ここ数日、落ち着かない。
何かを忘れているというのではなく、胸がざわつく感じだ。
何かあっただろうかとカレンダーを見て、合点が行った。
(ああ、そうか)
正しい日付は記憶に無いが、火入れの儀式からそう遠くない出来事だった。
(あれから一年が経ったのか)
俺が殺された日。
肉体ではなく、心が死んだ。
大切な人の言葉によって。
――団長を殺したのは彼です。
氷の刃で貫かれた心臓は、凍りついたままだ。
ぽっかり空いた穴は騎士団の仲間のお陰でようやく塞がったけれど、壊れた心臓が送り出す血液は今も冷たい。
あの衝撃の日。
溢れる涙を拭いもせずに、声の限りに号泣した。
見捨てられた。
裏切られた。
愛していると言ったその口で、彼は俺を殺した!
理由を知った今でも、受け入れることはできなかった。
彼が気持ちの全てを打ち明け、僕の為に死んでくれと言ったなら喜んでこの身を捧げたのに。
一方的に罪を押し付けられ、背中を向けられ、俺がどれだけ絶望したか彼には判らないだろう。
やがて立場が逆転し、彼が罪人として引き出された時、俺の心はもう硬く冷え切っていた。
海から拾い上げた彼を再び大海原に放り出したり、この手で首を落としてやるほど俺は優しくない。
安易な死に、逃げさせてなどやらない。
プライドを踏みにじられ生きる苦痛にのた打ち回るがいい。
惨めさのあまり死を望んでも、自分の手で生を終わらせる勇気がない事は判っている。
最後の星として迎え入れて以来、彼とは顔をあわせていない。
自室から一番遠い場所に与えた部屋で、捕虜でもなく、かといって仲間扱いもされていない中途半端な日々を鬱々と過している事だろう。
そのままじわじわと朽ちて行くがいい。
疼く胸に眠りを妨害され、深夜の船首に立って空を見上げた。
頭上では、天を埋め尽くさんばかりの星が煌きを競っている。
「しんしん」と、降ると言うそれを思い浮かべる。
聞きなれない擬音は、未知のものを想像する手助けにならない。
水を凍らせば硬い氷が出来上がる。氷よりも柔らかく、だが氷のように冷たい。説明されても、どうにもイメージが湧かない。
――カキ氷みたいなものなんだが…群島じゃそれもないよな。
説明してくれたテッドも、言葉が尽きてお手上げ状態だった。
大陸でですら貴重な氷は、群島では貴石扱いだ。水の紋章の効果で氷そのものは知っているが、食べるという概念はない。
月が無くても、その白さは闇にまぎれることがないらしい。
静かに降り積もる様は、数多の詩人によって讃えられているのだと。
だが美しさとは裏腹に、冷たい腕は生物の体温を容赦なく奪って行く。貧しい村では、翌朝白に埋もれた遺体が転がっているのは珍しくない光景だと言う。
幻想的なまでに美しく厳しい自然現象よ。
失った温かな思い出に疼く心臓を、どうか止めて欲しい。
もう愛してはいないのに、記憶だけが愛しさを懐古する。
現在と過去の感情が繋がらず、ちくちくとした痛みが苛み続ける。
「………」
幻の白を身に受けて目を閉じる。
彼と同じ名を持つ冷たい華。
――愛していたのだ。誰よりも。
幼い頃から共に育ち、この世で唯一信頼できた人。
彼さえいれば、何もいらなかった。
ごっこ遊びの延長で、互いの体に触れるようになったのは一桁の年の頃。
何となく「いけないこと」だとは判っていたが、大人に隠れての触りっこは一番お気に入りの遊びで。
自分の手よりも先に、人の手で絶頂を迎えるという経験をした俺たちが、この行為にのめりこむのは必然だった。
性の知識を得た後も、本番をする気にはならなかった。
裸で一緒にベッドに潜り込み、飽きる事無くただ延々と、それこそ一晩中相手に触れているだけで幸せだった。
手に滑らかな美しい金髪、柔らかな頬。食べてしまいたいなと思いながらキスをした。
素直に快楽を見せる顔を綺麗だなと思った。
だが年を重ねると共に、俺の中で少しずつ彼への不信が育っていった。
君ハ本当ニ俺ヲ愛シテクレテイル?
疑惑が浮かぶ度に誤解だと必死に自分に言い聞かせて、彼の傍らに立ち続けた。
その自己暗示も、流刑宣告を聞いた瞬間砕け散った。
やはり俺は彼にとってただの使用人でしかなかったのだ。
絶望は怒りへ。
愛しさは憎しみへと転身した。
長い付き合いで相手の性格を熟知しているだけに、俺の望む変化が彼に訪れることはない事を確信している。
昔から何度も打ちのめされて来たけれど、同時に疑いようもなく俺を愛してくれていたから、何をされても許せた。
俺という存在を全否定されたあの日までは。
苦しい。
憎んでも楽になれない。
許すこともできない。
死んで逃げられるのも嫌だ。
幸せになんて絶対させたくない。
俺が苦しんでいるのと同じように、一生罪の意識に苛まれているといい。
近寄りたくない。姿も見たくない。
誰か俺の知らないところで、彼を殺して欲しい。
呪いなんて抱えていたくない。
捨ててしまいたい。だけど捨てられない。絡み付いて離れない。
誰か俺を解放して――!
左手を掲げる。
周囲が息を呑んだのが伝わってきた。そこに含まれるのは絶対的な力への畏れと、己が身に降りかかるかもしれない死への恐怖。
まさしく「なぎ払う」のだ。この左手1本で大群の船を。
神話に出てくる神の雷にも似た、断末魔の叫びを伴う紋章の光。
それはなんて (ココチイイ)
俺の意思一つで、一瞬にして大量の命が消える。逃げることもできない。何が起きたのかも判らず蒸発した者もいるだろう。
この人外の力を、思う存分揮ってみたい。
同じく真の紋章を宿したテッドと戦ったなら、どちらが勝つだろう。
紋章を使う時に背中を駆け上る、堪らない高揚感。力に感情が支配される。
もっと力を解放したい。
湧き上がるエネルギーのうねりに身を任せれば、あの領域の向こうにたどり着くことができるだろうか。
ヒトであることを止められるだろうか。