ソウルイーターに喰われた魂はどうなるんだろうと常々思っていた。
動物が胃で消化するように、黒い闇は生きたまま肉体から引き剥がされた魂を飲み込むのだろうか。 肉体と精神の二重の苦痛。生涯で最高の苦しみを味わった後に、巨大生物の腑で溶かされる恐怖。じわりと体が溶けていく。形を残しておけなくなる。「自分」の姿が判らなくなる。 ふと鯨の腹から発見された人間の話を思い出して、ぞっとした。皮膚は無く、里芋のようにぬるぬるとして、文字通り「融けて」いたという。 いっそ一思いに殺してくれ!と叫ぶ想像の中の犠牲者に、己の姿が重なる。こんな苦痛は耐えられない。じわじわと生きながら、少しずつ喰われていくなんて。 ああだけど、俺は長年その悪魔の所業の片棒を担いで来たのだ。 理不尽な死に嘆き狂う魂を、紋章に与え続けて来たのだ。 とうとう自分の番が回って来ただけだ。絶望する権利は俺にはない。 だけどか弱き人間である以上、数多の魂たちと同じように俺も願わずにはいられない。 どうか、少しでも苦しまずに消して欲しい。 既に俺は、たった一人の親友にこの吐き気を催すほど忌まわしい呪いを押し付けたという、肉体の死に匹敵する良心の痛みに攻め苛まれているのだから。 ちゃーちゃらっちゃ、ちゃーちゃらっちゃ、ちゃーちゃらっちゃちゃ〜♪ 「何だ!?」 突然響き渡った、シリアスな俺の思考にそぐわない賑やかな音楽に、閉じていた瞼をカッと見開く。 「……え?」 ――ゴシゴシと目を擦ってみる。 「………」 やっぱり幻じゃない。 闇の中にこうこうと輝く派手な看板が、はるか向こうまでずっと続いている。しかも軒並み飲み屋ばかりだ。その中に紛れるようにして、ピンクないかがわしい看板もある。 各店から流れて来る騒音に近い音楽。酔っ払ったオヤジ共が肩を組んで練り歩きながら、何やら叫んでいる。(母ちゃんのバカヤローという声がかろうじて聞き取れた。――合掌) 「……ここどこだよ」 呆然とした呟きを、他人事のように聞く。 この目で見ても、信じられない。 俺は紋章に魂を喰わせて、シークの谷で死んだはずだよな!? ソウルイーターの闇に囚われた感覚は夢じゃないよな!? 「よ、兄ちゃん。新入りかい?まあ早く慣れるこった。ここは天国だよ!」 道のど真ん中に立ち尽くし、人の往来を邪魔している俺の肩を、擦れ違い様酔っ払ったオヤジが叩いて行った。 「新入り…?」 上機嫌のオヤジの背中を見送って、視線を前に戻すと――でっかい兎がいた。 勿論本当の兎じゃない。着ぐるみと呼ばれる、全身に着るタイプのぬいぐるみだ。 愛嬌のある顔立ちの兎は、とてとてと頼りない足取りでこっちに向かってくる。毒々しい飲み屋街に不似合いな、可愛らしい兎のぬいぐるみ。中に入っている人間の背が相当高いらしい上に、着ぐるみのお陰で人波に巨大な兎の顔だけがぼこっと飛び出しているのは、中々シュールな光景だ。 やがて兎が俺の前で立ち止まった。 真っ赤な二つのガラス玉が、じっと俺を見つめる。 「…何だよ」 いつまでも動き出そうとしないので、怪訝そうに見上げると。 おもむろに兎は自分の首に手をかけ、スポっと引っこ抜いた。 そこから出てきたのは―― 「久しぶり、テッド君!」 ああ、何という事か。兎の正体は、俺がよく知る人物だったのだ! 150年前に右手に美味しく頂かれてしまった、同じ弓使いのアルド。 「…お前がここにいるって事は、やっぱりここはソウルイーターの中でいいんだな」 「うん、そうだよ。僕もびっくりしたよ。まさか紋章の中がこんな風になってるなんて」 とりあえず、不思議な世界に飛ばされた訳ではないらしい。 「一体この飲み屋街は何なんだ。それにお前もその格好…」 「紋章に取り込まれた人たちが、ここで食堂を開いたのが始まりらしいよ。そのうちどんどんお店が増えて、この一角は完全に酒場になったみたい。通りを2本越えた所に子供向けの遊び場があって、普段はそこで子供達と遊んでるんだ。この兎の着ぐるみ、人気なんだよ。テッド君が来るって判ったから、脱ぐのももどかしくて急いで迎えに来たんだ」 にこにこと笑う顔は昔と変わらない。 「アルド…」 別れが別れだったのだから、感動の再会の筈なのだ。 だが片手に首を抱えた、兎の着ぐるみ相手ではどうにも盛り上がれない。 アルドの説明も足りない。店を開いたと言うが、建材や商売に必要な食材はどこから来ているのか、子供相手だからとはいえ、どうして着ぐるみなのか。ツッコもうと思えば際限なくネタはあったが、それも面倒になってきた。 とりあえず、ここがソウルイーターの中である事は確かなのだ。紋章の中が大人の天国になっている時点で、既に様々な気力がそぎ取られていた。 「あ、いつまでも道端でお喋りしてたら邪魔になるね。どこかのお店に入ろう。テッド君は赤月帝国にいたんだよね。だったらあのお店がいいな。赤月出身のコックさんがいるお店なんだ。テッド君の知り合いの人もそこにいると思うから」 「知り合い?」 おかしいな。赤月に来てからは、魂は喰ってないはずなんだが。 それに何でこいつは俺が赤月にいた事を知ってるんだ? 兎に連れて行かれた店で「知り合い」に会った俺は、速攻でその場に土下座する事となった…。 「折角会えたのに、すぐお店出て来ちゃって良かったの?」 数刻後、着ぐるみを脱いだアルドと並んで再び飲み屋街を歩いていた。 「僕のことなら気にしなくて良かったのに。皆さんとは、時々テッド君の話をしてたんだよ。テッド君、ピーマン食べられるようになったんだねぇ。テッド君のピーマン嫌いを直しちゃうなんて、グレミオさんて凄い人だね」 「ピーマンの話はいい」 長居できるわけねぇだろ、と内心毒付く。 俺が紋章を渡した所為で、あいつはテオ様やグレミオさんを失っちまったんだ。一緒にいたオデッサって人も、紋章に喰われるからにはあいつにとって大事な人間だったんだろう。 グレミオさんが紋章の事を話したのか、事情を知っているらしい三人は、俺を責めるどころか労わってくれたけど…余計に居た堪れない。 アルドは偶然酒場でテオ様たちの隣のテーブルになり、俺の名前が話題に挙がったのを聞きつけて、知り合いになったという。 擦れ違う人間は、ソウルイーターが今まで喰らって来た人たちだ。俺が宿主だった時に取り込まれた人も、この中にいる。雑踏の中に過去に出会った人たちの顔を探してしまう反面、みつけたくないという気持ちも強い。 ここの住人の殆どは、紋章の事を知らない。何故自分がここにいるのかも判ってない。 アルドやグレミオさんのように、宿主と関わりが無ければ知りえる筈も無い。 時間の止まった桃源郷。 自分が囚われ人である事に薄々気付きながら、それ故に享楽にふける人々。 「そういえば、もう一人テッド君の知り合いを知っているんだ。会いに行こうよ」 「どんな奴だ?男か?女か?」 ここで知人に会うには、心の準備が必要だ。 「男の人だよ。町から離れた所にいつも一人でいるんだ。テッド君が来たら喜ぶよ。よく二人でテッド君の話をしてたんだ」 世捨て人で俺の話題で盛り上がるような男…じいちゃんかな。 賑やかな飲み屋街を抜けると、細く暗い道が暫く続いた。ようやく紋章の中らしい所に来て、少しほっとする。俺が抱いていたソウルイーターのイメージは、正にこんな所だ。 静かで暗くて寂しくて…何も無い。 「着いたよ、テッド君」 アルドが立ち止まった場所も何も無かった。 「どこにいるって?」 「目の前にいるよ。こーんにちはーっ」 アルドが空に向かって声を張り上げた。見えないけど、高い建物でもあるんだろうかと、アルドの視線の先に顔を向けると。 「……よく来た、テッドよ」 空気を震わす低い声が、響き渡った。 その声を、勿論俺はよく知っていた。一時一緒に暮らした相手だ。 暗闇にぼんやりと相手の姿が浮かんで来て。 「せんちょおおおおおおーっ!!!」 くるんと巻いたぶっとい尻尾に、俺はしがみ付いていた。 「本当にせんちょーだっ。また会えるなんて思ってなかった!肉につられてせんちょーを裏切った俺を許してくれ!それもこれもあいつらが肉の匂いを漂わせてくるから…。その前の肉絶ち期間が長すぎたんだ。決してせんちょーを嫌いになったからじゃなかったんだーっ」 このつるつるとした爬虫類の手触り。懐かしい。 「せんちょーもソウルイーターに喰われてたなんて知らなかったよ。俺が気を失ってた時か?道理で霧の船を降りてすぐは紋章が腹減らしてなかった訳だ。なあなあせんちょー、いつもみたく小さくなって顔見せてくれよ。また昔みたいに一緒に飯食おうぜ」 「……」 船長は暫く無言だったが、やがてするすると俺たちサイズまで縮まった。 「ね、ほら船長さん。テッド君は船長さんを嫌ってなかったでしょう?心配する事なかったんですよ」 意外なアルドの言葉に、俺は振り返った。 「せんちょーは、俺がせんちょーを嫌ってると思ってたのか?」 「うん。船長さんとご飯食べても楽しくないから、テッド君は船を降りたんだって言うから。僕は否定してたんだけどね」 「せんちょー…!」 船長の健気さに、俺は目頭が熱くなった。 「ごめん、せんちょー!もう二度とせんちょーを見捨てないから!こうして俺も紋章に喰われた事だし、これからずっと一緒だ。アルド、お前もだ!あの頃は邪険にしてすまなかった。これからは三人で楽しく暮らそう。ここには調味料も材料も揃ってるみたいだから、今度こそ上手い料理を食わせてやるからな!」 「うん!ありがとうテッド君!船長さんも良かったですね。今まで寂しかった分を取り戻しましょう」 「テッド…アルド…」 船長の太い鍵爪が、ぐいっと真ん中の顔を拭った。 「何だよせんちょー、泣いてるのか?馬鹿だな…」 手を伸ばして、船長の目元に光る雫を拭う。 「よし、まずはここに俺達の家を建てるぞ!家と家具は、またせんちょー作ってくれな!俺も手伝うからさ。アルドは食材を頼む。同居祝いだ、肉はいい奴をたっぷり仕入れて来いよ」 「判ったよ。じゃ行って来るね。二人とも頑張って!」 「おうっ」 元来た道を駆けていくアルドが見えなくなるまで見送って、船長に向き直る。 「さあ、せんちょー。俺達の新生活の為に、立派な家を作ろうぜ」 「……うむ」 俺はもう一回、そのつぶらな目を拭ってやった。 「どうかしたんですか?坊ちゃん」 眉を寄せ、じっと右手を見つめている主君に気付いて、クレオが声をかける。 「…何か嫌な感じがするんだよね」 「また紋章が何か?」 スッとクレオの声が下がる。。 「いや、獲物を狙っているとかじゃなくて、中から感じる不快感っていうか……違うな。ムカつく感じだ。人が必死に働いてる時に、隣で大宴会されてる時の気分みたいな…」 「はぁ」 「わー、凄いよ船長さん!こんな立派な家を作っちゃうなんて!天井が高いねぇ〜。てっぺんが見えないよ」 「ここは船長用の部屋だからな。おおっ、いい肉じゃないか。偉いぞアルド、清酒も買ってきたのか!よし、今夜はこの酒と肉で焼肉パーティだー!」 「テッド君、清酒が好きって言ってたから。せんちょーさんには、ワイン一樽で足りるかな」 「充分だ。食事の時はこの大きさを取る」 現宿主の呟きは紋章の中までは届かない。 どんちゃん騒ぎはいつまでも続くのである。 この世から、真の紋章が消えるまで。 *泥舟さんに捧ぐ*
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