一瞬、いつも見慣れた灰色がとうとう世界を覆い尽くしたのかと思った。
黒一色で塗りつぶされた世界にぽつんと落ちた染みの様に、目に映る色と言えば自分の姿しかない。右も左も、上下すらも判らない。 ただ不思議と、不安も孤独感も感じなかった。どこまでも広がる黒は温かく穏やかで、まるで母親の胎内にいるような安心感を覚える。 そう思ったところで、フッと唇に皮肉気な笑みが浮かんだ。 馬鹿げたことを。自分に母親の胎内の記憶などありはしないのに。 人ならざるモノ。 人工的に作られた体は、神秘の誕生の手順を辿って生まれたものではない。 ヒトの姿を模して作られた、紛い物。 「……我が真なる風の紋章よ」 辺りを見回して、とりあえずすぐに身に危険が及ぶことはないと踏むと、右手に宿る紋章の力を発動させる。生まれた風は、術者を中心に波紋のように360度の方向に広がって行き。 「……やはり何の手ごたえもなしか」 いつまで経っても、風が障害物に当る音は聞こえなかった。予想はしていたが、打つ手を失ってやれやれとその場に腰を下ろす。 さて、どうしたものやら。 大体何がどうなって自分はこんなところにいるのだろうと記憶を振り返るが、思い出せるのはベッドに横たわった所までだ。 (寝ている間に連れて来られたのか…?) 現実世界から切り離された空間であることは判る。ここには何かしらの魔法の波動を感じるし、しかもこの波動には覚えがあった。それが何処で知ったものなのかまでは思い出せないが。 「へえ、『開いた』感覚がしたから来てみれば…珍しい来客だな」 突然辺りに反響するように響いた声に、ハッと顔を上げた。 目の前の黒の中にぼんやりと他の色が滲んでいる。この声は。 「またお前に会うとは思わなかったよ。久しぶりだな。確か…ルックって言ったっけ?」 色はやがて一人の人間の姿を形作った。青い服を纏った、明るい栗色の髪の少年。 「………お前は…っ」 驚愕の叫びをあげたルックに、彼は18年前と全く変わらない姿で微笑みかける。 それはかつて二回だけ会ったことのある、ルックと同じく真の紋章を宿していた、既にこの世にはいない筈の少年だった。 「にしてもお前あんまり背伸びなかったんだなー。あの島で会った時よりはちょっとはでかくなったみたいだけど、見た目は20歳くらいか?外見14の俺と身長殆ど変わらないな。よしよし」 「…………」 両拳を握り締め、勝った!と呟いているテッドを横目で見遣る。 彼は初めて会った時と全く変わらなかった。明るくて、開けっぴろげで、改めて見てもとても300年も生きた人間とは思えない。 テッドの事は、彼らが星見の結果を受け取りに魔術師の島に来る少し前に、レックナートから聞かされていた。 テッドはルックがレックナート以外に初めて会う真の紋章持ちだった。 少年の姿のまま、紋章の存在を隠し300年一人で生きてきたと言う。子供の姿をしていても、きっとその瞳の奥にはレックナートと同じ、長き時を生きた者の英知が窺えるのだろう――だがテッドは、ルックがイメージしていた彼とは大きく違っていた。 竜騎士の子供と本気で喧嘩する様は、むしろ外見よりも幼く見えた。その笑顔から、紋章が他人の魂を喰らうことも気にせず不老の人生を謳歌しているのだろうと呆れ、ちょっとした悪戯にテレポートを彼だけ失敗したりしてみたが。 やがて宿星として解放軍に参加しシークの谷に同行した際、ルックは己の認識が誤っていたことを思い知らされた。 『ごめんな…俺の分まで生きろよ……』 友の為に自らの命を躊躇いなく投げ出すような人間だった。 紋章が人の魂を奪うことを恐れていた。 シオンの腕の中で、切ないまでの笑顔を浮かべてテッドは逝った。 解放軍に居た頃は真の紋章をレックナートに外して貰っていた為、ルックの時間は普通に流れていた。不老を生きるという事を、ルックはまだ理解してはいなかった。 今ならば彼の生きてきた人生を多少ながら思うことが出来る。 彼の親友と同じように、同世代の仲間たちとの外見に隔たりが生じてきた今のルックなら。 「しかしその身長だと大変だなー。魔法使いは戦士と違って直接攻撃じゃないから、戦闘は問題ないだろうけど、女の子にはモテないよな」 「……身長の話はもういい」 密かにセラより背が低いことを気にしているルック、強引に話を打ち切るとテッドに向き直った。 「ここがソウルイーターの中で、真の紋章を持っている僕が眠っている間に引き寄せられたというのは判った。だけど君の話では、あいつの近くで眠らないとここに来ることは出来ないんだろう?僕はあいつがどこにいるかも知らないし、今日眠りについた場所はハルモニア領であるカレリアだ。まさかあいつがすぐ傍にいるとでも?」 「いや、シオンは今竜洞にいる。炎の英雄や仮面の神官将の話は風の噂で伝わってきているが、あいつはそれにお前が関わっていることを知らない。これだけ距離があるのにお前が引き寄せられた原因は、お前がシオンの宿星で関わりが深いっていうのと…………多分、俺の所為なんだろうな」 「どういう意味だ?」 訝しげに眉を寄せたルックにテッドは、 「お前と俺の宿星は同じなんだ。だから波長が合いやすい」 「同じって…君も宿星だったことがあるのか!?」 「ああ、160年以上昔の話だけどな」 「…………」 ルックは改めて、目の前の人物を自分と同じ天間星として眺めた。 天魁星を中心とする二つの戦争に参加してみて、宿星にはどことなく似たようなタイプの人物が入ることは気づいていた。 それぞれの宿星にどんな役割が与えられているのかまでは判らないが、天魁星を支えるのに必要な人物が宿星に選ばれるらしい。 シオンから聞いた限り、テッドと自分が似ているとは到底思えない。天魁星にとっての役割だから、性格ではなく能力の方なのだろうが――能力という点でも疑わしい。 「あ、その顔は信じてないな?自慢じゃないけど、俺の魔力値はビッキーより上だし、ジーンさんとは同じレベルなんだぜ」 「ビッキーとジーンを知っているのか?」 テッドの魔力値が高いことも驚きだが、その口から宿星二人の名が出てきたことに驚いた。 テッドはシオンが解放軍リーダーになる前にウインディに捕まった筈だ。 「ああ。ソウルイーターに取り込まれて、シオンの目を通して外を見れるようになってびっくりしたよ。あの二人、160年前と全く変わってないんだもんな。真の紋章持ちって訳でもないみたいなのに」 「…………」 ビッキーはいつものごとく時空を越えたのかもしれないが、ジーンは……深く考えない方が良さそうだ。 「君の魔力値が高いなんて、あいつは言ってなかったけど?」 「そりゃそうだ。シオンの前では魔法を使ったことないし」 「だとしても魔法使いには気づかれたはずだ。町の紋章師程度でも、ジーン程の魔力値があれば……」 言いかけてハッとなる。もしや。 「……魔力を抑えていたのか?」 テッドがにっと不敵に笑った。 潜在能力を専門家である紋章師にまで隠せたというのなら、彼の力は本物だ。 「まあ紋章を宿してさえなければ、魔法使いの前で少し気を使うだけで済むから、それ程難しくはなかったよ。上手く隠せてただろ?」 確かに魔術師の島で会った時、ルックはテッドに魔法使いの素質を感じとれなかった。 ここでは肉体が存在しないのでテッドの魔力値を確かめる術はないが、恐らく嘘ではないのだろう。 真持ちのくせにぎゃあぎゃあ騒ぐだけの子供っぽい奴と思っていたら、中々の食わせ者だったという事か。 侮りがたし300歳。 「……いいけどね別に。で、僕はいつになったら自分の体に帰れるんだ?」 「白い光がやってくるまでだな。それまでゆっくりして行けよ」 「ゆっくりったって……」 正直、この場をどうしたらいいのか判らなくて困惑する。何せ実際にテッドと会って話をしたことがあるのは一度きりなのだ。 「じゃあ俺の方からも質問な。お前、シオンやコウリのことはどう思ってる?」 「……あいつの考えてる事は僕には理解できないね。あまり近寄りたくない人種だ。あいつの方は危なっかしくて目が離せない。よくまああれで勝ち残れたものだと感心するよ」 「あいつあいつって……名前呼んでやれよ」 「言わなくても判るだろ」 「そりゃそうだけど、仮にも一緒に戦いを潜り抜けた戦友だろうが」 「ふん、レックナート様に言われたんじゃなきゃ、あんなところにはいないよ」 「そうか?その割には結構楽しそうだったけどな」 くすりと意味深な笑みを浮かべるテッドを、キッと睨みつける。テッドはシオンの目を通してルックの姿を見ている。その客観的な視線は、ルックの本心を見抜いているのか。 黙ってしまったルックに、 「じゃあ次の質問」 にっと笑ったかと思うと、ふわりとテッドの体が宙に浮いた。自分よりも僅かに背が高くなったルックを、上から見下ろすようにして。 「ルック……お前はもう、色を失ってしまったのか?」 「―――っ!」 瞳から人懐っこさが消えただけで、こんなにも印象が変わるのか。 ルックの体に緊張が走った。子供の外見にそぐわない威圧感は、まるでレックナートの前にいるような錯覚を覚える。 「お前の瞳に映る世界は灰色か?鮮やかな色はもう忘れてしまったのか?紋章は確かに灰色の未来を見せるだろう。だがその未来は確定したものじゃない。……お前は、自分で灰色の未来を引き寄せてしまっているんだ」 「……何が言いたいんだ」 ごくりと息を呑んでテッドを見上げる。ゆらゆらと風もないのにテッドの髪が揺れる。 「思い出せ。お前の手に繋がるものを」 スッと伸びて来た手が右手を取った。紋章に触られるのかと一瞬警戒したが、テッドの手は甲ではなく手のひらに添えられた。 「お前は一人じゃない」 テッドの瞳の中に、脅えた子供のような自分が見える。 「………300年生きているというなら、君もあの世界が見えたんだろう?」 それを払拭する為に一度瞼を閉じる。再び目を開けた時には、アースブラウンに映る自分はいつもの冷静さを取り戻していた。 「ああ、見えたぜ。それが何か?」 「……君は平気なのか?」 あっけらかんと何でもないことのように言うテッドに、驚きを隠せない。 「あれが世界の未来なんだぞ!君は許せるのか!?あいつの…シオンの生きる来があんな風になってしまっても!!」 「ならないよ」 再び瞳に温かな色を宿し、テッドが微笑んだ。 「あんな未来には絶対ならない。例え紋章が灰色の世界を見せても、俺の目に映る世界はいつも色鮮やかだった。……シオンがいてくれたから」 「………」 「人間は結構しぶといもんだよ。紋章の思い通りになんて、そうそうなりはしないんだ。お前だって知ってるだろ?強い想いはグレミオさんを生き返らせ、死に逝こうとするジョウイの命を留めた」 「……でもそれは、人間一人分の小さな抵抗だ。世界を救う程の力はない」 「一人一人が少しずつ努力すれば、できると思わないか?お前一人が、全てを背負うことはないんだ」 握られた手のひらが温かい。少し掠れた高めの声が、柔らかくルックを包み込む。 久しく感じていなかった安らぎに心が揺らぎそうなるのを必死に留めて。 「……僕はもう決めたんだ」 「そうか」 何を、とテッドは訊かなかった。 離れていく手のひらを少しだけ寂しく感じて、慌てて己の中に生まれた感情を振り払う。 再び地に降り立ったテッドは、(ここに地面という概念は無いが、ルックと同じ場所に立ったようだ)先ほどまでの深い瞳ではなく、外見そのままの子供の顔に戻っていた。 「あいつに言うかい?」 「シオンに?いいや。どうせここで伝えても現実のシオンは覚えていないし、それに…」 知られたくないんだろ?と、見透かされたように言われて口を噤む。 「多分シオンは知ったからって止めやしないと思うけど、まとわりつきはするだろうな。お前の行く先々に現れて見守ると思うぜ」 「冗談じゃない。そんな鬱陶しいのはごめんだ」 「だな。シオンって結構しつこいし」 くすくす笑っていたテッドがふと顔を上げた。 「そろそろ終わりの時間らしい。お前と話が出来て嬉しかったよ。多分もう二度と会うことはないと思うけど」 「……やっぱり僕がここに来たのは偶然じゃないんだな。お前が僕を呼び寄せたのか」 「ああ。他の防人たちにも力を貸してもらって、少しだけ無理をした。お節介して悪かったな」 「本当だよ。大きなお世話だ」 「そう言うなって」 苦笑するテッドの背後から、強い閃光が迫ってきた。あれが終わりの合図か。眩しさに目を細めると、逆光の中でテッドが言う。 「同じ宿星のよしみで言わせてくれよ。俺もシオンもお前のやることに口出しするつもりはないけど、心配してるってことは覚えていてくれよな。ソウルイーターの中で再会しないことを祈ってるぜ」 「……僕ももう二度とこんな所に来たくないね」 最後のセリフを言い終わるか終わらないかという所で、世界が白くフェードアウトする。あの強い光の中では、テッドにルックの表情は見えてはいないだろう。 笑みの形を刻んだまま、ルックの意識は肉体へと呼び戻されて行った。 ごごごごごご… 遠のく意識の中で、大地を奮わせる振動音を聞く。 柔らかい膝の上、自分を愛してくれる人の、愛しく思う人の腕の中で迎える死はなんて安らかなのだろう。 目的は遂げられなかった。自分は世界を救えなかった。 本当はうすうす感づいていた。自分一人がどんなに足掻いても、きっと未来は変えられない。 それでもやらずにはいられなかった。 愚か者と罵られようと、それでも僅かな可能性に縋らずにはいられなかった。 閉じた瞼の上を通り過ぎていく、色鮮やかな思い出。 最早こんなに美しい世界は、記憶の中にしかない。現実のこの目に映るのは全て灰色で、濃淡しかないモノクロの世界は、あの色彩溢れる美しい世界を渇望せずにはいられない。 楽しかった。 楽しかったんだ。石版の守りという役目に誇りを持っていた。誰かに頼りにされることも、誰かと協力して戦うことも楽しかった。たくさんの人々に名前を呼ばれるのも嫌じゃなかった。 天魁星たちの持つ輝きに、惹き付けられた。 皮肉にも、この戦いに於いても自分は宿星であるらしい。ビュッデヒュッケ城で見かけた少年。彼もまた天魁星としての光を持っていた。 世界の未来など考えずに、彼の元へ集えばまだあの鮮やかな世界が見れたのだろうか。 一時だけでも、この灰色を忘れられたのだろうか。 世界への最後の決別に微かに目を開けると、あどけない少女の顔があった。 その瞳を覆う瞼は、もう開く事は無い。 「…………セラ」 その時、不意に瞳に色が戻って来た。 「……っ!……」 セラを中心に、パァーっと色彩が溢れる。美しい金髪、透き通るような白い肌、落ち着いた上品な青の服。幼い頃から育てた少女。 「……セラ」 奮える手を伸ばしてふっくらとした頬に触れると、ぐらりとその体が倒れこんできた。まるで降り注ぐ瓦礫から、ルックを守るかのように。 (光はこんな近くにあった) ルックの唇に微かな笑みが浮かぶ。 (あいつらの元じゃなくても、光はあった) (この手は最初から、光に繋がっていた) (思い出したよ。……テッド) 力尽きた手が、パタンと地面に落ちる。 思い出したんだ。 僕は一人じゃなかった。 ルックとテッドが同じ宿星と知って、俄然萌えました。 4テッドとルックは似たものがありますよね。1テッドとは全然似てないけど。 人生の先輩から、ちょこっとだけ後輩に忠告です。 ルックは3ルックが一番好きです。ルクセラ〜V |