眩いほど天が高い、良く晴れた日だった。
遠巻きに眺める興味本位に集まった群集の中に、困惑を隠せない人間がぽちぽちと点在している。 好奇の視線を一身に受ける彼は、跪き、後ろ手を捕らえられた姿勢で、憔悴しきった疲労の濃い眼差しを半分ほど瞼で覆い、だが瞳は濁らせず、静かに甲板を見つめていた。 ざわめきが止み、取り巻く人の海が二つに割れ、断罪の執行人と向き合うその瞬間まで。 ざぁ…と海からの強風が栗色の髪を巻き上げる。 太陽の沈んだ海は、まだ微かに空を名残の赤で染めている。その色を睨むようにして、白い砂浜に座り込んでいる人影が一つ。 サラサラと軽い砂の上を足音を消すことなく踏みしめて、影の元へと歩み寄った。 「何やってんだよ、こんなとこで」 顔は腕の間に埋めたまま、翡翠の瞳がギロリとテッドを見上げた。 「船では艦長が行方不明になったと大騒ぎだぞ」 「……どうしてお前が」 ここに来たのか、この場所が判ったのか。どちらとも取れる問いかけに両方の答えを返す。 「ビッキーに訊いたら、お前を無人島に送ったって教えてくれたんでな。一応他の奴らには明日の朝まで黙っていてくれと口止めしておいた。――文句を言う権利は、俺にはあるだろう?」 向けられた視線に負けないよう瞳に力を込める。 「言い訳する気があるなら聞いてやる。最も、聞いた所で結果が覆りはしないが」 「――何も言う事はない。お前がどんな答えを出したかも聞くつもりはない」 突き放すような冷たい声音に、カッと頭に血が上った。 「何だよその言い草は!全部お前の所為だろう!決定権はお前にあった。お前が選んだんだ…!」 誓おう、と彼は言った。 ――お前の願いは全て叶えよう。 ――お前の行く所に俺も行く。決して独りにはしない。 勿論信じてなんかいなかった。そんな夢物語みたいな言葉に縋れるほど、純粋ではなかった。 だが夜毎紡がれる真摯な囁きに、現実はともかく、彼の想いを信じたいと思うようになっていた。 ――スノウは俺を裏切った。その事実はこの先何があろうと変わらない。あの痛みは決して忘れない。謝罪で癒されるものじゃない。 自分に言い聞かせるかのような告白を、腕の中で聞いた。 痛いほど抱きしめる腕の本音は考えないようにした。 そうして少しずつ、自分に彼の隣に立つ事を許し始めた所だったのに。 幻想(ゆめ)は崩された。 どんな過去があろうと今一番彼に近いのは自分で。横たわる物理的な距離と取り巻く環境が、このまま守ってくれるのではと思っていた。 重ねた言葉、重ねた誓い、全てが無に帰した。 あの瞬間に。 出来の悪い悪夢を見ている気分だった。 結果だけ聞けばいい話だった。だが身の内に巣食う恐怖に怯えつつも、甲板に向かわずには居られなかった。 呼びかけに罪人が重い頭をゆっくりと上げる。人垣の隙間から覗けたのは彼だけだった。 自分の運命を受け入れた者の瞳がそこにあった。 淡い金髪の下の蒼が大きく見開かれ、ひび割れた唇が信じられない、と言った風に彼の名を紡いだ瞬間身を翻した。 最後まで見なくても判っていた。走り去る背中を追いかける歓声が、答えを教えてくれていた。 嘘つき。 信じさせておいて、俺から牙を奪っておいて。 お前は別の人間の手を取り、俺を置いていく。俺をこの世界に連れ戻したのはお前なのに。 何で俺を解放した! お前が居なければ、今もまだ霧の船で静かにまどろんでいられた!忘れていられた!苦しみも絶望も孤独も……こんな風に胸を焦がす嫉妬も。 ――覚えておけ。世界の全てがお前を否定したとしても、俺だけはお前を肯定する。同じように、お前だけが俺を赦せる。俺とお前は同じものだからだ。お前は俺から離れられない。俺の欠片。俺のテッド。 結局俺を置いて行くくせに! がらがらと。 壊れてく。 崩壊していく。 築き上げたもの、積み上げてきたものが、音を立てて崩れていく。 所詮砂の上に建てられた城だった。 城が頂いた旗は、たった一回の大波で攫われた。 彼とずっと一緒に育った、幼馴染みにして主君。彼の心を殺した張本人。 なのにまた…彼を連れて行く。 「お前の言葉なんざ端から信じちゃいなかったが、こう予想通りだといっそ感心するな。所詮お前は骨の髄まで小間使いだったって事だ。奴の下で、昔のように尻尾を振ってやるといい。裏切られても、何をされても許せる大事な主人にな」 小さなプライドを守る為に、声が震えないでくれるよう祈るしかなかった。 「お前に言った言葉は…嘘じゃない」 「嘘だろうが。事実お前は奴の手を取った。決して赦さないと言った奴を赦し、受け入れ……俺の手を離したんだ。俺よりも奴を選んだんだ…!」 「違う」 「勝手に奴と何処へでも行くがいい。戦闘の時以外、金輪際俺の前に顔を出すな!」 高ぶる感情に呑まれ、視線を逸らしたテッドには見えていなかった。 彼がどんな表情をしていたか。 砂を踏みしめ立ち上がる音の直後、強い力で抱きしめられた。 「すまない…テッド」 「離せ!謝罪なんか要らない。お前が俺の手を離した、その事実だけで充分だ。それが全ての答えだ」 「――手を離したつもりはない。俺の手は今もお前に繋がっている。この左手は、決してお前の手を離さない。俺たちは合わせ鏡だと言っただろう。俺がスノウを捨て切れなかったように、お前にも手放せないものがある。100年以上追い求めて来た「彼」を諦められるか?「彼」を捨てて、俺と二人水底に沈むか?」 「……それは…」 返答につまったテッドの耳に、低い苦笑いが落とされる。 「まあ、ここで頷かれても困るがな。300年後の未来で会おうだなんて途方もない約束を信じ、それが叶う事が意味する悲惨な運命に気付きつつも、歩みを止めないお前の生き様に惹かれた。「彼」を諦めたお前はお前じゃない」 我ながら厄介な矛盾を抱えている、と翡翠の瞳を細めた彼を、縋るように見上げて。 名前を舌に乗せる前に、口付けられた。 「―――…」 舌先が輪郭をなぞり、啄ばむようにまた重なる。 「――愛している、テッド。お前を手放したくない。だがそれ以上に、お前を歪めたくない。歩みを止めたお前はやがて澱み、闇に囚われるだろう。俺の手が浄化になればいいが、闇属性同士を掛けても闇にしかなれない。お前を救えるのは俺じゃない」 「……救いなんていらない…闇に堕ちたって、構わなかったんだ…」 噛み締めた唇からかろうじて洩れ落ちた呟きを、優しい口付けが掬い上げる。 「俺のエゴだ。手に入れるよりも、お前の幸せを願った。一時の至福より、未来へと続く光に賭けた。お前と俺の感情を無視した願いだ。幸せになれ、テッド。未来で待っている「彼」の元まで、決して立ち止まるな」 切なさを含んだ鮮やかな微笑に、視界が歪む。 「一つだけ聞かせてくれ。お前が奴の…スノウの手を取ったのは……」 俺の為か?という言葉は、流石に傲慢すぎて口に出せなかった。 視線を泳がせたテッドの頬に、いつものように優しい手が触れて来る。 「その通りだが気にするな、と言えれば様になるんだが。生憎とそれだけじゃない。甲板で惨めに跪く彼を見た時、考えていた処分は全て吹き飛んだ。俺は今も、スノウを許してはいない。だが首を落とすという選択肢は頭から消えていた。殺せないなら受け入れるしかない。受け入れたなら最後まで責任を取らなければ。そんな義務感めいた感情が働いた事も否めない。――だが結局……どんなに裏切られても、俺はスノウを切り捨てる事が出来なかった。人生の殆どの間、スノウは俺にとって眩しい光で、その輝きがメッキだったと判っても、安易に捨てられるものじゃなかったようだ」 「……後悔はしないか?人はそう簡単に変われない。奴はきっとまたお前を抉るだろう。お前の痛みは繰り返される。嫉みじゃなく、これは確かな事実だ」 「後悔ごと受け入れるさ。そうでなければ、お前に申し訳が立たない」 ハッと軽く肩を竦めて、彼が笑った。 「この左手に紋章がある限り、お前が「彼」へと紋章を託すまでは、道は終わらない。俺たちの道は、また必ずどこかで重なるだろう。周り全てに置き去りにされた頃、お前に会いに行くと約束しよう。罰の紋章はどうやら死の呪いから解放されたらしい。先ほど部屋に件の魔女が現れて、そう告げて行った」 「解放されたって…じゃあ」 「ああ。命の切符を俺も手に入れた。約束だ、テッド。再会した時、もしお前が一人だったら……その時は必ずお前を攫っていく。この約束を標に、俺も未来へと立ち向かおう」 薄雲から差し込む淡い光が、きらきらと水晶に反射する。 谷の最奥、一際見事な水晶の柱の前に立つ若者の頭部で、赤いハチマキが揺れていた。 「久しぶりだな。遅くなってすまない」 無人の谷に懐かしげな声を響かせて、青年は右手に嵌めた手袋を外した。 「まだ慣れてなくて少々不安が残るが。紋章師には渋い顔をされた。こんなに風に愛されている人間は見た事が無い、何もわざわざ相性の悪い属性を選ばなくとも、だそうだ。せめて水にしないかと言われたが、それでは意味がないからな」 掲げた右手の上には、烈火の紋章。 呼応するように、正面の大きな水晶の塊がきらりと瞬いて、ぼんやりとした影が浮かび上がる。 嬉しそうに伸ばされた陽炎の手を取り、翡翠の瞳が穏やかに微笑んだ。 「約束通り、お前を攫いに来た」 この日、竜洞の竜騎士と竜は、どぉん…という腹に響く衝撃音の後に、シークの谷から真っ赤な火柱が立ち上るのを見た。 炎は天を赤く焼き、やがて徐々にその姿を潜めて行った。 竜騎士たちが現場に駆けつけた時、そこには焼け焦げた地面と、黒い手袋が片方残されているだけだった。 実はレックナート様現れるのがちょっと早すぎるんですが、展開の都合で(苦笑) |