弔いの歌




名づけは拾ってくれた医師だったと聞いた。
どこかの国の古い言葉で、治癒と治療の女神の名前らしい。
医師らしい由来なのかもしれないが、何も女性名をつけずともと思う。
エイル、とスノウに優しく呼ばれる響きは嫌いではなかったけれど。

思い返せば、スノウが心からの笑顔を僕に見せていたのは、僕が字を読めなかった頃までだろう。
家庭教師に習った字を、得意げに僕に教えてくれていたスノウ。
字が読めるようになるのが面白くて、僕は毎晩の「スノウのお勉強」を楽しみにしていた。
だがやがて、勉強会はスノウに一方的に打ち切られた。
「宿題が増えて、君に教えている暇がなくなったんだ。悪いけど、これからは一人で勉強して」
使い古した教材を貰ったものの、教師を失った僕は途方にくれた。
読めない字は昼間仕事の合間に大人に尋ね、夜はひたすら文字を追った。
使用人の子供に余計な明かりなど与えられるはずもなく、僕はこっそり外に出て月明かりで本を読んだ。
同じようなことはその後も何回かあった。剣の稽古もチェスも、最初はスノウの方から誘ってきて、途中から一人でやれと放り出される。家庭教師にマンツーマンで教わるスノウの様子を伺い見て、後で一人で練習した。
あの頃の僕は、知識を吸収する以外やることがなかった。
毎日の仕事をこなして、食べて寝るだけの単調な繰り返し。
空いた時間を潰せるなら何でも良かった。
ある時、僕は勿論、スノウにすらまだ難しいであろう分厚い物語の本を渡された。
「家庭教師に借りたんだけど、忙しくて僕はまだ当分読めそうもないから先に君に貸してあげるよ」
難解な上、膨大な量のそれを、僕はこつこつと一ヶ月かけて完読した。中身が面白かった訳ではない。例によって、時間つぶしにはもってこいだったから。
本を返しに行った時のスノウの顔は印象的だった。
今まで漠然と感じてはいたが、明確にその感情を目の当たりにしたのは、恐らくあれが最初。
「……そう、早かったんだね」
本を渡した直後、乱暴に鼻先でドアが閉められた。
憎しみを湛えた青灰の瞳の残像を残して。

僕はスノウに憎まれていた。
下世話な理由も思いついたが、深く追求しなかった。スノウは人前では僕を「大事な小間使い」として扱ったし、スノウが内心どう思っていようと、スノウが僕の仕えるべき主人であることは変わらない。
手元に置きながら、決して僕と視線を合わせようとしないスノウ。
フィンガーフート伯の体罰を、見て見ぬフリをするスノウ。
僕は元々左利きだった。だがそれを見咎めた伯に、右手を使うよう矯正された。
その際に鞭を使われた事も一度や二度ではない。僕が紋章を宿す以前から、人前で手袋を外さないのは、両手の甲に残る鞭の跡を隠すためだ。
「見苦しい傷を晒すな」の伯の言葉どおりに。
騎士団では右で剣を持ったが、本来の利き手である左の方が攻撃力が高かった。右を左と同じ位に引き上げる為に、双剣の練習をした結果、片手剣以上の技が身に付いた。
領主の立場上引き取らざる得なかった海からの拾い子を、伯が疎ましく思っている事は、子供心にも感じていた。
躾の域を超えた伯の教育は、僕に幾つかの歪みをもたらした。
一つは自家中毒。
脳が整理できない出来事に直面すると、突然猛烈な吐き気に襲われた。騎士団に入る頃には大分治まっていたが、リノ様に金印を託された後、一人でこっそり吐いた。
ずっと蔑まれ続けてきたから、自分が誰かに期待される事がどうにも理解できず、気持ち悪かった。
リーダーと言っても所詮はただの雑用係。本当の指導者はリノ様やエレノアさんなんだと、そう考えてからは楽になった。
もう一つは食の偏り。
仕事でミスをすると、食事を抜かれた。時には数日何も与えられないこともあり、子供の頃の栄養不足で、食べても太れない体になった。食事もパンと具の殆どないスープばかりの上、食事時間が短く、かき込むように食べていたので、今でも固形物を噛み砕くのが苦手だ。騎士団や船では、忙しさを言い訳にフンギに流動食に近いスープを作って貰っている。
スノウが僕の団長殺しを証言したと聞いても、感慨はなかった。
カタリナ副団長の蔑みを込めた、死刑じゃないだけ感謝しろの言葉にも、何も感じなかった。
死刑でも流刑でも構わない。周り全てが無機質で、単調で、生も死も同じこと。
肉体は借り物のようだった。剣を素手で握り締めると、掌に感じる鋭い痛み。痛みだけが、唯一の確かなものに思えた。
慟哭する人々は、心にこの痛みを抱えているのか。
僕には胸が痛むという現象が理解できない。裏切られた、裏切ってしまった、傷つけたくない、傷つけられた…時には肉体の傷以上の鋭さでもって、心の傷は魂を抉るらしい。
アルドの魂を奪ってしまうことに、怯えていたテッド。
闇に蹲るテッドの、声無き慟哭が聞こえた。
呪われたこの身を引き裂け!跡形もなく粉々に砕け散れ!
僕はテッドの願いを、彼が一番望む方法で叶える手助けをしただけだ。
思いつく限りの手ひどさでもって、テッドの体を引き裂いた。
亡き王妃の面影を、僕に重ねていたリノ様。
気丈な王も、夜のしじまが誘う寂寥感には抗えなかったのか。愛妃とは似ても似つかぬ男の骨張った躯に、慰めを求めてしまうほど。
押し入ってくる激しさと熱さに、彼の寂しさを感じた。
この躯が誰かの役に立つなら、それでいいと思った。
あの人に再会するまでは。


「――私のどこが良かったのだ」
頭上から降ってきた本気の疑問の声に、僕は小さく微笑んだ。
「さあ、理由なんて判らない。あなたはどうして舞姫に手を伸ばしたんです?海神の申し子と呼ばれたあなたが、まさか女の色香にひっかかるなんて、完全にうちの軍師の想定外でしたよ」
指先でくすぐるように僕の頬を掠めていた長い指の動きが止まる。
「あれは策ではなかったのか?」
「恐らく毒薬はあなたには効かないだろうから、反応を鈍らせた所で一突きにする予定でした。あの薬を飲んだ後に、あれだけ動けるなんて流石ですね。トロイさん」
「……何故手を振り払わなかった」
僅かな沈黙は、先の僕の「あれだけ動ける」発言に対する羞恥だったらしい。閨の話に頬を染める様を可愛いと思ってしまい、悪戯心が頭をもたげる。
「まだ僕の質問に答えてないですよ」
固い膝枕から体を起こし、間近に漆黒を覗き込む。トロイさんの涼やかな瞳が揺れた。
「……私も同じだ。理由など判らぬ」
「よくああやって据え膳を受けるんですか?」
「――あんなことは初めてだ」
薬の所為にするつもりはないが、と付け足される前に、僕はトロイさんの広い胸板に顔を埋めた。
「嬉しいです、トロイさん。――振り払わなかったのは、嫌じゃなかったから。あなたの真っ直ぐで真摯な瞳にドキドキしました。美しいって言われて、自分が本当に舞姫に、女性になったような気がしました。あの時から僕はあなたに囚われたんです」
両腕を伸ばして首に絡ませる。
「愛しています、トロイさん」
「それは光栄だな」
口付ける前に、唇を塞がれた。触れるだけで息が上がる。鼓動が速度を増す。
こんな風に、心が熱くなるなんて知らなかった。
キスがこんなに嬉しいものだったなんて。
今ならテッドが、リノ様が、どんな想いでいたか判る。誰かを愛するという事。それはこんなにも幸せで、そして切なくて苦しくて。
「どうした、エイル」
僕の様子を訝しみ、トロイさんが両腕を掴んで顔を覗き込んできた。腕に伝わる温かさに、ますます涙腺が緩みそうになる。
「――あなたに、出会わなければ良かったと思います。そうすればあなたが死ぬことはなかった。僕が……あなたを殺した…!…」
感情の欠落した人形として生きてきた僕が、トロイさんに触れて初めて心の琴線が震えた。
トロイさんの血潮をこの手に受けた時、全身を駆け巡った熱い高揚。
愛する人の命で、僕はようやく人間になれた。
だからもう、あなたを解放しなければ。
「ありがとう、トロイさん…愛しています。僕は一人で眠れるから大丈夫です。あなたは未来へ向かってください」
トロイさんの胸に両手を付き、自分の体を引き剥がす。今できる精一杯の笑顔で微笑んで。
「お前は『ここ』に留まるつもりか」
「僕の手には罰の紋章があるから…僕は永遠にこの紋章の守り人になると決めました。いつかあなたが新しい命を手にしたら、僕の眠る海に会いに来て下さい。僕はきっとあなたをみつけます」
「――私はまだ暫く『トロイ』を捨てるつもりはない。お前の話も聞き終えていない。急ぐ必要もないのだから、そう急かすな」
「トロイさん…!」
張った腕ごと抱きしめられ、堪えきれずに熱い涙が溢れた。
トロイさんが永遠に『ここ』に留まると言ったなら、僕は容赦なく彼を送っただろう。
この強く美しい魂を縛り付けることは、僕自身が許さない。
だが暫くの間なら。永遠にではないのなら、甘えることを自分に許してもいい。
暫くの期間の長さを確かめないのは、弱さだと判っているけれど。
「もっと話してくれ。お前のこと、お前が関わってきた人間たちのこと、お前自身も気づかなかった心を。――エイル」
優しく呼ぶ声音は、最期のスノウを思い出させた。



丸太につかまって漂流していたスノウは痩せ細り、やつれ、艶やかな髪は色を失い、白かった肌は日焼けで赤く腫れ上がり……彼に仕えていた者たちが見たら悲鳴を上げそうな、無残な姿を晒していた。
自信に満ち溢れたかつてのスノウの面影はどこにもない。
目の前にいるのは、浮浪者のように惨めで、哀れで、ちっぽけな人間。
「……一つだけ問う。誇りと命、どちらを選ぶ」
スノウはゆっくりと顔を上げ、僕を見据えた。
疲労で濁った瞳に、強い光が蘇る。
「僕は、ラズリル村領主が嫡男、スノウ・フィンガーフートだ」
「……」
静かに目を閉じる。
最後まで誇り高い君が主であったことを誇らしく思う反面、君もまた変わることができなかったのだと、今なら知っている。

斬首は僕自身の手で行った。
苦しまないよう一太刀で。冷たい刃を首筋に当てて尋ねた。
「何か言い残すことは?」
「ない、と言いたいところだけど……君に」
スノウが顔を上げる仕草をしたので、剣を一旦引く。スノウは後ろ手に縛られた不自由な体で僕を仰ぎ見て、自嘲気味に微笑んだ。
「僕は…同じ訓練生として、君と戦っていた頃が一番幸せだったのかもしれない…。君は信じないだろうけどね」
「………」
「ありがとう、エイル。軍主自らの処刑、感謝する」
そう言うとスノウは再び頭を垂れた。
握り締めた剣を掲げ、一気に振り下ろす。
刀の摩擦音に続いて血飛沫が飛び散り、重い物が転がる音が響いた。
僕は額に結んでいたハチマキを解き、それからスノウの血の滴る剣に片足をあてがって、力を込めた。
アドリアンヌが丹精込めて鍛え上げたはずの剣が、真っ二つに折れる。
背中に感じる仲間たちの物言いたげな視線を無視して、空を仰いだ。
――ずるいよ、スノウ。最後の最後であんな顔をするなんて。
本を返しに行った夜から、スノウは僕の目を見なくなった。
数年ぶりに真っ直ぐ向けられた青灰の瞳は、初めて字を教えてくれた時のような優しさに満ちていて。
君の自尊心をずっと砕いて来た僕は、最後に君の誇りを守れたのだろうか。


「大切だったのだな、そのスノウという男が」
トロイさんの指は再び僕の頬の上で遊んでいた。僕は細身の割に顔だけはふっくらしていて、触ると気持ちいいらしい。
「大切…だったのかな。よく判らない」
「お前のそのハチマキは、精神切り替えの道具だったそうではないか。それをつけている間は、心を揺るがさずにいられたと言ったな。お前がそんなものに頼るようになったのはいつからだ?」
「……これは…スノウがまだ優しかった頃、僕にくれて…」
無意識にハチマキに手を伸ばす。
前髪が目に入ると邪魔でしょう、僕はもう使わないから君にあげるよ――幼いスノウの声が脳裏に蘇る。
どうして僕はずっとこれを使っていたんだろう。あの後すぐに、スノウは僕を見なくなったのに。
「処刑後にわざわざハチマキを外したのは、軍主ではなくお前自身として見送る為だったのだろう。その時、お前はどんな顔をした?泣きはしなかったか?」
「泣いたよ…何故か涙が溢れて止まらなかった」
「頭より体の方が正直だ。お前にとって、スノウは母にも近い存在だったのだな。自分を世界から消したいというお前の願いは、スノウに否定された事により、自身を否定した結果だ」
「―――!…」
どうしてあなたは、僕のことが判ってしまうの。
もしかしたら僕以上に、あなたは僕の心を知っている。
「あの時、心は穏やかだったんだ…悲しみも後悔もなかった。余計な感情は一切入らず、僕はただ静かにスノウを見送った」
トロイさんが、僕の頭を肩口に押し付けるようにして抱き寄せる。
「スノウにとって、何よりのはなむけだっただろう。己が死を悼む涙は、浄化を助ける。お前の名の通りに慈愛に充ちた涙は、きっとスノウの魂を清めたことだろう」
「僕の名の通り…?」
不思議そうに見上げた僕に、トロイさんは優しく微笑んで、
「『エイル』は古い異国の言葉で『慈悲』という意味だ。お前らしい名だな。………どうした?」
「…う…ぅ……ぅえっ……」
嗚咽を漏らし始めた僕の背中を、温かな手がそっと撫でてくれる。
どうしてこの人は。
今の言葉、どれだけ嬉しかったか。
名前の意味にじゃない。僕らしいと、思ってくれた事が嬉しい。
僕はこういう人間に見えると、言ってくれた事が嬉しい。
「あまり泣くな。泣かれるとどうしたらいいか困る」
額に宥めるように唇が降りてきた。
「トロイさんがこんなに甘い人だなんて知らなかったです…」
涙を拭いながら、小さく呟く。額にキスだなんて、唇より恥ずかしい。
「そうだな、私も知らなかった」
軽く肩を竦め、悪戯っぽく微笑むトロイさんは、妙に子供っぽくて。
思わず声を立てて笑うと、トロイさんの笑顔が更に崩れた。
「八重歯があるのだな、エイル。その方がいい。いつもその八重歯が見えるように笑っていてくれ」
左上にある八重歯は、大口を開けて笑った時でないと見えない位置にある。
この八重歯の存在を知っているのは、勤めの長い屋敷の使用人仲間とスノウ位で…つまり僕は今、数年ぶりに本気で笑った訳だ。
「ありがとう、トロイさん」
あなたに会えて本当に良かった。
返事の代わりに両腕が広げられて、躊躇いなくそこに飛び込む。
僕の全身をすっぽり包んでくれる腕に全てを委ねながら、神が与えたうたかたの夢の時間を終え、僕は再び永遠の眠りに付く。
海の底に沈む僕の肉体はトロイさんの体を失くしてしまったけれど、その魂はこうして僕を抱いていてくれるから。
もう無を望みはしない。
意識の遠退きつつある僕の耳に、穏やかな旋律が届く。
それはトロイさんの声をした、優しくあまやかな弔いの歌。









無事ジキタリスに代わる花になってくれました、トロイ。
死後にあの世に行くまでの僅かな時間での逢瀬です。もうパラレルもいい所。
エイルの名の由来の古い言葉は、古スカンジナビア語だそうです。例によってフィーリングでつけた名前ですが、不思議と意味が合うものですね。



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