今宵は美しい満月だ。
夜の甲板で月見を楽しんだ後、自室に戻るべくアルドが階段を降りていくと、第二甲板に差し掛かったところで転移魔法を使う少女の声が聞こえて来た。
「え、今からテレポートですか?もう寝る時間ですよ。明日にしませんか」
「そりゃ手鏡があれば大丈夫ですけど…うーん、何処に行きたいんですか?」
聞こえるのは、夜間でも声を憚らないビッキーの甲高い声だけだ。立ち聞きするのは失礼と、速度を速めた足を一つの単語が止めた。
――手鏡。
手鏡を持っているのはリーダーであるエイルだ。
こんな夜中に、エイルは何処へ行こうとしているのか。
声は相変わらずビッキーのものしか聞こえないが、エイルの他にもう一人いる気配はない。
「モルド島ですね。判りました。じゃあ行きますよー」
「待って、ビッキーちゃん!」
詠唱する彼女を遮るように声を張り上げて飛び出すと、予想通り、そこにはきょとんとしたビッキーとエイルの姿があった。
「アルドさん」
「リーダーさん、こんな時間に一人で出かけるなんて危険です。しかもモルド島なんて何しに行くんですか」
「あなたには関係ない」
切れ長のインディゴブルーの瞳が、突き放すように細められた。
「……関係なくありません。僕はあなたの星です」
一瞬竦んだ足を叱咤して、彼らに近づく。
「あなた一人、行かせる訳には行きません。どうしてもというのなら、僕も一緒に行きます」
「余計なお世話だ。――来るな」
「……っ…」
小柄なエイルの体から、無言の圧が押し寄せた。
まるでかまいたちに切りつけられたような錯覚を覚える。反射的に後ずさろうとした足に力を込め、何とか踏みとどまった。
背中を冷たい汗が伝う。普段横からしか見た事の無い彼の本気の視線は、こんなにも凄まじい。
まさしく一閃。氷の刃で、血をしぶく間もなく一薙ぎで心臓が真っ二つにされた。
「……駄目です」
だがここで退く訳にはいかない。痛みを呑み、手を伸ばしてエイルの腕を掴む。
「部屋に戻りましょう。リーダーさん。モルド島に用があるなら、明日にすれば…」
掴んだ腕はアルドの掌で包めてしまった。テッドも細いと思ったが、それ以上の細さに愕然とした。
こんな細い体で、艦長の重圧を背負っているのか。
「明日じゃ駄目なんだ。すぐに戻るから」
睨みが利かないので作戦を変えたらしいエイルが、お願いの姿勢に入る。
「なら僕も一緒に行きます」
「そんなに心配しなくても平気だから…」
「行くの行かないの?もうー、面倒だから二人とも送っちゃうよ!」
大欠伸をしたビッキーがロッドを構える。
「え、ちょっと待ってビッキー!」
詠唱に続いて空間が歪み。
「くしゅんっ――――――あれ?」
恐怖の一言を最後に、二人の体は別の場所へと飛ばされた。
幸か不幸か、運ばれた先は海の上で。
回避する間もなく、激しい水飛沫を上げて海中へと落下し、輝く満月を頼りに辺りを見渡せば、そこは無人島だった。


手鏡を使ってすぐ船に戻ろうというアルドの意見は、あっさり却下された。
「行き先は違っちゃったけど、まあいい。目的は温泉だったからね」
態々こんな夜中に温泉に行かなくても、船には大きな浴場があるのに――そう考えて、そういえばエイルと一緒に風呂に入った事がない事に気づいた。
遠征先でもそうだ。いつもエイル一人、時間をずらして入っている。
「先に入れ。僕は焚き火の準備をしておく」
案の定、風邪を引くから一緒に入ろうの提案は受け入れては貰えなかった。リーダーより先に温まるなんて気が引けたが、アルドが折れなければどこまでも平行線だと諦め、大急ぎで温泉に浸かって出てくると、エイルは海岸線から少し離れた所で、慣れた手つきで火を熾していた。
「お帰り、アルド」
声をかける前に、気配に気付いたエイルが振り返った。
「お待たせしました。早くリーダーさんも温泉に入って来て下さい。濡れたままじゃ風邪を引きます」
「ああ。服はもう火で大分乾いてるけど、塩を洗い流したい。後を頼む」
立ち上がり、エイルは音も立てずにアルドの横をすり抜けた。
焚き火の周りには、程よい太さの枯れ木が積み上げてあった。僅かな時間でこれだけの量を集めるとは、森育ちのアルド以上にエイルはサバイバル能力に長けているらしい。
ふぅと溜息を吐いて砂浜に腰を下ろし、天を仰げば空には満天の星が瞬いている。
暫くぼんやりと火照った体を夜風に遊ばせていたが、生乾きになった髪を結ぼうとして、紐を洞窟内に置いて来た事に気付いた。
「きっとあそこの岩場だ。取りに行かなきゃ」
エイルが戻ってから取りに行くという選択肢は、この時のアルドの頭には無かった。
反響する洞窟の中を進み、奥へと向かう。

――綺麗だ。
アルドは素直にそう思った。
洞窟の天井から差し込む月明かりに、体の表面の水滴が反射してきらきらと輝く。
元々線の細いエイルの輪郭は光に溶け、彼自身が淡く発光しているかのようだった。
腰まで湯に浸かり、目を閉じて僅かに仰向き月光のシャワーを受けるエイルの、胸の部分に視線が止まる。
元々は色白な性質なのだろう。むき出しの腕と比べて、服で日焼けを免れた胴体は夜の闇とは対照的な白だ。
その白さの中に浮かび上がるたくさんの赤い鬱血。
それが何であるか判らぬほど、アルドは初心ではなかった。
(リーダーさん…)
軍主とリノの噂はアルドの耳にも届いている。胸の花の数は、エイルへの確かな執着を感じさせた。
先ほどからエイルは彫像のように動かない。それが益々、目の前の光景を非現実的たらしめている。
何となく声をかけてはいけない気がして、彼に気付かれないよう細心の注意を払って、アルドはその場を離れた。

「お帰りなさい、リーダーさん」
「ただいま」
着替えて外に出てきたエイルを、何事もなかったかのように迎える。
すぐに戻るのかと思いきや、エイルはそのまま焚き火の側にごろんと横になってしまった。
「今日はここで夜を明かして、朝一番に帰る。海岸はモンスターは現れないから、アルドも休むといい」
「でも砂の上じゃ体は休まらないですよ。船に戻りましょう。塩を被った服も着替えた方がいいですし、モンスターは来なくても、敵が来るかもしれないですし…」
「だったら手鏡を渡すから君だけ帰れ。僕はここで寝る」
「リーダーさんを残してなんて行けません!」
「好きにしろ」
叫ぶアルドに背を向け、エイルは腕を枕に寝の姿勢に入ってしまった。
背中がこれ以上の問答を拒否している。アルドは仕方なく、彼の側で不寝番を決意した。
波と風の音しかしない、広い広い世界。
こうしていると、森で一人で生活していた頃を思い出す。あの頃はそれほど寂しいとは思わなかったが、船で大勢の人と暮らし、人のざわめきを思い出した身には、自然の囁きだけでは心細さを覚える。
アルドに再び人との生活を与えてくれたのは、この少年だ。エイルがアルドの人の世界に連れ戻してくれた。
だから彼が大自然に抱かれての夜を望むというのなら、その眠りを護ろう。
自分の事を語ろうとしないエイルは、たくさんの悩みや苦しみを一人で抱えているのだろうから、せめて眠り位は安らかに。
「あれ?」
隣で規則正しい呼吸を始めた体にふと視線を向けると、ハチマキがやけにきつく締めてあった。
どうやら外さず入浴したらしい。このままでは休まらないだろうと、濡れて固くなったハチマキを緩めていると、ハッとエイルが飛び起きた。
「何をする!」
射殺すような目で睨みつけて来るエイルに、怯みつつもアルドが弁明する。
「ハチマキがきつそうだと思って…」
「余計なお世話だよ。これに触るな」
その時はらりと結び目が解け、赤いハチマキが砂浜に落ちた。
「あ……」
一瞬の出来事だった。
ハチマキが外れた瞬間エイルの顔に浮かんだ表情を、アルドは真正面から見てしまった。
鋭利な刃物のようなエイルの瞳が見る見るその鋭さを失い、不安と混乱に彩られる。
大きく見開いた瞳からは、今にも大粒の涙が溢れ出しそうで――
「……リーダーさんっ!」
ハチマキを掴み、バっと身を翻したエイルを追えたのは、声だけだった。
アルドはその場を動けない。追ってはならないと本能が告げていた。
今彼を追うならば、全てを捨てなければならないと、直感的に感じていた。


ざぶんっ……
海に突き出た小さな崖から、黒い海に身を躍らせる。
海水が、混ざった塩辛い水を自身に溶かしていく。
エイルは羊水の中の胎児と同じ格好で、母なる海に包まれる。
還りたい。
早く、早く、生まれる前に還りたい。
生きるのが苦しいのではない。一人が寂しいのではない。

ただ、この身を世界から消してしまいたい。







消滅願望の高い4主、エイルです。周りの人間は誰も、エイルの望みにも状態にも気付けない。
かろうじてアルドが気付いたけど、アルドは既にテッドに寄り添う決意をしていたので、エイルの救いにはなれない。
ハチマキはエイルにとって、精神の切り替えスイッチです。これをつけている間は、リーダーの仮面を被っていられる。外すと素に返ってしまう。
心臓から血飛沫を上げながら凄絶に生きたエイルの人生を、愛しいと思う親ばかです。


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