冷たく澄んだ真冬の夜の森に、ゆっくりと染み渡る音色。
緩やかな高低をつけて流れる調べは、どこか物悲しく。 ――まるで泣いているように聞こえた。 ガサリ 物音に気づいて、木の上の人物が振り返る。 不用意に立てた音で、森を充たしていた子守唄を中断させてしまった少年は、慌てて頭上の人物にぺこりと頭を下げた。 「ごめんなさいっ。綺麗な音楽が聴こえてきたから気になって……」 「………っ…」 彼の目が驚きに見開かれる。 暗い色のマントを羽織り、月が作る影の中にいる彼の表情は見えないが、困惑しているのが気配で伝わってきた。 彼の手に収まっている、丸みを帯びた三角形の楽器。確か土を焼いて作ったもので、名前をオカリナと言ったはずだ。 かつて一度だけ、それを所持する人物に見せてもらったことがある。 「……あの…邪魔しちゃってごめんなさい」 沈黙を怒りと取った少年が、もう一度謝罪してその場を立ち去ろうとするのを彼の声が止めた。 「いや……驚いただけだ…」 変声期を迎えたか迎えないか位の、低めのハスキーボイス。 ちょっとそこ退いてくれと言われ、少年が一歩下がる。 自分の背ほどもある高さの枝から、音もなくひょいっと飛び降りた彼は、少年と同じ位か少し年下のようだった。 「………その所為か」 視線が手袋をした己の右手に注がれているのを感じ、少年は咄嗟に右手を庇う。 「だからこの音が聴こえたんだな…あいつには届かないのに。……いや違う。俺を許していないから…聴こえない。俺がここにいる事も気づかない…」 「…………あの?」 彼があまりに辛そうな表情をしているので、警戒心を忘れて少年が尋ねる。 長い前髪の下の薄い茶の―そう、まるで秋に太陽を受けて煌く稲穂の海ような―瞳が微かに揺れた。 「……俺は死んだ人間なんだよ」 「え?」 「普通の人間には俺の姿は見えない。声も聞こえない。……お前はそれを持ってるから、引き寄せられたんだろうな…」 少年の右手には、真の紋章の片割れが宿っている。 見せもしないのにその存在を言い当てられ、再び警戒しだした少年のことなど気にした風もなく、彼は独り言めいた呟きを続ける。 「紋章に喰われた俺の魂は、時折こうやって紋章から抜け出す。ふらふらと彷徨い歩く。あてもなく、何も変える事ができないまま…」 俯いてしまった彼の視線を追って、ギクリとした。 満月に照らされた木々、彼、自分。 なのにまるで目の前の彼など存在しないかのように、柔らかな月の光は彼の足元に追従する分身を作ることは無かった。 「俺は親友を傷つけた罪びとだ」 『僕を置いて逝くなっ…!』 『許さない…絶対許さない…っ…テッド!』 肉体が最期に聞いた血を吐くような叫びは、思い出すたびに今も心を強く締め付ける。 甘えん坊で子供っぽくて、からかわれると顔を真っ赤にして怒り、ころころと表情が変わる、明るくて素直な子供だったのに。 今の親友にその面影は欠片もない。 輝いていた紺碧の瞳は冷たく凪ぎ、笑う事を忘れた。 彼から笑顔を奪ったのは、他でもない自分。 死にたくなかった。どんなことをしても生き延びたかった。 死ぬのが怖くて、ずっと逃げてきて。 300年経って初めて、命を懸けられる存在に出会って。 なのに彼を守る行為が、彼の心を引き裂いた。 死に行く己を見つめる親友の目に宿っていたのは、悲しみでも怒りでもなく。 狂おしいほどの、憎悪。 「あなたのいう親友っていうのはまさか…」 少年は自分の、自分たちのいた焚き火の辺りを振り返った。同行者は未だ深い眠りの中にいる。 『これはね、僕の親友の形見なんだよ』 『僕にこれだけを残して、頼みもしないのに僕を庇って紋章に喰われた身勝手な親友の』 少年の言いたいことを察し、彼が切なげに微笑む。 「…例えあいつが目覚めていても、きっとこのオカリナの音は聴こえないし、俺の姿も見えない。……俺はまだ、許されていないんだ」 笑みを浮かべたまま、彼は――テッドは、再びオカリナを奏で始める。 音が森を包むのと同時に、テッドの姿は徐々に空気に溶けて行き。 言葉もなく立ち尽くす少年を残して、過去の懺悔は静かに静寂の海へと還って行った。 END テッド尽くし2に投稿。名無し坊 |