彼女の世界はひどく狭かった。
深窓の姫君である彼女は、城から殆ど出たことが無かったし、欲しいものは城に居ながらにして全て手に入り、会いたい人物は向こうから会いに来てくれる。彼女がわざわざ出向く必要はなかった。 彼女はただ、彼女の為に設えられた調度品に埋もれ、彼女の為に用意された豪奢なドレスを身に付け、微笑んでいればよかった。 国王である父を敬い、皇子である兄に従い、皇家の従順な飾り人形であること、それが彼女の存在意義の全てだった。 「お前の結婚相手が決まったぞ」 酒のついでに、と言った感じで兄が洩らした言葉にも、彼女はそうですか、と頷いただけだった。 「相手は誰と訊かぬのか?」 「その内嫌でも顔を合わせるのだから、わざわざ訊く必要はないわ」 空になった兄のグラスに血のように赤いワインを注ぎ、続いて自分の小さなグラスも充たす。 侍女たちは全て下がらせてある。兄は彼女と過ごす時に余人が介入するのを疎んだ。お陰で彼女もお茶位は一人で淹れられるようになった。 最も兄は専ら酒ばかりで、彼女の淹れたお茶を飲む事は殆どなかったが。 「自分の夫となる男に関心はないのか?」 「誰でも同じですもの」 返答に兄がそれと判らぬ程度に目を見張る。 諦めでもなく、嫌味でもなく、本心からの言葉だった。 関心を持ったとしてどうなるというのだろう。彼女に、皇子である兄の命令を拒否する権利はない。嫌だといって逃れられるものなら、幾らでも叫ぼうが――否、彼女には嫌だと思う気持ちすらなかった。誰でもいい。父に仕え、兄に仕え、今度は夫に仕える。皇女として当たり前のこと。 (そのために私は生かされ、ここにいるのだから) 本来なら母共々国外追放されてもおかしくない、誰の胤とも判らぬ我が身。 生来のきつい眼差しを少しだけ緩め、ルカは妹に言った。 「誰でも同じ…か。安心しろ。30も年上の、頭の剥げたオヤジという訳ではない。年はお前より少し上、見た目は男にしておくのが惜しいほどの美形だ。頭も切れる。お前もよく知っている男だ」 「……ジョウイ・アトレイド?」 「そうだ。あやつめ、お前を欲しいと言ってきた。だからくれてやることにした」 「そう」 細い指が透明なグラスを取って唇に運んだ。こくりと喉が上下する。 ほぅっと酒気を帯びた吐息をもらす妹を、ルカはじっと見つめている。 「お前、本当に興味がないのか?」 「誰でも同じと言ったでしょう。お兄様、わたくしに何を望んでらっしゃるの?若くて美しい彼が夫で良かったと、喜べと?」 「女は結婚に夢を見ていると聞いたがな」 「見ているわ。だから何も聞かないの。他人の評価などいかに当てにならないか、わたくしはよく知っている。自分の目で見て、聞いたものだけ信じるの」 狂皇子と呼ばれ、戦場では鬼人のごとく恐れられている兄。 その兄が本当は寂しい人なのだと、知っているのは恐らくこの世で自分一人。 だが彼女には、心の中で絶えず何かを追い求め、走ることの止められない兄を、癒すこともそばで支えることもできなかったし、しようとも思わなかった。 プライドの高い兄には、彼女の想いなど疎ましい物でしかない事が判っているからだ。 彼女にできるのは、兄の望む妹であり続けることだけだった。 守られ、愛されるだけの人形を。 「全く…女にしておくのが惜しいぞ。男であれば良き右腕となったものを。……いや、お前を擁して旗を起こそうという輩が現れるかもしれん。やはりお前は女でよかった」 「お兄様?」 くっくっと喉の奥で低く笑う兄を、彼女は不思議そうに眺めた。 「一つ忠告してやろう。お前はもっと馬鹿になれ。皇女は新しく入った将軍の名前など、対面するまで知らないものだ。その賢しさはお前を苦しめるだけだ」 グラスの残りを飲み干し、振り返りもせず兄は部屋を出て行った。 一人残された彼女は、暫く兄の言葉をかみ締めていたが、やがて寂しげに微笑んだ。 「そうね、いっそ本当にお人形になってしまおうかしら」 お母様のように、という言葉は喉の奥に消えた。 一人で眠るには広すぎるベッドに横たわり、ドアの向こうに意識を集中する。 コツコツコツ… 廊下を歩く足音。 (違うわ、これはあの人ではない) 足音は彼女の部屋を通り過ぎて行く。 今夜も彼はやってこない。 もう何日も、彼とは顔を合わせてはいなかった。 同盟軍との戦況が厳しくなり、執務室に篭っていることが多いのだと昔から付き従ってくれる乳母は言う。 あまりお休みになられていないようで心配です、と彼の部屋の掃除を受け持つ侍女が言う。 レオン殿とクルガンと色々話してるみたいですよ。俺は肉体労働派なんで遠慮してますがね、と廊下で擦れ違ったシードが言う。 もう少したら落ち着きますからご安心ください、と皇妃のご機嫌伺いに来たクルガンが言う。 〜ですよ、〜らしいです…彼女の元に届くのは、そんな当てにならない人づての話ばかり。 多忙とはいえ、自室から数メートルしか離れていない妻の部屋を訪ねることすらできないのか。同じように忙しいはずのクルガンやシードの姿は見かけるのに。 (仕方無いわ。あの方はわたくしを愛してなどいないのだから) 夫の愛を求めるなんてはしたないという思いが彼女にはあった。 貞淑な妻は、夫の来訪がなくとも取り乱したりせず、じっと待っているものだ。 (あの人にとって、わたくしは政略結婚の手段でしかなかったのだもの) だから彼は来ない。望む地位を手に入れた彼は、彼女のことなど振り返らない。 彼女の世界は相変わらず狭かった。 いや、更に狭まったと言っていいのかもしれない。 以前は彼女の心の寄りどころは父と兄であった。今は彼女の心の殆どはジョウイと、最近懐いてくれるようになったピリカで占められている。 ジョウイを父と兄の敵と恨む気持ちはなかった。とっくの昔に凍りついた感情の代わりに、ますます冴え渡る理性が、陥れられる方が悪いのだと告げる。 二人のことを哀れみ、死を悼む気持ちは確かにあったけれど、その為に夫に復讐しようとは思わなかった。 彼女にとって夫は「絶対者」。 夫が死ねと言うならば、今すぐここで、この喉掻っ切ってみせよう。 夫を絶対者と崇め従い、完璧な皇妃であり続ける事、それが彼女が新たに自分に見出した存在意義だった。 どれくらい時間が過ぎたのか。 うとうととまどろんでいた彼女の意識は、小さな物音で呼び覚まされた。 「………?」 灯かりは点いていないが、確かに室内に人の気配を感じる。相手に気づかれないよう慎重に顔を上げると、人物は彼女の寝ているベッドから少し離れたソファのあたりに居た。 侵入者の背中で揺れる暗闇の中でも判る長い金髪に、彼女の体から力が抜ける。 「……あなた?」 「…っ!………あ、ごめん…起こしてしまったかい?」 慌てたようなその声は、間違いなくジョウイのもの。 「遅くなったからそっと入ってきたんだけど…すまなかったね」 ジョウイが持っていた燭台に火を灯すと、ぱぁっと室内が照らし出された。 頼りない灯かりの下で久しぶりに見る夫の顔は、以前と変わらないかのように見えた。 燭台をテーブルに置き、ジョウイが彼女の寝ているベッドの端に腰を下ろす。 「気になさらないで。でもどうして今頃…ソファで何をなさっていたの?」 「その…そこで寝させてもらおうかと思って。仕事が一段落ついたらこの時間だったんだ」 こんな夜更けに何故来たのかという彼女の問いを、ジョウイは遅くなった理由をと捉えたようだった。 「まあ、ソファでは休まらないわ。お疲れなのでしょう、お部屋でお休みになればよろしいのに」 「それが結構寝れるものだよ。ここのソファはクッションがいいしね」 「……まさか、今までも?」 ジョウイが困ったように微笑む。彼女は己の言葉が的中したことを知り愕然とした。 「何故…」 「昼間は中々君に会えないから、せめて夜位は一緒にいたくてね」 「だったら……わたくしを起こせばよろしいのに。ソファで寝ていないで、わたくしの隣に来ればいいんだわ」 「寝ている君を起こしたくなかったんだよ。それに僕だって男だから…」 隣でしどけない姿で寝ている君を見たら、我慢できなくなるからねと照れたように笑い。 「………我慢なんて必要ないわ。わたくしはあなたの妻なのだもの。あなたが望めばいつでも…」 「うん、でもね、我慢しないで君を抱いたら、僕はきっと仕事が手につかなくなる。もう少ししたら落ち着くんだ。そうしたらもっと時間が取れるようになるから、今は我慢するよ」 抱き寄せられ、額にそっとキスされる。 「さて、僕も休もうかな」 そう言って立ち上がったジョウイを怪訝な目で見上げる。 「どこでお休みになるおつもり?」 「え…そこのソファで………駄目かな」 「駄目。この部屋の主人はわたくしよ」 「そうか……そうだね、ごめん…」 くるりと背を向けたジョウイに向かって、更に言い放つ。 「わたくしの部屋で寝るつもりなら、ちゃんと着替えてベッドにあがっていらして」 「え………?」 振り返ったジョウイに、皇女の笑みで優雅に微笑む。 「大丈夫。わたくしもあなたに指一本触れさせないわ。あなたのお仕事が終わるまでは」 「…………参りました」 両手を挙げ、降参のポーズをとったジョウイは、上着を脱ぎ装身具を外してベッドに上がって来た。その前に燭台の灯かりを消したので、部屋は再び真っ暗だ。 布団を持ち上げ招き入れると、するりとジョウイが身を滑り込ませる。自分の温もりで温まった場所を明け渡し、もう一度おやすみの口付けを受ける。 「おやすみ」 「おやすみなさい、あなた」 ジョウイは体を横たえた途端、すぐに深い眠りに落ちて行った。 雲が晴れ、カーテンの隙間から差し込んできた月明かりが、眠っているジョウイの顔を照らす。 人工の灯かりと違い、月明かりはジョウイの真実の姿を浮かび上がらせた。 目の下に刻まれた隈、疲労の滲むやつれた頬、それは記憶の中の彼とはまるで違っていて。 彼女はジョウイの頬にかかる金髪を一房取って、指に滑らせた。 (あなたにとってわたくしは何?) 幼い寝顔を見つめながら、胸を突く切ない感情に心を奮わせる。 ハイランドを手に入れるための駒、形だけの妻、性欲処理の相手…そう思っていたのに。 今まで気づかずに過ごして来たであろう幾多の夜に思いを馳せる。 狭いソファに横たわり、彼女の睡眠下の浅い呼吸を子守唄に、ジョウイは眠りについていた。 そして彼女が起きだす前に目覚め、気配すら残さず去っていく。 一方的でささやかな行為。 愛されているのだろうか。もしかしたら、少しでも自分は愛されているのだろうか。 そして自分は? 自分は彼を愛しているのか? 「……愛しているわ」 言葉に出すと、想いはすとんと彼女の心に収まった。 従うべき夫、仕えるべき国王としか捉えていなかったジョウイを、彼女はいつの間にか愛するようになっていた。来訪が無いことに苛立ち、寂しさを覚えるようになっていた。 長期間他人から隔離し二人だけにすると、人はどんなに嫌いな相手でも愛するようになるという。 彼女にとっては、ジョウイがそういう存在なのだとしても。 (愛しているのは嘘じゃない) 彼女の世界は益々狭くなった。 だがその容積は以前よりもずっとずっと大きくなった。 ジョウイを愛した時から、彼女はハイランドの愛玩具ではなく一人の人間となったのだ。 ジル・ブライトの誕生であった。 END
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