序章


難しい専門書がずらりと並ぶ、グレッグミンスター城の書庫。
ここには世界に数冊しかない貴重な本も、数多く収められている。
人の出入りが稀な上、足を踏み入れることが許される人間が限定されている書庫は、むっとするような古い饐えた空気が充満していた。
空気の入れ替えも兼ねて、扉は少し開けたまま中に入る。仄かなランプの明かりを頼りに、膨大な本の中から求める資料を探して目を走らせる。
ふと、忙しげに動いていたシオンの視線が止まった。
暗赤色の古びた本。トラン地方に伝わる古い本と同じ装丁である。
だが古い本は、長い間幻とされていた九巻が最終巻の筈だ。(九巻は解放戦争において、解放軍リーダーの手により再びその姿を世に現し、現在国立図書館に保管されている。図書館内でのみ閲覧可)
何となく心惹かれ、やや背伸びして手に取る。長い間に積もった埃がぱぁっと舞った。
古い本に負けない位年代物のようだが、保管状況が良かったのか傷みは少ない。
表紙のタイトルは見たこともない文字で書かれていた。
トラン地方の物ではないのか、それとも古文書と呼ばれるべき物なのか。
中を開いてみてやっぱりと肩を竦める。本文も表紙と同じく、判読不能の文字が連なっていた。
おかしな事に、文字が書かれていたのは最初の一ページだけだった。全体で三百ページはあるであろう本の殆どは、無地の黄色い羊皮紙で占められている。
「……?何の本なんだ、これは」
パァッ…… 
そう呟いた途端、開いていたページから強烈な白い光が迸った。
「うわっ……」
とっさに片腕で目を庇う。思わず本を手放してしまったが、何故か床に落ちた気配も音もない。
光は部屋全体へと広がっている。瞼を閉じていても感じる射抜くような鋭い白から逃れようと、空いた片腕を重ねて更に影を作った。

 何を望む?

 突然、光の中に静かな声が響き渡った。
「今の声は…?」
 目を庇ったまま、声の主を探して辺りを見回す。だが声は反響するように四方から聞こえてきて、その位置を捉えることができない。

 何を望む?

温かく低い声だ。誰かに似ている。ひどく懐かしい…

 何を望む?望むものを与えよう。我を開いたその褒美に。

己が手で討ち取ったはずの、父の声に似ている。
「望むもの…?何でもいいのか?」

 願いは一つだ。一つだけなら我は全能の神に等しい。

声の主が何者なのか、この光が何なのか、もうどうでもよくなった。
限りない思慕を呼び起こす声に、シオンは幼子のように必死に願う。
「ならば喪った人たちをこの手に!紋章の犠牲になった彼らに、今一度のいのちを!」
ずっと願っていた。宿星たちの祈りで付き人が戻ってきたように、彼らにもまた奇跡が起きてくれはしないかと。
だが声は、感情を持たぬ単調な響きでその願いを一刀の元に切り捨てた。

 それはならぬ。願い事は一つ、叶えられる願いも一つ。生き返らせることのできるいのちも一つ…

「……では、一人だけなら必ず生き返らせる事が出来ると?」

 我が与えるのではない。汝が自分で掴み取るのだ。失われた過去へ戻り、汝が手で歴史を変えるのだ。運命の別れ道、未来を変えることの出来る分岐点では、標を与えよう。取り戻すも再び失うも、汝の裁量次第。だが忘れるな。選択を過てば、汝の命もない。今ここにいる汝は消え、新たな歴史が動き出す。

「……いいだろう。それで彼を取り戻せるなら」
一人と言われた時点で、彼の心は決まっていた。亡くしたのは己に運命を託した女性、己の手にかかった敬愛する父、己を助ける為に身を投げ出したかけがえのない親友。
父は復活を望まないだろう。彼の成長に満足して逝った父だ。彼女とその恋人であった男には恨まれるかもしれないが、何としてももう一度親友に会いたかった。
心の内で残る二人に詫びながら、彼は世界に向かって願いを叫ぶ。
「テッドを!彼を生き返らせるためのチャンスをくれ!」

 承知した

溢れていた光が、さあっと波が引くように消えていく。
瞼を焼く白い閃光がなくなったのを感じ、恐る恐る目を開けると。
「……え……?」

シオンは懐かしいマクドール家の屋敷の中に佇んでいた。


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