導きの星


この地で迎えた初めての冬が、そろそろ終わりを告げようとしていた。
避暑地であったキャロとは違い、降雨量の少ないこの町では雪を見ることはない。
冬は雪を愛でるものと思ってきたコウリたちにとって、冷たい空っ風が街を吹きぬけ、寒さに身を震わせるだけの冬は少々味気なく感じられた。
道端の花が春の訪れを伝え、町に明るい笑い声が戻ってくる。暖かい日差しと命の息吹は、人の心を浮き立たせてくれる。
あと数日もすれば桜の開花が見られるだろうという頃、別れは突然やってきた。
「長い間お世話になったね。暖かくなったし、そろそろグレッグミンスターに戻ろうと思う」
いつもように、ナナミとシオンとジョウイとコウリの四人で夕食の食卓を囲んでいた時の事。
会話が途切れた合間に、さらりと言われた言葉に全員が絶句した。
彼の滞在は春までという約束だったのだのだから、判っていた事ではあるが、三人とも敢えて考えないようにしていた。
「……そっか…そうよね。もう春になるし、いい加減グレミオさんも痺れを切らしてる頃よね。…………シオンさんっ、出発はいつ?最後の日は盛大にお別れパーティしよっ!ナナミちゃん特製ケーキも作るねっ」
無理して笑っているのがバレバレなナナミに、シオンが困ったような笑みを浮かべる。
「一応明日出発するつもりだよ」
「明日!?」
「そんなっ。絶対駄目です!ナナミの言うとおり、お別れパーティくらいさせてください!」
ナナミの顔が泣きそうに歪むのを見て、コウリが慌てて叫んだ。幾らなんでも急すぎる。
「パーティなんていいよ。大袈裟な」
「大袈裟じゃないですよ。……僕らが再びトランの方に行けるようになるには、まだ何年もかかると思います。トランからここまでふらりと来れる距離でもない。今生の別れではないでしょうが、次にいつ会えるかも判らないんです。ちゃんとお別れしたいって思うのは当然でしょう?」
「………まあね」
珍しくシオンが言葉を濁している。ナナミの言葉以上に雄弁な顔と、コウリの必死の視線と、ジョウイの理路整然とした言葉に圧され返答に窮したらしい。
「出発は来週じゃ駄目ですか?ここから少し行った山の中に、大きくて立派な桜の木があるんですけど、多分週明けが見頃だと思うんです。あの桜、是非シオンさんにも見て貰いたいです」
「……じゃあ、来週まで居させてもらっていいかな」
「勿論っ!」
ナナミの顔がパッと輝いた。
「じゃあ、お別れパーティは、あの桜の木の下でのお花見に決定ね!あ、お花見だったらケーキよりもお団子の方がいいかなあ。シオンさんはケーキとお団子、どっちが好き?」
「どっちも好きだけど、折角だから団子がいいな」
上目遣いに覗き込んでくるナナミに、シオンが穏やかな笑みを返す。
実のところ、シオンがかなりの甘党である事をコウリは知っていた。
しかも生クリーム系の甘さが彼の好みだ。だからこの二択であれば、当然ケーキと答える筈なのだが……ナナミの料理の腕前を知っている彼は、賢明に比較的誰が作っても味の変わりようが無い団子を選んだのだ。
勿論ナナミの手にかかれば、団子だとて例外なく殺人料理になるだろうが、ケーキよりはマシだろう。
普段の食事はコウリが作っている。ある日コウリとジョウイが揃って風邪で寝込んでしまい、食事を作る人間がいなくなった。
シオンにはグレミオから料理禁止令が出ている事を知っていたし、隣のおばさんも心配して食事を作りに来てくれると言ってくれたのだが、ナナミは丁重に断り、断固として自分が作ると言い張った。
普段台所に入れない分、こんな時くらいはみんなの為に何かしたいと思ったのだろう。……何もしないでいてくれる方が、よっぽど有り難かったのだが。
「みんなの食事は私が作らなきゃ!」と使命感に燃えるナナミの作った料理を初めて食べた時、シオンは一瞬硬直し――それからただ黙って、もくもくとそれを平らげた。
食べ終えた食器を片付けにナナミが部屋を出て行くと、シオンはこっそり病人二人に薬を差し出した。グレッグミンスターの名医、リュウカンが調合した風邪薬と……胃薬だった。
ナナミの料理に慣れている二人でも、弱った胃にはかなりキツい食事だったので、ありがたくその薬を頂戴した。
以来シオンも加わって、ナナミに料理をさせないようにしていたが、お別れパーティとあって彼も腹を括ったらしい。
「お団子ね!うん、任せて。とびっきり美味しいの作るから!」
シオンが自分の作ったものを食べてくれるとあって、ナナミは俄然やる気になったようだ。心の内でシオンに謝りつつも、彼が義姉の事を気遣ってくれることが嬉しかった。
食事を終え、後片付けを済ませた後自分の部屋に向かう。ふと思いついて、コウリは自室を通り過ぎ、隣のシオンの部屋の扉を叩いた。
コンコン
「どうぞ」
許可を受けて戸を開けると、ひやりとした冷気が襲って来て身を竦めた。
「シオンさん……寒くないですか?」
冷気の出所を辿って、コウリが眉を寄せた。正面の窓が全開になっている。
暦の上では春になったとはいえ、まだまだ夜の冷え込みは厳しい。事実この部屋に入った途端、コウリの腕には鳥肌が立った。
「僕は丁度いいけど。寒いんなら閉めるよ」
シオンはベッドから立ち上がり、窓に近づいて戸を閉めた。吹き込んでくる風が無くなりようやく一息つく。
「シオンさんは寒いの平気なんですね。トランって暖かいところなんでしょ?キャロ育ちの僕より寒さに強いなんて凄いな」
「寒いけど、この冷たい空気が好きなんだ。キーンと突き刺すような寒さって、浄化されるみたいな気がしないかい?トランは割と湿度が高いから、夏は不快指数高いよ」
戸を閉めたついでにカーテンを引き、再びベッドに戻ってくる。コウリも傍にあった椅子を引き寄せ、腰を下ろした。
「で、何の用?」
ベッドに後ろ手を付いて足を組み、くつろいだ体制でコウリを見やる。
「用ってほどのことは無いんですけど、シオンさんとゆっくり話がしてみたくて。お邪魔ですか?」
「いや、別に構わないよ。君と話ができるのもあと少しだしね」
「そうですね」
「…………」
話がしたいと言いつつも、特に話題がある訳でもないので、会話が進まない。
ただ何となく、シオンと二人で話がしてみたかった。
闇の中ではテッドと再会できている彼も、現実ではその事を覚えてはいない。昔と変わらず、三百年先のテッドとの再会を願っている。
だが統一戦争の時によく見たような、渇いた遠い目はしなくなった。今、琥珀に宿るのは、深い洞察を湛えた賢者の光だ。
彼自身はおそらくその事に気付いてはいない。ソウルイーターの中でテッドと再会できたことにより、記憶はなくても精神が落ち着いたのだろう。
闇の中でだけ見れるシオンの素顔を思い浮かべ、コウリはふと逆襲したい気分に襲われた。
毎晩ジョウイと一緒に寝て、一、二週間に一回の割合でソウルイーターの中に行くことが出来ていたが、シオンはコウリたちも夢の中での記憶がないと思っている所為か、向こうでの態度は横柄だ。
言いたいことはズバズバ言うし、意地悪で、一度コウリへのあてつけにジョウイに迫られた時には本気で焦った。
どうも自分たちはシオンのおもちゃにされているらしいと気付いたのは、情けないことにかなり経ってからだった。テッド曰く「それだけお前たちを気に入ってるんだよ」だったが……嬉しいような嬉しくないような複雑な気分である。
実は昨晩、闇の中に行っている。ということは、来週のシオンの出発までにもう一度行ける可能性はかなり低い。
昨日が最後だったのなら、テッドさんとちゃんとお別れしたかったなと思ったが、今テッドがこちらを「覗いて」いてくれてれば、気持ちは伝わるだろう。
ボーっと窓の外の月を眺めている横顔に向かって、ニヤリと笑う。最後くらい仕返しさせてくださいね、シオンさん。
テッドが「覗いて」くれている事を願いながら、コウリはシオン相手の最初で最後の反撃を開始した。
「シオンさん、もし今テッドさんに会えたらどうしますか」
「……?」
唐突な質問に、シオンが視線をコウリに戻す。
「急に何を言い出すんだか……そりゃ勿論、抱きしめて僕の気持ちを伝えるよ。最初は嬉しくて言葉にならないだろうけど」
「じゃあそれを拒否されたら?男同士なんて変だとか、シオンさんのことをそういう風には見れないって言われたら?最悪二度と会いたくないって言われたら?」
シオンの顔が微かに強張った。可能性として考えてはいたらしい。再会した時のことをテッドから聞いているコウリとしては、内心可笑しくて堪らないのだが。
事の顛末をばらされた時、シオンは顔を真っ赤にして怒っていた。
ひとしきり怒った後、「まあどうせ現実に戻ったら覚えてないんだし…」と自分を納得させていたが、ところがどっこい、こちらはバッチリ覚えている訳で。
「……君もジョウイに言われたのかい」
「僕?言われてませんよ。ジョウイは最初から僕を受け入れてくれましたしね。…まあ、抵抗はあったらしいですけど、それは仕方ないでしょ。世の道から外れてるのは確かなんですから」
「…………拒否されたとしても、僕は彼を求めてしまうだろうね。彼を目の前にして、冷静でいられる自信はないよ。自分でもおかしいと思う位、テッドに餓えてる」
「そうですか?以前ほどじゃなくなったと思いますけどね」
「……え?」
「穏やかな目をしてますよ。満ち足りた……というか、安定した感じがします」
「そう……なのか?」
思っても見なかったことを言われ困惑気なシオンに、笑い出しそうになるのを必死で堪える。
「そうですよ。まるでテッドさんと再会できたみたいにね。……拒否されてもってことは、無理矢理の可能性も有りですか」
「…………」
シオンは無言だっだ。だが気持ち伏せられた瞳が、何よりも雄弁に気持ちを語っていた。
「無理矢理はよくないですよ。会えなくて自棄起こして『世の中全部無くなっちゃえ』って紋章の力使うのもやめて下さいね〜。僕まだ命が惜しいんで」
「……何が言いたいのさ、コウリ」
「え?いやー、ふと思っただけですよ」
今のシオンには理解できないだろう。これはテッドから聞いた、実際に彼が起こした行動そのものだ。
次に彼があそこに行き、今日の会話を思い出したなら、現実でもコウリたちに記憶があることに気付くだろう。
だが昨夜はシオンも闇の中に行っている。桜の見頃はあと三、四日後だろうから、次に彼がテッドと会うときは、ここを出発した後だ。シオン自身のリンクの周期も、一週間前後と言っていたし。
大体ネタをばらした以上、もうジョウイのベッドに潜り込むような愚行はしない。一緒に寝なければ、真の紋章になっていない自分たちではあの場に行けはしないのだ。
「……いつかテッドさんに会えたら、僕がありがとうと言っていたと伝えてくださいね」
今度は「覗いて」いるかもしれないテッドに向けて、感謝の言葉を述べる。
「……何で君がテッドにお礼をいうんだよ」
「テッドさんがいなければ、シオンさんは僕を助けてはくれなかったでしょう?シオンさんと同じように、紋章に親友との仲を引き裂かれた僕だから手を貸してくれたんでしょう?」
お礼の理由はそれだけじゃないけれど、今のシオンには判らないから、表面的な部分だけ伝える。
「…………それだけだったら今ここにはいないよ。戦争が終わって、君がジョウイを取り戻した時点で、二度と会わなかった」
「……それって……わざわざこんな辺境の地に会いに来てくれる位、僕たちを気に入ってくれていると、受け取っていいんですか」
「酔狂で来れる距離じゃないと思うけど?」
思っても見なかった言葉に、頬の筋肉が緩むのが判る。
「ありがとうございます…。僕もシオンさんの事、『トランの英雄』とか関係なく好きですし、尊敬してます。シオンさんのテッドさんに対する想いとか。…シオンさん」
「うん?」
「………幸せに、なってくださいね」
「………」

「『諦めなければ望みは叶う』です。僕の望みは叶いました。ジョウイを取り戻せました。だから…今度はシオンさんが幸せになってくださいね」
「……コウリ」
既にシオンの望みが叶っている事を知っているが、これは現実のシオンに向けた言葉だった。
夢の中の記憶が無いシオンは、死を迎える瞬間までテッドを求め続けるのだ。死は真の紋章持ちである彼には、果てしなく遠い未来の話。
残酷だと思う。何故宿主だけが、あの場での記憶を持たないのか。防人たちと会いたいのは、誰よりも宿主自身であるのに。
「……うん。諦めはしないよ。ここにテッドの魂があるのだから。彼が共にいてくれる限り、僕は後ろを振り返りはしない」
「シオンさん……」
頬が緩んだと思ったら、今度は涙腺か。涙を手のひらで拭い、穏やかな笑みを浮かべるシオンを見返した。
(テッドさん、見てますか?聞えてますか?)
見ていてくれることを願う。今の言葉、誰よりもテッドに聞いて欲しかった。
「………お花見、楽しみだね」
「はいっ。僕腕によりをかけてお弁当作りますから!シオンさんは辛いの好きなんですよね。ばくだんたまごと烈火の唐揚げ作りますねっ」
「うん。ありがとう」
シオンの部屋を出て、扉に背を預けると再び涙が溢れてくる。
夢の中だけでなく、現実でも幸せになって欲しい。テッドが全てである彼にとって、テッドのいない現実で幸せになることがどんなに難しいかは判っているけれど。
確かに夢の中での記憶は無い方がいいのかもしれない。もし覚えていたら……自分だったら、現実を生きる事を放棄してしまいかねない。
シオンには誰よりも幸せになって欲しい。それだけの犠牲を彼は払ったのだから。







「それじゃ、今までありがとう」
桜の木の下で盛大なお別れパーティをした翌日が、出発の日だった。
「気を付けて帰ってくださいねっ。また絶対遊びに来て……いつでも大歓迎だからっ!」
「うん。また寄らせて貰う。ナナミ、お団子本当に美味しかったよ」
「……シオンさん……」
頭をぽんぽんされ、ナナミの目に耐え切れずに涙が溢れた。
昨日のナナミの渾身の作の団子は、本当に美味しく出来ていた。シオンに最後に美味しいものを食べさせたいという想いが通じたのか。
「いつかほとぼりが冷めたら、僕たちもトランに行きます。グレミオさんたちにもよろしく伝えてください」
「ああ、伝えておくよ……その頃には僕はトランにいないけどね」
「え?」
「トランに一度戻った後、暫く旅に出ようと思うんだ。行き先は特に決めてない。思いつくまま色々なところを旅するつもりだ」
さばさばとした口調で言われ、面食らう。
「暫くって…どれくらいですか?」
「そうだね……年単位だろうね。まあ、四、五年に一回は顔出さないとグレミオが煩いだろうし」
「そんなに……何でまた」
ナナミの肩を抱きながら、シオンがコウリたちに微笑みかける。迷いの無い、穏やかな表情だ。
「世界を見てみたくなったんだ。僕の親友のように、世界中を見てまわりたい。旅の間にこのソウルイーターの事も何か判るかもしれないし。僕には時間はたっぷりあるからね」
「シオンさん……」
「またこちらに来たらお邪魔するよ。その頃までにいい人見つけて、幸せになってるんだよ」
ナナミの顔を覗き込み、にっこり笑う。ナナミの目が大きく見開いた。
「……うんっ。大丈夫よ!すっごく格好いい人見つけて自慢してあげるんだからっ。だからちゃんと会いに来てね?私がおばあちゃんになる前にね?」
ナナミが精一杯の笑顔で笑う。相変わらず涙は溢れていたけれど。
「うん。約束するよ」
どうやらシオンはナナミの気持ちに気付いていたらしい。気付いていて、優しく突き放してくれた。
ナナミにとって最良の振られ方だった。
「じゃ、元気で」
「シオンさんも。絶対にまた来てくださいね―――!」
手を大きく振り、後姿を見送る。シオンは一度だけこちらを振り返って右手を挙げ――その後は二度と振り返らなかった。
小さくなっていく背を見つめながら、自分もいつか、と思う。
コウリたちの右手に宿る紋章。天山の峠では免れたけれど、ジョウイと二人でいる限り、いつかまた紋章は互いを求めて手を伸ばすだろう。
前の持ち主であるゲンカクとハーンのように、紋章を封印する方法を探しに行かなければならない。
その旅にナナミを連れて行くつもりはなかった。ナナミには一箇所に腰を据えて、結婚して、幸せな家庭を築いて欲しかった。もう自分たちに振り回される必要は無い。
ナナミにいい人が見つかったら……ジョウイと旅に出ようと思う。
この手に紋章がなくなった時、自分たちの戦争はようやく終わりを迎えるのだ。
だが今は、もう暫くここで三人で過ごしていたい。
この為に戦ってきた。辛い戦争を乗り越えた、これは自分へのご褒美。
シオンの姿が完全に見えなくなり、ジョウイとナナミが家の中に戻る。一歩遅れて、コウリも踵を返した。
(僕も自分の道を歩いて行きますよ)
あなたに負けないように。



重なっていた二つの天魁星の道は再び分かれ。
星は、今またそれぞれの道を歩み始めた。





ようやく完結です。一年かかりました(笑)
書き始めた頃はこんなに長くなるとは思わなかったのですが。
このシリーズを好きだと言ってくださった、全ての方々に捧げます。

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