ぬるい風の中に、時折冷やりとした空気が潜む。 木陰を通り過ぎて来た風か、山から吹き降りた風か。 顔を上げれば目的の山はすぐ目の前で、暑さに疲れた肌を宥める冷風の出所を知る。 地上からは決して入ることの出来ない山。 そう呼ばれていたのは数年前まで。地殻変動で山の一部が崩れ、断崖絶壁に急ではあるが人の侵入を許すだけの道を作った。 以来、山頂近くに立ち並ぶ水晶を目当てに侵入しようとする盗賊が後を絶たないらしいが、無事登攀出来た者もいないと言う。 ただ一人を除いて。 研磨されていない天然の水晶は、濁りを含んで、ガラスというより彫刻を思わせる。 白い鉱石の道の終わりには、一際大きな水晶の柱が天に向かって聳えている。 ざっ 地を踏みしめた時の、水晶の屑が擦れる音は砂のそれよりも硬質だ。 反響した音に囲まれ、目指す水晶の前に立った。 辺りには月日の経過を知らせるような大きな樹木はなく、彼の心を容易に遠い過去へと掬い上げる。 『そんなかお……するなよ……』 あんな時まで。 今にも命の灯火が消えそうだというのに、まるで今日は楽しかったな、みたいな軽さで。 『オレが……選んだ、ことだ…』 熱い目頭に、だが決してそれを溢れさせることを許さず睨む自分を見て、彼は笑った。 彼が選んだこと。 自分の命を紋章に喰らわせること。 それがあの場に於いて、最善策だったとは決して思わない。 過酷な300年をたった一人で生き抜いて来た彼なら、もっと良い方法を選べた筈だ。 (死にたかったのか?お前は) 思い出すのはうそ臭い笑顔ばかりという彼の、心の深い部分には死を望む気持ちがあったのだろうか。 何度考えても、何度思い返しても、そうとしか思えないのだ。 紋章を渡さないために、魂を差し出したのではなく、 紋章に己が魂を喰らわせるためだったと。 初めて彼の方から伸ばされた手は、焼け爛れた右手だった。 その火傷がいつどのようにして付いたのかを思えば、胸を突く痛みに溢れそうになる涙を必死に堪える。 とっくに完治して痛むはずのない手を、そっと握り締める。 ここに彼の気持ちの全てがある。 憎しみと恨みと……それでも守ることを止められなかった、彼が肉親から継いだもの。 死にたかったのか 紋章から逃げ出したかったのか それとも本当にこれしか方法がなかったのか ――自分に呪いを残したのか 触れようとすれば、するりと逃げる。 手を伸ばせば、拒否される。 必死の求めにも、ただ笑ってかわされるだけ。 なのに時折気まぐれな猫のように、ひょいと捕まって見せたり。 嫌われていたのだろうかと、遠い昔の何も知らなかった頃を振り返って思う。 拒絶にも否定にも、唇をかみ締めることしか出来なかった子供の自分。 だが自分が諦めを知らぬ子供であったが故に、事の道理を知らぬ感情で生きる生き物であったが故に、彼はあの町に留まったのではないだろうか。 彼の生きた人生には未だ遠く及ばないまでも、既に人の一生以上を少年として生きた今なら、不老を生きる者の考えを多少なりと思う事が出来る。 子供の純粋さは、大人には時に鋭い刃となれど 子供の純粋さはまた、大人の頑なな心をも癒す。 『オレの分まで…生きろよ』 最期に彼の顔に浮かんだ満足げな笑みの意味は。 ざっ 一歩を踏み出し、彼の場所を見下ろす。 ここで彼は逝った。自分の腕の中で。いつもとは違う笑みを浮かべて。 (テッド) 彼はとても嘘つきで、その癖嘘をつくのが下手で。 嘘をつかれたことが判るから、余計に苛立った。 だけども、本当に彼は嘘が下手だったのだろうか。 嘘が下手なフリをしていただけだったのではないだろうか。 答えの返らない疑問だけが、胸の中に浮かんでは消える。 だが。 (そんなことはどうでもいい) 彼が300年持ち続けてきた、大切なものかもしれないし、呪っていたのかもしれないもの。 その紋章を、他の誰でもなく自分に託した事だけは違えようもない事実だ。 そして自分の意思で紋章に魂を――新たな宿主であるソフォスに、力を与えたこともまた。 手袋の下でひっそり息づく紋章を左手で覆い、彼の血を吸った大地を睨みつける。 (僕は、お前のようにはならない) (お前のように、この紋章を厭わない) (紋章が喰らったお前の魂ごと、抱えて行ってやる) 水晶に背を向け、元来た道へと踵を返した。 ざっざっと大地が擦れる音が高く鳴り響く。 振り返りもせずに、前へと進み続ける。 右手に、友が生きた証を携えて。 *赤い狸さんに捧ぐ* 赤井さんちの10万打祝いに送ったもの。 |