過去からのエール



接岸の衝撃を、船べりに預けていた背中で受ける。
周囲にいた人々は、揺れが完全に収まるのを待たずに、次々と出口を目指して階段を下り始めた。
それらの後ろ姿を尻目に、再び天を見上げる。
今日も空は青く澄み渡っている。最初から最後まで、天候に恵まれた航海だった。
船はいい。馬車のように生き物に負担をかけることなく、方角を確認する手間もなく、船任せでのんびりと移動ができる。
船が切り裂いた海を泡が再生していく様は、一日眺めていても飽きなかった。
遮るもののない水平線は、赤々と燃えながら沈んでいく太陽を最後まで見送らせてくれた。
幸いにも船酔いとは無縁の体質のようで、船乗りも倒れる大きな時化でも、ベッドと友達になったことはない。
新鮮な海の幸の誘惑もあり、移動手段の選択順位は船がトップだ。
周囲から完全に人影がなくなった頃、ようやく船べりから体を起こした。
名残惜しげに大海を一瞥し、出口へと続く階段に足を向けたその時。
「シオン」
下の方、船が接岸する港から名前を呼ばれた。
最早この世で、シオンを知る人間はごく僅かだ。最後の家族を看取り、故郷を後にしてから新たに増えた知人は片手で足りる。
船べりから身を乗り出して相手を視界に捉えるまでの間に、声と記憶を照らし合わせる。
一声で誰と判る程聞き覚えがない若い男の声となれば、答えは簡単だった。
「やあ。また会えたね、アス」
片手を挙げて見上げてくる海色の瞳に、微笑みかけた。


ここエストライズは、ファレナ女王国の海の窓口である。
交易船や100人もの乗客を乗せる大型船が、ひっきりなしに港に出入りしている。
荷物と人が慌ただしく行き交う港から離れ、二人はとりあえずレストランに入った。
船の到着後で賑わう店の奥に空席をみつけ、向かい合わせで座る。
食事には中途半端な時間だったので、飲み物だけ注文する。すぐに運ばれてきたそれらで喉を潤した後、改めて互いの顔を眺めた。
「久しぶり。元気だったかい?」
「ああ、シオンも元気そうで良かった。コウリは?」
「3年くらい前にデュナンの手前で別れたっきりだ。性格的に、僕もコウリも一人旅の方が気楽でね。暫く一緒に旅をして、飽きたら別れて、偶然再会できたらまた一緒に行くという感じかな」
「そうか」
ゆっくり話したくて落ち着ける場所に移動したのに、挨拶が終わったら話題が無くなってしまった。
よく考えれば、会うのは三度目でも、実際に会話した時間はごく僅かなのだ。
初対面の時は人付き合いの得意なコウリがいた。シオンもアスも、積極的に自分から話す方ではない。コウリが場を盛り上げてくれたから話が弾んだ気になっていたが、お互いについては殆ど知らない。
「今さらだけど、ちゃんと自己紹介をしよう。僕はシオン・マクドール。テッドとは12の時に出会って親友になり、14の時、紋章を守るために彼からこれを受け継いだ」
「伝記は読んだよ。トランの英雄」
テスラが書いた伝記には、リーダーの親友がシークの谷で犠牲になった事が記されている。
短い言葉で、アスはシオンにとって辛い過去を語ることを制した。
テッドがどんな最期を迎えたのかは、5年前にソウルイーターの中でテッドと再会した時に、ざっと聞いている。
「そういえば、君は僕とテッドが親友だった事も知っているんだったね。テッドが紋章を持っていた頃に出会ったそうだが、それはいつの事だい?」
「8月のある日、グレッグミンスターの町で、僕は君に宿屋の場所を訊いた。君はマリーの宿屋を勧めてくれた後、待ち合わせをしていらしいテッドの元に駆け寄った。遅れてごめんと息を切らせながら」
「そんなことあったかな…」
シオンが首を傾げる。
「道を訊かれただけの君の記憶に残らなくて当然だ。僕だって、君がテッドと一緒じゃなかったら顔まで覚えてはいないだろう。――嬉しかったんだ。他人を拒絶していたテッドが、あんな風に心からの笑顔で笑う日が来るなんて」
「他人を拒絶?あのテッドが?」
目を丸くするシオンに、アスは小さく頷き、
「僕がテッドと出会ったのは、霧の船と呼ばれる異世界の船の上でだった。テッドは魔物に紋章を預けていたらしい。霧の船の中では、時の流れが止まるそうだ。ソウルイーターを宿したシオンなら、テッドが何故そこにいたのか想像がつくだろう」
「…ああ」
シオンが左手でそっと右手の甲を押さえた。
真の紋章を外しても死なない、誰も殺さずに済む場所。紋章から逃れられる場所。
心が弱っている時にそんな誘惑を差し出されたら、シオンも手を取ってしまったかもしれない。
だが今のシオンにはコウリがいる。彼を置いて、一人世界から逃げ出すことはしない。互いの存在が支えであり、くびきなのだ。
「自己紹介の続きをしよう。僕の名はアス。220年くらい前の群島戦争の時、オペル船の艦長を任された。テッドは僕の星で、一緒に戦った仲間だ」
「群島戦争の時のオペル船の艦長…じゃあ君が『私たちの愛すべきリーダー』なんだね」
「!何故シオンが…」
アスが目を瞠る。
アスもあの本を読んでいる事が判って、笑みが零れた。
歴史的書物や軍書に関しては並々ならぬ収集癖を持つテオの、書斎にあった一冊。
その最初のページに書かれていた言葉が、『私たちの愛すべきリーダーへ』なのだ。
「父がターニャの本を収集していてね。馴染みの書店の店主が、掘り出し物があると知らせを寄越したんだ」
遺族から処分を依頼された、亡くなった主の膨大な蔵書の中からあの伝記を見つけた店主は、本来なら国立図書館に納めるべき希少本だが、お得意様の将軍には内密にお話を持ちこませて頂きましたと、商売人の顔でニヤリと笑った。
税金で成り立つ国立図書館は、希少価値のある本と言えど、限度内の金額でしか買い取ってくれない。
ある程度資産のあるマニアな個人相手の方が、商売人にとってはありがたいのだ。
「店主の口車に乗せられた父は、まんまと二か月分の給料で買い取ってしまった訳だ」
苦笑して、シオンは小さく肩を竦めて見せた。
「それは凄いな…でも中を見てがっかりしたんじゃないか。だってあの本は」
「あの本は父のお気に入りの一つだったよ。読むと温かな気持ちになれると言ってね。あれは仲間たちから君へのメッセージだよね」
本の内容は群島戦争中のものだが、クールークとの戦いには殆ど触れず、第四甲板で起きた幽霊話や、年越しの宴会の様子、釣りの個人記録や食堂街の人気メニューの徹底解析など、船で起きた他愛ない日常の出来事が、様々な視点から面白おかしく書かれている。
リーダーの友人、料理人、鍛冶屋などの職人、航海士や船大工、海賊、医師、人魚、船乗り、女性や小さな子供を含めた非戦闘員……群島の伝記の著者ターニャとペローという人物が編集者となり、皆の言葉をまとめたらしい。
一般に出回っている伝記には、リーダーの事は殆ど記されていない。
群島戦争に関しては『ラインバッハ英雄譚』という物語の方が有名で、歴史書や軍と縁の薄い一般人の間では、こちらが通説となっている。
シオンも小さな頃は、息をつかせぬハラハラドキドキの展開を夢中になって読んだものだ。
帝国軍入隊前には完全なるフィクションだと知って、文学的興味はともかく歴史的興味は失せていたが。
そして自身がソウルイーターを宿し、英雄の名を背負うようになって気付いた。
『ラインバッハ英雄譚』は、リーダーの隠れ蓑の役割を果たしているのだ。
この本が有名になればなるほど、真実は歴史に埋もれる。『リーダー』の平穏は守られる。
真の紋章を宿し、変わらぬ姿で生きる人間にとって、英雄の称賛より穏やかな日常の方がどれだけ大切か、シオンは身を持って知っている。
「良かった。『リーダー』に彼らの想いが届いたのか、ずっと気になっていたんだ。君はどこであの本を?」
「僕の親友の子供から受け取ったよ。親友が亡くなるまで、定期的に彼の家を訪れていたから、一番確実なルートとして託されたんだろう。旅には持っていけないから、そのまま預かって貰っている。ちょうど今この町にあるよ」
「君の親友の子孫がエストライズにいるのかい?」
「ああ」
あまり表情豊かとは言えないアスの、柔らかな笑顔に驚いた。こんな顔もするのか。
「親友が、凄く好きだったんだね」
「兄であり、家族であり、親友だった。彼が僕の唯一だ」
細めた青い瞳に浮かんだ切ないまでの愛しさと憧憬に、更に目を瞠る。
こんな目をシオンは知っている。
共に歩むと決めた相棒のかつての目、今も鏡で見る自分の瞳だ。
「……好き、なんだね」
言い直した現在形に、もう一つの意味を含ませる。
アスは全てを知っているかのように、フッと笑った。
「ああ。君が親友を想う気持ちと一緒だよ」
「ええっ、何で知って!?」
予想外の切り返しに、思わず叫んでしまう。
「君のテッドを語る目が、僕と同じだから」
左手で頬杖をついて笑うアスに、言葉が詰まる。お互い様という訳か。
「170年経っても想いは変わらない。スノウの優しさが今も僕を生かしてくれている。罰の紋章は、僕の手にある限り宿主の命を削らない。僕はスノウが逝った後、無人島で一人で生きていくつもりだった。だけどスノウはそんな僕の気持ちに気づいていたんだろう。自分の子孫のミドルネームに代々僕の名を付けるようい遺し、子供たちを僕に託してくれた。紋章の器としてただ年月を重ねるのではなく、笑って生きられるように、僕に未来への希望を与えてくれたんだ」
人って単純だと思わないか、とアスが言った。
たった一つ光があるだけで、人は生きられる。
不老という呪いを背負っていても、前に進む事ができる。
「ああ、僕も一方的にだけど誓っている。テッドは314歳まで生きたらしい。だから僕は絶対に彼の年を超えると決めた。彼と同じ年月を生きて、対等の立場になってから会いに行く」
「それは何年後?」
「後226年だ。まだまだ先は長いよ」
「そうか、じゃあそれまではよろしく」
アスがすっと右手を差し出して来た。
その手を握り返すと、アスが嬉しそうに笑んだ。怪訝そうなシオンに、
「いや、握手してくれたなと思って」
「?」
「君は一人じゃなくて良かった」
握手を頑なに拒んでいたかつてのテッド。
差し出された救いの手が、紋章に奪われてしまう事を恐れていた。
だが真の紋章を宿す者をパートナーとして得、未来を目指すシオンは、紋章に怯えていない。
きっとシオンは信念を貫くだろう。
「今週末が、一番若い『彼の子孫』の誕生日なんだ。僕は週明けまで滞在した後、トラン地方へ向かうつもりだった。シオンはファレナに何か用があって来たのか?」
「いや、港に行ったらその時一番早く出港する船がエストライズ行きだったんでね。目的なし、風任せのぶらり旅だよ。そういえば、僕も暫くトランには行ってないな」
「群島から来たばかりで引き返すことになってしまうけど、良かったら一緒に行かないか。もう少しシオンと話がしたい」
「おや、前に僕とコウリが誘った時は断った癖に」
笑いながら軽い皮肉を返す。
「邪魔しちゃ悪いと思ったんだ。僕がいたら夜が困るだろう」
「なっ!!!君、気づいて…っ!?」
小さく頷くと、シオンの顔が茹でダコのように真っ赤に染まった。



レストランを出た後、宿屋を営んでいるというアスの親友の子孫の家までの道のりを歩きながら、アスがぽつりと呟いた。
「シオンがあの伝記を読んでいたなんて、もの凄い偶然だな…あの本は5冊しか存在しないんだ。スノウの家系と、ラズリル海上騎士団と、オペル王国と、ミドルポートのラインバッハの家と、ナ・ナル島に保管されている。昔、ナ・ナルの村長が間違えて交易に出してしまったという噂を聞いたから、多分それがシオンのお父さんの所に行ったんだろう」
「そんな希少な本だったのか…それじゃ父さんの給料二カ月分じゃ安い位だったな」
「数が少ないだけで、価値のある本じゃないよ。僕以外にとっては」
「いや、僕にも価値があったよ。思い出したんだ。あの本に載ってた挿絵。ふてくされて横を向いてる弓使いがいたよね。あれテッドだろ」
「正解」
挿絵を描いたのはガレスだった。戦闘の功労者の彫像を、本人と見紛うばかりの精密さで作り上げていた彼は、絵心もあった。
「やっぱり。なんかテッドに似てるなとは思っていたんだ。あの本、テッドにも見せてやれば良かった。きっと面白い反応してくれただろうに」
「家に着いて、今日シオンが僕の本を読めばきっとテッドにも伝わるよ。その右手を通してね」
「だといいな。想像したら楽しくなってきた」
シオンがくすくす笑う。
「僕もだ」
きっと次に紋章の中に行った時、テッドから感想が聞けるだろう。
テッドもまた、初めてあの本を読んだ時のアスと同じく、照れくさそうに、面映ゆそうに笑ってくれるだろう。
かつての仲間たちからのエールは、こんな偶然でもう一人の仲間にも届くのだ。







また今年も遅れましたが、9周年記念小説です。
サイトも本も見て下さってる方には、前にも似たような話を読んだような…な展開になってしまいました(笑)
伝記はテ坊の「思い出」で書いてますが、あちらとは若干設定が違います。
テ坊のリーダーはスノウと縁が薄く、確実に本を渡すことができなかったため、リーダーが本を読んだかどうか不明です。なのでラインバッハ記念館で、鍵付きで一般公開しています。
アスとシオンの会話は、スノウの子孫君も一緒だったテッド復活パラレル本とは大分違う展開になりました。スノウの話題が出ないと、アスの口調が戦中っぽくなるよ(笑)

闇シリーズと本編は長く書き続けてる分設定が増え、つじつま合わせが中々大変になってきました(苦笑)
ちょこちょこ修正してたりするので、ここ変だよってのがありましたら教えてください〜。


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