逃亡



霧のない、澄み切った青空を見たのは何十年ぶりだろう。
頬に当る潮風も、照りつける太陽の暑さも、海で弾ける明るい人々のざわめきも何もかもが懐かしくてそのくせ新鮮で、人が少なくなる食事時を見計らって時折甲板に出たりする。
戦闘でパーティに参加する以外は、できるだけ人と接触しないようにしている。
久しぶりにこの手に戻ってきた紋章は、まだ昔のようにしっくりと馴染んではいない。戦闘でこまめにモンスターの魂を喰らわせてやれば暴走する事はないだろうが、それでも船の上という限られた場所で大勢の人々と過ごすのは怖い。
この船のリーダー、アスに力を貸すための条件の一つとして、個室は絶対譲らなかった。
緊張の解ける睡眠時に、寝息が聞こえる距離に他人がいるなんて冗談じゃない。それでもなくてもここ数十年、他人の魂を喰らうことのない場所で安穏と過ごしていたのだ。体が緊張感を思い出すまでは、他人との接触は極力避けたい。
共同部屋に押し込む木なら、何が何でも次の陸地で降りてやるというテッドの主張は、以外に美あっさりと受け入れられた。
アスはテッドがソウルイーターを宿す場に立ち会っている。彼はあまり自分の紋章の事を気にしていないようだったが、真の紋章を抱える者の気持ちは理解できるのだろう。
完全に一人になれる場所があるのは有り難い。
久しぶりに戻った人の世界は、近寄ってはいけないと思いつつ、でもやはり愛しくて、無関心を装った仮面の下から人々の笑顔に憧憬する。
あの場に加わる事は何よりも自分が決して許さないけれど、その笑顔を間近で感じられる事を嬉しく思う。
今日も夕餉の時間を狙って甲板に上がる。ブリッジの上の高台は、意外に一人になれる場所だ。
桟に寄りかかり、水平線に沈む夕日をぼんやりと眺める。
時の凍結した霧の船には、一日という身近な時間の単位すら存在しなかった。その日の終わりを告げる美しい朱に、自分が本当に人の世に帰ってきた事を実感する。
「わぁ、綺麗な夕日だね」
「……っ」
不意に背後からかけられた声に、テッドの体に緊張が走った。
警戒心も露わに振り返ると、長身の青年が穏やかな笑みを浮かべて立っていた。
「…アルド…」
気配に敏感なテッドにすらその存在を感じさせない、野生の動物のような身のこなしを持つこの青年は、気がつくとテッドの周りに現れる。
「隣いいかな」
「…どうぞ。俺はもう部屋に戻るから」
視線を合わせずアルドの隣をすり抜けようとして、その道を相手の体でやんわりと塞がれた。
「お願いだから逃げないで。少し話をしたいんだ」
「……俺は話すことなんてない」
「明日は晴れるかな」
「え?」
唐突な質問にやや面食らい、だが律儀にもテッドは太陽の沈む空に視線を戻すと答えを返した。
「ああ、雲ひとつない快晴だ。適度な風があっていい航海日和になるだろう」
「ありがとう。テッドくんは天気が読めるんだね。僕にも教えてくれる?」
「…………俺より船の専門家たちに聞けよ。俺のは経験による予想だから、正しいとは限らない」
「それでもいいよ。僕はテッドくんの話が聞きたいんだ」
「…………」
いつもこうだ。
どんなに振り払っても冷たくしても、アルドは懲りずにテッドに話しかけてくる。
同じ真の紋章を宿しているアスは、ソウルイーターに狙われる事は無い。だからテッドも彼と二人の時は、紋章の事を気にせずにいられる。
アスはテッドの紋章の事も、何故あんな船にいたのかも、正体を明かす前に問うた質問についても何も訊かない。必要以上にテッドに構うこともない。
だけど気にかけてくれているのは、行動の端々から感じる。
アスと二人っきりになったとしても、二人の間に会話は殆どない。かといって気まずい雰囲気というのではなく、会話はなくとも柔らかな空気が漂う。テッドにとって、アスと過ごす時間が一番心安らかでいられた。
だがこの目の前の青年は違う。
アルドと一緒にいる時、特に二人きりの時は、いつも心がざわざわする。胸の中に重い塊を感じる。彼の傍から逃げ出したいと思う。
ふと視線を向ければ、いつもアルドはテッドを見ていた。切れ長の細い黒の瞳が放つ、穏やかな視線。
できるだけアルドとは距離をおきたかった。だがアルドとパーティで一緒になる率は、アスに次いだ。
アスには色々感謝しているが、このことだけは恨みたくなる。
目安箱に手紙を入れるなどして、アルドと離してくれるよう頼んだりしたのだが、相変わらず一緒のパーティになる事は多い。
アルドのアプローチでテッドの態度が変わればという思惑なんだろうが……変わってはまずいのだ。
仕方ないのでパーティの時はともかく、プライベートでは出来るだけ顔を合わさないよう避けているが、今のように気づけばアルドはすぐ近くまで来ている。
この船の上で、テッドにとって一番厄介な相手だった。
「……俺は話したくない」
顔を背け、出来るだけつっけんどんな態度をとる。
「じゃあ天気の話はいいから、もう少しここにいてくれないかな」
「何でだよ」
「テッドくんと一緒に夕日を見たいんだ」
「……馬鹿じゃないか、お前」
言い捨てて、今度こそアルドの脇をすり抜けテッドは足早に階段をかけ下りた。
アルドが追ってくる気配はない。ほっとして、だが振り返らずに一目散に自室を目指す。
勢いよくドアを閉めると、背中を凭れさせたままずるずると床に座り込んだ。
「何なんだよ、あいつ……」
ギリリと、強く奥歯を噛み締める。
あんな馬鹿なことを言われて、一瞬でも心が揺らいでしまうなんて。
「もう……これ以上俺に近づくな………っ」
心が。
温かくて、痛い。









アルド書けないかもなんて言ってたのは何処の誰でしょう。
一年後に見直したらアルドが別人だったので、大分修正しました。




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