ有り難かったか。 それら全てを飲み込んだ上で、ドルフの誘いを受け、サイアリーズは「ここ」に来た。これからのファレナを担う彼らの為に、旧体制の最後の王族として。 (あんたたちは汚れちゃいけない……) 窓の向こうの空は、いつの間にか赤く染まり始めていた。 沈み行く夕日がまるで太陽の紋章の光のように思えて、サイアリーズは手を翳して影を作った。それが左手であった事に気付くと、逆の手で勢いよくカーテンを引いた。 左手にはファレナ王家の三つの紋章の一つ、黄昏の紋章が宿っている。 黎明の紋章には選ばれなかったサイアリーズだが、黄昏の紋章は認めたらしい。ギゼルに言われるまま、封印の間で石像に向かって伸ばした左手の上に、黄昏の紋章は静かに舞い降りた。 明日はこの紋章を使って、ここストームフィスト近辺に潜む王子軍の斥候部隊を攻撃する。 ストームフィストに黄昏の紋章の使い手がいると判れば、旧知のあの女軍師は必ず動く。王子軍は総力を挙げてストームフィストに攻め入ってくる筈だ。彼らなら今まで同様、立ち塞がるキルデリクやディルパたちを打ち倒し、ゴドウィン城にいるサイアリーズの元までたどり着くだろう。 ギゼルに頼まれたのは、紋章を餌に王子軍をストームフィストに引き付けることだった。 義兄上たちが城に侵入して来たら、すぐに城を捨てて脱出してくださいとギゼルは言った。それはサイアリーズの身を心配してというより、むしろ王子達の突入を期待しているかのような口ぶりだった。 罠なのか、それとも何か別の思惑があるのか、サイアリーズには判らない。ただここに自分がいる間は、守ってやる事もできる。 数十日後に再び顔を合わせるであろう甥を思って、目を閉じる。 コンコン 軽いノック音が静まり返った部屋に響き、サイアリーズは顔をあげた。 「何だい?」 「ギゼル様よりお託を持って参りました」 「ありがとう、入りな」 失礼致しますという声と共に、サイアリーズよりいくつか年上の侍女が一人、室内に入って来た。 「今夜、ギゼル様がこちらにいらっしゃいますので、夕食をご一緒にとの事です」 「はん。この時期に太陽宮を空けるなんて余裕だね。まあ、今のところ全てあいつの計画通りなんだろうけど」 「ご入浴の準備ができております。ギゼル様が到着される前にお入りになられますか」 「はいはい。で、そのあとはギゼルが用意したドレスを着ろっていうんだろ。あいつのパターンは昔からほんっと変わらないね」 「サイアリーズ様も、お変わりないですよ」 微笑を浮かべる侍女を、サイアリーズは居心地悪げに見返した。彼女は十年前も、こうしてこの部屋で笑っていたのだ。当時から、一番気心の知れた侍女だった。 暫く躊躇った後、サイアリーズは意を決したように口を開いた。 「……あのさ、用意して貰いたいものがあるんだけど」 「はい、何なりと」 定時の夕食の時間を少し遅れて、ギゼルが到着した。 遅くなった侘びを入れに、いの一番にサイアリーズの部屋を訪れたギゼルは、扉を開けた瞬間言葉を失った。 「似合うかい?」 ギゼルを迎え入れ、艶然と微笑むサイアリーズは、鮮やかな紫のドレスに身を包んでいた。 赤寄りの紫は、光の加減で濃いピンクにも見える。体のラインがはっきりと判る、肩から背中にかけて大きく開いたセクシーなデザインは、彼女の美しい肢体を存分に引き立てている。 だがギゼルの目を奪ったのは、自分が贈ったドレスではなく、紫の瞳の横で揺れる銀の流れだった。 「サイアリーズ様…その髪は」 「急にその気になってね、戻したんだよ。何だい、変な顔をして。茶色の髪に見慣れちまったら、銀の髪は嫌だってのかい?」 「そんな訳ないでしょう。……ああ、この色だ。私の愛するフェイタス河の流れ。誰よりも美しい青銀の髪」 ギゼルはゆっくりとサイアリーズに近づくと、かつてと同じようにその髪を一房手に取り、祈りにも似た敬虔さで静かに口付けた。 「ギゼル……」 「ドレスもとてもよくお似合いです。今夜のあなたは一段とお美しい」 間近で見た少年のような嬉しそうな笑顔に、ドキリとする。 「サイアリーズ様?どうかしましたか?」 まさか見とれていたとも言えず、サイアリーズは慌てて話を変えた。 「何でもない。さあ、さっさと食事に行こう。あたしはもうお腹がぺこぺこだよ」 「はい。お待たせしてすみませんでした」 ギゼルが差し出した腕に掴まり、部屋を後にする。 途中二人の間に会話はない。だがギゼルの何時になく上機嫌な様子が、触れた腕から伝わってきた。 (馬鹿だね……あたしも) 目的の為に全てを捨ててここに来たのに、まだ甘い気持ちが残っている。 髪の事だってそうだ。八年前同様、過去との決別として、ライアリードたちに再会する前に元に戻すつもりではあった。 だが今日その気になったのは、ギゼルの訪問があると聞いたからだ。 ギゼルには、太陽宮でではなく、二人きりの時に見て欲しかった。 ギゼルが喜んでくれる顔が、見たかった。 愚かな感傷だ。 「明朝、私はソルファレナに戻ります。ゴドウィン城でサイアリーズ様と過ごすのも久しぶりですし、今夜は思い出話にお付き合いして頂けませんか」 「お断りだよ…と言いたい所だけど、あたしも明日の事で気が昂ぶってて、すぐには眠れそうもない。美味い酒でも用意してくれたら、考えてやらなくもないよ」 「秘蔵のワインを開けさせて頂きますよ」 恐らく、ギゼルと二人きりの時が持てるのは今夜が最後だろう。 明日の攻撃を皮切りに、戦況は終結まで一気に駆け抜ける。ギゼルもそれが判っているから、無理をしてストームフィストまで来たに違いない。 広間に用意されたテーブルに向かい合って腰を下ろし、ギゼルが注いだ血のように赤いワインを受け取る。 「サイアリーズ様と、これからのファレナ女王国に乾杯」 「……乾杯」 チン…と涼やかな音を立てて、グラス同士がぶつかった。 飲み干したグラスをテーブルに置くと、正面には昔と変わらない、だが確実に何かが変わってしまった男の穏やかな笑顔。 サイアリーズと同じように、ギゼルの瞳の奥にもまた、強い決意の色がある。 明日になれば、全てが動き出す。 一度動き出した歯車は、ギゼルもサイアリーズも巻き込んで、国中を勝利の鬨の声が覆うまで止まる事はない。 だからせめて今夜だけは―― 5アンソロに寄稿させて頂いた作品。再録の際、自宅王子の名前を出しました。 王家の婚姻関係とか年表から判る事実を繋ぎ合わせて、自分なりに想像したのがこの話です。資料集めの方が時間がかかった思い出が(笑) 5はギゼサイと王リオが萌えです。もう一本書きかけのギゼサイがあるんだけど、完成させられないだろうな… |