闇の中のかいな



例えるなら羊水のような。
温かくて、優しくて、自分の全てを受け入れてくれるような。
自分は守られている、と感じる。大きな手のひらで包み込まれていると感じる。
そんな闇の中に、気がつくとシオンは一人佇んでいた。

(ここは、どこだろう)

頭に浮かんだ疑問もどうでも良くなる位、ここの闇は優しい。

(自分は、見える)

腕やら足やら体を見渡してみる。
真の暗闇なら自分の姿も見えないはずだ。
暗闇の中でシオンだけがポッカリと浮かび上がっていた。

とりあえず、右も左も判らぬまま歩き出す。
だがすぐにその足を止めてしまった。目標物の無い空間で、闇雲に歩くのは危険だ。少し進んだだけでも判る、この場所の広さ。体に触れる風は自らが起こした空気の流れに他ならない。
自分以外の動くものの存在しない空間。
だが不思議と恐怖は感じなかった。辺りに広がる優しい闇の所為だろうか。
むしろ心地よくさえ感じる。生まれる前の、母の胎内に戻ったような……否、母の胎内にすら宿る前の死後の世界のような安心感。
新たな生を受ける時に忘れてきた筈のあの世とは、こんなところでは無いのだろうか。
闇は絶えずシオンに囁きかけてくる。
お眠り……自分と一つになろう……と。
シオンはその場に座り込み、立てた膝に顔を埋めた。何もやる気が起きない。 目を閉じると、益々暖かい闇の気配を感じる。
自分を労るように、まとわり付くそれ。
誘いに乗ればどうなるのか、なんとなく想像はついた。
だが応じてもいいと思う。ここは暖かいけど寂しくて、一人で居るのが辛いから。
この闇と一つになれば、寂しくないような気がする。

(もうずっと僕の胸には穴が開いたままだから)

彼を失って以来、この胸を吹き抜ける風が冷たくて凍えそうになる。
この穴を埋めてくれるというのなら、闇と一つになってもいい。
今の自分はどうせ生きる屍。大事な人を失い、永遠にも近い命をただ彼との約束を守る為だけに浪費している。
生きる目的の見出せない、空虚な生。
シオンが心を開いたのを感じ、闇が嬉々としてシオンの体に絡み付いた。背中から広がる暖かい気配が誘うのは、永遠の深い眠り。

(どうせ……君に会えないなら、このまま……)

「駄目よ、シオン!」
「!」

今まで誰の気配も感じられなかった空間に、鋭い声が響いた。
シオンを包んでいた気配が、声に脅えたように霧散する。目を凝らすと、暗闇に僅かな色が滲んでいる。
色はだんだん濃くなり、やがて一人の人間の姿になった。

「闇の誘いに乗っちゃ駄目。それが奴の罠なのよ」
「オデッ……サ?」
「そんな幽霊でも見たみたいな顔しないで。まあ、似たようなものだけど」

オデッサが肩を竦めて笑った。
そこに居たのは、前解放軍リーダー、オデッサ・シルバーバーグ……シオンの腕の中で息を引き取ったはずの人だった。
ふらふらと立ち上がり、彼女に近づく。戸惑いがちにそっとその腕に触れると、指先に血の通った温かい肉体を感じて目を見張った。

「本当にオデッサなのか…?。あなたはあの時死んだ筈だ」
「ええ、確かに私の肉体はレナンカンプの地下水路で滅びたわ。……ここはね、ソウルイーターの中なの。ソウルイーターに喰われた魂たちが存在する場所。危なかったわね。さっきあなたはソウルイーターに喰われそうになっていたのよ」
「……っ」

驚いて思わず辺りを見渡す。
だがもう先ほどの気配は感じなかった。

「ソウルイーターに喰われた魂は、ここにしばらく居て……そのうち消えて行くわ。 さっきのあなたのように、闇の誘いに乗って闇に同化して行くの。 その方が彼らにとっても幸せよ。こんな闇の中で、いつまでも自我を保っている方がよっぽど辛いから…」
「……そんな…じゃあオデッサは……?」

伏目がちに、寂しげに語る彼女の言葉に絶句する。
彼女が喰われてから何年が経った?
あれからずっと彼女はここに居たのか。同化もせずに、
たった一人で?
シオンのもの問いたげな視線に苦笑して、オデッサが続けた。

「私は防人(もりびと)なの。だから闇も私には誘いをかけて来ない。宿主の肉体に危険が迫ったとき、真の紋章の力を発揮するための、防人。宿主に関わりが深く、精神力、存在力の強い者が防人に選ばれ、ここに存在を許される。でも皮肉よね。宿主を守るためにソウルイーターが選んだ防人なのに、いざ宿主を食らおうとするときは唯一の敵になるなんて」

オデッサがシオンの手を取った。
そのまま屈み込んで跪き、祈るように―――懺悔するように握った手を額に押し当てた。

「ごめんなさい。ずっと謝りたかった。あなたに解放軍のリーダーを押し付けてしまった事。それによってあなたは大切な人を失った。私と会わなければよかったわね」
「それは違う、オデッサ」

オデッサが顔を上げた。
その瞳に光る物を見つけて、シオンは労るように細い手を握り返して微笑んだ。

「あなたと出会ったからこそ僕の世界は開けた。それまでの僕は本当に子供だった。世の中の何も見えてなかったんだ。……あなたと会えて良かったと、そう思ってるよ」
「シオン……」

オデッサの手を取って立たせる。本当ならもうとっくに彼女の背を超えている筈なのに、視線の高さはあの時と変わらない。だが精神の方は大人になった。もうあの頃の子供では無いのだ。

「それで……あの……」

今までの大人びた表情とは打って変わり、シオンが口を開いては声に出せずにまた閉じるといった事を繰り返す。
訊きたいのに、訊けない……そんな幼い仕種に、オデッサが小さく含み笑いをする。シオンの言いたいことが判ったらしい。
そして安心した。彼がまだあの頃の純粋さを失っていないことに。

「他の防人のことね。そうね、あなたは知っていたのよね。バルバロッサの城で見ていたんだもの。防人は全部で四人。紋章の四方を守るべく配置されているわ。グレミオさんが居なくなったから今は三人だけど。あなたに関わりのある人物で、防人を勤めるだけの存在力を持った人が居ないから空席になっているの。その分テオ殿が頑張ってくれてる」

父の名にシオンがハッと顔を上げる。

「でも、テオ殿はあなたに会わないわ。理由は判っているわよね」

シオンが小さく頷く。テオは一人の武人として解放軍リーダーである自分と戦った。
あの時、父と戦うことを選んだときより、父と自分の道は分かれたのだ。
今更テオが自分に会う筈がない。自分も会うつもりは無かった。
そんなシオンを姉のような目で見つめると、オデッサは今度は何もない空間に向かって、「いいわね?」と確認するように頷いた。

「そして最後の一人……彼は今、あなたのすぐ傍にいるわ」

オデッサが言い終わるのと同時に、その場に淡い蒼い光が生まれ、やがて一つの姿を作り上げた。
それは記憶の中そのままの。

「テッドッ!!」
「……元気にしてたか、シオン」

半ば予想はしていたが、あまりに突然の再会に動けないでいるシオンに、テッドがふんわりと微笑んで拳を突き出す。
それの意味するところに気付いて、目の前の拳とテッドの顔を交互に眺め、シオンもぎこちなく拳を差し出した。
拳と拳がこつんとぶつかる。 自分たちの間だけの懐かしい仕草。
自分の拳を見つめて、呆然としたままシオンが呟いた。

「本当に……テッドなんだね」
「何だよ、疑ってるのか、薄情な奴。ちょっと会わなかっただけでもう俺が判らないのか」

そう言いながらも、表情は優しい。

「テッドっ」

堪らなくなって飛びつくように抱きしめた。
腕の中に感じる温もり。
優しい手が、そっと背中を抱きしめ返してくれる。
涙が溢れて来たが、もう止められなかった。

「会いたかった……っ。テッドの生きた三百年は生きぬこうと決めてたけど、死んでも君に会える保証はなかったから……諦めかけていたんだ。もう君に会えないんじゃないかって……っ」
「俺もこんなに早くお前と話せるようになるとは、思ってなかったよ。お前がソウルイーターをコントロール出来るようになるのは、もっと先だと思ってたから」

ソウルイーターを宿した者は、まずその力の強大さに振り回される。
心の弱い者は絶対的な強さに酔い、紋章の望むままに殺戮を繰り返し……やがて自らも紋章に喰われて行く。
ソウルイーターの宿主に必要なのは、心の強さ。
紋章の意志に躍らされることなく、制御できる強い意志が必要なのだ。

「でもあの絶対的な力は魅力だから……特に戦争に関わっていたら尚更縋り付きたくなる。それを制御出来るようになるには、ものすごい意志の力が必要なんだ。お前なら絶対大丈夫だと思ってたけど、それにしても早いよ」

紋章を完全に制御できて初めて、ソウルイーターと繋がることが出来るという。
だが紋章が黙って支配されている筈もなく。
紋章は基本的に宿主の魂を喰らうことは出来ないが、己のテリトリーであるこの空間で、魂の状態であればそれも可能だ。現宿主を喰らい新たな宿主を選び、欲望のままに再び命を狩ることができる。そしてシオンは今、無事その危険から逃れたのだ。防人であるオデッサによって。

「テッドは僕とまた会える事を知ってたの?」
「俺とソウルイーターのつき合いは三百年だぞ。お前とは年期が違う」

そういって笑うテッド。
彼がここに来れるようになるまで、どれ位かかったのだろう。
少なくともシオンよりは遅かったのだろう。シオンは幼いころから帝王学を学んで来た。 人の上に立つために、何があっても心を乱さず平常心を保つよう教えられて来た。
そして何よりシオンの周りには愛してくれる家族がいて、仲間がいて支えてくれていた。
だがテッドは普通の子供として育ち、紋章を受け継ぐと同時に大事な人をすべて失った。
紋章を狙うウインディから逃れるために、また成長しない体のために、一つの地に留まることも出来ず。
ましてや彼が紋章を受け継いだのは、あんなに幼い時だったのだ。
あれから三百年、彼はどれほどの大事な人を失ったのだろう。

目の前のテッドからは、想像もつかない彼の過去。
人生に絶望しただろう。運命を呪っただろう。だがそれを乗り越えて、彼は今こうして笑みを浮かべている。
テッドは強い。シオンが彼の立場だったら、ソウルイーターの誘いに、一もニも無く乗っていた。
それでなくてもさっき、闇に身を委ねようとした。
オデッサが来なければ、きっとシオンはソウルイーターに取り込まれていただろう。
それともテッドも……彼の防人に助けられたのだろうか。
ソウルイーターの中にいた、彼を想う人たちに。

「どうしたんだよ、ボーっとして」
「……ううん、何でもないよ。それにしてもどうしてすぐに出て来てくれなかったのさ。僕がここに来たのは気づいてたんだろ」
「感動の再会シーンを演出してやったんだよ。盛り上がったろ」
「このぉっ!!」

笑って思わず拳を振り上げる。すると今まで黙っていたオデッサが、口を開いた。

「本当はね、私があなたを見つけたとき、最初からテッドも一緒だったの。あなたがソウルイーターに喰われそうになってて、私は慌てて止めに入ったけど、テッドは動かなかった……。テッド、あなた本当はシオンがそのまま闇に取り込まれてもいいって思ったんじゃないの?このまま楽になった方がって……。前の持ち主であるあなたなら、彼の気持ちが痛いほど判るだろうから……」

シオンが驚いてテッドを見る。テッドはどこか困ったような――曖昧な笑みを浮かべている。

「テッド……?」
「いいじゃないか、そんなの。俺はお前に会えて嬉しいよ。お前もそう思ってくれているんだろう?」
「当たり前だろっ」

堪らなくなって、目の前の親友を再び強く抱きしめる。
でも僕はちょっと怒っているんだよ。今は誤魔化されてやるけど。
テッドの気持ちも判るから。僕も彼が楽になるのなら、楽にしてあげたい。
でもそれを彼が望んだら、だ。
僕は望んでなかったよ。君に会えなくなるなんて。

「テッド、そろそろ……」

オデッサが言いにくそうに声をかけてきた。顔を上げると、闇だけだった世界に僅かな光を感じる。
遥か向こうに、星のような白い光が輝いていた。光はだんだん大きく、近づいてくる。

「あれは……」
「そろそろタイムリミットだ。お前が目を覚まそうとしてる。実はこれはお前が見ている夢で、夢の中でソウルイーターと繋がってるんだ。目を覚ましたら……お前は何も覚えてない」
「そんなっ……」
「でもまた夢の中で会えるから。……そんな顔するなよ。大丈夫だよ。俺はいつでもお前の側にいるんだからさ」

泣きそうな顔のシオンの額を、テッドが拳で軽く小突く。

「じゃあな、シオン。また夢の中で会おうぜ」
「待ってるわ」
「待って、テッド、オデ……」

光が闇を切り裂きながら近づいて来る。
オデッサとテッドの姿も飲み込まれ、シオン自身も光の洗礼を受ける。
光の中で、シオンはあらん限りの声で叫んだ。

「テッド―――――――っ」




目を覚ますと、何かを掴もうとするかのように、両手を天に伸ばしていた。

「あ……れ?」

頬には何年ぶりかの涙。
切なくて目が覚めた。夢を見ていたはずだが思い出せない。
何かとても大事な夢だった気がするのに。

涙を拭い、ベッドから降りてカーテンを開ける。朝日が部屋の中央まで差し込んできた。

(覚えてないけど……いい夢だった気がする)

最近家の中に篭りがちだった。戦争も終わり、心配だったコウリも無事親友を取り戻し、今は都市同盟を遠く離れた土地で暮らしている。
またやることが無くなって……やや、ふさぎ込み気味だったのは自覚していた。
だが今日はなんだかいい気分だ。
やることがないなら、探そう。そんな前向きな気持ちになる。

(コウリのとこにでも行こうかな)

先日コウリから手紙が届いた。新しい土地で、三人で幸せに暮らしていると、いつかこちらの方に来る事があったら是非立ち寄って欲しいと、そう手紙には書かれていた。手紙を受け取った時は、ただ良かったとしか思わなかったが、今は彼らの幸せな様子をこの目で見たいと思う。
とりあえず何かをしよう。コウリたちに会って、その後の事はまた考える。そのうちにやりたいことが見つかるかもしれない。自分には時間が余るほどあるのだから、急ぐ必要はないのだ。
目的のない生は己を腐らせる。こんな姿をテッドには見せられない。

手早く着替えて一階に降りて行く。思い立ったらすぐ実行だ。
台所ではグレミオが朝食の用意をしていた。 辺りにスープのいい匂いが漂っている。
シオンはスープの灰汁をとる後ろ姿に、以前のような明るい口調で声をかけた。

「グレミオ、僕の分の朝食はお弁当にしておいてくれ。あと、携帯食と水も」
「あっ、坊ちゃん。おはようございます。お弁当なんて珍しいですね。どこかに行くんですか」
「ちょっとコウリのとこまで」
「ええっ!?コウリ君のとこって……キャロの町じゃなく、今住んでる所ですよね?あの町まではちょっとって言いませんけど……」
「ちょっとだよ。すぐ出るから準備してくれ」

強引に言い切ると、グレミオは口をぱくぱくさせて何か言いたげにしていたが、やがてガックリと肩を落とし朝食を弁当用に詰めてくれた。どうせシオンの行動が突飛なのはいつもの事だし、と諦めたのかもしれない。

「いつ頃帰ってらっしゃいますか」
「さあ」
「さあって……坊ちゃーんっ」

グレミオが泣きそうな声を上げる。
弁当と携帯食と水を受け取ると、シオンはさっと身を翻した。これ以上何か言われる前に逃げるのが得策だ。

「手紙は出すよ。じゃあ、行ってきまーす」
「あっ、坊ちゃんっ……」

さっさと部屋を出て行ってしまったシオンの背後で、グレミオが小さく溜め息を吐いた。

「まあ、家に篭っているよりはいいですけどね。それにしても急にどうしたんでしょう。何かいい事でもあったんでしょうか……」


―――こうして新たな物語が始まった。






テッドといつでも会える設定を作りたかったんですーーー。夢の中の事を覚えていないのは、覚えてたらうちの坊ちゃんは起きなくなるから。一日中眠ってる(笑) 拳と拳をぶつける仕種は、小説「ソウルイーター」で二人がやってて、お気に入りだったので。
防人の読み方は本来「さきもり」ですが、守って戦うの意味で「もりびと」と読ませてます。学生さんはご注意!(笑)

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