祈りの生まれるところ



これだけ人がいる城で、ましてや客人の立場である自分が一人になれる場所というと限られてくる。
コウリとその仲間たちがエレベーターを降りるのを見届けてから、シオンは最上階へのボタンを押した。
一番後ろにいたシオンが一緒に降りていないことに、コウリたちは気づいていない。ルックだけがちらりと振り返ったが、何も言わなかった。
エレベーターはシオン一人を乗せたまま上昇していく。最上階に着き、屋上へと続く階段を上って外に出る。軽い身のこなしでフェザーの所まで登ると、若いグリフォンは微かに移動して、シオンのために場所を空けてくれた。
「ありがとう」
微笑してその首筋を撫でると、気持ちよさ気に目を細める。シオンはフェザーの横に座り込み、眼下に広がるデュナン湖を見下ろした。
「…………」
きらきらと湖面が太陽を反射して輝いている。
昔からシオンは高いところが好きだった。風を受け、地上からは見えない遥か遠くを、何をするでもなくぼんやりと眺めているのが好きなのだ。解放軍時代、マッシュは仲間たちに「シオン殿がいなくなったら高いところを探せ」と言っていたくらいだ。
あの時も、こうして自分は一人湖を眺めていた。
グレッグミンスター城に突入する前日。翌朝になれば解放軍のリーダーとして、かつて父と共に忠誠を誓った王を王座から引き摺り下ろしに行くという日も。
本音を言えばバルバロッサとは戦いたくなかった。幼い頃より憧れていた黄金の皇帝と帝国五将軍。その彼らと戦う羽目になり、ましてや従える立場になるなんて夢にも思わなかった。
テオを除いた将軍たちは、解放軍の傘下に降り共に戦ってくれている。一緒に戦えば戦うほど判る彼らの強さ。
その彼らが崇拝するバルバロッサと、どうしても戦わなければならないのだろうか。
一度だけ間近で会った皇帝は…一生の忠誠を捧げるに相応しい人物だったのに。
だが王を倒さなければ、戦は終わらない。
バルバロッサがどんなに優れた人物だとしても、ここまで来たからには皇帝を倒し赤月帝国という国が滅びるまでは戦いは終わらないのだ。
シオンが倒したかったのは、本当はウィンディただ一人だった。幼いテッドの運命を変え、己の私利私欲の為に彼を死に追いやったウィンディを、何としてもこの手で倒したかった。
目の前でウィンディが死に、目的を失った後は全てを投げ出して逃げた。
英雄に向けられる讃美も、大事な人を失ったことへの慰めも、何もかもが煩わしかった。欲しかったのは、失ってしまった優しい笑顔だけだった。
ひっそりと世間の目から逃れて宛ての無い旅を続け、それでも故郷が恋しくなって近くのバナーの町に滞在していた時にコウリと会い、彼が新たな天魁星であり親友と心ならずも敵対していると知った時、星がまた天魁星に過酷な運命を強いていることに怒りを覚えた。
僕だけじゃ足りないのか。星は一体いくつの天魁星の涙を欲すれば気が済むのか。
自分と同じ運命を辿らせたくなくて、戦争には参加しないという条件で協力要請を受けた。時間に取り残され、生きる目的を見失っていた自分にとって、誰かの為に働くというのも中々心地いいものだった。
湖と反対側に目をやると、城内が俄かに活気付き、兵士たちが忙しそうに走り回っているのが見える。
ロックアックスの陥落と軍主の義姉の死が、兵士たちの士気を高めているのだ。ルルノイエに出撃するのもそろそろだろう。多分これが最後の戦いになる。
……コウリはどうするつもりなのだろう。
リーダーとして、幼なじみである皇王と戦うのか。それとも幼なじみを助けるために、自分を信じて付いてきた仲間を裏切るのか。
彼がどちらを選んでも、自分は口を出すつもりはない。ないが、その結果を見たくもなかった。
幼なじみの遺体を前に泣くコウリも、裏切者と罵られるコウリも。
シオンは右手の手袋を外した。
人前では絶対に外す事は無いが、今ここにいるのはフェザーだけだ。彼ならば興味本位に紋章を覗き込んで来たり、痛ましげな目で見ることはないだろう。
右手に宿る真の紋章。大切な人たちの命を奪った憎い敵であると同時に、テッドから命がけで託された信頼の証であるそれには、彼らの魂も宿っている。
目を閉じて、祈るようにそっと口付けた。



目を開くと、屋上の入り口に立って驚いたようにこちらを見上げているコウリと視線があった。自分がいないので探しに来たらしい。
あまり見られたくないところを見られてしまったなと思いつつも、努めて平静を装ってコウリの元まで降りる。勿論彼の所に行くまでには手袋は装着済みだ。
「どうしたの」
覗き見した気になるのか、おたおたと慌てるコウリに、内心の動揺など微塵も見せずに微笑みかける。英雄と祀り上げられ、本音を隠すことにもすっかり慣れてしまった。
最後に心の底から笑ったのがいつだったかも…もう思い出せない。
「急にシオンさんが居なくなったんで……探しに来たんです」
「ああ、ごめん。報告なら僕は関係ないと思って」
戸惑いを隠せないコウリからすっと視線を外し、シオンは再び湖に目を向け唐突に言った。
「風」
「え?」
「風、気持ちいいよね。ここ」
頬を撫でていく風は身を切るように冷たく、冬の訪れを伝えていたが却ってそれが気持ち良い。
「僕もお気に入りなんです。一人になりたいときに、良く来るんですけど」
「フェザーがいるけどね」
何事もなかったかのようにくすくす笑いながら、ちらりとコウリの表情を盗み見る。やはり彼もさっきの事を気にしているらしく、敢えて振ったどうでもいい話題に乗ってきてくれた。
だが。
「明日、ルルノイエに向けて出発します。…付いて来て欲しいんです」
その後の搾り出すように発せられた声に、シオンは笑みを消して振り返った。
「リーダーの頼みなら、行くよ。約束だしね」
コウリはどちらの答えをだしたのだろう。
「ハイランドの皇王が僕の幼なじみなのは知ってますよね。僕は本当はリーダーなんてやるつもりはなかった。ナナミとジョウイと幸せに暮らしたかっただけなのに。僕が望んだのはそれだけなのに……」
強く握り締められた両手が震えている。願いは本当にささやかなものなのに、それが叶うことは何故こんなに難しいのだろう。
「…君はどうしたいの」
「ジョウイと戦いたくない。でも僕たちはもう引き返せない所まで来てしまった。ナナミを失い、僕の望んだ幸せはもう永遠に手に入らない」
「逃げる気?」
コウリを責めるつもりはなかった。彼が出した答えは彼自身のものだ。彼がジョウイと戦いたくないというのなら、それもいいだろう。
コウリもまた、自分と似たような状況でリーダーになったと聞いた。軍師より軍を率いて欲しいと請われ、自分のような子供が本当にリーダーとしてやっていけるのか悩み、結局軍師の言葉を信じて承諾した。
自分がリーダーを引き受けたのは、オデッサの無残な死を目の当たりにした怒りからだ。それがそのうち自分自身の意思で、この戦争を終わらせたいと願うようになった。過去の紋章の村で会った幼いテッドのように、大事な人を失って泣く人がいなくなるようにと。
だが戦争が終わり、人々に再び笑顔は戻ったけれど、代わりに自分の大事な人たちを失った。
あの時リーダーになることを引き受けなければ、少なくとも父を失うことは無かったかも知れない――後悔はしていないが、そう思ってしまったのもまた事実。
その事実がシオンの心を重くする。
コウリにはそんな思いをして欲しくなかった。彼はまだ、自分のように完全に失ってはいないのだから。
泣きそうな顔を笑顔で隠し、コウリが言った。
「逃げはしません。逃げるんならティントで逃げてました。あの時は本当に迷ったんですよ。このまま逃げてしまえば、ジョウイと戦わずに済む。でもジョウイを取り戻すこともできない…。 そして結局僕はジョウイの意志を…想いを受け止めるため留まったんです。それが彼の想いに報いることだと思うから…。僕は同盟軍のリーダーとしてハイランド皇王ジョウイ・ブライトを倒します。それを見届けて欲しいんです」
その凛とした態度に、コウリを甘く見ていたことを知る。
勿論親友と共に逃げたいのが本音だろう。だが彼は敢えて辛い道を選んだ。親友の命よりも、親友の想いを尊重した。
「…わかった」
言い終えると同時に溢れ出した涙が、彼の強がりの限界だった。ハンカチを渡してやり、声を殺して泣くコウリを少しでも慰めたくて、シオンは自分のことを語りだした。
「…僕も失いたくない人を失ったよ。何人も…。一人は僕に意志を託していった。一人は信念を貫いて、僕の手にかかった。一人は僕を守るために命を投げ出した。一人は…僕にすべてをくれた。彼が居たから、今僕は僕としてここに居られる…。それに彼は今も僕のすぐ側にいるんだ。ほら…ここに…」
「ソウルイーター?」
「うん。前のソウルイーターの主だった彼の魂は、ここに囚われている。彼だけじゃない。ソウルイーターの犠牲になった魂は、みんなここにいる」
シオンにも大切な人がいた。英雄なんて騒がれているけれど、本当はコウリと同じ只の子供だ。
開放戦争後に出会った人たちの前で被っている英雄の仮面を、今この時少しだけ外す。
彼になら、素顔を見せてもいいかもしれない。
自分と同じように、親友を求めている彼になら。
「彼はソウルイーターを受け継いでから三百年、たった一人で生きて来たんだ。成長を止めた姿で、ソウルイーターを狙うものの手から逃げながら。 でも彼は決してソウルイーターに負けなかった。僕の知っている彼は、いつも笑っていたよ。彼の笑顔が、どれだけ僕を幸せにしてくれていたか…失ってしまってから気づいても、もう遅い」
「遅くないと思いますよ」
コウリの言葉にはっと顔を上げる。いつのまにかコウリの涙は乾いていて、優しい笑顔でシオンを見つめていた。
「そんな強くて優しいひとなら、きっと言葉にしなくても感じてくれていたと思います。それにその人はソウルイーターの中に居るんでしょう?シオンさんの気持ち、伝わってますよ」
「コウリ…」
これじゃどっちが慰めているんだか判らない。嬉しくて泣きそうになりながら、英雄の仮面が完全に剥がれ落ちたなと思ったが、何だかそれが嬉しかった。
今自分たちは英雄でも同盟軍のリーダーでもなくて、どこにでもいる只の子供だった。
「僕はね、ジョウイが好きなんです」
「うん」
「本当はジョウイとナナミを残して、世界中のすべてを滅ぼしちゃってもいい位好きなんです」
「うん。…僕も彼が戻るなら、世界を滅ぼしてもいいかな」
こんなこと言えるのも怖いもの知らずの子供だからだ。
「この気持ちって、何て言うんでしょうか」
「そうだね……例えば」
「恋、とか?」
二人で密かに笑いあう。
男同士なのに、恋なんて言葉は変なのに、でもその言葉しか出てこない。
「前は一緒にいられれば良かったんです。でも離れてみて、僕は本心に気づいてしまった」
「彼に触れたい?」
「はい」
やっぱり、と思う。コウリが親友を語る目は、自分がテッドを想う気持ちと一緒だった。
友達だけじゃ足りなくて、彼の一番になりたいという強い想い。
「あまりにも側に居たから、離れてみるまで気づかないんだよ。僕が自覚したのは彼を失った瞬間。 腕の中で彼の息が止まった時、僕は彼への想いに気づいた。そのとたん彼は永遠に届かない所に行ってしまった…」
この腕の中で、逝った彼。
「でもこの恋はまだ終わっていないんだ。僕がテッドの生きた三百年を生き抜いて、いつかソウルイーターに喰われるとき、 僕はやっと彼に告げられる。それまでは終わりじゃない。…これは続き」
あの時の無力な自分を払拭するように、強く両手を握り締める。
さあコウリ、僕のカードは全て晒した。君はどんな答えをくれる?
「僕はジョウイと戦うって言ったけど……反面絶対戦ってやるもんかとも思ってるんです。だってそうでしょ? 戦争をしているのは同盟軍とハイランドで、僕とジョウイは憎みあっているわけじゃない。むしろ互いを想うからこそ戦いを始めたんだ。 でもきっと、王座にいるジョウイを見たら、僕は彼と戦うことを選ぶでしょう。それがこんな僕に付いて来てくれたみんなへの信頼の証だし、同盟軍リーダーとしての僕の意地です」
言いながら再びコウリの目に涙が溢れ出した。
先ほどのハンカチで涙を拭うが今度は止まらなかった。嗚咽を漏らし始めたコウリの肩を、宥めるようにそっと抱きしめる。
本当に彼は強い。彼なら大丈夫、自分と同じ過ちを犯すことはないだろう。
座り込んで自分の膝に顔を埋めたコウリの隣に寄り添って腰を下ろし、シオンは風に棚引く同盟軍の旗を見上げた。
言葉はなかった。今はただ、傍にいてやりたかった。


湖が茜色に染まった頃、ようやくコウリが顔をあげた。泣くだけ泣いて落ち着いたのか、立ち上がって服の埃を払うその様は、もういつもと変わらない。
なんだかんだ言って、彼も仮面を被ることを覚えている。でなければ、リーダーなんてやっていられない。
続いて自分も立ち上がり城の中に戻ろうとすると、立ち尽くしたままのコウリがシオンの背に問い掛けてきた。
「運命を怨んだことはありませんか…?」
肩越しに微かに振り返ると、真剣な目がシオンを見つめている。
「僕は今、運命を怨んでいます。ジョウイと戦う運命を強いた、紋章を憎んでいます…っ」
叫びにも似た声は、不条理な運命に対しての怒りだった。
どうして自分たちが戦わなくてはならないのか。どうして自分たちが紋章に選ばれたのか。
押さえつけていたやり場のない怒りが、今コウリの中で堰をきって溢れている。自分にも覚えのあるあの感情。
シオンは向き直って、まっすぐコウリを見返した。
「運命なんて、自分で切り開くものだよ。諦めさえしなければ、望みは叶う」
驚いたように目を見開くコウリを残して、シオンはくるりと背を向けた。
城内へと続く階段を降りながら、よくもまあぬけぬけとあんな言葉が言えたものだと自嘲する。
いつだって諦めそうになる。このまま一人で三百年も生きるのかと思うと気が遠くなる。
たとえ三百年生きたって、再びテッドに会えるかどうかも判らないのに。
ただ今のままならいつまで経ってもテッドには追いつけない。彼の生きた三百年を生きてこそ、ようやくテッドと対等になれる気がする。
いつかソウルイーターの中のテッドに会えた時に彼と肩を並べられるように、どんなに辛くても歯を食いしばって生きようと決めたのだ。
あの言葉は自分に言い聞かせた言葉だった。
――諦めさえしなければ、望みは叶う
諦めない。たとえどんなに困難な道でも。


「だから…待っててよね、テッド…」
祈りが彼に届くように。


書いてみて作者も驚き。この時シオンはこんなことを考えていたのか…。
コウリの方が芯は強そうです。



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