いつかこうなる覚悟はしていたのだ。 男の仕事を考えれば、無事天寿を全うできる可能性はかなり低かった。自ら進んで入った世界だ。自業自得と言える。 そう、男は後悔はしていないだろう。 愛する家族を守る為、身分も家も国も捨てて、裏の世界へと身を投じたこの男なら。 生涯の伴侶に、共に生きる事の叶わない相手を選ぶようなこの男なら。 故に知っていたのだ。 男が今際の際に何を望むのかなど。 「…早過ぎじゃろうて」 まだこちらは答えを出していなかったのに。 「シ〜エ〜ラ〜…ぐぇっ!」 情けない声と共にぎゅっと背後から抱き着かれ、とっさに肘鉄を食らわす。 振り返ると、ややくすんだ金髪の中年男が腹を抱えて蹲っていた。 「なんじゃ、おんしか」 「おんしか、じゃないだろ!俺だって判ってる癖に、ひどいこの仕打ち!」 「突然抱きついてくるから悪いのじゃ。女子の背後を取るなど、紳士とは言えぬぞえ。ラトキエ家では女性の扱いを学んで来なんだか?」 「いいだろ、シエラは俺のカミさんなんだからさ」 拗ねたような口調で、男はもう一度、今度はやんわりと包み込むように抱きしめて来た。 首筋に落ちる柔らかな金髪を、一房手に取って指で擽る。この髪の感触は嫌いではない。 男の名はナッシュ・クロービス。元ハルモニアの一等市民で、今は家名を捨て、ハルモニアの諜報部員をしている。 ひょんな事で知り合って、色々あった末に、気が付いたら「カミさん」と呼ばれる関係になっていた。 普通の妻のような事は出来んぞえ?と言うと、「俺も任務であちこち飛び回ってて一つの家に留まる事はないし、普通の夫のような事はできないからお相子」とナッシュは笑った。 普通じゃなくていい。ずっと一緒に居られなくていい。 ただ根なし草で生きる自分の拠り所になって欲しいと。 『任務が終わって休暇を貰った時に、会いたいなと思える人がいるのが幸せなんだよ。シエラの所に向かう途中、シエラは今何してるかなーとか、久しぶりのディナーは何を用意しようかなーとか考えてると、長い道のりもあっと言う間でさ』 無邪気と言ってもいい笑顔に、絆されたのは確かだ。 任務が明けると、ナッシュはドミンゲスを放つ。ドミンゲスはシエラを探し当て、シエラは現在の居場所を記した地図をドミンゲスに預ける。 それを受け取ったナッシュが、シエラの元に向かうというやり方だ。 ナッシュはシエラに何も望まない。 長期任務で暫く会えなくても、シエラに会いに来て欲しいとは言わない。 『やー、仕事中の姿なんて、とてもじゃないがシエラに見せられませんって。……いやいや、浮気とかじゃなくてね?そりゃ偶に可愛い女の子と知り合える役得もあるけど…ってシエラ、ストップストップ!雷反対ーっ!!!………(ぜえぜえ)いつまでも若づくりの上司が、めちゃくちゃややこしい仕事を持って来て、『これ明日までね(にっこり)』なんてとんでもなく無茶な命令してくれるもんだから、部屋や身なりに気を使う余裕がない訳。目の下は隈だらけ、無精ひげ伸び放題によれよれシャツなんて格好、愛しいカミさんに見られたくないのよ俺は』 尤もらしい言い訳は、だがナッシュの本意ではない事を、シエラは知っている。 軽口で隠した気配りの男、それはナッシュが作りあげた偶像だ。 ナッシュは本当の自分を他人に知られたくないのだ。連れ合いと呼ぶシエラにも。 相手のことを思いやっているようで、実は自分のことしか考えていない。 婚約者の裏切りに傷つくより、真実を知らないまま兄に婚約者を殺される方が妹にとってマシと考える、的外れな男。 愛する者2人を同時に喪い、ユーリがどれだけ苦しんだかなど考えようともせず、全てを背負った気になって。 今だって、シエラからの言葉など、この男は望んではいないのだ。 自分が真実誰かに愛されるとは、端から信じていない。 血の温もりを失った冷たく白い肌に、触れている時でさえ。 ――馬鹿な男。 「…ナッシュ」 「ん?何だ?」 胸の前で交差する腕に手を這わせる。シエラの薬指でプラチナがきらりと光った。 ナッシュが用意した銀に似た輝きは、銀と違って、吸血鬼であるシエラを傷つけない。 「長らく放っておいた妻の元に久しぶりに戻ったのじゃ。夫としての務めを果たして貰おうかの」 同じくプラチナの指輪が光る、長くすらりとした指を唇に含む。 一瞬の硬直の後、抱く腕の力が増した。 束の間の夢だ。 凪の海、過ぎ去って行く小舟。いつかはこのナッシュという小舟も、シエラを置いて時の彼方に去ってしまうのだ。 いつものこと。何度も経験してきたこと。 いつものように、小舟を見送ればいい。 短い間じゃったが退屈凌ぎになったぞえと、うそぶけばいい。 胸の穴は時が埋めてくれる。真の紋章の宿主を閉じ込める時の檻は、同時に最大の癒し手でもある。 いつもより長くかかるかもしれないが、乗り越えられないとは思わない。 思い出は年月と共に優しく、愛おしくなっていくものだから。 ***** その時が来たら、決断を迫られると判っていた。 もう二度と過ちは繰り返すまいと、遥か昔に心に刻んだ決意が、男の熱を感じる度に揺らぎそうになる。 迷いは何度も浮かんでは消え、答えが出ないままここまで来てしまった。 「愛してる…シエラ」 「頼みがあるんだ…聞いてくれないか?」 「ほんと、これ、一個だけ、だからさ」 「今まで、あんたの願いは、俺、全部聞いてきた…だろ」 「だから俺の頼み、聞いてくれよ…」 「なあ」 「あんたの牙を、俺に」 「俺を、あんたの同胞に、して、欲しい…」 「俺のさいごの…願いだ」 馬鹿な男。身勝手な男。 そうしてまた、愛する者に重荷を背負わせる気なのか。 この手で異形へと変えろと願うのか。 血にまみれた顔で、綺麗に微笑んで。 こちらの気持ちなど、考えようともしないで。 「お断りじゃ。おんしのような奴には、我が一族はふさわしくない」 這いつくばる男を見下ろしながら、いつもと変わらぬ声で言い放つ。 ナッシュは軽く目を見開き、それから苦笑した。 「あーあ、やっぱ駄目だったか……もしかしたら、最期位はって思ってたんだけどな……ごほっ」 咳と共に吐き出された鮮血が、大地を染める。 「まあなあ…俺はどう考えても、誇り高き吸血鬼…ってガラじゃ、ない、からなぁ…」 「そうじゃ、おんしが吸血鬼など、片腹痛いわ」 吸血鬼は闇に潜む生き物。こんな明るくて純粋で真っすぐな吸血鬼など、居てたまるものか。 「そう言う…なよ。最後なんだからさ…優しくしてくれよ」 「ふん、仕方ないのう。どうして欲しいんじゃ?」 「あんたに…触れさせてくれ…」 シエラはその場に屈み込み、力を失って重みを増した頭をそっと抱えて、白い服が血で汚れるのも厭わず膝の上に乗せた。 「柔らかい…」 「乙女の膝枕じゃ。気持ちよかろう」 「ああ…最高…。俺ってば人殺し、なのに、愛しいカミさんの膝で、死ねるなんてさ…」 「優しい妻を持って幸せじゃろう?」 くすりと笑うと、ナッシュの頭が動いて真っすぐ見上げて来た。 輝くような金髪と張りのある肌は月日と共に失われたが、深く澄んだエメラルドグリーンの煌めきは変わらない。 「ああ…幸せだった…ありがとう、シエラ……もう少し、長生き、する予定だった…んだけど……一人にして、ごめんな…」 「……馬鹿者」 この後に及んでこの男は。 感謝も謝罪も、こちらが言うべきものなのに。 真っ赤に染まった唇をそっと塞ぐ。シエラが血の代わりに与えたのは、最期の一呼吸だった。 ナッシュは、シエラが出す答えを知っていたように思う。 最期の願いをはねつけた時も、綺麗な翡翠に落胆や絶望が浮かぶことはなかった。 駄目元で口にしただけかもしれない。 『俺はシエラと違っていつか死ぬけど、待っててくれ。きっと生まれ変わって会いに行くからさ』 連れ合いとなって以来、ナッシュは夢物語のような言葉を何度も口にした。 『記憶がなくても、俺はシエラを好きになる。絶対にシエラの元にたどり着くから』 『ふん、そんな調子のいい事を言って、女子に生まれたらどうするつもりじゃ?』 『そしたらシエラの親友にでもなるさ。また夫婦になるのはその次の人生でって事で』 『その次でって、おんし、いつまでわらわを追いかけるつもりじゃ』 『いつまでも。シエラがシエラとして生きる限りは』 事あるごとに聞かされた夢物語は、シエラ自身も気づかないうちに心の奥深くに根付いていたらしい。 輪廻や生まれ変わりなど信じていなかったのに、いつしかナッシュを一族に引き入れる事を拒む理由の一つになっていた。 吸血鬼の魂は輪廻の輪から外れる。 肉体が滅ぶ時、魂も消滅する。 同胞にしてしまったら、いつかシエラが月の紋章の宿主から人間に戻った時、ナッシュの魂は共に未来へと進めない。 また一人になる。 それがこんなにも心を震えあがらせて。 閉じた楽園より、可能性の未来に賭けたくなった。 態度は軽いが、一度口にした事は必ず実行する男だ。その実行力を信じてやろう。 なのに何百年経っても、男はシエラの前に姿を現さなかった。 旧い知人であるシオン・マクドールに再会した際、ナッシュの事で思いがけないツッコミを受け、散々惚気話を聞かされた後、彼はさっさと自分の望みを叶えに行ってしまった。 お陰で、来ないならこちらから行けばいいと気付かされた。 自分で終止符を打つ気はなかったが、出発点としてならありだと思う。 待つのもいい加減飽きた。首根っこを捕まえて、約束が違うではないかと文句を言ってやらねば。 手紙を届けるというシオンの依頼を終えたら、彼の地への切符を手に入れに行くつもりだった。 夜の紋章の化身にして、吸血鬼を唯一滅ぼすことができる武器。 星辰剣が驚愕する顔が目に浮かぶようで、思わず笑みが零れた。 さあ、待っておれ、我が夫!!
同人誌「巡り来て」で、シオンと別れた後のシエラ。
本ではかなり誤魔化したので、シエラが星辰剣の所に向かおうとした理由が判らなかったかもですが、この話で伝わったでしょうか。 1100年以上も生きて来たシエラに、始祖を降りる決意をさせた我が家のナッシュって、中々甲斐性あるんじゃない?(笑) しかしこれ、絶対世の中のナッシエと違うと思う… ナッシュが自分に無頓着過ぎ、シエラはデレ過ぎ(苦笑) こんなのナッシエ違う!と思った方、ごめんなさい。 自分的にはとても楽しかったです。 タイトルの「緑」はナッシュの眼の色です。最初は「ハルモニア」にするつもりだったけど、ハルモニアちっとも出てこなかった(苦笑) |