夜の雨は、視覚ではなく耳と肌でその存在を感知する。
水が何かに当って弾ける音、開いた窓から吹き込んでくる冷たい空気と水の匂い。
暖かい室内と違って、外はかなり気温が下がっているのだろう。
雨が吹き込んで来ないかどうか風向きを確認しようと、窓に近づく。
真っ暗な外。月の無い夜は、立ち並ぶ家々から洩れる明かりが無ければ何も見えない。
窓ガラスは濡れてはいなかった。この窓は、このまま開けておいても問題ないだろう。
身を翻し、ベッドに戻って本の続きを読もうとして――ハッと振り返る。
濡れそぼつ闇の中、視界の端に映った白い影。不意にその影が何であるかの可能性に思い当たったのだ。
再び窓に近寄ると、勢い良くカーテンを開け、続けて窓を全開にした。
遮るものが無くなり、雨音が大きくなる。暗くてよく見えないが、雨足はかなり強いらしい。
先ほど白い影が見えた所に視線を向ける。影はまだそこにあった。家から洩れる明かりと明かりの間。闇に埋もれるようにして立ち尽くすもの。
人間。
「………何やってるんだ、あの馬鹿はっ…」
舌打ちして部屋を飛び出す。あれが誰かに気づいても、窓から声をかけることはしなかった。下手に声をかけたりしたら、逃げられる可能性が高い。
玄関で大きめの傘を取って広げ、降りしきる雨の中に身を躍らせる。夜着の裾が濡れるのも構わず、ばしゃばしゃと雨水を跳ね上げて走る。
足音に気づいた彼がこちらを向くのと、彼の元にたどり着くのはほぼ同時だった。
「テッド!!」
口を開こうとする彼を遮り、傘を差しかけ強引に腕を掴んで明かりの元に引っ張り出す。
言い訳を聞くにしても、暗闇の中で顔が見えない状態では嫌だった。本当は彼の表情が見えない方が、本音を聞き取りやすいのは判っていたが。
家から洩れる薄明かりに彼の全身が浮かび上がり、ソフォスは驚いて目を見開いた。
一体いつから雨に打たれていたのか。バケツの水でも被ったように、髪からはぽたぽたと水滴がひっきりなしに落ちている。服は水を含んでじっとりと重く、触れているソフォスの手からも熱を奪っていく。
唇は血の気を失って紫色だった。
「……っ……来い!!」
テッドに一言も発する間を与えず、腕を掴んで無理矢理屋敷に引っ張っていく。
だがそれは叶うことはなく。
「……テッド?」
「いい」
ソフォスの手をやんわりと掴み、彼は穏やかに微笑んだ。
――微笑んだように見えた。
明かりは彼の顔を半分しか照らしてはくれない。濡れて額に張り付いた前髪の下から覗く、片方だけの目。
やはり笑ったように見えたのは目の錯覚だったのだろう。暗闇に浮かぶ半分だけの彼は、いつもと変わらなかった。笑みは笑みでも、にまにまとした意地の悪い笑みを浮かべて彼は言った。
「オレはもう少し濡れてく。お前は風邪引くからさっさと帰れよ」
「何言ってるんだっ!こんなに冷え切ってるくせにっ。ほら、一緒に屋敷に来い!風呂に入って体を温めないと……っ」
言いながら、この光景が初めてではない事を思い出す。
以前彼が屋敷に泊まったある雨の日の夜、いつの間にか隣の寝台から消えていた彼は、明け方になってずぶぬれで帰ってきた。あの時彼はなんと言っていた?
――風邪を引いてみたかったんだ。
ああ、馬鹿は風邪引かないっていうからな!一晩中雨で打たれる位しなければ風邪も引かないんだろう。それで望みどおり熱は出たのか?
心配を通り越し、怒り狂って罵詈雑言をぶつけるソフォスを、楽しげな目で見つめていたテッド。
あの時と同じだ。今もまた、まるでソフォスに怒られるのが判っていて…いやわざと怒られようとしているかのような彼の態度。
………胸がざわざわした。
「ソフォス?」
今度はテッドが訊ねる番だった。掴んでいた手を放し、急に黙りこくってしまったソフォスを、不思議そうに見つめる。
「……また風邪を引いてみたかったとでも言うのか?」
彼の顔を見ないように俯き、低い声で言い放つ。
全身を怒りが駆け巡り、許容量を超えて溢れだす。
溢れた怒りは、落ちて哀しみに変わった。
「勝手にしろっ!いつまでもそこにいて、風邪でも何でも引けばいい!」
来た時と同じように、激しい水音を立ててソフォスは屋敷に向かって駆け出した。来た時と違うのは、彼の手には何も持たれていないこと。
子供二人がゆうに入れる大きな傘は、テッドの肩に差しかけられたままだった。




雨はまだ降り止まない。
心に降る、雨もまた。







「風邪を引いてみたかった」云々は、宇玄堂にアップされているせテッド話「やわらかい雨」参照。
赤井さんに「ソフィでこんなネタ浮かんだー」と言ったら、先に書かれてしまった…早ぇよ!
せテッドさんは非常に難しいっす。私が書くとエセくさー。